恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

死をめざして生きる

2020年01月20日 | 日記
 仏教のまとまった戒律として最も古い「パーリ律」を見ると、殺人について次のように述べています(「人体戒」)。

「いずれの比丘であっても、故意に人体の生命を奪うならば、あるいはそのために殺害の道具を持つ者を求め、あるいは死の美を賛嘆し、あるいは死を勧めて、『ああ、君よ、この悪しく苦しい生は、あなたにとって何の役にたつのか。死はあなたにとって生に勝るだろう』と言い、そのように思い、そのように決心して、いろいろな方法で死を賛美し、あるいは死を勧めるなら、これは波羅夷罪であって、(これを犯す者は)共に僧団に住むべきではない」

 条文解釈の部分では、「人体」に胎児が含まれています。「波羅夷罪」は教団追放になる仏教の最重罪を言います。
 
 これを一読すると、殺人、殺人教唆、堕胎の実施、自殺教唆が禁止されていることは、すぐにわかるでしょう。安楽死や尊厳死が許容されるかどうかは微妙なところでしょうが、少なくとも積極的に肯定しているようには思えません。

 条文には自死の禁止が明文では見られませんが、殺人に自死が含まれていることは、戒律制定の機縁の話からして当然でしょう。それは次のようなものです。

 釈尊が弟子たちに不浄観という修行を勧めます。この修行は、死体が腐敗していく様子をつぶさに観察して、自らの欲望を克服し、その虚しさを悟る、というものです。
 釈尊の留守中、弟子たちは非常に熱心にこの修行をした結果、わが身を嫌悪して自死したり、お互いに殺しあったり、依頼して殺してもらうような者が続出したのです。帰ってきた釈尊は、この惨状を目の当たりにして、戒を定めたというわけです。

 もう一つの制定理由は、ある修行僧たちが、病床にある在家信者の美しい妻を奪おうとして、死を賛美して信者に自死を勧めるという、とんでもない非行があったからです。

 いずれにしろ、この戒においては、他殺と自死の教唆は明文の禁止、自死については、戒制定の機縁話からして、「故意に人体の生命を奪う」行為に含まれ、禁止でしょう。

 ところが、初期経典には、修行僧の自死を釈尊が肯定的に評価するものが出てきます。いずれも釈尊の弟子で、チャンナ、ゴーディカ、ヴァッカリのケースです。

 このうち、チャンナとヴァッカリは重篤の病苦から、ゴーディカはどんなに修行に励んでも解脱できないことに絶望して、自死してしまいます。

 そのとき、釈尊は3人の自死をこう評価します。
 チャンナについては「非難されるべきことなく」自死したのだと述べ、ゴーディカは「やすらぎに帰した」「ニルヴァーナに入った」「妄執を、根こそぎえぐり出して」「完全に消え失せた」とされます。ヴァッカリももまた、「パリニッパーナしたのだよ」と語られています。

 これら初期経典の評価は、どう考えてもパーリ律の条文と矛盾するでしょう。そこには明らかに「揺れ」、ないしは「ブレ」があるのです。

 しかし、私はこの「揺れ」「ブレ」はあって当たり前だと思います。と言うよりむしろ、ここにこそ仏教の思想的なユニークさを見ます。

 仏教の究極の目的はニルヴァーナです。これについては、すでに何度も言及したように、どのような状態を言うのか、経典に一切具体的な記述がありません。とにかく、経典からわかるのは、少なくとも外形的には、あるいはブッダ以外の者にとっては、ニルヴァーナとは「ブッダの死」なのだということです。

 すると、ブッダとは「死をめざして生きる」者ということになります。換言すれば、自己の存在が死によって意味を持つような生き方をする者、です。

 その死によってのみ肯定される生。このような桁外れなアイデアは、およそ仏教以外の宗教や思想には見られません。私はここにこそ、「自己」という様式を持つ実存を凝視する、深く透徹した眼差しを感じます。
 

 

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323 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (福神漬)
2020-01-20 00:10:37
新年早々にこそ、このような重いテーマを扱うことに、意味があるのでしょう。
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Unknown (いったんもめん)
2020-01-20 00:25:54
この重い話に「仏教のユニークさをみる」のは南さんだけではなくて、一般的な話なのでしょうか?
不眠症の私が更に眠れなくなりますねー。
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Unknown (Unknown)
2020-01-20 00:46:03
一般的でないところが、仏教とも言えるのかもしれませんね。猛毒性が強い箇所もあるようですし、大体にして寝る前に読むようなブログではないので、不眠症の人には、体調がよい朝方が宜しいかと思いますね。



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Unknown (Unknown)
2020-01-20 01:00:15
そのような揺れやブレは、ブッダご自身への待機説法でもあったかのようですよね。

ブッダは神格化されやすい存在ですが、神様でも超人でもないということですよね。

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Unknown (Unknown)
2020-01-20 01:01:07
う~む、
仏教のユニークさ????
それとも
南さんのユニークさ????
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Unknown (Unknown)
2020-01-20 01:09:47
ある仏教者は
「釈迦の教えは【いい気分】」と読み取り、

また仏教は十牛図第9図・第10図だともいう。

道元さんの教えは十牛図よりさらに素晴らしい教えだという人も居る。

どっちみち涅槃なんてわからないのだから
現世での【寂静】もとめて心は透明。
死がどうとらこうとら気にしない。
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Unknown (Unknown)
2020-01-20 01:42:26
>自己の存在が死によって意味を持つ・・・

釈迦にとって、
当たり前と言えば当たり前の話・・・かと。

なぜなら当時の思想として、
輪廻循環による苦の連鎖が、
今、今世に於いて悟りを開いて置けば・・・、
自分の死後には輪廻そのものから抜け出せる・・・
即ち苦からの永遠不変の脱出だ、
という訳でしょうから。

でも輪廻の存在を否定する仏教者にとっては、
「仏教者として今をどう生きるか」というテーマしか残らない。
死によって新しく生まれるモノなど何もない。

さて、
実存の根拠と価値と意味は何処にある??
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Unknown (Unknown)
2020-01-20 01:56:58
すこしく自己撞着がある。

死によって永遠のゼロという事に成れば、

無根拠で無価値で無意味な実存で
悩み苦しむ意味がない。

なら自死して
永遠のゼロを求めて何が悪いか?、と…

釈迦の意図した自死の禁止は、
悟ってもいない人が自死すれば、

輪廻での来る世で
君は畜生道に落ちちゃうぜ・・・
っていう脅し文句であったのかもしれない。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 02:25:19
道元さんの教えは「而今を生き切る」では無かったのでしょうか。

生きている間は「生きるをめざして生きる」

生と死は前後裁断(前後際断)

生(=而今)は生の法位、
死は死の法位!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 02:26:30
ん~ん??
鬱病の兆候なんていう事はないでしょうね??
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 02:34:08
「死をめざして生きる!!」・・・

何て云われると、
イロイロ死ぬ方法を考えちゃうよね、まったく!!

たすけて~、イエス様。
俺って虚無主義になっちゃいそ~だぜ。
返信する
死を逆算して生きる (Unknown)
2020-01-20 03:24:37
家の家系としてはワタシは65歳で死ぬ予定である。
あと4年しかない。
では4年の間に、
私流正法眼蔵現代語訳本を完成させたい。
え~と、全部で87巻だから
毎年22巻ずつ完成させなければならんよな~。
月にほぼ2巻ずつだな~。

う~む、
それと講演会と法話会と坐禅会と、檀家めぐりと、他の著作と、家族の世話と、弟子の面倒見・・・

う~む、ブログで油売ってる暇ね~かな~??

和尚さんも色々お悩み事が多いいですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 03:31:29
アッ、大変だ~。
大切な法事のことを忘れておった。

まあ~なんて忙しい人生なんじゃろ。

(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪
とても充実してる我が人生バンザイじゃな
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 03:36:36
残された人生の重さを考慮して、
輝く4年をすごしませふ・・・
返信する
殺人は罪である。「縁起の生起」に任せる。 (イエスちゃん)
2020-01-20 03:57:11
「有性」生物に進化したので「死」が生まれた。
「子孫」を育てると、その「親」は死ぬ。
ここでは「死」は悪ではない。
「その役目」を完全に達成したのである。

もしも親が不死ならば、この地球は飽和状態だったであろうから。

(親は「極楽浄土」に行かない!「天国」「神の国」にも行かない)

「無性」生物の「アメーバ」には「死」がない!
元の「単細胞」が永久に生き続け、「細胞」分裂をし続ける!

だから「死」は「敗北」ではない。

「死」は「完成」「エンド」「達成・目的」である。
「死」は昔話の「めでたし、めでたし」「エンディング」である。

「死」と戦う必要はない!
「アンチ・エイジング」は「非仏教」である。

「生きている」を自然のままに任せる。
「縁起の生起」に任せる。

「自己」を虚構するから「自死」を起こし、「他死」を起こす。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 07:35:57
門松は冥土の旅の一里塚

だっけ?

めでたくもありめでたくもなし

らしいよ。
返信する
三題噺「自死」「いのちより大切なもの」「世界を動かす」 (イエスちゃん)
2020-01-20 08:01:38
次男と二人で、ベトナムの戦跡を巡った。

「臨済禅宗の高僧が自死」した。
公衆の前で、道路の真ん中で、ガソリンを浴びて、
焼身自殺した。
弟子達は、外国の新聞記者に事前に「重大な何か」が起こると予告しておいた。だから、その写真は世界中に報道された。

「いのちよりも大切なもの」がある事を示した。
ベトナムはフランスの植民地であり、グエン王朝はカトリックに改宗していた。
南ベトナム政府は仏教徒を弾圧していた。
それに抗議しての「焼身自殺」であった。

グエン王朝はこれを「人間バーベキュウ」と嘲笑した。
世界中から非難された。

これで「南ベトナム政府」は世界の支援から見放されて崩壊に至った。

この時に「高僧が乗って行った自動車」が、その寺院に保存されて公開されていた。
殆どの人がそれを知らずに、す通りしていく。

これが「世界を動かす力」となったのを知らずに。

この時の高僧の「自死」とは何なのだろう。

また、このお寺の奥には、歴代の高僧のお墓が、林のように樹立、ずらっと並んでいた。
「臨済正宗・第xx世○○○○」
みな漢字・漢文で書いてあるから意味は読める。

ベトナムは大乗仏教の国である。
お土産に、古道具屋で、光背の欠けた仏像を買った。800円ぐらいだったので欠けてもいいと買った。
女性店主は喜んでいた。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 09:11:44
>アメーバには死が無い・・・

って言うのは嘘じゃないですか。
どんな生物でも食べ物なるモノが無ければ死ぬんじゃないですか。

また火災などの事故にあえば死ぬわけでしょう。
無性生物・有性生物、自性生仏、関係無いでしょう。
太陽のエネルギーが無ければ、炭素・水素・酸素等がなければ全ての生ブツが死ぬ訳です。
無生のAI、ロボットだって死ぬ訳です。
全て諸行無常です、諸法無我です・・・でしょう??
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「高僧の弟子の僧侶」たちは「自殺幇助の罪」である (イエスちゃん)
2020-01-20 10:03:11
「高僧の弟子の僧侶」たちは「自殺幇助の罪」である。
「高僧」も「弟子の僧侶」も仏教徒である。
具体的には「臨済禅正宗」の信仰である。

弟子たちは、初め「自死」を止めるように説得したが、
決心が固いことから、幇助するように変わった。

要は、他人のために「自死」は許されるのか?
当時、グエン王朝によって、仏教徒が過酷な弾圧に晒されていた。

そのガソリンを浴びての自死事件の「自動車」が大切に保存され、展示されていた。
返信する
現代語訳 (Unknown)
2020-01-20 10:11:35
んんん?

