アメリカ発の金融恐慌以来、日本でも急速に経済状況が悪化しているという報道が続いています。様々にご苦労されている方が増えているのでしょうが、中でも最近、私が「まずいなあ」という感を深くしたのは、就職が内定した学生の方が、少なからずその内定を取り消されているということです。
私が何より胸を衝かれたのは、内定を取り消された学生さんがインタビューに答えて、本当に働きたいと思っていた会社だったと言ったあと、
「怒りを感じるというより、悲しいです」
と漏らしたときです。
一方的に相手が悪いと思えば、人は怒るでしょう。しかし、そうでなければ、相手にもやむおえない事情があっただろうと少しでも思うなら、自分が負ったダメージをすべて相手のせいにはできません。となれば、そういう自分を悲しむしかなくなります。
確かに、内定を取り消した会社も、そうしたかったわけではありますまい。どうしようもない選択だったかもしれません。ですが、この行為は、一人の学生の悲運にとどまらず、一会社の責任を超えて、社会的に大きなダメージを与えることにつながるのではないでしょうか。つまり、若者の社会に対する信頼、彼が今まさに参加しようとしている世界に対する信頼を根本的に破壊してしまうように思うのです。
これは経済的な不況とは次元が違います。不況を理由にこういうことが頻繁に行われ、それが当たり前とは言わぬまでも、社会的に許容される手段として蔓延するなら、これは人間の人間に対する信頼そのものを不況にしかねません。それは共同体内存在としての人間のあり方を不可能にするでしょう。
市場経済が単なる経済体制であることを超え、一種の社会秩序にまで成り上がれば、要は利害・損得が人間関係を仕切ることになります。となれば、事は損得ですから、最終的に人々を分断し、得するように振舞えた人が「正しく」、より大きく利益を得た人が「偉い」人になるでしょう。そこでは、信頼はせいぜい取引上の道具に過ぎず、損得に従属することに甘んじて、場合によっては邪魔にさえなるでしょう。
しかし、共同体とはそのような秩序において成立するものではありません。共同体とは、単なる集団のことではないのです。自己が原理的に他者を必要とする人間の存在様式そのものです。損得以前の問題であり、人間は共同体においてしか人間でありえず、自己は自己になりえないのです。
このとき、共同体を維持し続けるためには、人間相互の信頼が不可欠かつ根源的に要請されます。ならば、たとえ大きな利益をあげなくても、めざましい業績を示せなくても、この社会における信頼の強化や修復に努力する人々の価値を、我々は深く認めなければならないでしょう。
それは何もむずかしいことではありません。まずは、目立たないけれど共同体に必要な仕事をまじめにコツコツ積み上げる努力、面倒が起こりがちな人と人の間柄を地道に取り持つ労、これらを担う人々を大切な社会的財産として評価し、我々が彼らを守る意志と行動を示すことです。そして私たちは、言われるまでもない当たり前の話を、あえてもう一度確認すべきでしょう。
「金をもうけるのはもちろん悪いことではない。しかし、それは人間の価値を決めない」
そして、僭越ながら、私が仏教者として付け加えるなら、こう言いたい。
「人間の価値を決めるのは、他者に対する態度と振舞い方である」
学生自身の痛みも、学生の痛みなのか、直裁さんの痛みなのか。自分と相手に分け得ない、同じ痛みですね。
だとすれば、必ずお金を大量に持っている人がどこかにいるはずです。お金を失った投資銀行や、サブプライム問題の波及で、金融パニックが起き、そのしわ寄せが一方的にお金を持たない派遣労働者や賃金労働者に来るのはやはりおかしい。本来なら持てる人から持たない人にお金を流通するのが正しい対策のはずです。
結局政府が何兆円もの対策をするのは、あとあと税金として国民から徴収されるものだし、世の中のお金の総量も増えることになり、お金の総量が増えれば、相対的にモノが安くあるので、デフレの危険性が増えるわけです。
誰かが、かなりのお金を持っているはずです。なぜそれをつきとめようとしないのか。深い理由がありそうですね。