恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

黄身と白身

2009年05月31日 | インポート

 先日、また一つ対談本が出ました。今回はスリランカから来日され、いま多くの人の帰依を受けている、テーラワーダ仏教(上座部仏教)の長老、スマナサーラ師とお話させていただきました。

 私としては昔から聞きたかったことが聞けて、大変ありがたい対談だったのですが、その最中、何よりも強烈な印象を受けたのは、実は対談の内容ではなく、目の前の長老から滲み出る、深い孤独の影でした。

 それを私が最初に感じたのは、対談初日に信者の方々の集まりに出席し、作法にのっとった食事の供養を受けた時です。そこには、信者の方々が手作りした、私にはスリランカ風に見える食材と味付けの料理が、沢山並べられていました。それを、私は長老のお弟子さんや日本で活動しているスリランカの僧侶の方と一緒にいただいたのです。

 ところが、肝心の長老が召し上がりません。給仕役を務め、あとは傍らで見守るように立っておられました。私は申し訳ないような気持ちがして、つい言ってしまいました。

「長老は、召し上がらないのですか?」

「ええ、私は食べません。それは私の食べるものとは違うのです」

 この食事の直後に、長老が体調を崩していたことを知ったので、あるいは召し上がらなかった主な原因は、そちらの方だったかもしれません。が、私の質問への答えは、あくまで「私の食べるものとは違う」ということだったのです。

 いま察するに、長老の答えは「自分が食べなれているスリランカの料理とは一見似ているが違う」という意味なのでしょう。そして「一見似ている」からこそ「食べられない」ということなのではないでしょうか。

 私はここに、まったく歴史と文化の異なる場所に、ある宗教的実践を伝道する困難が象徴的に現れていると思いました。

 思想的理念や言説、つまり言語化可能な部分は、解決すべき多くの誤解を孕みながらも、伝える側と伝えられる側の間に、ある程度、共通の了解を得ることができます。

 ところが、宗教の場合、思想的言説のリアリティを基礎付け、担保しているのは日常の実践であり、生活そのものです。だとすると、この部分には、実践する者が具体的に生きている場の有り様、つまり文化や歴史、民族性などが強く浸透します。

 すると、ある宗教指導者が、民族や歴史、文化を越えて伝道しようとすると、彼の内部に、ほとんど埋めがたい断絶が意識されることになります。そして指導者が優秀で誠実であればあるほど、この断絶に敏感で、ために悩み疲弊するでしょう。私は長老の「違う」の一言に、その断絶を感じたのです。

 1950年代に単身アメリカに渡り、禅の教えを伝えた第一世代の禅僧を、私は数人知っていますが、彼らの苦しさもまさにそこにありました。

「典座(てんぞ・禅寺の食事係)がよい修行になるといくら言ってもねえ。こっちの人間は本当にはわかっていないと思うねえ。日本人なら、感覚的にわかるはずだけどねえ」

 しかし、この老師はけっして「日本流」のやり方を変えませんでした。いま、彼らにわからなくてもよい。矛盾を感じ、苦悩しながら、「日本流」を妥協することなく真剣に学んだ者だけが、断絶を糧とし、それを乗り越えて、彼ら自身の生活や文化に根付く「アメリカの禅」を創造するだろう、それが老師の結論でした。

 ある別の指導者が言いました。

「最初から白身の無い黄身はない。白身ごと卵を掴まぬ限り、黄身は得られない」

 スマナサーラ長老のまさに身を削る努力に応えるとしたら、学ぶ者も白身ごと卵を掴む志を持たねばならないのでしょう。

追記: 次回「仏教・私流」は6月16日(火)午後6時半より、東京・赤坂の豊川稲荷別院にて行います。


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7 コメント

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そうでしたか、この本の裏話にはそのようなことが... (たか)
2009-05-31 21:10:18
そうでしたか、この本の裏話にはそのようなことがありましたか、たまたまだったのですが、書店で見つけて早速読破・・・というより中身にも引きづり込まれました。

さて、以前私もゴーダミー精舎にお伺いしたことがあり、長老の御本と御本人の私が知りえた印象のギャップを感じたことがありました。

今回この対談本とこのブログでなんとなくですが、ギャップが埋まった気がします。

ちなみに本の内容も今までの出家されている方々の対談本とは一味違う気がしましたが、ピリリとなんともいい難いですが・・・またひとつ謝辞
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間の抜けたコメントで失礼します。 (ひょうたん屋)
2009-06-01 15:02:09
間の抜けたコメントで失礼します。

