およそ試験が試験であるためには、次の二つの条件が必要です。
①試験問題には事前に決められた一定の答えがあること。
②出題者が受験者ではないこと。
この二つがそろわないと、試験すること自体が無意味です。
すると、受験者とは、あらかじめ答えを知っている者が出す問題を、いかに効率よく解くかの技術を競う人間ということになり、これは基本的な構図として、他人の支配や命令に手際よく従う能力を競うのと同じことになるでしょう。
ということは、試験によって計測するのに最も適しているのは、官僚か官僚的な(あるいは官僚化した)職業の場合です。私が思うに、「秀才」とはそのようなことに長けた「技術者」でしょう。
これに対して「天才」とは、すでにある「答え」を見つけるような人間ではありません。そうではなく、普遍的で根源的な「問い」を、彼の生きる時代と社会の課す条件の下、自ら取り組むべき「問題」として構成し、結果的に、それまで誰も思いつかなかった方法で、挑み続ける者のことです(「結果的」と言ったのは、必ずしもそうしたかったのではなく、そうせざるをえなかった、ということです)。たとえば「人間とは何か」という「問い」を、その時代の科学的な、あるいは宗教的な、芸術的な視点で「問題」として構成し、それに独自の方法で取り組む場合です。
このとき、成果の有無は、「天才」に関係ありません。成果があれば「栄光ある天才」でしょうし、なければ「栄光なき天才」なのだと、私は思います。
では、「凡人」とはどういう人間か。私に言わせれば、「問い」が立ち上がらなかったり、「問題」を回避したがる者のことです。
すると、私の定義にしたがえば、「天才」は他人に従うことができません。「秀才」は他人を評価することができ、また、できなければなりません(解答するという行為は、問題の質の評価であり、出題者の能力の評価でもあります)。ですが、「凡人」はそもそも他人を発見できません。誰に従っているのか知らないまま、誰かに従うことになります(「長いものに巻かれる」状態)。
ところが、「凡人」も、突如として、好むと好まざるとにかかわりなく、決定的な「問い」に襲われるときがあります。誰かがすでに答えを知っているわけでもなく、他人が教えてくれる方法があるわけでもなく、否も応もないままに、その「問い」を自らの「問題」として引き受けざるを得ないときがあるのです。
だとすれば、そのときは、「凡人」は、「問題」に取り組んでいる限りにおいて、「天才」たりえるはずです。「天才」の相貌が宿るはずです。たとえ「栄光」がなかろうとも、私はその彼に深い敬意を禁じ得ません。
ところで、蛇足ながら申し添えます。「天才」か「秀才」か「凡人」かは、彼の「幸福度」や「善良さ」とは、まったく関係ありません。
あることは知りつつも、
こんなことを私は思うさね。
既に、「問い」は立ち上がっており、
回避しているわけでもなく、
ただただ
どうしようかどうしようかと悩んではいるものの
何かのために、その人のために、
という良い訳は、
その「問い」に引き裂かれている者達の
存在を蝕み、疲弊させる。
取り組むしかないのなら、出来るだけより良い結果を出せるように、楽しみながら取り組みたいと思います。それがたとえ果てしなく難しい「問い」だとしても。
全ての答えを出し尽くしてなお。その先の答えを出すときには 人間の英知を超えて 次元の違うものの手をつかむ感覚だと思います。
例えば、壁の先を考えた者に 実行する力が不足していたとき、その事を実現可能な者の力を借りて 物事が成されれば その天才は満足を覚えるのではないでしょうか・・。
けれど、天才は限りなく異端の扱いを受け、限りなく孤独を友達にしています。例えば家族がいても、友達がいても いつも孤独が傍らにいるように思えるのです。
なぜなら、天才は彼らに話しをしても会話にはならない寂しさがあるかもしれません・・。
そして、天才が力のある者にみいだされた時、幸せでもあり不幸でもあります。都合良く 金のたまごを生む鶏のように 金のたまごを生み続けられるか・・
権力者の足下をいつか脅かす存在になるのではないかという疑心暗鬼の網にかからないように、自分の能力をセーブすることも必要かもしれません。
無から有を生み出すことは 命を削る思いをすることだと思います・・・。
背中を力強く押されるお言葉ですね。
合掌。
蛇足ながら、天才は往々にして不幸ですね。
和尚様と玄侑宗久氏の対談「<問い>の問答」を拝読致しました。私は常々大宇宙と自分との関係について考え続けており、法華経にはその答えがあると感じておりました。ところが「<問い>の問答」を読むと、お坊さん達は、そして和尚様は法華経と宇宙、法華経と科学の関連性については考えることはしないのだろうかととても疑問を感じてしまいました。私は「<問い>の問答」と同時に今から17年程前に他界した若者(23歳)が書いた「ブッダ宇宙論」酒井一郎著 ソノダ印刷発行 を読んだのですが、それには法華経に出てくる「暗黒の裂け目とはブラックホールのことである」と解説がありまた「大光明とはクェーサーのことである」そして「ブラフマンの楼閣とは銀河ジェットのことを指し、特異点とは神の言葉である」と解説してありました。
法華経には素粒子も登場します。
つまり酒井氏がいうには、すべてはエネルギーであり
人が最高の悟りに到達した時、ブッダになったその瞬間巨大なエネルギーを放出しすべてと繋がりその悟りのエネルギーはブラックホールに大光明をもたらし銀河を形成するというのです。
人はみな宇宙を創造できる創造主であり、すべてのブッダは実は同時に誕生し、過去現在未来の銀河も実は同時に造られる(時間について悟ることが重要)
生き物はみな本来全知全能であるというのです。しかも空であるということは前提で。
酒井氏はアシュテカ理論も持ち出していますが、私も感覚的には彼にかなり近いです。酒井氏は大の宗教嫌いでスキューバーダイビングに夢中のただの若者であったのにある日突然 頭と下丹田から白い煙が出て(チャクラが開いて)その瞬間に宇宙を目撃したらしいのです。
そして論文を書いてすぐ亡くなられた様なのですが、彼の論文が本当かどうかは自分が自分と宇宙との関係を悟った時にわかるはずなので、というかたぶん真理はひとつで皆共通するとは思いますが、私はお坊さん達にももっと仏教と科学、宇宙について積極的に論じて欲しいと願っております。
「無記」はそろそろ解禁しても良いのでは?
最近は植田雅俊氏翻訳の法華経にはブラックホールという言葉が登場しているらしいですが、
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」も酒井氏の感覚に近い気が致しました。
酒井氏が「栄光なき天才」で終わるのか、また和尚様が科学や宇宙論をふまえた上で、もう1度法華経について論じては下さらないのか…
是非、論じていただきたいです。
私も日々瞑想にはげみます。
羽生善治さんが言われるように、「才能とは、継続できる情熱である」 では、その情熱がライフワークのように、継続させるエネルギーは、何処から来るのか?
老荘的?生き様を身上としつつも老荘的、釈尊的思考を必然的に採らざるを得なくなります。