死という目標が有れば元気に生きれる??
死をめざさなければ生きる気力を失う??
死ぬという事を君の趣味として生きようね??
今日もまた生きちゃった、明日こそは死ねるかな??
返信する
二者択一問題 (Unknown)
2020-01-20 10:17:43
A.釈迦は死をめざして生きたのである
B.釈迦は生に賭けて生きたのである
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コトバの掛け違い (Unknown)
2020-01-20 10:27:22
釈迦はニルバーナめざして生きたのである。

死=無
ニルバーナ=空
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よく読んで下さい! (イエスちゃん)
2020-01-20 11:18:09
「単細胞生物」は、「性」がないから、
栄養がある限り、
「自分」が「永遠に生きる」のです。

人間は、いくら栄養があっても、
「子ども」を育てると、その「親」は必ず死ぬのです。
(遺伝子で、「死ぬように、設計図に書かれ」ているのです。
生の仕組みに「狂いが」出ると、「積極的に自滅に走っていく」ようになるのです)


現在の「アメーバ」は、「それ自身」が死なないで、
「何億年もの長い間生き続けている」のです。

この原理的な違いが解りますか?
返信する
ありがとうございます (k)
2020-01-20 12:14:22
自意識過剰かもしれませんが、もしやわたくしへのご教示だったのではないかと思いました。そうであればもったいないことです。
自殺を肯定したケースは別の方もおっしゃっておられたように、苦しんで死んでしまった友人に対して、死者に鞭打つようなことをしたくなかっただけではないかと想像します。また、輪廻思想に基づけば、自殺しても生まれ変わってしまいますから意味がないので、ゴーディカに対する発言を見ると、釈迦は輪廻を信じていなかったのではないかと思います。同時に、南先生がおっしゃっておられるような、死を前提にして生き様を問うという姿勢は、他の宗教にはあまり見られない特徴であると思います。しかしながら、考えてみれば当たり前のことで、浄土思想はともかく、やがて人間は死ぬという恐れから出発し、人間存在の真実を追求し、最終的に真実を知ることによって、死を無問題化し、自らが救われ、その教えを広めることによって衆生を救おうとする展開は、一般的でないというわけではなく、仏教において基本中の基本の思想のように思います。
生意気を申しました。失礼いたします。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 12:29:28
難解なり仏教は
此岸の際の時節では、
いつでもどこでもすこしでも
問題発言花盛り

平易なり仏教は
彼岸の際の時節では
釈迦の教えはいい気分
寂静・安寧・安楽の法門
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 12:35:29
何の違いも分かりませ~ん!!
読む気すらもありません。
命は命、死は死、
命が終われば死あるのみ。
返信する
Unknown (榮久)
2020-01-20 13:41:54
神話

それは、
その共同体の出発点の物語をとることが多い。
この「物語」には、世界はなぜ存在するのか、
人間はなぜ死ぬのか、
生の理由が何であるかとかいった
問いへの答えが含まれている。

太古から人間が「生それ自身」について疑問を抱き、
その答えを求めていた。

なぜ人間は「生それ自身」につての問いを
問うような存在なのだろうか。
それは「自我」というものを持ち、
そこからフィクション(言葉として)
「意味」や「目的」を設定して
生きるような存在であること、
つまり「生それ自体」のさまざまな
疑問を抱くのが人間の存在の本質に
由来しているのであろう。

哲学の前身である「宗教」の問いを
考えると理解できることある。
返信する
さあ大変!! (Unknown)
2020-01-20 15:09:01
「死をめざして生きる」
と言われても

無常無我の時節では
生も無くて、めざすべき死もありない!!

釈迦の仏法の時節では
生もあり死も有る事は当たり前。
わざわざ、死をめざすとか言う程では無かろうに・・・
返信する
訂正 (Unknown)
2020-01-20 15:44:17
生も無くて、めざすべき死もありえない!!
返信する
Unknown (浅野)
2020-01-20 16:04:48
永遠に生きる、のはまさに生き地獄ですよね。
どうせ死ぬのになぜ生きるのか、も頭をもたげます。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 16:38:00
肯定する主体そのものが死によって無くなっているのに、
死によってのみ肯定される生って、
何でしょう?
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 18:09:44
単純に、ブッダを目指して生きる、となぜ言われないのかを考えてみる。



返信する
Unknown (大寒)
2020-01-20 18:17:05
仏教のユニークさとは、つまり絶対視しない、ということか。

返信する
Unknown (浅野)
2020-01-20 19:31:00
要するに、死を肯定的に、前向きに捉えて、生きてる自己に力を与えることではないでしょうか。
どうせ死ぬのに、、というマイナスの声は拭いきれないですが。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 21:03:33
どうせ死ぬならと、どうせ生きるならのセメギアイでしょか。

返信する
人間だもの、ブレるのはしょうがない。 (Unknown)
2020-01-20 23:18:17
皆知るべしである。
今日はA,明日はB,ブレてブレてブレまくり。

A=Bを証明したいときは
仏教典を使う、或いは聖書を使う。
(注、コーランは知らん、読んだことが無い)。
即ち、釈迦がこう言った、神がこう言った、と個人的自己主張に権威付けを図る。

A≠Bを証明したいときも、
全く同じ権威者のコトバを引用して
釈迦がこう言った、聖書にこう書いてあると主張する。

そうなのである。
仏教にしても基督教にしても
A=BとA≠Bを、同じ権威者を通して、
同時に引き出す事は可能なのである。

結局の処、人は、その時その時の自分の気分によって、どちらの論理を利用するか、
自分の嗜好的選択をしているに過ぎないのである。

人はその時その時で、
自分の思いたいことだけを思っているに過ぎないのである。

xx君よ!!
自分が正しくて相手が間違っているなどと、どうか言わないでくれ。
君は神では無いんだぜ!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 23:32:44
すべて
「今をどう生きるか」に帰着する。

「死をめざして生きる」もいいだろう。
君の自由だ。「けっこうけだらけはいだらけ」ではないか。

「而今を生き切る」。
生死裁断もいいだろう。其れが君の選択だ。

自分の意志に従って、したい事だけしていればよいのである。

アッ、しかし・・・、
他者を害するな。他者の考えを否定するな。傲慢になるな。己に対して慎み深くあれ。

(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪
ようするに「八正道」をおこなえばよいいのじゃよ!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-20 23:54:27
A;ニルバーナ=ブッダの死
B;ニルバーナ≠ブッダの死・・・

ブッダという名を使って(=権威付けして)
どちらの命題をも言い切る(主張する)事は可能であろう。

そして君は
君自身の結論を引き出したがっているだけだ。

返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 00:38:02
死をめざして生きる時は
死期を数えて生きねばならない。

残された日々をよく生きなければならない、と思うようになる。
「よく生きる」とは今は良くないと気付かせてもらうことなのだ。

そのようにして日々の心構えが出来上がる。一日一日が新たに動いて行く。

まあどちらかと言うと
死を身近に感じてる年齢層向けの
励ましの言葉のようでもある。。。
一定の忖度(そんたく)がある。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 00:43:02
立ち上がれ
散れども
吊れども
徹するのだ


返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 00:48:25
来世も
輪廻も
ルームメート
練習するのは
ロボットか
返信する
限定的正当性 (Unknown)
2020-01-21 03:41:23
ブラフマン(梵我一如ならアートマンも)は生きているが死なないと考えられている。
(xx君のアメーバ論的存在だ。)

しかし幾らブラフマンが「宇宙の根源」であると言ったって、
(=アメーバが死なないと言ったッて、)

宇宙自体もいつの日にか崩壊するだろう。
その時には全て死に絶えて、
ブラフマンも無くなり、アートマンも無くなり、アメーバも無くなり、人も無くなる。

うんうん
もはや生が無いんだから滅なども無い。
だから思考の全てがなくなるのだ。

さすれば
無常も無くなり無我も無くなる。
まどいも無く、悟りも無い、
仏も無く、衆生も無い。

つまり、道元さんの
「無常無我の時節では」と同じ現象が起きている。

うんうん、どうやら道元説では
「無我という宇宙」が有るという前提からの発想のようだ。

「宇宙そのものが無いという時節」では、という言及が欠けている。
まあ当時ではビッグバンの事を想像できなかったのだろうからしょうがないか・・・(ブラフマン宇宙観でも同じだろう)

そうしてみると
道元さんの言いたかった要点とは
「釈迦の仏法の時節では・・・生あり、滅あり、まどいあり、さとりあり、修行あり、諸仏あり、衆生あり」の
この現世での【ありのまま】のリアルの世界の方ではなかろうか。

つまり無常無我がどうたらって事じゃあねえよ・・・と同じ事かと??
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 03:55:47
此の世をどう生きるか???

死をめざして生きる!!!

