初めての赤ちゃんを育てているお母さんを見ていると、頭が下がります(ただ見ていないで、父親も努力しないといけないのは重々承知ですが)。とにかく相手は意思を伝える手段が笑い声と泣き声しかない。何で泣いているのかは説明できない。ですから、泣き止まないときのお母さんは、それこそ大変です。
おっぱいをふくませる。オムツを見てみる。暑すぎないか、寒すぎないか。ボタンか何か、硬い物が肌にあたっているのではないか。それでも泣き止まないと、だっこしてあやしてみる。あらゆることを想像して、あらゆる手を尽くしてみて、そのすべてがダメで途方にくれたころ、ふと気がつくと鼻が詰まっていて、息苦しかったことがわかったりする。本当にヘトヘトでしょう。
お母さんは、この赤ちゃんのどうしようもない「わからなさ」に耐え、それを受け容れて育てているわけです。私はここに、「慈悲」というものの核心を感じます。
私はかねてから、「慈悲」の正体とは他者への想像力だと思っています。相手の在り方とその苦しさを何とかわかろうとする努力、ここに慈悲の根幹があります。だとすれば、その前提として、自分には他者のことは「わからない」、ということがわかっていないといけないでしょう。わからないからこそ、想像するのです。わからないから無視するのではなく、わからないから、わかろうとするのです。全部わかることはできなくても、何かはわかるだろう、わかりたい、と思うことーーーここに「慈悲」の核心があるでしょう。
とすれば、「あなたのことは私が全部わかっている」いう言い方をする人は、愛情はあるかもしれませんが、慈悲のある人ではありません。それはひとつの支配です。
「わからない」ことを「わからないまま」受け容れられること、これは仏教における非常に重要な修行です。
あるお坊さんが師匠に質問しました。
「千本の手に千個の眼を持つ千手観音は、あんなにたくさん手や眼があって、いったいどうするのでしょう?」
「それはな、真っ暗闇の中、頭からはずれた枕を一生懸命に手さぐりで探すようなようなものだな」
どこに枕があるのかわからない。だから、すべての手と眼を総動員して一生懸命さがす。無駄な努力を散々重ねても、さがすことを決してあきらめない。それが衆生を救おうとする観音様の慈悲の姿だというのです。
これを観音様ならぬ人の身に引き当てて言えば、悟りだの成仏だのをまるで当てにすることなく、それが何の役につのか「わからない」徒労だとしても、まさに自分がなすべきなのだと覚悟して行うことを、修行というのでしょう。
最後に御礼。新著をお読みいただいた方、ありがとうございます。出版社によると、思いのほか売れているとのことで、驚いています。ただ、私のところにはさっそく、なんてわかりにくく不親切な本だ、だいたい註も索引もない、と読者から苦情がきました。申し訳なく存じます。なにぶん選書なので紙幅が限られ、ある程度書きたいことを書き切るには、それらを犠牲にせざるを得ませんでした。どうかご海容下さい。
もし母親が、自分の子供だけではなく、他の人の子供や異なる国の人などの「全ての」生けるものに対してその「わからなさ」とやらを受け入れることが出来るのであれば、それはそうとも言えるかも知れません。しかしそんなことが、人から生まれる人間にできるでしょうか。
如来の慈悲は、全ての衆生に対するものではないですか。母親の子供への「慈悲」というたとえでは、
大乗仏教の根幹である「一切の衆生が救われてほしい」という概念が抜け落ちているように思います。
前回の仏像と人形についてのお話でも、院代様は人の思いと如来のそれとは同一線上にあるような
書かれ方をされているように受け取りましたが、衆生の願いが形を取ったもの(人形など)と、仏説にある如来や菩薩の願いが方便として形になったもの(それも元々は誰かが願ったものでしょうが)との間にはこの「全ての」という点に関して本質的に大きく異なるものがあると考えます。
そして凡夫の願いや愛と、仏の願いや慈悲との間にある絶対的な差を認識することにより、自分が相手を決してわかることができない凡夫であることを知らされるのではないですか。まあこれはいわゆる二種の深信・他力という概念がある浄土教の見方で、禅宗とは異なるのかも知れませんが。
