恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ちょっとした感想

2010年10月20日 | インポート

 以下は、ある寺が主宰する坐禅会の記念誌に寄稿したものです。こういう話は珍しいでしょうから、転載してみます。

坐禅という道しるべ

              

 〇〇寺様の参禅会が三十周年を迎えるのだそうで、まことにおめでたい、また一曹洞宗僧侶として、ありがたいことだと思う。

 副住職さんとは永平寺の入門が一緒で、その縁もあってか、会員の皆さんの前で話をさせていただいたり、ご一同がはるばる恐山まで参拝に来て下さったりと、今では何だか他人という気がしない。

 そこで、方々で行われている坐禅会の様子を時々見聞して、私が個人的に感じていることを、この機会に聞いていただきたいと思う。

◆   ◆   ◆

 以前、あちこちのお寺で参禅経験があるという初老の人と話をしていたら、彼がこんなことを言った。

「南さん、坐禅というのは人を傲慢にしますな」

 これはおかしいだろう。普通は、坐禅を続けていれば、「我がとれて傲慢でなくなっていく」という筋書きになるはずである。

 ところが、彼は逆だと言うのである。

「私は最初、勉強だと思って、いろいろなお寺の坐禅会に参加していました。しかし、そのうち通うのをやめて、家で坐禅を続け、折に触れて知り合いのお坊さんに直接指導してもらうようにしたのです。実を言うと、お寺の坐禅会もいいのですが、かなりの割合で、だんだん居心地が悪くなっていくのです」

 坐禅会の「居心地」とは何のことだろうと思っていると、

「それというのもですねえ、どの参禅会に行ってもたいてい、何というか、すでに五年十年坐ってます、みたいな『古株』の人がいるんです。お寺によってはこの人たちが初心者の指導を任されているところさえあります。それはそれでよいのですが、どうかするとですね、彼らがときとして、初心者とか新参の者に対して、なんとなく尊大な、横柄な感じになるんです。本人は気がついていないかもしれません。しかし、初心者や新参の者にはそう感じることが多いのです」

 彼は私の表情を伺うようにして、ニヤッと笑った。

「もうひとつイヤなのはですね、四十人、五十人くらいの大きい参禅会になると、住職や指導してくれる和尚さんをめぐって、派閥みたいなものができてくるんです。それで寵愛を競うみたいな。ね、イヤでしょう」

◆   ◆   ◆

 思い当たるフシがある。何も参禅会に限らない。修行僧と師家(指導者)が集まる道場でも似たようなことがある。どうして、そんな馬鹿々々しい話になるのか。

 まず思うのは、「尊大」になる人というのは、坐禅をすることがとても立派なことだと思い込んでいるのではないかということだ。なぜ立派かというと、坐禅が「宇宙の真理」や「真実の自己」などと称する、さらに立派なものに到達すること、あるいはその立派なもの自体になることだと、考えているからだろう。

 だから、それを教えてくれる指導者は大事なのであり、その人から「親しく」教えてもらうことは、「特別待遇」になるのだろう。

「尊大」な人がこのとおり意識しているかどうかは別としても、こういう構図があるだろうし、それがないかぎり、少なくとも「派閥」なんぞはできないだろう。

 正直くだらないなと、私は思う。「宇宙の真理」や「真実の自己」というアイデアを否定しようというのではない(賛成もしないが)。しかし、たとえそれらがあったとしても、「宇宙の真理」を知ったら「尊大」になり、「真実の自己」になったら「派閥」ができましたと言うのでは、出来の悪い冗談である。

 坐禅を続けていたら、気持ちが安らかになり、人に優しくなれましたというなら、私もわかる。そして、それで十分だろう。

 生きていれば、悲しいことも苦しいこともある。自分の努力でどうにかなることも、ならないこともある。そういう必ずしも簡単でない人生を、ともかくまともに歩いていこうというときの、その道しるべがお釈迦様や道元禅師の教えであり、坐禅もまたそうである。これさえやっていれば万事OKという「ゴール」ではないのだ。