A氏評・・・なんかとってもカッコいい。
Bさん評・・・やだわ、そんなブザマな事
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 03:57:01
武士道は死ぬることと憶えたり!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 04:29:34
オトコは死ぬ為に生きて居る
オンナは生を司る為に生きて来た

死をめざして生きるなんて言うのは
オトコの偉大なロマンなのである。
返信する
訂正 (Unknown)
2020-01-21 04:31:15
武士道は死ぬる事と見つけたり!!
返信する
オトコの妄想・哀しい定め (Unknown)
2020-01-21 05:02:36
俺なら好きなあの子の為に死ねるけど、
俺が死んだら
あの子が生きて行けないから
俺も生きて、
あの子の為に頑張らなくちゃあいけねえなァ~。

一方、
おオナゴさんには
まあそこまでの思い込みは無い。
想い込むほどの価値が無い。
リアルに現実的に、実践的に逞しく、
生を見つめて生き延びていく。

これこそが女性の生命原理である!!!
死をめざして生きるなんてクソくらえ!!
…まあこれが一般的女性心理ではある…(ミナミ太太がどうかは知らぬ)
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 05:17:26
うん、そ~だな~。
浮世離れした男のロマンを
オンナに押し付けるのはしんどいなァ~。

そんな自分だけ分かったつもりの
オトコの論理を押し付けて来るんなら、
男の俺だってウンザリになっちゃうよ、
ねえxx君よ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 06:33:31
理屈に優れ、鋭いカミソリの如く、
或いは鋭く尖った刀の切っ先!!
死をめざして生きる…は青い色

阿弥陀様の指の円相、
女性の深い境地は円満なるピンク色。

>この原理的な違いが解りますか??
返信する
「日本教で生きる人」には「仏教」は不要であるだけ (イエスちゃん)
2020-01-21 06:59:49
「日本教で生きる人」には「仏教」は不要であるだけ。
「世間の掟を守って「面白、楽しく」生きていれば良い」だけ。

『仏教の究極の目的はニルヴァーナです。…
ニルヴァーナとは「ブッダの死」なのだということです。
 すると、ブッダとは「死をめざして生きる」者ということになります。…
自己の存在が「死によって意味を持つ」ような生き方をする者、です』

「涅槃(ニルヴァーナ)寂静」が「仏教」です。
そして、それの基盤には、
「諸行無常」と「諸法無我」とがあります。

この「三つの印」が「仏教」です。

「日本教」は「道徳」なのです。
「世間の掟が、その根拠・内実」なのです。

「世間様の掟を守って、
面白ろ、可笑しく、楽しく、生きればよい」のです。

ここでは「仏教」は不要なのです。
縄文時代も、弥生時代も、継体天皇の時代も、
「仏教」なしで、立派に生きてきたのです。

蘇我氏が、朝鮮半島経由で、初めて「仏教」を導入したのです。
この段階でも「異国の神さま」の一人に過ぎない。
だから、日本の僧侶の最初は、女性の「尼」だった。男性の僧侶でなかった。

これは「日本では」当然である。
神様に仕えるのは「巫女さん」であり、女性であるのだから。

つまり日本人は「神さま」と考えている。
だから
「神仏習合」「本地垂迹」
「神が仏」「仏が神」なのです。

要は、日本教の人には「仏教」は不要なのです。

そして「仏教」は、当然、理解できない。
それは「非仏教」者であるから、当然である。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 07:14:28
釈迦曰く・・・

此の世には4種類の人がいる。

闇から闇に行く人
闇から光に行く人
光から闇に行く人
光から光に行く人

さてさて、
死をめざして生きる人は其の内のどれ?
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 07:22:32
闇にもがいて闇に沈む・・・
青いな~、青い青い!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 07:51:04
釈迦曰く

過ぎ去れるを追う事無かれ
未だ来ざるを想う事無かれ

過去、そは既に捨てられたり
未来、そは未だ到らざるなり

今日まさになすべき事を熱心になせ
誰が明日死のある事を知らんや

引用;
「今をどう生きるか」
愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董(しゅんとう)
h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-136.htm
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 08:03:42
マルチン ルター言
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、
今日私はリンゴの木を植える」
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「まるで仏像」のように「静かに」燃えて「死んで」いった。 (イエスちゃん)
2020-01-21 08:10:58
『すると、ブッダとは「死をめざして生きる」者ということになります。…
自己の存在が「死によって意味を持つ」ような生き方をする者、です』

「まるで仏像」のように
「静かに」燃えて
「死んで」いった。

Googleで画像検索すれば簡単に見つかりますが、
「まるで仏像」のように
「静かに」燃えて
「死んで」いった。

ガソリンの炎の奥に、
「静かに坐禅している姿」が見える。

『自己の存在が
「死によって意味を持つ」ような生き方をする者、です』

この高僧の死によって、ベトナムのグエン王朝が崩壊に向かい、
多くの人々が救われた。
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けれども、わたしたちの畑を耕さなければなりません (イエスちゃん)
2020-01-21 08:18:42

今でも時おりパングロスは、
「もし君がツンダー・テン・トロンクの城を放逐されず、数々の不幸や災厄に見舞われなければ、
今の幸福もなかったのだから、
やはりこの世のすべてが最善である事は認めざるを得ないだろう」
と議論を持ちかけるのだが、

カンディードはただこう答えるのだった。
「お説ごもっとも。
けれども、わたしたちの畑を耕さなければなりません」
(Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin)
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 08:19:14
人が「生きる」という事の本質は何か?

仏教がァ~、非仏教がァ~なんて関係ないんだよ。

仏教を知ればその本質が解る感じがする・・・仏教は利用できそうだ!!
ただそれだけ。

釈迦『彼岸に渡ったなら筏はいらぬ』
(=教えもいらぬ、仏教もいらぬ)

道元;「生死は仏家の調度なり」
(=生老病死は人生の道具立て。色々あるからかえっていいんだよ。
君よ、苦を楽しみたまえや)
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 14:40:30
死をめざして生きるとは
どんな境地にいるのでしょうか??
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違いを述べよ (Unknown)
2020-01-21 15:01:42
①.死をめざして生きる
②.死を目標として生きる
③.死者になるのをめざして生きる
④.死にたい死にたいと願って生きる
⑤.死体になる事に憧れて生きる
⑥.兎に角、死にたいんだ
⑦.死ぬ事を待っている
⑧.死が俺の全てだ
⑨、正直、俺自身を抹殺したい

他に何かありますかね??
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 15:20:52
ニルバーナをめざして生きる…は理解可能である。道理が認められる。
語る重点が寂静・安寧の境地に在る。
肯定的な人生観を含む。

死をめざして生きる…は希死念慮の響きがある。否定的・虚無的イメージを産み出す。死ぬ事によって現世の悩み・苦しみから逃れたいと言う逃避的な言葉に聞こえる。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 15:26:20
昔は死にたいと思ってた人が
仏門に入って生きる道を見つけたいと思うようになった・・・

これだと
「死をめざして生きる」何てことにならないと思うんですが・・・
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 16:09:06
仏教は
如何に生きるべきかを教えているのだと思いたい。

死については、
正しく充実した生を充分送れたから
これで人生の幕を閉じるのだ、
という意味での死の受容でありたい。

よって「死をめざして生きる」訳ではない・・・と思うのだが???
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向かって (賢坊)
2020-01-21 18:01:13
「めざして」という言葉の意味やニュアンスが発した人と受けた人とで、微妙に食い違っている。これは、前回の「悟りの境地」もそうであろう。
言葉は視覚、聴覚を使うのだが、これが味覚だとわかりやすい。他人が食べた料理に対するいわゆるタベログや食レポについて、それだけできちんと理解したり納得したりできることはほとんどない。受け止め方、感じ方は人により様々であろう。自分が同じものを食べてみると、感じがまるで違う。人は皆違うのだ。人の言葉もそうだと思う。
 歴史的事実と思われる釈迦の言葉も、それをどのように感じて、どんな言葉にして再表現するかは、人により異なるのでとてもわかりにくい。
 私としては、「めざして」というより、「向かって」という感じでしょうか。物理的には、
胎児であろうと生きている人は必ず死ぬわけだけど、体験して感じ取ることができないので、他者の死から感じ取るしか方法がない。それに現代は、それに立ち会うことが稀です。
 釈迦が弟子に課した修行は現代ではやろうとしてもできないでしょう。必ず消滅する存在として、それを前提にして、どのように生きていくかは、その人の自由ですが、普段の日常では自分が死ぬ存在であることをほとんど考えずに行動している。そんなことをずっと考えながらでは、とても生きにくいと思います。しかし、そんなこととは関係なく、意識しようがしまいが、確実に日々「向かって」いる。
 釈迦に対して興味深いところは、「いずれ必ず消滅しますが、さて、どうしますか」と人が嫌がる問いを投げかけているところです。求められているのは、言葉ではなく、行為、行動つまりは生き方だと思いますが、それは元来自由だから難しい。
 どうするか、迷いに迷って、私はもう65歳ですよ。死ぬまで、迷っている感じです。釈迦の考えを古典から推測していると、とても面白いし、飽きないですね。釈迦はめざしたのかもしれませんが、私は向かって生きている。

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使也要使なり、明也明得なり。 (イエスちゃん)
2020-01-21 19:43:40
75巻本では6巻。
仁治2年(1241)10月中旬に興聖寺にて記された。
『行仏威儀の巻』

諸仏かならず威儀を行足す、これ「行仏」なり。
「行仏」それ
報仏にあらず、化仏にあらず。
自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。
始覚本覚にあらず、性覚無覚にあらず。如是等仏、
たえて「行仏」に斉肩すること、うべからず。

しるべし、「生死」は仏道の行履なり、「生死」は仏家の調度なり。

使也要使なり、明也明得なり。
ゆゑに諸仏は. この通塞に明明なり、この要使に得得なり。

この生死の際にくらからん、たれかなんちをなんぢといはん。
たれかなんぢを了生達死漢といはん。
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Unknown (ZIP)
2020-01-21 20:05:52
人を殺さないこと、自死しないこと、いずれも
容易いとは決して思えないわけです。
正しさの前には、人命は二の次になる場合もあるわけです。
これ以上の負担を他人にかけるわけにはいかない場合だってあるわけです。
人を殺したくなったり、これ以上生きるのが耐えられないほど深く人生に関わることが、果たして出来ているのかどうかはわかりませんが、
元来仏教は仏になる為の教えなわけですから、
そういった人から卒業しなくてはならないわけです。
それ以前に、先ず自分が人としてどうなのか
ってことを考えなければ意味がないわけです。
それさえ満足に出来もしないで仏を目指すなんて事はあり得ないわけです。
絶望的に難しいことに間違いはないわけです。
一度の人生では不充分だと思わざるを得ないわけです。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 20:09:01
目指そうが向かおうが、拒否ろうが避けようが、来るものは来るし、来ないものは来ない。


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Unknown (Unknown)
2020-01-21 21:03:09
著作で否定されていた足場から、
語られているように感じる。

目指すという言葉が、目的と方法を内在しているように思うからでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 21:08:50
ZIPさん

それは、人として立派だから、仏を目指してもOKという話?

人として愚かだから、仏を目指そうとしてはダメなの?

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 21:12:51
誰もわからないことを、どう目指すのか?

妄想に頼るしかないのか?