私は如来の慈悲と母の子への愛情が同じものだと考えているわけではありません。
人間が理解しうる言葉として、あるいはなしうる行為として「慈悲」を考えたとき(そうでないと議論になりません)、「わからなさ」を受容することが是非必要だろうと考え、母親の赤ちゃんに対する振る舞い方をモデルにして、禅問答における観音の振る舞いに対比したのです。
如来や菩薩の慈悲それ自体がいかなるものは、「凡夫」には原理的にわからないでしょうから、それと「家族愛」を「同じ」と判断する根拠は何もないでしょう。同時に「わからない」以上、これまた「絶対的に違う」という根拠もないはずです。
私が考えたのは、如来の慈悲そのものや、家族愛の性質そのものについてではありません。そうではなくて、相手のことを「わからない」ということを前提にしないかぎり、他者への想像力は働かないという、行為の構造についてであり、またこの想像力がないかぎり、おそらくいかなる「慈悲」も成立しないだろうということです。
つまり、今回のブログは、我々が理解しうる「慈悲」の必要条件について考えを述べたのであり、「凡夫」に想像しがたい「如来の慈悲」の十分条件まで述べたものではありません。
>人間が理解しうる言葉として、あるいはなしうる行為として「慈悲」を・・・
>またこの想像力がないかぎり、おそらくいかなる「慈悲」も成立しないだろうということです
了承しました。
>如来や菩薩の慈悲それ自体がいかなるものは、
>「凡夫」には原理的にわからないでしょうから
「如来の慈悲」の全てがわからなくとも、それらが「凡夫の慈悲」とは根本的に異なるものであることはわかりうるもののでは無いでしょうか。
例えば「如来の大非」とは、一切衆生をして共に仏道を歩かしめるものである(浄土論註:一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、廻向を首として大非心を成就することをえたまえるがゆえに以下略/往還二回向)と理解しております。たとえこれらの詳細自体が不可称なもの・わからないものであったとしても、「一切衆生」を目当てとするものである限り、例に挙げられていましたような母子の「慈悲」とは原理的に異なるものであるらしいことは、凡夫でも想像がつくものではないでしょうか。そしてそのこと自体が重要なのではないですか。もしこのように、一切衆生をして菩提をえさしめるような「慈悲」を持つ者がいたとすれば、それはもはや「衆生」ではないはずです(涅槃経)。
もし少々であるからダメであるということであれば、初地歓喜(龍樹菩薩)や「十住の菩薩少しき~」ということは成り立たなくなってしまいます。
またもし如来の慈悲が、海のものとも山のものとも知れぬ、衆生のそれとも区別の付かぬものであれば、どうして「世尊我一心・・・」という帰命や、「如来大非の恩徳は・・」という賛嘆が生じうるでしょう。如来の慈悲が衆生とは異なるものであるとわかるからこそ、帰命や賛嘆が生じるのだと考えています。
ゆえに、自己と如来の慈悲を分けて考える立場の議論とは平行線を辿るのでありましょう。
議論の前提がずれている様な印象を受けました。
もちろん、それぞれの立場(前提)は尊重されて然るべきでしょうが・・・。
双方の主張ともに「わかろう」と努力しておる日々でございます(^^;
>我々が「慈悲」という概念をどう受け止めるか
私もそのような話をしているのですよ。衆生の「慈悲」と如来の「慈悲」とを私がどう受け止めているか、ということです。客観的に分析などということはあり得ません。
そして、それらは人や立場によって違っていても当たり前のことであり、またその人の考えの違いを知ることこそが何かをさらに学ぶきっかけにはなるでしょうね。
でも私は院台様がおっしゃった「慈悲」はとても好きです。愛を受けなければ愛を知ることは出来ません。
涅槃に達した人をだれか紹介してください。いちど見てみたいものだ。