いや~・・。やっぱりネ・・・。ずーと考えてきたけど人生の意味?答え、ないですよね。生きていること自体が禅問答みたいなものですね。
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南さま、 (makouta)
2009-06-02 02:38:34
南さま、

お元気でいらっしゃいますか。
この孤独、わたしは日々感じながら生きています。
どこにいても、孤独。
日本にいてもアメリカにいてもアフリカにいてもヨーロッパにいても。
こんなわたしに誰がした?と呪いたくなりますが、気付けば長くなってきた人生をあちこちの国で過ごし、いろいろな文化の習慣を身につけてしまい、結果的に無国籍になってしまったわたしを理解するひとはほとんどいません。
百億光年の孤独~~~!と、ときどきお風呂のなかでひっくり返ることもあります。

ところで、前回の講義、日程を間違えてしまい違う日に行ってしまう、というスカをやってしまいました。
行ってみたら、誰もいない暗い境内に風がぴゅ~ぴゅ~吹いていました(笑)。
次回の日程を書いてくださってありがとうございます。
これで間違えません。(スケジュール帳に今書き込みました。)
けれど6月17日は、大切な仕事の前日で伺えるかどうか・・。
けれど、伺えるようでしたら是非伺いたいです。
直哉さんの言葉を聞くことは、わたしの孤独が埋まる数少ない機会なのです。

お元気で。

with gratitude and love,

makouta
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びっくり致しました! (カントン)
2009-06-03 00:02:27
びっくり致しました!

かの、スマナサーラ長老と対談されたのですか。
私が初めて仏教の本を購入しまのが、長老のアビダンマ講義シリーズ「ブッタの実践心理学」でした。

朝日カルチャーで長老の公開講座を体験した時、長老の優しい物腰の中に厳しさを秘めておられる印象
がありました。学僧として真理を探究しつつ自身がそれを実践してゆく。これは厳しいことだと思いました。玄侑宗久氏との対談「仏弟子の世間話」でも、
「空即是色は間違いです」とお二人の言い合いが面白かった。     
南院代との対談はどうなっているのでしょうか。
これから読むのが楽しみです。

もうひとつ、びっくりしたと言えば
先日朝日カルチャーで、南院代の講座をはじめて聞いたのですが落語家が漫談をやっている様で目が点になり、そのうち笑い過ぎて皺が増える心配をするしまつでした。
人生は気分転換の連続だ、と思って来ましたが、気分転換を続けなければ私の人生がなりたたなかっただけのこと。そろそろ南院代の言われる「覚悟を決める」時なのでしょうか。

学問だけの言葉は右から左へと流れてゆくことがありますが、身体を通して出た言葉は胸に響く。
私は僧侶の方々は、学問と実践の両方で我々の道を照らして下さるのではないかと思います。

さて、「出家の覚悟」を読むことにいたしましょう。
ああ、楽しみだなあ。
楽しみがあるって、いいなあ。
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今、アメリカ人の神父と意見の衝突。帰ってきてこ... (phillip)
2009-06-03 09:42:44
今、アメリカ人の神父と意見の衝突。帰ってきてこのブログをあけると、南氏のありがたいおことば。

(矛盾を感じ、苦悩しながら)
(断絶を糧とし、それを超えて)

無国籍だからこそ、見えてくるものはある。
文化の色を超えた色・無色透明な国を超えた色。

だけど、それを知る人はすくないし、そこから望む平和への思いは貴重。

理解されたいから、理解しようとするその力学がすこしずつ、社会をゆさぶるのではないかと思います。

「純粋」に近づいたものだけにゆるされる(孤独)もあるのかもしれません。





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「陸海空」さん、すみません! いただいたコメン... (院代)
2009-06-07 07:41:53
「陸海空」さん、すみません! いただいたコメントを誤って削除してしまいました。ごめんなさい。
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いえいえ別に大した書き込みではないので。 (陸海空)
2009-06-07 12:34:43
いえいえ別に大した書き込みではないので。

それよりも直接レスを頂いたことを
本当に光栄に思っています(笑)
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