恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「わからなさ」の意味

2008年07月17日 | インポート

 初めての赤ちゃんを育てているお母さんを見ていると、頭が下がります(ただ見ていないで、父親も努力しないといけないのは重々承知ですが)。とにかく相手は意思を伝える手段が笑い声と泣き声しかない。何で泣いているのかは説明できない。ですから、泣き止まないときのお母さんは、それこそ大変です。

 おっぱいをふくませる。オムツを見てみる。暑すぎないか、寒すぎないか。ボタンか何か、硬い物が肌にあたっているのではないか。それでも泣き止まないと、だっこしてあやしてみる。あらゆることを想像して、あらゆる手を尽くしてみて、そのすべてがダメで途方にくれたころ、ふと気がつくと鼻が詰まっていて、息苦しかったことがわかったりする。本当にヘトヘトでしょう。

 お母さんは、この赤ちゃんのどうしようもない「わからなさ」に耐え、それを受け容れて育てているわけです。私はここに、「慈悲」というものの核心を感じます。

 私はかねてから、「慈悲」の正体とは他者への想像力だと思っています。相手の在り方とその苦しさを何とかわかろうとする努力、ここに慈悲の根幹があります。だとすれば、その前提として、自分には他者のことは「わからない」、ということがわかっていないといけないでしょう。わからないからこそ、想像するのです。わからないから無視するのではなく、わからないから、わかろうとするのです。全部わかることはできなくても、何かはわかるだろう、わかりたい、と思うことーーーここに「慈悲」の核心があるでしょう。

 とすれば、「あなたのことは私が全部わかっている」いう言い方をする人は、愛情はあるかもしれませんが、慈悲のある人ではありません。それはひとつの支配です。

「わからない」ことを「わからないまま」受け容れられること、これは仏教における非常に重要な修行です。

 あるお坊さんが師匠に質問しました。

「千本の手に千個の眼を持つ千手観音は、あんなにたくさん手や眼があって、いったいどうするのでしょう?」

「それはな、真っ暗闇の中、頭からはずれた枕を一生懸命に手さぐりで探すようなようなものだな」

 どこに枕があるのかわからない。だから、すべての手と眼を総動員して一生懸命さがす。無駄な努力を散々重ねても、さがすことを決してあきらめない。それが衆生を救おうとする観音様の慈悲の姿だというのです。

 これを観音様ならぬ人の身に引き当てて言えば、悟りだの成仏だのをまるで当てにすることなく、それが何の役につのか「わからない」徒労だとしても、まさに自分がなすべきなのだと覚悟して行うことを、修行というのでしょう。

 最後に御礼。新著をお読みいただいた方、ありがとうございます。出版社によると、思いのほか売れているとのことで、驚いています。ただ、私のところにはさっそく、なんてわかりにくく不親切な本だ、だいたい註も索引もない、と読者から苦情がきました。申し訳なく存じます。なにぶん選書なので紙幅が限られ、ある程度書きたいことを書き切るには、それらを犠牲にせざるを得ませんでした。どうかご海容下さい。


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20 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
大乗仏教における「慈悲」のはなし・・・読んでい... (聴講者)
2008-07-17 22:17:14
大乗仏教における「慈悲」のはなし・・・読んでいて思わず胸が熱くなり目頭が熱くなってしまいました。それに尽きます
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私の千手観音への認識が今まで間違っていたようで... ()
2008-07-18 11:21:46
私の千手観音への認識が今まで間違っていたようです。私は基本的に仏教の檀家主義に反対で、現在のわが国における仏教制度?なるものに対して反感を持っているのですが、ここのブログの文章を見ていて、ほっとする思いです。私自身まだまだ修行が足りないですね・・・。
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我が子への愛は強い自己愛の延長で、他者への思い... (Unknown)
2008-07-19 12:30:46
我が子への愛は強い自己愛の延長で、他者への思いやりとは対極にあるものと今まで感じていましたので、この展開には驚きました。では、家族愛ブームの昨今はさしずめ慈悲の時代とでもなりましょうか…?
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大乗仏教における如来(や菩薩)の慈悲と、母親の... (ナギ)
2008-07-19 20:59:54
大乗仏教における如来(や菩薩)の慈悲と、母親の子供へのいわゆる愛は同じものでしょうか?