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Unknown (Unknown)
2020-01-21 21:23:55
お釈迦さんが当時、生きながら死んだ人だったなら、その後は何を目指していたんだろうね。完全なる消滅ということ?結局、死を目指して生きたということかな。




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Unknown (Unknown)
2020-01-21 21:27:26
今回もまたナゾな文章だなぁ。

1.人体戒で他殺も自殺も殺人教唆もNGだ、と。

2.にもかかわらずある3人の修行僧について、彼らは自殺したにもかかわらず、釈迦は、責めないどころか肯定的てか賛美ぐらいな感じで話をした、と。

3.戒に背いているには違いないのに、これってどうなの?な感じだけど、その揺れ・ブレは、あって当たり前どころか仏教のユニークなとこでさぁ、と。

4.仏教の究極の目的はニルヴァーナだけど、ニルヴァーナがどんなもんだかわからないので、要するに「ブッダ以外の者にとってはブッダの死である」、と。

5.ブッダとは「死をめざして生きる」者、換言すれば、自己の存在が死によって意味を持つような生き方をする者、となる、と。

6.その死によってのみ肯定される生。このような桁外れなアイデアは、およそ仏教以外の宗教や思想には見られません。私はここにこそ、「自己」という様式を持つ実存を凝視する、深く透徹した眼差しを感じます。

1~3と4~6はどういう関係なの?
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 21:34:45
つまり、目指している内は、自分からは死なない死ねない、という自己表明か自己暗示なのでは?

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 21:41:14
そうね。
>1~3と4~6はどういう関係なの?

何を言いたいのかわからないょ。

ブレブレやユレユレの部分が、4からスパッと突き放されてる感が否めないね。

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 21:45:06
釈迦ってニルヴァーナを目指すの?
でも生きてる時から悟っちゃってるんでしょ?
そういう人だからっていうか、そういうことなので、死んだらニルヴァーナなんでしょ?ちなうの?
ニルヴァーナがなんだかわからない者にとっては、死んだ釈迦がニルヴァーナになってんのかどうなんだかもわかんないじゃん。
でも死んだって言わずに入滅したっていうんでしょ。それは死ぬ前からのお約束でしょ、ニルヴァーナがなんなのかわかんないものにとっちゃあ。

4.は、ニルヴァーナがわかんない者目線なんだよね?
でも5.は微妙にブッダの方にずれ込んでんじゃないの?
6.の、「その死によってのみ肯定される生」という桁外れなアイディア、っていうのは、それって桁外れなの?って感じ。でブッダが南さんにずれ込んでるんでしょ?

全体が無理繰りな感じで、最後は根拠なく大団円みたいな。
1~3を別の話にして、4~6をもっと詳しく書けばどうなんだろう?書きたいのが6の「桁外れなアイディア」であるところの仏教ってものであるならば。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:01:59
その3名の修行僧の死に関しては、とても懸命に励んでいたことを、釈尊が否定出来なかったからなんだと思います。

また釈尊御自身が、もし重篤の病苦や、修行に励んでも解脱出来なかったとした場合、同じような道を辿っていたかもしれない、とすると、そこにこそ、ブレやユレを感じざるを得ない、ということではないでしょうか。

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:05:41
釈迦は何かを「信じて」いたのか?
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:09:47
3名の修行僧に関しては、彼らが一生懸命やったことは否定されるべきではない、「戒に背いた」からと否定してしまっては、修行集団のモチベーション低下やら余計なごたごたやらを招くだろう、っていう現実的な配慮からじゃないかなって、私は思う。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:10:46
前の記事と関連して、
「境地=死」とするなら、

「無意味を目指して生きる」
となりますか?

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:16:58
>「戒に背いた」からと否定してしまっては、

と、釈尊は自ら「戒に背くようなマネ」をなさったことに、修行集団のモチベーション低下やら余計なごたごたやらは、招かなかったのだろうか?、それは現実的な配慮と言えるのだろうか?

それが皆に承認されていたのならば、これは釈尊の権威という他ないような?


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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:19:21
水谷豊の「相棒」ってあるじゃん?
あれで、慈悲の実現のため(日本語へん?)に即身仏になろうとする(教祖的な)人と、即身仏成就を願い見守る(信者的な)人と、特命係の関わりっていう話があった。
警察的には「自殺」「自殺幇助」になるんだねえ。だから「見過ごすわけにはいきません」みたいな。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:20:51
「釈尊の権威という他ないような?」

まったく、そうだと思います。
自分の立ち位置を把握して、やってるんだろうな、って思う。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:27:46
「生」もわからないといえば、わからないことだけども、「生」はリアルなこととして感じることはあるので、目指すべき対象とならない、あえて「わからないこと」を目指すのが、仏教ということでしょうかね。


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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:28:21
ていうか、ドラマの中の話だから簡単に「自殺」「自殺幇助」って言うけど、宗教ですって言っちゃったら、話は面倒になるのかもなあ、実は。

あ、釈迦が「自分に権威がある」と思ってたかどうかは知りません。でも、「言えば通る」とは思ってたんじゃないかなと思うし、通らないあたりは問題ないというか。
だって修行集団としては頑張る人のための集団でありたいみたいなもんじゃないですか?
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:31:14
相棒はバーチャルとはいえ、俗家ですからね。出家とは違いますよね。

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:31:52
だから、ここのコメント欄も「承認制」にしたらいいと思いますよ。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:33:34
だから、あえて1~3の説明も必要だったのかも?
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:36:30
「承認制」にすると、管理者は「自分に権威がある」となりますかね。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:39:19
俗家と出家は、って、何の話ですか?

つーか、釈迦は「悟るまで坐り続ける」っつって、悟ったからその後の話になるけど、悟らなかったら死んでたんでしょ、たぶん。
死のうと思ったわけじゃなくても、死んでもかまわないとは思ってたんじゃん?
未必の故意ってのはあったわけで、ただ結果が死に至らなかったってわけだ。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:41:17
>管理者は「自分に権威がある」と

さあ?それは知らない。
でも、南さんの言うことをまともに聞いて「自己」という様式を持つ実存を凝視する集団を形成するにはその方が現実的に有効じゃないですか?っていう。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:48:10
>だから、あえて1~3の説明も必要だったのかも?

全然わかんない。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:50:43
釈迦は悟った後に、死んでも構わないとなったとか?

「それでも生き続け坐り続けた」

釈尊がもし途中で、自死や他死するようなことがあったなら、それは仏教にならないから、最期まで根性みせた。

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:52:47
「死をめざして生きる」なんて言う
桁外れなアイデアこそが仏教の特徴だ…、
と此処の和尚さんは引っ張りたいみたいだけど、

何の事は無い、
宿主をゾンビ化して操り、宿主を自死へと追い込む戦慄の寄生虫トキソプラズマ症候群って事だね。
腸内に寄生するトキソプラズマが南さんを洗脳して死を目指させている可能性が高い。
寄生虫学者ならそう診断しかねない事案!!

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:54:49
そんな閉じた世界は崩れやすいので、有効も期限付きとなりますかね。
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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:57:34
「死をめざして生きる」

これはソノママ読むと、頭がオカシクなることですので、ご注意あそばせ下さい。

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Unknown (Unknown)
2020-01-21 22:57:42
>釈迦は悟った後に、死んでも構わないとなったとか?

いやいや、この記事によれば、自殺も他殺も殺人教唆もあかん、となったのは、修行集団形成後らしいですよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 23:02:03
だから、集団形成前というか、悟った直後または梵天様が現れる前までは。


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Unknown (Unknown)
2020-01-21 23:04:06
今回の記事に洗脳されて、
昨夜は悪妻の死をめざす生き方してる夢にうなされちゃったよ。

ああ、恐いなあ~。
今夜はどんな悪夢に金縛りになるんだろうかなァ~。
仏を殺す夢なんだろうかねェ~。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 23:04:57
まあ凡人の私的にも、もし間違って悟ったりなんかしたなら、間違いなく死んでも構わないとなりますかね。



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Unknown (Unknown)
2020-01-21 23:09:54
「仏に遭うたら仏を殺せ」
なんていう句もありますけどね。
悪妻といえども本当にヤっちゃわないで下さいね。捕まるのはアナタですからね。

ソクラテスは悪妻を賞賛していましたかね。
返信する
~~の死を目指して生きよ!! (Unknown)
2020-01-21 23:17:06
仏に逢うては仏を殺せ
父母に逢うては父母を殺せ
愚妻に逢ては愚妻を殺せ

気に食わない奴は皆殺し
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-21 23:48:50
>そんな閉じた世界は崩れやすいので、有効も期限付きとなりますかね

このブログの「インポート」のところの最初の方みると、こんな調子で書いてる人いないんだよね。
みんな丁寧なの。
今、そういう人少ないみたいだけど。
そういう、丁寧な人たちにとっては、今の状態って「閉じられてる」のかもしれないじゃんね?
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ええ? (Unknown)
2020-01-21 23:59:26
丁寧だから開けてるとでも?

社交辞令より、本音的な疑問や感想がないなら、それこそ無意味。

返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:05:22
ちがうよ。
丁寧な人たちにとっては今は違和感バリバリな状態かもしれず、それはそういう人たちにとっては「閉じられている」状態といえるかもしれないでしょ?
自分が「開かれた状態」だと思うものが、誰かにとっては「閉じられた状態」かもしれないでしょ?
だから、「そんな閉じた世界は崩れやすい」って、なんでこの状態が開かれてる状態だって言えるの?っていうことだよ。
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Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:06:21
な~んだ・・・ナルホドなっとく!!
禅僧って過激な発言が多いのが特徴なんだってね。
「俺は挑発的な言葉を使うぜ!!」ってね。

ご用心、ご用心、禅僧に乗せられない様にね。
返信する
青山さんのイメージ (Unknown)
2020-01-22 00:15:02
うんうん
同じ禅僧でも尼さんともなると
かなり円熟した優しい言葉遣いになるよね。

仏を殺せなんてとんでもハップン。
ワタクシはただひたすら仏さまに仕える身でござまする・・・とかね。
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Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:19:59
あ、そうだ。

「釈迦が死んだらニルヴァーナ」は生きてる時からのお約束だったとしても、無駄がないなーと思ったのは、死をもたらした食中毒の原因となる食事を出した人に対して。
ここで読んだんだっけ?「ニルヴァーナに入るその時をもたらした人」っていう意味を与えたんだよね?
うまい。
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Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:21:31
えー?
わたしは「コメント欄」の話をしてるんだけどね。
記事の語り口はしらん。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:29:17
大体ね、本当に丁寧な人かどうかなど、文字面だけでわかるの?