 私は、〇〇寺参禅会の皆さんが、坐禅を通じて、何かしら生きるのが楽になり、ご自身をめぐる人の縁を豊かにしていけることを、心から願っている。また、方丈様も副住職の彼も、同じ気持ちだろうと信じている。

 

 

 まあ、何事であれ、直立二足歩行して言葉を話す動物が考えたりやったりしていることを、それだけがすべてであるかのように大げさに崇め奉ることは、まず間違いの元であり、よしたほうがいいと思います。                         

                                        追記:次回の講座「仏教・私流」は、11月29日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川別院にて、行います。

    

 


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11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
  (古参を濾さん)
2010-10-20 10:20:32
 
 参禅しております。
 古参の中には、傲慢な人もいるでしょう。しかし、昨日今日はじめたばかりの人の中にも、先輩面をする人はいます。
 座禅が人を傲慢にするのではなく、そういう人たちは元々傲慢なのだと思います。
 私が気にするのは(気にするほどではないでしょうが)座禅会で知り合ったメンバーが趣味の会(俳句、マラソン、カラオケの会等々)を結成していることです。そこでリーダー然としている人たちにむしろ傲慢さを感じています。
 趣味の会もご縁といえばそうなのでしょうが。

 合掌



 
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傲慢さ・・・明日は我が身かもしれません。 (五葉関接頭)
2010-10-20 10:38:31
傲慢さ・・・明日は我が身かもしれません。

良い気付きでした。 多謝
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 私もあちこちで座禅会に参加させていただいた時... ()
2010-10-20 19:58:29
 私もあちこちで座禅会に参加させていただいた時期があり、この初老の方がおっしゃったようなことを感じたことがありました。
 とはいえ、一人で座ることを続けるのはとても難しいことです。私も最近は忙しく、なかなか参禅させていただく機会が持てないのですが、座られていただける場所をいただけるのは、嬉しいことだと思っています。
 最近、鈴木俊隆老師の「禅マインドビギナーズマインド」を読んでいます。これを読んで興味を持った海外の人に、方丈様の著作も読んでほしい、と思ってしまいます。
 
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だから集団は嫌いだ!それを跳ね返すほどの力をつ... (浅野)
2010-10-20 20:40:49
だから集団は嫌いだ!それを跳ね返すほどの力をつけなければいけないのですね。
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方丈様が、恐山の宇曾利湖上を二足歩行できるよう... (蘇鉄)
2010-10-21 12:36:48
方丈様が、恐山の宇曾利湖上を二足歩行できるようになったら、まあ、間違いなく崇め奉られると思うのですが・・・(笑)

この様な現象が出てしまうのも、私個人の経験からも、分からない訳でもありません。

方丈様のご説法を拝聴したり、「語る禅僧」などを拝読した時、しばらく茫然自失する程のショックを受けた人は、私だけではないでしょう。

また、以前のお話「怒らない練習」を拝読した時、文章がそのまま方丈様の声に脳内変換されて、心がじわりとした人も、私だけではないでしょう。

方丈様からいただいたインパクトの大きさが、そっくりそのまま方丈様を「特別な人」に変えてしまったのでしょうから。

我こそが一番「特別な人」だと思っている人達が集まるような、文章にあるようなややこしい事には与したくないので、私は遠くから伺わさせていただいております。

また、「語る禅僧」の文庫版につきましても、ありがたく拝読させていただきます。本当にありがとうございます。

合掌
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居心地の悪さってのは出来の悪い冗談のようなもの... (宮川一夫)
2010-10-21 20:21:33
居心地の悪さってのは出来の悪い冗談のようなものだったんだ。納得しました。
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>〇〇寺様の参禅会が三十周年を迎えるのだそうで... (ではでは)
2010-10-24 19:25:13
>〇〇寺様の参禅会が三十周年を迎えるのだそうで、まことにおめでたい、また一曹洞宗僧侶として、ありがたいことだと思う。