もし母親が、自分の子供だけではなく、他の人の子供や異なる国の人などの「全ての」生けるものに対してその「わからなさ」とやらを受け入れることが出来るのであれば、それはそうとも言えるかも知れません。しかしそんなことが、人から生まれる人間にできるでしょうか。

如来の慈悲は、全ての衆生に対するものではないですか。母親の子供への「慈悲」というたとえでは、
大乗仏教の根幹である「一切の衆生が救われてほしい」という概念が抜け落ちているように思います。

前回の仏像と人形についてのお話でも、院代様は人の思いと如来のそれとは同一線上にあるような
書かれ方をされているように受け取りましたが、衆生の願いが形を取ったもの(人形など)と、仏説にある如来や菩薩の願いが方便として形になったもの(それも元々は誰かが願ったものでしょうが)との間にはこの「全ての」という点に関して本質的に大きく異なるものがあると考えます。

そして凡夫の願いや愛と、仏の願いや慈悲との間にある絶対的な差を認識することにより、自分が相手を決してわかることができない凡夫であることを知らされるのではないですか。まあこれはいわゆる二種の深信・他力という概念がある浄土教の見方で、禅宗とは異なるのかも知れませんが。
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 慈悲について大切なご意見をいただきましたので... (院代)
2008-07-19 22:29:24
 慈悲について大切なご意見をいただきましたので、補足させていただきます。
 私は如来の慈悲と母の子への愛情が同じものだと考えているわけではありません。
 人間が理解しうる言葉として、あるいはなしうる行為として「慈悲」を考えたとき(そうでないと議論になりません)、「わからなさ」を受容することが是非必要だろうと考え、母親の赤ちゃんに対する振る舞い方をモデルにして、禅問答における観音の振る舞いに対比したのです。
 如来や菩薩の慈悲それ自体がいかなるものは、「凡夫」には原理的にわからないでしょうから、それと「家族愛」を「同じ」と判断する根拠は何もないでしょう。同時に「わからない」以上、これまた「絶対的に違う」という根拠もないはずです。
 私が考えたのは、如来の慈悲そのものや、家族愛の性質そのものについてではありません。そうではなくて、相手のことを「わからない」ということを前提にしないかぎり、他者への想像力は働かないという、行為の構造についてであり、またこの想像力がないかぎり、おそらくいかなる「慈悲」も成立しないだろうということです。
 つまり、今回のブログは、我々が理解しうる「慈悲」の必要条件について考えを述べたのであり、「凡夫」に想像しがたい「如来の慈悲」の十分条件まで述べたものではありません。
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私は大乗仏教なるものは好きではありません。大乗... ()
2008-07-20 07:04:54
私は大乗仏教なるものは好きではありません。大乗とは、いわば仏教のフランチャイズのようなものです。当然商売もしやすい。院代さんがおっしゃる「慈悲」とは、私の好きな慈悲です。
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院代様:補足を頂き、有り難うございました。 (ナギ)
2008-07-20 08:21:39
院代様:補足を頂き、有り難うございました。
>人間が理解しうる言葉として、あるいはなしうる行為として「慈悲」を・・・
>またこの想像力がないかぎり、おそらくいかなる「慈悲」も成立しないだろうということです
了承しました。

>如来や菩薩の慈悲それ自体がいかなるものは、
>「凡夫」には原理的にわからないでしょうから

「如来の慈悲」の全てがわからなくとも、それらが「凡夫の慈悲」とは根本的に異なるものであることはわかりうるもののでは無いでしょうか。

例えば「如来の大非」とは、一切衆生をして共に仏道を歩かしめるものである(浄土論註:一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、廻向を首として大非心を成就することをえたまえるがゆえに以下略/往還二回向)と理解しております。たとえこれらの詳細自体が不可称なもの・わからないものであったとしても、「一切衆生」を目当てとするものである限り、例に挙げられていましたような母子の「慈悲」とは原理的に異なるものであるらしいことは、凡夫でも想像がつくものではないでしょうか。そしてそのこと自体が重要なのではないですか。もしこのように、一切衆生をして菩提をえさしめるような「慈悲」を持つ者がいたとすれば、それはもはや「衆生」ではないはずです(涅槃経)。