で、そのご丁寧な人達が来やすいように合わせると、その人達が入りやすいと?

というか、今が開いてるかどうかなんてことも、よくわからないことでしょ?

私的には、丁寧かどうかより内容を重視したい派だす

返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:34:15
「よわったなあ・・・、にいさん、後で来た方がよくないかい? 湯が汚れるかもしれんし・・・」

管理人さんだって、汚れてるかもしれないお風呂に入るんですよ。

丁寧な人も、そうでない人も、差別せずに入りましょうよ。

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Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:35:23
そうだよ?今が開いてるかどうかわからないんだから、承認制にしたら閉じた世界になるのかどうかもわからない、ので崩れるかどうかもわからないじゃん、て話だよ。
一応申し述べますがね。「丁寧な人たちコメント書きにくいかもね」って言ってるわたしはこういう調子だってことは考えといてね。
文面が丁寧な人たちっていうのは、南さんに対して丁寧なんだと思ってるよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:44:16
だから釈尊は、否定に価しない事柄に関しては、ウマいこと言われるのよね。
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Unknown (Unknown)
2020-01-22 00:51:06
そうかなぁ。承認制とコメント閉鎖事件と、どう違うんだろ?

少なくとも、公開コメントは誰かの意見を見て思うことなど、縁起はしているはず。1対1が希望なら、恐れ山に行けばよいこと。

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Unknown (Unknown)
2020-01-22 01:07:46
まあ、コメント欄をどうするかはコメントする側が言っててもしゃーないので、とりあえず終わっときますけど、
コメントできる人は何らかの登録をした人、みたいな感じを「承認制」と、わたしは言ってる。
なので、承認された(というのがいやなら登録済みの)人同士はコメントのやり取りができるじゃん?
登録時に何を登録するのかは知らん。
が、書き込みに対する気分的ハードルは上がるでしょ、たぶん。
そしたら、今より良くなるかもよ~?
返信する
川は「海に向かって」流れているのではない (イエスちゃん)
2020-01-22 01:17:42
川は「海に向かって」流れているのではない。

川は「目標に向かって」流れているのではない。
川は「ただただ」流れている。
川は「どうなろうか」とは考えていない。

川は「海に達して」流れが「静まる」。

「涅槃・寂静」
「ニルヴァーナ」である。

釈尊も同じである。
「死苦」に悩まされて「妻子・家族を捨てて」蒸発した。
社会から「落ちこぼれた」「ドロップアウトした」。

どうなるか、どうすればよいか、皆目わからずに、試行錯誤で修行した。

いろいろ試したが皆だめだった。
死ぬほどの「苦行」も行った。
「断食」で死ぬ直前までいった。

しかし「苦行」はしてみて、解決に成らないと知った。

「禅定」に予感して、
「乳がゆ」を摂って「体力を回復し」て、
その「禅定」に入った。

そして、
「死苦」の呪縛から解放された。

そして教えた。
「諸行は無常である」
「諸法は無我である」
「涅槃であり、すなわち、寂静である」
この3つを。

これが「仏教」である。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 01:19:55
丁寧とか、閉じてる・開いてる、承認制・承認なし・・・
一切関係ないよ。

コメの中に、刺さる言葉が出て来れば単行本に仕上げる。
それ以上でもそれ以下でもない。
此処は南さんのアンテナショップ。
お太鼓持ちコメは一切不要。
返信する
寂静より過激な言葉が好きなワタシ (Unknown)
2020-01-22 01:35:35
水は上から下に向かって流れて行くのである。
高低差と言うポテンシャルエネルギーの原則で重力移動をするのである。

偉い人の言葉が凡人に伝わっていくのと同じ原理である。

海はニルバーナでは無い。
風が吹けば、月が引っ張れば、
荒々しい怒涛となるのだ。
涅槃寂静の世界など無いのである。
返信する
みんなの見ている前でバッサリ削除するから良い (イエスちゃん)
2020-01-22 01:39:56
『だから、ここのコメント欄も「承認制」にしたら「いい」と思いますよ。』


出版もそうだが「事前検閲」はまずい。

出版後に、「或る基準で不可」ならば、「発行禁止」処分にすればよい。

つまり、当該コメントを、バッサリと、「皆の見ている」前で、「堂々と」削除する。

それで「或る基準」が少し見えてくる。

その基準に不満ならば、ここに来なければ良いだけ。

そして、一番重要なのは、
たとえ、どんなコメントであっても「一旦は」「平等に」公開されるということ。

それで十分満足ではないか。

事前検閲では、そのコメントが「なかった」ことになってしまう。

これこそがまずい。
返信する
「仏教」は、第一「不殺生戒」 (イエスちゃん)
2020-01-22 01:58:56
「仏教」は、第一「不殺生戒」である。

不殺生戒- 生き物を殺してはならない。
不偸盗戒- 他人のものを盗んではいけない。
不邪婬戒- 性行為を行ってはならない。
不妄語戒- 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒- 酒を飲んではならない。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 03:24:08
国連でのシニアは60歳以上の老人
WHOでのシニアは65歳以上の老人。

南さんはその狭間のお方(?)。
シニア、死にや(大阪弁)と勧められてるご年齢。
社会の目は南さんに「そろそろ死ね死ね」ってせかしておるで
おんたい自ら
死をめざさなくても心配御無用!!
返信する
仏教自身が成り立たぬ (Unknown)
2020-01-22 03:35:33
生き物を殺すな=他者が殺してくれたら食べてもいいぜ。

他人のモノを盗んではいけない=自分のモノなら盗んだことにならない。自他不二である。

性行為を行ってはならない=これほどの楽しみを奪って生きてる価値があるとでも

嘘をついてはいけない=方便なしでは仏教は成り立たぬ

酒を飲んではならない=嘘こけ!!酒酌み交わすは僧侶のたしなみ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 03:47:31
60過ぎて
枯れていく一方の人生って・・・

まあもったいねェ~、ソンだよね。
これからますます楽しんで、仏教でも日本教でもかまわね~から、
面白かったと言う人生の幕引きをなされませ・・・
返信する
仏教自身が成り立つために (Unknown)
2020-01-22 03:53:41
全て中庸
全て中道
過ぎず欠かせず
慎み深く生(性)を行え!!
返信する
訂正 (Unknown)
2020-01-22 04:00:00
過ぎず欠かさず
返信する
境地の無意味、クソくらえ (Unknown)
2020-01-22 04:11:16
お釈迦様の境地とは・・・
自若泰然、自由自在
そしても一つ自在変幻

天上天下唯我独尊
他者の言う事我知らぬ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 04:20:06
ミナミタンの賞味期限って何時かしら??
飽きられない様に頑張りなされませ!!

川端康成さんなんて書けなくなって
死をめざして死んでしまったしね・・・
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後期高齢者からの忠言 (Unknown)
2020-01-22 04:44:23
100歳大老の目から言わせて貰えば、
まだまだ若輩、ひよっ子の南くんよ、

いまから死をめざして生きちゃうと
年齢に甘えちゃって
緊張感無くだらけちゃうぜよ!!
この先何にもできね~ぜ!!

反骨精神が君の持ち味なんだから
いつまでも尖り、突っ張って生きて呉れたまえ。
履きやすい草履・雪駄などかなぐり捨てて
先の尖ったエナメルの黒い革靴でも履きたまえや。
返信する
補足(挑発的ご宣託) (Unknown)
2020-01-22 04:53:40
アッ、そ~だ。
たまにはダサい袈裟などかなぐり捨てて

長髪カツラで変装して、
パンク姿となって酒場に出没

シャバ(娑婆)の空気を吸うのも命の洗濯。

いい作品が書けるぜよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 05:02:22
それはそ~と、フッと思ったんだが

「死をめざして生きる」なんていうキャッチコピーは自分流のオリジナル作品なのかな?

其れとも昔の禅師からの拝借とか??
返信する
言い訳 (Unknown)
2020-01-22 05:11:02
禅僧は極端な言葉を吐くのがその特徴である・・・という定評が有るらしいので、
ワタクスもちょっぴし真似した次第で御座ります。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 05:27:02
死をめざして生きる・・・
なんてホント奇抜な発想だよなあ~。

ミイラ化現象が起きて
スジカワ骨衛門になって
脳もアメーバみたいな単細胞になるっていう
イメージが付いてくるよね。
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Unknown (Unknown)
2020-01-22 06:32:48
>死によって肯定される生

なんて実は全然、けた外れな思想なんかじゃ無いよね。

武田邦彦博士なんか言ってるよね。
人類中の半分を占めるオトコの全ては
種を播いた後は
ひたすら死によって肯定される生を生きるのだという事だよね。
戦争に駆り出され死に、企業戦士として死に、僧兵として死に、自らを焼いて死んでみせて、
国を守り、僧院を守り、企業で過労死を強いられ、イデオロギーを押し立てて・・・
それが男の基本的義務とされる。

うん、死によって肯定される生はどこにでもある、
ありふれたリアルの光景ですな。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-22 10:31:13
仏陀の死もそれと同じだと思ったら大間違いですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 10:48:32
ふむふむ!!!

ブッダの死だけは例外・・・ね。
了解しました。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 10:51:30
しかしながら
仏陀が死んだら

死後(死と同時に)、
寂静・安寧の【境地】に這入られたって言うのは
どうやって証明するのですか??
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 10:58:34
ハラリ著『サピエンス全史』

人類は虚構、言ってしまえばウソに生かされてきた・・・のです。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 11:10:40
涅槃寂静は
有余涅槃での【境地】も有ろうかと思いますが・・・、

釈迦ご自身は其れについての体験談は無口で過ごされたので、

南さんの見解としては
釈迦は35歳がピークで
その後死ぬまで、
何の楽しみも無い辛い苦しい下り坂の人生を過ごされた筈であると想定し、

無余涅槃で初めて涅槃寂静に
滅入されたのだ・・・
との見解の様に言われておられたと理解しております。

他のヒトと較べるのは大間違いとする根拠は何ですか?
簡潔に説明して下されませ??
返信する
訂正 (Unknown)
2020-01-22 11:16:37
滅入・・・・>入滅

入滅とは「生死を超えた超越の世界(境地)に移動する事」
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 11:27:14
ハラリ著『21世紀へ向けての21のレッスン』

結論。
物語りを生きるな。
自分自身を観察しろ。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-22 11:46:36
死はその人だけにしか経験できないわけですから、仏陀の死だけが例外ではないわけです。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 14:10:44
ブッダの死は、ニルバーナという例外事かと思うけどね。

>死はその人だけにしか経験できないわけですから

経験できる事のかなぁ?
というか、経験と言うと何か間違う気がする。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 14:30:52
>いまから死をめざして生きちゃうと年齢に甘えちゃって
緊張感無くだらけちゃうぜよ!!


