何度か耳にしたことのある、新手の童謡かと思っていた「くまの子みていたかくれんぼ・・・」ではじまる歌が、かつての名作アニメのテーマソングだということを、つい最近知りました。
実は恥ずかしながら、この歌を初めて聴いた時、私は思わず涙ぐんでしまいました(正直言うと、私は涙もろい方)。
この歌は、「いいな、いいな、にんげんっていいいな」というサビの一節に続いてこうなります。
「おいしいおやつに、ほかほかごはん、こどものかえりを待ってるだろな。ぼくもかえろ、おうちにかえろ」
私は、最初別になんの感慨もなく、この歌を聴いていたのですが、この「・・・ほかほかごはん、こどものかえりを・・・」まできて、ちょっと違和感を覚えたのです。当然ここは「ぼくのかえりを・・・」と続くのだろうと、思うともなしに思ったからでしょう。ところがさにあらず、ここは「こども」となり、直後に「ぼくもかえろ・・・」となるわけです。そして、私の涙腺を痛撃したのは、まさにここです。
この「ぼく」は幼さの無知ゆえに、「こども」にはみな「おいしいおやつとほかほかごはん」が用意されていると信じているのです。それが「おうち」というものだと。彼には、自分をめぐる人々と世界に対する、自覚以前の信頼があるということです。それが「こども」の世界というものなのです。そして、 どんな「こども」にも同じような「おうち」あるはずだという、この無知と信頼に身をゆだねて、はじめて安心して「ぼくもかえろ」となるのでしょう。
しかし、この「ぼく」はまもなく気がつくことになります。「おいしいおやつに、ほかほかごはん」は必ずしもどの「こども」にも保証されているわけではないことに。そういう「おうち」ばかりではないことに。それに気づいた時の、刺すような痛み、それが全身にゆっくりひろがっていくような不安。おそらく、「ぼく」はこのときはじめて、「他者」と「社会」に出会うことになるのでしょう。同時にそこから、「自己」の孤独と焦燥が始まるのです。
この歌は、そうした「他者」と「自己」を発見する前の、まったく自覚の外にあるという意味での、透明な「無知」と「信頼」だけがもたらす、あの絶対的な「幸福」を想い起させるのでしょう。
ただ、しかし、我々は、それを失うことでしか、「にんげん」になれないのです。
やはり人間とは悲しい動物なのですね。そして死。あぁ、悲しいですね。生きるとは無謀で過酷な戦いだった!
失礼しました。
合掌。
毎週拝読させていただいています。誠にありがとうございます。
「おとな」である私が、自分にとっての真理を守っていくためには、最大限身軽でいることが、一番の近道だとは思います。とはいえ、現実に存在する社会とのかかわりを、どのようにすれば、多くの人のために未来にむけて実りあるものにすることが出来るのか、ということは本当に難しい問題です。
ふかふか布団にぽたぽたお風呂、みんな父母がいて自分達にはなかなか得られなかった全部を与えてくれるためにどれだけ頑張っていてくれたのかと改めて感謝と共に省みました。
今自分が親となり一緒にほかほかごはんやお風呂を楽しめるのはなんと有難いことか。ほんの束の間の濃密な甘い時を唄っていたのだなと私は悲しい気持ちになるのです。
親離れ、独り立ちしようとする子供達。思春期真っ盛りの子供を持つ私は、自分が小さい頃と我が子が小さい頃に無邪気に唄っていた事を懐かしく、ちょっと寂しく想いました。
自分の幸運を思う時に、安心感を持って生きられない小さい人々に自分はこの二本の手で何が出来るのだろう、とも考えます。現代に生きるオトナとして「汝の性の拙さを泣け」とは言えないのではないか、などと想ったりもするのです。
いつもありがとうございます。
今のところ、無視でも凝視でもなく、
半眼に構えているしかすべを知りません。
何気なく聞いていると、「あ~そうそう、この唄って心が何かほっこりする唄で良いなあ…」と思いました。
何よりも無邪気に笑いながら歌っている子どもたちを見ているとなおのこと…。
ですが、よくよく考えてみると、我が家もそうですが、まず、「お家でごはん」という状況は週に1~2回あれば良い方です。
何故なら、どこのお家も核家族、父母ともに残業で、夜の8時までほとんど全ての子どもたちが保育園に居るのですから…。
ちなみにその時間をすぎると10分¥500が加算されます(汗)。
保育園では夕食が出ますが、正直なところ、「ごめんね…(泣)」という罪悪感みたいなものに包まれながら働いています、というか、働かざるを得ないのです。
今でも子どもは無邪気にこの唄をお風呂の中で歌っていますが、それを聞くたびに非常に複雑な気持ちになります…。
理解していました。
「ぼく=くまの子」が「にんげんの子」を見ていて、
●「にんげん」って有暇具足だからうらやましい(あったかいご飯にお風呂)
●でも生き物として「親の愛」がぼくたちの共通点だね!と気が付いた(だから「ぼく=くまの子」も「かえる」)
●生き物のこどもはみんな等しく親に愛されてるね!
