思いつき禅問答シリーズ。
ある禅師が修行僧を集めて言いました。
「お前たちは皆、酒糟で酔っている連中だな。そんな体たらくであちこち修行に歩き回っても、今日悟りを得ることなどできないぞ。そもそも、この国に禅師などおらんんことを知っているのか」
すると、修行僧の一人が質問しました。
「では、あちこちにいる、修行僧を教え導いている人は、どうなんですか?」
「禅(の悟り)が無いとはいわん。ただ、その師がいないのだ」
この禅問答の中で「酒糟に酔う連中」とは本物の酒を知らない者の喩えで、いい加減な仏法の知識に満足して、正しい仏法を知らないことを言います。
この問答の通常の解説はおおよそ次の通りです。
「禅の教えが無いとは言わず、師がいない」とは、要するに「禅(の悟り)」とは、修行者本人の直接的な体験、心によって内面から体得されるものであって、それを教えられるような「師」はいないのだ。
この解釈は、ただの体験を形而上学的な「真理」のごとく理念化する、一種の「体験至上主義」と言えるでしょう。
私は例によってこの解釈をとりません。なぜなら、修行者本人の「体験」が本当に「悟り」かどうか、当人には原理的にわからないからです(これまで悟ったことがないのに、わかるはずがない)。
だとすれば、誰か「先に」悟った者に「君のその体験が悟りなんだよ」と言ってもらわなければならないでしょう。つまり、体験それ自体は無意味なのです。「禅(の悟り)」があるなら、それを保証する「師」は必要条件です。
にもかかわらず、「師はいない」というのは、その師の「悟り」体験も、体験自体は無意味で、そのまた師に保証されなければならず、ことは際限なく遡及します。
この遡及を遮断するには、大元のゴータマッダご自身による「悟りとは〇〇である」という言明が必要ですが、この言明が経典に一切ないとなると、「体験」の意味を確定する「正しい」方法は無いことになります。
すると、「悟り」確定に必要な師の保証は、所詮「参考意見」か「参照事例」にすぎません。
すなわち、「体験至上主義」で押し通すと、「正しい悟り」を得た「師」などは幻想にすぎないという話になるでしょう。
ある禅師が修行僧を集めて言いました。
「お前たちは皆、酒糟で酔っている連中だな。そんな体たらくであちこち修行に歩き回っても、今日悟りを得ることなどできないぞ。そもそも、この国に禅師などおらんんことを知っているのか」
すると、修行僧の一人が質問しました。
「では、あちこちにいる、修行僧を教え導いている人は、どうなんですか?」
「禅(の悟り)が無いとはいわん。ただ、その師がいないのだ」
この禅問答の中で「酒糟に酔う連中」とは本物の酒を知らない者の喩えで、いい加減な仏法の知識に満足して、正しい仏法を知らないことを言います。
この問答の通常の解説はおおよそ次の通りです。
「禅の教えが無いとは言わず、師がいない」とは、要するに「禅(の悟り)」とは、修行者本人の直接的な体験、心によって内面から体得されるものであって、それを教えられるような「師」はいないのだ。
この解釈は、ただの体験を形而上学的な「真理」のごとく理念化する、一種の「体験至上主義」と言えるでしょう。
私は例によってこの解釈をとりません。なぜなら、修行者本人の「体験」が本当に「悟り」かどうか、当人には原理的にわからないからです(これまで悟ったことがないのに、わかるはずがない)。
だとすれば、誰か「先に」悟った者に「君のその体験が悟りなんだよ」と言ってもらわなければならないでしょう。つまり、体験それ自体は無意味なのです。「禅(の悟り)」があるなら、それを保証する「師」は必要条件です。
にもかかわらず、「師はいない」というのは、その師の「悟り」体験も、体験自体は無意味で、そのまた師に保証されなければならず、ことは際限なく遡及します。
この遡及を遮断するには、大元のゴータマッダご自身による「悟りとは〇〇である」という言明が必要ですが、この言明が経典に一切ないとなると、「体験」の意味を確定する「正しい」方法は無いことになります。
すると、「悟り」確定に必要な師の保証は、所詮「参考意見」か「参照事例」にすぎません。
すなわち、「体験至上主義」で押し通すと、「正しい悟り」を得た「師」などは幻想にすぎないという話になるでしょう。
つまり悟りは、「ザンネン賞」という訳です。
実に、ザンネンだ( ´△`)
いいなぁ。
師匠は、「酒糟に酔う師匠」から、師匠に認定されている、ということ?
これじゃあ誰がシラフか、わかりっこないじゃん。
そうなると釈尊も、「本当の悟り」かは、修行仲間に話したところで、「本当の正しさ」を確認しようがないことになりません?
これ以上否定しようがないことを、「悟りと決めた」という話ような。
佐々木ちゃんと宮崎ちゃんは、あれだけの考察をしたり、苦悩も抱えてるみたいだけど、なぜ出家しないのかといえば、日本には現在、サンガが無いからだろうか?
『宗門の正伝にいわく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。
参見知識のはじめより、
さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、
祇管に打坐して、身心脱落することを得よ』
如浄禅師は「心塵・脱落」と教え、それを、
道元和尚は「身心・脱落」と学んだ。
釈尊が、止んだ地点!到達した地点!
「諸行無常」
「諸法無我」
諸行無常・諸法無我の本質は...
常が無い、我が無いと断定することではありません。断定すればいつも間違う。
あるかもしれぬし、ないかもしれぬと
無記して関わらないことなのです・・・との南さんの名回答がある。
迷回答??、無師迷悟??
このことが重要である。
道元和尚の教えは、
「只管打坐」「坐禅は安楽の法門」であり、
そのガイドブックは、
主著『正法眼蔵』旧草全75巻、新草全12巻である。
「正師」に逢う努力が大切である。
師匠が呆けたのか袈裟を「左右逆に」召した。
弟子は「とっさに師匠に合わせて袈裟を逆に」した。
弟子は、逆であったことを知っていた。
如浄禅師の「心塵・脱落」も、
道元和尚は、知っていて、
「身心・脱落」と、正したのであろう。
「正師」は、弟子の方が「正師」とする。
ヨガの先生には、体の動きを教えるだけでなく、
愛を与えてあなた(困ってる人と勝手に認定してる)を救済できる、
私の言う通りにすれば必ず幸せになる、
と説いてしまう人がいるし、
若いヨガティーチャーには、そういう存在を目指している人もいます。
それにモヤモヤしていた気持ちが、南先生の説明で腑に落ちます。
理解の難しいことなので、違う例で繰り返し説明してくださるのが、ありがたいです。