う~ん
これ逆だと思うけどなぁ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 16:06:14
逆の人も居るかもですね。
でもどうせ死ぬつもりだから何をやっても
しょうがないとか思う可能性も高いかもですね。
あと2年の余命宣告を受けてすっかり無気力になる人も居るだろうし、
後二年を必死に生きる人も居るかもしれない。でもそう言う人は死をめざそうなどとは思っていない。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 16:53:21
今回の記事では
ニルバーナと死を同義語に取り扱っている感じが有るので、
釈迦がニルバーナ(=死)をめざして生きた(=修行した)のは事実っぽい。
何故なら生きて修行して悟ったあかつきには、
完全かつ永久的な苦の滅失が保証されると考えたから・・・、という事に成る。
それは輪廻からの完全な解脱というコンテクストに於いて成り立つ。

しかしもともと輪廻が無く、超越も無く、拠って死後の世界も存在し無い
永遠のゼロ(無)の世界での話なら、

ただ単にこの世に生きて居るのが嫌だからという理由で死をめざすしか、
死をめざす理由付けが考えられない。

とすれば人間、何もかも、どうでも良いと弛緩した人生を送る事になりがちだろう。

そんな理屈ですね。

返信する
「仏教」は「常に死に目を向けて」生きるを要求する (イエスちゃん)
2020-01-22 17:10:50
『すると、ブッダとは
「死をめざして生きる」者ということになります。換言すれば、
自己の存在が「死によって意味を持つ」ような生き方をする者、です。
 「その死によってのみ」肯定される生。
このような「桁外れなアイデア」は、およそ仏教以外の宗教や思想には見られません。私はここにこそ、
「自己」という様式を持つ実存
…を凝視する、深く「透徹した眼差し」を感じます。』

「仏教」は「常に、死に、目を向けて」生きるを要求する。

釈尊自身が、「死」を問題にして、生きて、その手本を示した。

不邪淫戒、
一人息子を「出家」させた。
更に、妻も「出家」させた。

つまり、みなが「性欲」を断った。
これが歴史的事実である。
だから、「仏教」は「他の宗教」と異なる!

「死を紛らわす」「死を忘れる」・・・
これは「俗世間そのもの」である。
つまり「日本教」である。

「日本教」信者は、「仏教」と無縁である。
ただ、それだけ。

「仏教」から「死」を抜いたら、「仏教」でなくなる。


「仏教」では「死」が本質であるように、
「キリスト教」では「罪」がその本質である。

「日本教」の日本の風土では、クリスチャンが「1%にも満たない」のは当然である。

「罪」は簡単に「水に流す国」だから。

パスカルは「罪」の体験で回心した。
その体験を記述して「服」に縫い込んで、一生涯身に付けた。

そして批判して言う。
「人々は、気晴らしに、逃げ込んでいる」と。

パスカルは、「ギャンブルの確率論」を確立したが、
他方、
人々は「ギャンブルに逃げ込ん」でいた。
自分の「罪」に目を「向けたくない」から。

パスカルの場合は
『罪をめざして生きる』であった。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 17:11:18
つまり、超越の無い、死後の世界も輪廻も無い世界観に於いては、
涅槃寂静とは生きている時体験する有余涅槃においてのみ意味が在り、
死んだ後の無余涅槃などは何の意味も無いという事に成る。

この様な世界観に於いては、
死とは無になるという意味であって、
仏教的入滅は物語りに過ぎないという事に成ってしまう。

入滅(宗教的な死)については1-22,11:16:37 に説明されています。
返信する
論理の正当性を探る!! (Unknown)
2020-01-22 21:43:56
>「仏教」は「常に死に目を向けて」生きる事を要求する・・・

何故か?

今回の記事から読み取れる南さん流の主張(論理付け)とは、
『釈迦の修行は無余涅槃、即ち入滅しなければ、即ち死ななければ完成しなかった』
と言いたいのだろうと理解致しました。

何故そう言う事に成るか?

唯一の可能な説明は、
『悟ってから死ぬ事によって、
釈迦は輪廻の苦の循環から永遠に解放されたからである』

だから修行が完結する為には釈迦は死ななければならなかったのだ。
だから釈迦としては「死をめざす」必要があったのだ!!・・・と。
ーーーーーーー

そう致しますと、
南さんの様に、輪廻の存在は認めない。
あの世とか言う超越的な存在も認めない人、
すなわち「死とは何かはわからない」とは言いながら、
他方「死後の世界」などは無いと断定している人が、

何故「死をめざして生きる」なんて言いだすのだろうか??

わからん、わからん・・・
ただの自分の希死念慮を、
仏教の衣を被せて見せたただけでは無いのか?
との疑念が湧く・・・
そう言う事ですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:02:32
今日一日
一心に「死をめざして生き」てきました。

明日も是非是非、
わき目も振らず、ただただ死だけをめざして生きて行きたいモノであります!!
返信する
死をめざす生き方として (Unknown)
2020-01-22 22:03:45
なにか、気合いを入れた方が宜しいのでしょうか。


でもどうやって?



返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:09:04
昨日起きて、死んでなかった。
今日起きても、死んでない。
明日は、死ぬだろうか。

毎日この呟きをすること!

それが目指すということだ。




返信する
訂正 (Unknown)
2020-01-22 22:16:40
X・・・論理の正当性を探る
〇・・・論理の整合性を探る
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:21:49
>それが目指すという事だ

それはため息を吐くという事だ・・・
の方がより近いかと。

乃至は
ちょっとホッとした、とか、
あ~、今日も生きちゃった・・・

という現象を言ってるだけで、
敢えて「めざしている」わけでは無い感じですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:30:33
溜め息ついても、ホッとしてもイカンのじゃ。

ただ呟くのみ。

感情いれてはイカン。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-22 22:35:39
人を殺さないということ、自死しないということを敢えて決定する意味は何かということです。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:35:57
生を全うするように死になさいってことですかね?

返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:49:22
>なにか気合を入れた方がいいのでしょうか

だからですね、
敢えて「死をめざす」という以上は、

死んだらこんないい事がある、
死にさえしたらあんないい事になる、

と、毎日心を新たかにして
死ぬ事の利点をいろいろ数えあげていけばよい訳でして・・・

まあ釈迦の場合だったら、
死とは即ち「輪廻からの解脱だ!!」って心が弾んだ訳でしょうし・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:55:07
>感情をいれてはいかん

といったって
「めざす」という以上、たくさん感情が付着してくる行為になるでしょうね。

「めざす」とは、強く決心すると言う心の作用であるでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:56:44
そうかぁ。
イイコトあるから目指すんですね!

どんなイイコトかなぁ。楽しみだなぁ。

返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:59:34
それなら、「死を覚悟して生きる」でもよくない?
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 22:59:59
@「自己」という様式を持つ実存を凝視する、深く透徹した眼差しを感じます。

大切な人を大切にすることの難しさ。死がなんだか分からないけど、みんな死にます。自己を支えてくれてる人に気づいて、言語は無明で、言語内実存だけれども、大切な人を失う前に、間違って当然だけれど、言語で伝えることが大切だと思います。
いなくなってから言っても遅い。間違ってても、そのものを正しく言い当てられない言語の宿命であっても、言わないと相手には伝わらないし、そして後悔する。

ブッダって、たぶん、諸行無常、無我で、縁起、空、全てを諦かに見た据え、実存を生きた人。
最期はこの世は甘美。苦しんだ挙げ句、甘美!いいですね!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 23:02:08
ZIPさんの言及は
何時もの様に何を言いたいのか説明不足の感がありますね。

人を殺さない為、自死しない為に「死をめざす」ってどゆこと??
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 23:14:00
>死を覚悟して生きる・・・

うんうん、とてもいいですよね。
「死をめざして生きる」なんていうと
如何にも自虐趣味に聞こえるけど、

「死を覚悟して生きる」というのは
リアルの、ありのままの世界を見据えた
諦念
プラス
それでも生きようとする強い意志
の両方が感じ取れますよね。

まさに余命宣告2年を言い渡された人が
その2年の間に、美しく花を咲かせるぞ、との意気込みと言った処でしょうか・・
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-22 23:47:40
>この世は甘美・・・

大乗仏典では釈迦は臨終の間際にそう言ったという事に成っているが・・・

小乗仏典にはそんなことは書いてない。

人がそれぞれの事情によって共感できるように、それなりの物語りを作り上げる。
そうであって欲しいと言う物語に心を打たれる。

私の理解する南さん像では、
南さんは大乗であっても、
釈迦が臨終間際、「この世は甘美だ」なんて言ったとは信じておられないだろうと感じますね。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-23 00:03:31
自分がどんなに苦しくてもしてはならないこと、
苦しまない為の最後の切札を捨てることです。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-23 00:23:08
それなら、「切り札も捨てて生きる」がわかりよい。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-23 00:36:08
仏教がユニークだったとしよう。
だからといって、そう言う人がユニークだとは限らない。
釈迦の言うことのブレがユニークだったとしよう。
だからといって、単なる支離滅裂がユニークだということにはならない。
返信する
私は父の葬儀の後、身に塩を撒き清めなかった (イエスちゃん)
2020-01-23 06:54:44
『死をめざして生きる』

これは
「死に向いて、生きる」であり、
「死を正視して、生きる」であり、
「死を厭わないで、生きる」であり、
「死を嫌悪しないで、生きる」であり、
「死を受容して、生きる」である。

私は長男であり、喪主であったが、
私は父の葬儀の後「身に塩を撒いて」清めなかった。

これの対極は「日本教」である。

「死」は「最大の穢れ」である。
「死を嫌悪する、生き方」であり、
「死から逃げる、生き方」であり、
(古事記でも、黄泉の国から逃げ帰ってきた)
「死に向き合わない、生き方」である。

だから、現在でも、「死から逃れる」ために、
葬式に参列した後には、身に塩を撒いて清める。
だから、参列者に、塩を配布している。

「死に向き合った、生き方」が、

『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には「死ぬがよく」候
これはこれ災難を「のがるる妙法」にて候』

