元「スケ番」、その後紆余曲折の果て、この春から看護師として出発した女の子との会話。
彼女「方丈さんさぁ、『普通』って大変なんだねえ。私、やっとわかってきたよ」
私「そう。そう思う?」
「朝チャント起きて、チャント仕事に行って、帰ってきて寝る。それでチャント三度ご飯食べる。大変だよ。みんな偉いよねえ。私がムチャしてたころ、他の人はみんなこんな大変なことしてたんだね」
「でも、君もあの頃、やらずにはいられなくて、一生懸命『不良』してたんだろ? 楽しいばかりでやっていたわけではあるまいに」
「うん。それはそうなんだけどさあ・・・・。でも、やっぱり、偉いよ」
「身にしみてわかった?」
「ホント、身にしみた。それがわかるのに、こんなに回り道して、ばかみたい。やんなっちゃう」
「でもね、君みたいに『普通』の意味がわかる人はそんなにいないさ。とても大事なことだと思うよ」
「またあ、変な慰め方するう」
「違う。共感してるの」
こういう会話ができるとき、坊さんやっていてよかったなと、ちょっと思うわけです。
追記:次回「仏教・私流」は6月16日(火)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて行います。
畳一枚
静岡県なら袋井市の可睡斎はいかがでしょうか。
中部地方においでの際にはご検討くださいますようお願いいたします。
おっしゃってましたが・・・私の場合、昔は辛かったけれど今は楽しくて楽しくて。
女手ひとつで育てた(私の独断と偏見で)
32歳・35歳、二人の娘達はもう一人立ちできてるはずだし。親行はおり、
長い事やりたかった勉強を今できることが嬉しくて。
嬉々として赤坂に伺っております。
私にとっての普通が、ある人にとってはフツーではなくて、大多数の人がフツーじゃないよ、と言い切ってしまうことが、、その人にとっては普通だということがあります。
たまたま私はその大多数の中で生活してきているから、その価値基準でものを言ったりするけれど。
時にそれを、そうでない人に強いるのは、傲慢さを振り回しつつ、否が相手にあると信じ切って気づかない、そんな風に感じることがあります。
自分が普通だと、正しいと思っているから、そうでない人に腹が立つ。それって本当にフツーなの?
今、自分の目の前にいる人が信頼できる人なのかどうか、秘密を話してもいい人なのかどうか、心に深い苦しさや悲しさを抱えた人はそれを直感で見抜くものだということをその時知りました。人は自分の人生の深さでしかものごとを理解できないのだと思います。直哉さんが僧侶だからというのではなく、直哉さんの人生の深さがこの会話が成立させたように感じます。
そう感じさせるような会話、
そういう会話に、すごい遠いよね。。
昔やんちゃをしていた人に『楽しいからやってたんでしょ。親や先生のせいにしちゃだめだよ。』と言った事がありました。
自分の目線でしか物事を捉えられない私の罪。
やらずにはいられなくて、一生懸命『不良』してたんだろ…やらずにはいられなくて…心が痛みました。どうして自分はそんな風に考える事ができなかったのだろう。
そんな風に考えられる様に、人間をやり直せるだろうか。
自分とはまったく違う人生、人間関係、心。それでも
『共感できる』…そんな心を持てる人間になりたいです。でも、今の自分はそんな心からは遠くはなれた人間です。情けないです。
否定しない事の大切さ。
ただ受け入れるという事。
認める事。
簡単なようで不可能に近いほど難しい事だと思います。
『共感』
ふと仏教ってこういう事かなって思ったりしました。
ちなみに私の家は浄土真宗でございますが、異端とおっしゃっていたご意見もわたしの中では今まで悶々としていた檀家と信仰の狭間や親鸞観を埋めさせていただいた気がしております。
さて、今回のブログもそうなんでしょうね。なんでもある意味100%やれた?やった方は思いつくのも早いのでしょうね。20代前半に転職で一時無職なったとき、中坊でやんちゃしていた友人に「だめだよ
~いい大人になって無職じゃ」と諭されました〈笑)
過去でも未来でもなく今に生きている人の重き言葉で感動したの覚えています。
オーバーラップしたので書きこみました。次月も楽しみにしています。失礼します。