その1
「幸福感がないんですが、どうしたらよいでしょうか?」
「簡単な方法があります。『あの人たちと比べれば、自分なんか幸せなほうだ』と思うことです」
「なるほど。実に最悪の方法ですな」
その2
「幸せな時は短く、不幸な時は長い。なぜですか?」
「逆なら話になりませんよ。幸せな時間が長くなれば、誰もそれを幸せだとは思わないし、不幸が短ければ、それは娯楽と変わらんでしょう」
その3
「幸せになりたいんです。どうしたらなれるか、教えて下さい」
「それは金儲けの仕方を他人に質問するのと同じです。他人が教える方法は、すべて役に立ちません」
「そんなあ・・・」
「ひとつ、考えがあります。不幸にも、そして幸福にも耐え切る手段を身につけることです」
その4
「幸せって何ですかね?」
「答えるのは無意味でしょう。むしろ、どうして人は幸と不幸を分けたがるのか考えたほうがよいと思います」
「どうしてですか?」
「生まれてきた理由がわからないからでしょう」
お知らせ:私も一文を寄稿している、東日本大震災についてのエッセイ集『復興の精神』が新潮新書から発売になりました。
無常でしょうか。
一朝一夕には身につかないと思います。
では、その存在とやらを如何に考えられるか?
在るとするものであっても単なる時空次第のこと。
諸行無常と縁起を如何に考え自身の人生に役立て生き様に反映させられるか?
浅野さん。そうだねえ。一朝一夕には身につかないだろうね。でもねえ。何かに一心?無心?に取り組み続けてみる。1日8時間労働なんてことは考えないで先ずは、3ヶ月。そして、1年、3年、30年、57年人間やっていると幸せか、不幸かを問わないで生きられる私がいることも事実です。
自分で出来そうなことを自分ではじめてもいいけれど、これはと思える人のところ行きお金は要りませんから3ヶ月だけでも仕事をさせてくださいと頭を下げ礼を尽くしお願いして、精一杯頑張ってみなよ。考えるより、やってみなよ。釈尊の教えに習ってみなよ。以上、私流世渡りでした。役に立たないねえ。 ごめんなさいよ。
そうなんです。無我ですね。何かに向けて焦点を絞って取り組むと、空虚というか、その他のことが棚上げになってしまい、生の強度も上がらない一方だと思います。選択し続けなければならない。
南さんが仰った、「大志を抱け」が嫌いのがそれですね。主体性(意志)が必要だと思います。
私は最近何か実感できるような何かを掴んできたような気がします。
これはと思う人ですか。んー、どうでしょう。
お金がまず必要でもあるんですけど。
私はですね。何かに一心?無心?に取り組んでみると書いているけれども「無我」なんて思ってないよ。私は、バリバリ?の我流でこれからも生きていくと思うよ。これはと思う人もお金もなくてもいいと思うよ。第1段階として、仕事が必要なら門をたたき礼を尽くしてお話をしてみる。仮にも3ヶ月間無報酬の5箇所(15ヶ月)で精一杯何かに取り組むことが出来たならば今の浅野さんとは違ってくると思うよ。 (あくまでも私流の考えですよ。)
方丈さんは、衣食住の提供はあっても20年近く永平寺で修行されていることは知っているよね。
理屈捏ねて日々過ごすか?何かに、精一杯取り組んで生きるかで今後の浅野さんが違ってくると思うよ。
それとね。表題と異なるうえに私物化は駄目だから本件に関するコメントはこれで終わりとさせていただきますね。悪しからず、ご了承くださいね。
ある日、突然・・障害児になってしまった・・・。
真っ暗な闇の中に突き落とされて 何一つの光さえも見えなくなった瞬間でした・・
「あなたは選ばれて 障害のある子を授かったのだ」と言われた言葉は・・さらに私を追い詰めていき、「あなたの血統の遺伝か?」と責められて(全く遺伝などはありませんが)子供と一緒に死のうと思うまで追い詰められて行きました。
いまは 子供の人生の為に一生懸命に教育をして、私達がこの世を去らねばならない「時」がきたときに、人に愛される子に育つように、障害のある子供でも 一通りの知恵をつけて上げられるようにと一生懸命に教育を続けています。
行政の制度も 法律も 医療にも 働きかけをして制度を良い方向に導く助言はしてきたと思います。
子どもに教えながら、私自身が成長をさせてもらいました。子どもと手をつないで道を歩いています。
苦しいことは山のようにあるし、それがまるで地獄の針山のように感じることは何度もありましたし、これからもあるかもしれません・・・
でも、荒野の中に 小さな一輪の花を見つけたとき、光のありがたさと慈しみを感じます。
上手くはいえませんが、幸せというのは 自らの心のありかたで 感じる物ではないでしょうか・・・。
不快ですかね?
理屈を考えずに生きてきましたので、理屈をごねくりまわしている近頃です。我慢抑圧で生きてきました。なのでその反動で外に吐露するようになりました。
はてなさん、どもです。
何か満たさなければならない条件があって、その条件が満たされない場合を不幸せと呼び、それに対して拒否感を持つ。拒否感とはすなわち苦痛ですから、その感覚は先鋭化されます。
幸せを感じる条件はそれとは関係がありません。不幸と幸福は対立しているわけではないからです。
そう考えるなら、不幸せを感じる条件を満たしつつ、幸福を感じる条件を満たすことも十分あり得ます。また、幸せであるはず(幸せの十分条件を満たしている)なのに、幸福感を感じないことも当然です。
故に、幸せになりたいというのであれば、不幸に対する感受性を鈍化し、幸せに対する感覚を鋭敏化すれば良いのですから、
1)不幸を甘受して拒否することをやめること
2)小さな幸せを大切にすること
この2つを実践すれば良いのではないでしょうか。可能かどうかはまた別の話ですが。
初めてコメントさせていただきます。m(__)m
四年前に、初めて恐山に赴き、こんなにも穏やかな所があるのだな~と、感動し、それからというもの、毎年の大祭を楽しみにしています。(^^)
何ヵ所もある○○地獄を歩いて辿り着く、極楽浜である宇曾利湖。
人生も生き地獄のように感じられた時もあったけれど、それを越えると、この極楽浜のような美しい湖を眺められるものだと、むつの大地、宇曾利山・恐山に教えていただきましたm(__)m
私の中では、恐山は、畏れ入り伏す山、畏れ多い山であります。m(__)m
さて、お聞きしたいのですが、あるテレビ番組で『辿ってきた人生を生きている間に振り返り、内観することを仏教用語で○○○○と言う』と聞いたのですが、知らない言葉で難しい漢字だったので、覚えられませんでした。
もし、宜しければ、その仏教用語を教えていただきたいのです。
宜しくお願いします。
m(__)m
幸福感はアタマで得ようとしてもね、相対的なものですから。座禅をすすめるのは身体から来る幸福感があるんでしょうね、足は痛いけれど理屈じゃないなにかジワジワと来るような。よくわかりませんが。