「死を受容する、生き方」となる。
これが良寛和尚における
『死をめざして生きる』
そのものの「結論」であった。

「この良寛の手紙」で肉親の死を受容できるようになったであろう。
その手紙が今日まで残っているのだから。

なお、キリスト教の
「メメモンタリ」「死を忘れるな」は
「最後の審判を忘れるな」という事である。

神による、厳格な「罪の裁き」がある事」を
「肝に銘じて生きろ」という「生き方」である。

「日本教」における
「死」を最大の「穢れ」として、「嫌悪」して「逃げる」「生き方」とは、まったく異なる。

「仏教」の「死」は「涅槃・ニルヴァーナ」である。
決して嫌悪するものではない。

それは
「諸行無常」
「諸法無我」
であるから。
返信する
Unknown (さようならイエス様)
2020-01-23 07:21:32
自己顕示は無用です。もう老人の自慢話はウンザリです。自分のブログで垂れ流して下さいね
返信する
「日本教」は「死を隠蔽」する (イエスちゃん)
2020-01-23 07:29:33
瀬戸内寂聴は、人気がある。

それは「日本教」だから。

「死はちっとも怖くない」とテレビでしゃべっていた。

「死とは、襖を開けて、こちらの部屋から隣の間に、歩いて行くようなもの」
と教えていた。
本人はそれを完全に信じていらっしゃる。

偉大なるエロ作家「今東光」によって、
インスタント・ラーメンのように、
比叡山延暦寺で、即席に「出家」した結果である。

日本教では、「死者」は生前とまったく同じである。
同じ「考え・感情・人格」のままで、住んでいる場所だけが、
「こちら」と「あちら」とで異なっている。
こちらの間から、次の間に、移動しただけ。

お盆には、ご先祖様をお迎えする。
「生者」のように待遇する。
だから、ご先祖様の好きだったものを供えて、喜ばせる。
生きていた時と、少しも変わっていない。

ここでは「死」は不在である。
「死は無化されている」
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-23 07:32:23
「死をめざして生きる」という意味が

「死を受容して生きる」という事、

更に「生きる」という事にもっと重点を置いて「死を覚悟して生きる」という意味であるならば、

「死をめざして生きる」という言葉遣いは
いかにも仰々しい、極端な言葉を吐く特徴のある禅僧さんらしい表現法でしたね。

ただ単に『死を受容して生きる』っていってれば、
何の反論も巻き起こらなかった、ごくごく常識的な概念であるものを、
ここの和尚さんもホントに人騒がせなお方ですね。


だがしかし、
しかしながら「死を受容して生きる」っていうのは
あまりに常識的であり、

南さん言うところの、
【桁外れの…】とか【ユニーク】なとかには成り得ず、

南さんが「桁外れだ、ユニークだ」と考えている以上、
xx君の解釈は南さんの意図したところではなさそうですね。
返信する
キリスト教でも「死」は重要ではない (イエスちゃん)
2020-01-23 08:44:48
キリスト教でも「死」は重要ではない。

「死」は、単なる「通過点」でしかない。

死後、「心」「霊魂」「精神」・・・
は「永遠のいのち」となって生き続けるのだから。

最大の関心は「死」ではなく「罪」である。

自己の犯した「罪」によって、
「永遠のいのち」になれるか、なれないのかが決定されるのだから。

最後の審判において、
神の罰により、「ゲヘナ」「地獄」に送られ、「地獄の責め苦」にさいなまれることになる。

要は、
「非仏教」においては、
「死」では「終わらない」!

他方、「仏教」だけは
「死」は「涅槃・ニルヴァーナ」である。
完全なる「涅槃寂静」である。
「終わる」のである。

「仏教」だけが「死」を最大の問題・課題とする。
だから、ユニークなのである。
返信する
補足 (Unknown)
2020-01-23 08:56:32
即ち南さんが言いたかった意味は、

釈迦はまさに文字通りの
「死を【めざして】生きたのだ」ということであり、
何故ならば死ななければワタシの修行が完結しないと考えていたのである…という訳で

其れこそが仏教は
桁外れでユニークで、異様な宗教なのだ…と言うのが南さんの主張な訳であろう。

そう言う観点から言うと、xx君の「死をめざして」という翻訳はなまっちょろいのである。
返信する
補足2 (Unknown)
2020-01-23 09:21:10
「死をめざして生きる」なんていうのは、
「有余涅槃は無い」と言う視点(前提)で考えた場合に於いてのみ成り立つ思考法である。

釈迦は無余涅槃一筋に賭けて、輪廻からの完全解脱を画策し、
かつ死の時点で完成させた。
だから釈迦にとっては「死をめざして生きる」という字義通りの生き方に成ってしまったのだ。
うんうん、それはそれでよい。釈迦の自由である。


しかし現代に住む南さんは
どうせ悟りも開かないだろうし、
輪廻なんてクソくらえだし、超越なんてたわごとだ・・・との立場なんだから、

なんで南さん自身が「死をめざして生きたい」のか不可解なわけだ。
考えられる理由はただ一つ。
南さんは兎に角、死にたくて死にたくて、
何が何でも死にたいくてしょうがない境地の人だ…という事に成る。
うんうん、これなら納得がいく。
返信する
補足3 (Unknown)
2020-01-23 09:38:14
南さんの場合だと、
超越のカケラも無いのだから、
無余涅槃で【入滅】するとかいう物語りを信じる事は出来ないだろう。

さすれば南さんの深層心理は、
「この世に生きるのはうっとうしいし、心底、くたびれた。
だが、だと言って、僧侶してる関係上、自死も出来ない。
もう、自然死とか病死とか事故死という幸運に恵まれる事を願って、生き続けにゃあしゃァないなァ~!!」・・・

まあこんな感じかな。
返信する
死の受け止め方と仏教の変遷 (k)
2020-01-23 09:49:20
釈迦の仏教は正確な記録もないので本当のところどうだったかは、おそらく永遠にわからないのではないかと思いますが、仏教が日本に伝播するまでに、大まかに言って、中国文化、とくに道教と儒教の影響を強く受けていることは間違いないと思います。その最たるものが「死」に対する見方で、インド人は生きることをよほど辛いと感じるのでしょうか、死んで二度と生まれないことを望むというのですから、生に対して非常に否定的であると考えられます。一方、お金はあの世に持ってはいけないなどとわたくしたちは言いますが、中国人は死ぬとお棺にお札を入れてあの世でも楽しく暮らせるように願います。つまり、存在することを希求し、享楽的な生を追求するわけです。日本人の場合、「次生まれ変わったら何になりたい?」「猫になりたい」などというほど、何度も生まれ変わりたがります。こういう文化ではインドの輪廻思想は肌で実感できないと思います。テーラワーダのように本家本元家元元祖を主張したり、禅宗のように毎朝仏祖をたどるようなことをして正当性を強調したくなる気持ちもわかりますが、わたくしは、仏教だって変わったっていい、より肯定的な表現でいえば、進化したって良いと思っています。テーラワーダは、仏教は釈迦が完成しているから進化する必要などないというでしょうが、釈迦と言えども所詮、古代人の酋長の息子にすぎず、彼を全能の神のように扱う必要はないと思います。創業者としての敬意は払われるべきでしょうが、仏教が時代と地域に合わせて変わることに問題はないと思います。それこそが生きた仏教であると思います。そこで、現代の生物学の知見から話題提供させていただきますと、生物は死なないそうです。と申しますのも、単純な生物を考えれば一番分かり易いのですが、細胞は身を守るために「殻」を持っています。殻は劣化するのでしばしば脱ぎ捨てられます。そうやって中身の細胞は生き続けます。われわれ人間も含めて、高等な生物の肉体は実はこの殻に相当するそうです。つまり、生殖して新たな殻を作り出しているわけで、我々が死と呼ぶものは単に古くなった殻が脱ぎ捨てられることに過ぎないわけです。こうなると「本体」の概念が無意味になるわけですが(まさに諸法無我ですね)、生物の成り立ちから考えれば、死への恐怖とは、殻がいつまでも本体にしがみついていたいと思うようなばかばかしいことであることになるようです。
何かの足しになれば幸いです。
返信する
これは、ヒューマニズム? (Unknown)
2020-01-23 11:32:54
>しかし、私はこの「揺れ」「ブレ」はあって当たり前だと思います。


一方では、
仏教は「ヒューマニズムではない!」と宣言され、もう一方では、仏教を「ユニーク」とされる。

そこら辺を、どう読めばと?


切れてグレないよう、揺れてブレて、折れて枯れて、晴れて成れて、、最後にまた仏教に触れて、涙に濡れる。

返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-23 13:35:51
このような「初期仏教」もあるようです。

https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b372708.html

馬場紀寿著
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-23 13:44:06
仏教のアレを、哲学者が語るというアレ。

https://buddhismare.net/combination-of-philosophy-and-buddhism/

返信する
勝手な推測(kさんに一票) (賢坊)
2020-01-23 13:53:25
2500年前のインドの人達が思っていた輪廻思想とそれを前提にした完全消滅願望とをセットに考えれば、古来から現在の多くの日本人の思いとはまるで違うことがわかります。
輪廻からの解脱と言っても、輪廻など単なる迷信で、そんなものなどないと確信してしまえば、もはや無意味なこと。しかし、ほとんどの人が信じている輪廻を最初に否定してしまえば、誰も説法を聞かなかったでしょう。そこで釈迦は、あれやこれやとケースバイケースで指導しつつ、「そんなものなどないという確信」に至るように誘導していったのではないでしょうか。縁起説などは、そのための小道具だったのではないでしょうか。
確信に至った人が、自殺したりするのもわかるような気がします。釈迦も最初はそう考えたと言われていますから、まさに完全消滅願望が根底にありますよね。でも、思い直して、折角もらった生なので、自然に死ぬまでの間、何かをしようと思い立ったのでしょう。他人の解脱を手助けしてやろうということを選択したことで、2500年後の私たちもいろいろと考えさせてもらっているのだと思います。
すべてが迷信に彩られた生活をしていた昔と違って、科学的知識も豊富に与えられた私たちは、釈迦から何を学び取るのかを問われているように感じています。最近の仏教寺院は衰退の方向にあると思っていますが、私たち以上によく勉強されている僧侶の方々がその成果を正直に世に出そうとしないことが残念でしかたありません。
南さんは僧侶なのに正直に言われるので、その言説を読むのはとても楽しいです。
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Unknown (Unknown)
2020-01-23 16:20:40
釈迦が目指したのは、
有余涅槃か無余涅槃かという点に関し、
二通りの考え方がありそうだ。

①南流釈迦論では
釈迦は「死をめざして生きた」という事になる。これは完全に無余涅槃を支持する立場であろう。
死ななければ修行の完成にならないからと・・・

「死ぬ」、即ち「火が吹き消される様にニルバーナする」事によって
輪廻から解脱出来るからだと・・・


②もし釈迦がホントは輪廻など無いと思っていたのなら、
無余涅槃など考えても無意味であると思っていた筈であろう。
そうすると釈迦の修行の目標は有余涅槃に達する事しかない訳である。
すなわち生きている間に苦を滅失させて心の寂静を得る…という考え方な訳である。
四諦と八正道は有余涅槃の為の病名と治療法という事だ…この現世においての出来事として。
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補足 (Unknown)
2020-01-23 16:28:37
釈迦が35歳で悟った、
つまり苦の滅失を35歳で達成したしたということなら、
当然釈迦は有余涅槃をした事に成る。

最早、輪廻がどうとらこうとら、超越が有るとかないとか、一切が無関係になるわけだ。
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補足2 (Unknown)
2020-01-23 16:34:39
釈迦が目指したのが有余涅槃であったのなら、
釈迦は「死を目指して生きる」ではなくて、
「生きてる間に悟ることを目指して生きる」
というべきであろう。
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Unknown (Unknown)
2020-01-23 22:16:04
悟るって、何を?他動詞で、何を悟るのですか?悟ったらなにか分かるのですか?
有余涅槃と無余涅槃の違いって何?私の勉強不足か。
何涅槃とか、どうでもいいです、死ぬまで、生ききること、
他者を信じながら、頼りながら、甘美ではなくても、やりきった、と最後に思える日々を過ごしたいです。
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人生は思う通りに行かないものだ (Unknown)
2020-01-24 02:04:15
悟るって何?
もちろんこれだよ!!