寺に「様」は不要。推敲召され。

>住職や指導してくれる和尚さんをめぐって、派閥みたいなものができてくるんです。それで寵愛を競うみたいな。ね、イヤでしょう。

だれもゲロしませんが、宗教と男色は密接な関係があります。(笑)
上司の意向をいかに効率よく摂取し昇進・栄達に利用するかは、男色同様に洋の東西を問いません。

で結局、このブログ何が言いたい?目新しい主張はどこに?
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>寺に「様」は不要。推敲召され。 (とある僧)
2010-10-25 00:51:37
>寺に「様」は不要。推敲召され。

??? 寺に様が不要というその根拠は?
単に口伝レベルのものであれば、別にここに残すような内容でもない気がしますが。
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先週立石寺に初めて訪れる機会があり、貫けるよう... (南京ハゼ)
2010-10-27 14:39:01
先週立石寺に初めて訪れる機会があり、貫けるような空と包み込み迎えてくれるような樹々が、なにかとても清々しい空間でした。

自然が醸しだすかのようなお寺の雰囲気は様々ですが、人為的に、例えばたまに散歩にいくお寺を久しぶりに訪れた時、あ、色が変わったかな、住職のかたが変わったのかなと感じたりすることがあります。
きっと、ひとつのお話をするにも、同じ話なのに伝え方は様々で、話すかたのポイントの置き方でなんとなくその人の視点や背景を自分なりに感じます。
気まぐれに、仏教書を手にして、あれ?その言葉何のことだっけ?と、原文と注釈の行ったりきたりを重ねたあげく、…ま!とりあえず置いといて…心あると感じる人の言ってることを聴かせてもらおう!…という風だったりもします。
日々の生活の中で、周りの人達からたくさんの暖かさを頂きつつ、時代が変わっても変わらないことを、仏教を通して、自分に響くものとして、教えて頂く機会を得られることをとても嬉しく思います。

一段と涼しくなり、恐山はさぞや!と思われますが、どうぞ暖かくお過ごしになられますよう心よりお祈り申し上げます。
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尊大になる人 (三昧)
2010-10-29 19:50:32
尊大になる人
一般的に、なんらかの人の集まりにおいて、人は二つのタイプに分けられるのではないでしょうか? ①その集まりの継続・維持・発展を重視する人:こういう人は、他人の面倒見がよく、その集まりの中でのイザコザの仲裁にあたったり、会計係などを買って出たりする。こういう人は、往々にして、その集団の規模が拡大する(勢力が拡大することを)希望することが多いような気がしますし、参加にも熱心でしょう。 ②まったく、集団の継続・維持。他のメンバーとの交際に関心がなく、ひたすら、その、集団での行為に専心する人。
禅の会でなく、クラブ野球チームやアマチュア・オーケストラ等を想像してみてもいいかもしれません。
 おそらく尊大になる人というのは①のタイプの人の様に思われます。おそらく、集団の勢力の維持・拡大する=善という単純な価値観があるために、その集団が維持されていたり、新人が加入する(=勢力拡大)ことが、そのまま善・・・ひいては、それに、精力を使っている(たとえ、奉仕心からだとしても)自分は、必然的に善に絡んでいるという自負心が生じ、それとは気付かずに、尊大になる様な気がします。つまり、ある価値観が無意識のうちに絶対真として心底にあり、自らが、それに沿う行動をしているという自負心です。座禅の本質は、おそらくは②ではないかと思うのですが、座禅会・・・「会」という名がつけば、やはり、こういう傾向はいたしかたないんかもしれません。だって、②のタイプの人ばかりでは、いわゆる組織というのは成立しないでしょうから。
 禅の会に限らず、組織・集団にはこういう傾向はあるのじゃないかなと思いました。
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