っていう歌だと思ってました。
私が泣けたのは、でももしかしたらこの「ぼく=くまの子」はもうおうちに帰っても誰も待っておらず、信じてるふりをして帰っていったのかなと、何故か思ってしまうからでした。
かえるところを希求しながらも見つけられずに
この歌を歌ってた子どもの頃と
かえりたいところを見つけてもかえれない今。
私は、にんげんを見ているくまを見続けてるままだな。
どっちがリアルなんだろな。
そしてやっぱり
“おしり”を出したこ いっとうしょう♪
だし。笑
知らない人のために以下全文。
くまのこ みていた かくれんぼ
おしりをだしたこ いっとうしょう
ゆうやけこやけで またあした またあした
いいないいな にんげんって いいな
おいしいおやつに ほかほかごはん
こどものかえりを まってるだろな
ぼくもかえろ おうちにかえろ
でんでんでんぐりがえって ばいばいばい
視線(歌っている本人)は、言わずもがな、熊の子です。従って、「いいな いいな」は熊の子が抱いた羨望です。誰に対する羨望かというと、人間です。
それは
「いいな いいな にんげんって いいな」と
人間が「いいな」の入れ子(nesting)になっていることからも分かります。(分からない人は、おばかです。)
いままで熊の子が見ていたかくれんぼをしていたこども(たち)を
「おいしいおやつに ほかほかごはん」を用意して
親たちが「こどものかえりを まってるだろな」と
ここで羨望の対象が述べられています。
(かくれんぼは一人ではできないことから、「こどもたち」と複数で考え、「親たち」と複数で考えるのが全うな思考。単複に頓着しない日本語の特性を考えることも肝心)
そこで、熊の子は考える。
羨ましがってばかりもいられない。日も暮れてきた、おいしいおやつも、ほかほかごはんもないかもしらないけれど、(熊の子の)おとうさんやおかあさんがまっているのだから、心配するといけない。
「ぼくもかえろ おうちにかえろ」と家路につくことにしたのである。
「ばいばいばい」であるが、「ゆうやけこやけで またあした またあした」とあることから、明日への希望、再会の希望が読み取れる。
決して、今生の別れとしての、「ばいばいばい」ではない。
ゆえに、南氏の以下の解釈もナンセンスです。
>この「ぼく」は幼さの無知ゆえに、「こども」にはみな「おいしいおやつとほかほかごはん」が用意されていると信じているのです。それが「おうち」というものだと。彼には、自分をめぐる人々と世界に対する、自覚以前の信頼があるということです。それが「こども」の世界というものなのです。そして、 どんな「こども」にも同じような「おうち」あるはずだという、この無知と信頼に身をゆだねて、はじめて安心して「ぼくもかえろ」となるのでしょう。
文庫本がでると知っていながらアナウンスしない出版社と、暴利をむさぼった古本屋の結託に憤りを感じつつ、「語る禅僧」にも母親に対する思いを例に挙げて、以下ど同様の謂いがあることを指摘しておきます。氏には、粘着性の思考習慣があるようです。
>しかし、この「ぼく」はまもなく気がつくことになります。「おいしいおやつに、ほかほかごはん」は必ずしもどの「こども」にも保証されているわけではないことに。そういう「おうち」ばかりではないことに。それに気づいた時の、刺すような痛み、それが全身にゆっくりひろがっていくような不安。おそらく、「ぼく」はこのときはじめて、「他者」と「社会」に出会うことになるのでしょう。同時にそこから、「自己」の孤独と焦燥が始まるのです。
自我に目覚めるのは、一般的に「ぼく」が「俺」になるころでしょう。
男ならば精通を覚える頃、女ならば初潮を迎える頃です。
それ以前が、「無知」と考える人は、エンデの「モモ」か、「児童憲章」を読み直してください。
↓は完全に深読みでしょう。
>この歌は、そうした「他者」と「自己」を発見する前の、まったく自覚の外にあるという意味での、透明な「無知」と「信頼」だけがもたらす、あの絶対的な「幸福」を想い起させるのでしょう。
ああ、いやだ、嫌だ。どうしてそう悲観的なんでしょうね。
もっと、人生を高らかに、歌い上げることを考えてみませんか?
↓
>ただ、しかし、我々は、それを失うことでしか、「にんげん」になれないのです。
誕生は死の必要条件。
成長と老化は同義。
結婚は、独身という選択肢を捨てたのと同義。
右へ行けば、左へ行くという選択肢を捨てたのと同義。
常に何かを失っている(と思える)のが人生の歩みです。
悲観することは寸毫もない。
熊の子がかえろうとしている「おうち」には、熊のおとうさん おかあさんがまっています。もしかしたら、兄弟も。
単なる「うち」ではない、「おうち」というやさしいひびきにそれを嗅ぎ取らなければなりません。
以上。
これだけ読み違えている坊さんが、正法眼蔵なんて読み解けるのかしら?
なるほど、あくまで「私流」の仏教講座であるわけだ。
そもそも解釈なんて人それぞれですよねえ。原理主義じゃあるまいし。