もし少々であるからダメであるということであれば、初地歓喜(龍樹菩薩)や「十住の菩薩少しき~」ということは成り立たなくなってしまいます。

またもし如来の慈悲が、海のものとも山のものとも知れぬ、衆生のそれとも区別の付かぬものであれば、どうして「世尊我一心・・・」という帰命や、「如来大非の恩徳は・・」という賛嘆が生じうるでしょう。如来の慈悲が衆生とは異なるものであるとわかるからこそ、帰命や賛嘆が生じるのだと考えています。
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院代さんは、我々が「慈悲」という概念をどう受け... (通りすがり)
2008-07-20 10:22:40
院代さんは、我々が「慈悲」という概念をどう受け止めるかという事をテーマにされているのであって、如来の慈悲を客観的に分析されているのではないと思います。

ゆえに、自己と如来の慈悲を分けて考える立場の議論とは平行線を辿るのでありましょう。

議論の前提がずれている様な印象を受けました。

もちろん、それぞれの立場(前提)は尊重されて然るべきでしょうが・・・。

双方の主張ともに「わかろう」と努力しておる日々でございます(^^;

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これは仏教や仏説をどのようなものとして捉えてい... (ナギ)
2008-07-20 11:51:17
これは仏教や仏説をどのようなものとして捉えているのかという問題で、前提がどうとかというレトリックの話ではないです。

>我々が「慈悲」という概念をどう受け止めるか
私もそのような話をしているのですよ。衆生の「慈悲」と如来の「慈悲」とを私がどう受け止めているか、ということです。客観的に分析などということはあり得ません。

そして、それらは人や立場によって違っていても当たり前のことであり、またその人の考えの違いを知ることこそが何かをさらに学ぶきっかけにはなるでしょうね。
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人にはそれぞれいろんな考え方があります。当然で... ()
2008-07-20 19:06:27
人にはそれぞれいろんな考え方があります。当然です。私はこう考えます。仏教は、大乗仏教になり、堕落しました。まるで原始キリスト教からカトリックが生まれた時のように、です。その本質とは、民衆をより支配しやすい環境にするということです。つまり宗教とは、支配者側にとって、とても都合のいいものなのです。歴史が証明してます。我々の住む日本が現在、平和だからこそ、たくさんのそれらしい言葉を並べて「慈悲・菩薩・如来など」遊ぶことが出来るのです。でも世界は違いますね。平和ではありません。(極端な武力衝突が起きているという意味です。)そういった地域では、「涅槃・観音・菩薩・如来」などといった言葉は、すぐに剣になりえます。宗教は世界あるいは地域の混乱を起こすもとになっていますね。間違いありません。昔からそうでした。わが国もです。曾我氏と物部氏の対立、南北朝、比叡山。いずれも激しい争いを起こしています。僧侶が争いを起こし、クリスチャン、他にもさまざまな信仰を持つものが、激しい争いを起こしています。状況によっては殺生をなんとも思っていませんね。敬虔な信者たちは、強烈な信仰心をもって一所懸命戦います。でも支配者側は信仰などというものは、何ももっていません。あるのは権力欲だけです。でもみんな知りません。宗教は支配の道具でしかありません。教育もです。当然です。社会からはみ出たものは迷惑なのです。そんなものです。私は大乗仏教なるものや、カトリック・プロテスタントなるものは好きではありません。みんな嘘つきです。けっして私は院代様の教えに従うとか、信仰するという気持ちはありません。
でも私は院台様がおっしゃった「慈悲」はとても好きです。愛を受けなければ愛を知ることは出来ません。
涅槃に達した人をだれか紹介してください。いちど見てみたいものだ。
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