君の苦の源泉かけ流しは
煩悩の執着からだって事がハタと解っちゃって、

じゃあ、断捨離しましょうねって、
全てを捨てて出家して
「死だけを目指して生きる!!」


生きているうちにそれ(有余涅槃)を成し遂げたのが
偉いお方のお釈迦さまで、

ちまたのぐしゃのお坊さんだと
あわれその強い抑圧に耐えかねて
性命欲求からの反動が強くなり


サル脳に戻って
ココロの解放に走る。
おえろ界にさまよう・・・かも??

mmm,
削除のすれすれか?

返信する
人生とは。。。 (Unknown)
2020-01-24 02:24:03
だからね、
そんな反動に負けない為には
何事も中道、何事もソコソコ!!

ただしやりすぎないようにね
ツツシミ深くがいいね。

たまに神社で鐘をならしてみたり
坊主バーでお酒をちびってみたり
寿司屋行ってサシミを喰らってみたり
頂いた御喜捨のお金を
メガミ様に横流ししてみたり

うんうん、ちょっとだけだけどね、
まあたまにはだからって事で、
これで心が解放されるんだから
まあしょうがないしょうがない
・・・かな???

返信する
訂正? (Unknown)
2020-01-24 02:28:55
神社の場合、
鐘じゃあ無くて、鈴(すず)だったかな??
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-24 02:46:34
人生は何処?

ソコソコ!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-24 04:18:23
まあなあ、
妙な理屈がいっぱい出て来るからね・・・

妙な旅行は無理をせず・・・
新型肺炎に気をつけましょう。
あっちこっち飛び回る孫悟空和尚さんも
ご自愛くだされませ
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-24 05:20:03
まあ人生何だかんだあって
なかなか落ち着けませんが

おちつけたら、楽しむって言うのも
いいんじゃないでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 05:54:06
おチツいたら
知的興味を楽しむ・・・
お釈迦様の実像如何に・・・とか。

馬場さんの本は面白そうで楽しめるよね。
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 06:06:18
釈迦時代でも既に
白人系のアーリア人が古代インドを牛耳っており、
彼等はカーストのトップ階級を占拠して、祭司を演じて自己再生術(輪廻)を儀式化した。

インド原住民の釈迦はそれに反発して、
「自己再生」の概念を覆したかった。

そういう事情が有ったので
「俺って《死を目指して生きる》ぜよ」っていう話になった、とかとか。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-24 06:08:25
生物学的な死が客観的にしか捉えることが出来ないのは、コウモリになることができない以上仕方がないわけです。
もし殻が本体にしがみついていなければ、環境から得られる情報は、何も意味は為さないというわけです。
返信する
直感で物言うワタシ (Unknown)
2020-01-24 08:28:00
聞いて見てからモノを言え!!
ナルホドですね。
馬場さんの『原始仏教』本。

インド原住民の浅黒肌の釈迦は、
席捲する白人社会(アーリア人バラモン)に対抗したいが、
さりとて武力抗争は一切、好まぬ。

それなら
自己の方を消滅(ニルバーナ)させるしかしょうがない。
「死をめざして生きる」という桁外れでユニークな仏教観が出来上がった。

そんな釈迦の複雑な境地・・・
日本人の俺には痛いように分かるよね。

白人圧巻の近代社会で
唯一の非白人種であるが故に、
彼等から憎まれコケにされた日本人が
武士道というプライドに賭けてみたが、

案の定、戦争に負けて、
GHQから洗脳教育を施され、
もう二度と白人に反抗しないように仕向けられて・・・今日に至る。

それよりも前に、
白人世界に倫辱された大陸中国では
共産主義が起こって、白人世界に対抗しようともがいているが、

幾らそうでも共産主義国と日本は組する事が出来ない。

白人社会に潰された仏教と同じく、
共産党中国が白人社会に潰されるのか??
さあ、どうする、どうする、ニッポン人??
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訂正 (Unknown)
2020-01-24 08:32:35
X...唯一の非白人種であるが故に、
〇…唯一の非白人種主権国家であるが故に、
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 09:14:46
え~と、
もしかして言葉の定義上において、
多少の「論理の整合性」に矛盾が出るかもしれない・・・かな??

釈迦はバラモンの主張する「再生産」(=輪廻世界)を否定したとすると、
永遠の100%完璧滅失を意図した無余涅槃では、
何故仏教は涅槃寂静などと言い張るのだろうか。
死んだ本人が自覚できるリアルでの
【寂静】した安寧・安定・安心な境地など死後には在り様がないでは無いか。

涅槃寂静では無くて涅槃絶無と言うべきでは無いのか。これが無余涅槃の実相なのだから・・・

少なくとも、苦の多かったこの世からおさらば出来て、
「ああさっぱりした・・・」とか言う意味ではなかったのか。
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 09:48:37
なぜこんな具合になっちゃったのか??

ひとえに仏教では高徳の僧侶の死を
入滅とか言う造語を作って、
「生死を超えた超越の世界へ遷移した」
とか言い出しちゃったからね。

入滅何ていかにも涅槃寂静とピッタリの観念論だからね。
もう確実に無常無我とぶつかる思想だしね・・・
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 11:48:04
聞くところによると、人口爆発の中国人を世界にばら蒔かせ、中国子孫を残そうとしているとか。世界が中華の血縁になれば、戦わずして世界を征服したようなものになるとか。

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Unknown (Unknown)
2020-01-24 11:50:48
そうね。「入滅」も特別死、特別視な概念だよね。

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Unknown (Unknown)
2020-01-24 15:07:54
新しい仏教のコンセプト。

「死を目指さなければ・・・???」
仏教で人生がもっと面白くなる。

名古屋、曹洞宗曽流寺副住職「遊民」
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 15:17:06
遊民
note:com/asobuminzoku/n/n0d3fe1a8087e
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 22:25:37
みたいな、さん、「よく分からないけど、なんとか…みたいな」っていうコメントする人、誰だか分からないけどコメントしてくれないかな。
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 22:37:13
結局の処
最も重要なポイントは【Myブッキョウ】

自分独自の仏教であるべきである。
さもなければ自らの身に着いた、
生きた仏教にはなり得ない。

如何にお偉いさんのお言葉であっても、
それに睥睨されて洗脳されてはいけない。

無我の自我こそ自灯明。

法灯明はネット・書物を通して
容易に得られる時代である。

自分が選眼力を持って
シッカと堅く
自らが立つべきなのである。
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みたいな? (Unknown)
2020-01-24 22:47:42
死を目指して生きる!みたいな、、、



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『病室で念仏を唱えないでください』 (Unknown)
2020-01-24 23:52:01
というドラマが始まっていることを、ゲス東出昌大と唐田えりかの不倫騒動で知る。
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Unknown (Unknown)
2020-01-24 23:57:26
「万が一の時は極楽浄土へ送ってやる」

ですと( ̄□ ̄;)!!

https://m.youtube.com/watch?v=uidD7DI6rKg

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Unknown (Unknown)
2020-01-25 01:30:05
釈迦が「死を目指して生きた」とすると、

その生き方を全うする為には
「八正道を行うべし」・・・
という事と同義語に成るかどうか、
両者の境地に矛盾は無いか、

いま一つ論理の整合性が解りにくい。
まるで禅問答みたいである。
或いはなんか繋がりがよく分からないZIPさんの言葉みたいな…
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 01:38:27
道元さんも
死を目指して生きた人なのか???

唯々坐禅は「安楽の法門」という事だから有余涅槃と同義語であるが・・・

はて「死を目指して生きる」は道元さんの生きる方針でもあったのか・・・
唯々坐禅は「死を目指して生きる」と同義語で在るのか??

返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 01:41:32
南さんも
「死を目指して生きる」風貌の具現者だ。

しかしその正当性が見えない感じである。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 01:50:02
簡潔には、「苦(自己)の消滅を目指して生きる」ではないでしょうか。(有余涅槃として)
返信する
超超後期高齢者 (Unknown)
2020-01-25 01:51:11
私の場合なら、

もうこの世で
するべきことはし終わって・・・

味合うべきことは
味わってしまった訳だから、

ボケてワケわからなくなる前に
「死を目指して…何となく生きて居る」の状態なのであるから

「死を目指して生きる」事に反対はしないのだ。
返信する
『死を「めざして」生きる』とは (イエスちゃん)
2020-01-25 01:57:54
『死を「めざして」生きる』

「死」を「目指し」て「生きる」。

「死」という「end・終端・目的・完成・成就」を
「目指し」ながら「生きる」。

つまり「死」の「更にその先」を「目指さ」ない「生き方」である。


「極楽浄土」を「目指さ」ないで「生きる」。
「神の国・(マタイが名付ける)天国」を「目指さ」ないで「生きる」。

「これで「終わりなんだ」と覚悟し」て「生きる」。
「これだけで十分なんだと覚悟し」て「生きる」。
「これだけで十分なんだと満足し」て「生きる」。

ニーチェ大先生の言う

永劫回帰(えいごう・かいき、ドイツ語: Ewig Wiederkehren)
フリードリヒ・ニーチェの思想:
今の経験は一回限りで終わるという世界観ではなく、
超人的な意思によって
「ある瞬間」とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを「よし」として「受け入れる」姿勢。

「生まれ変わって」やり直しが効くような「生きる」ができない、
と「諦め」て「明らかにし」て「生きる」

ここでは「死」が本当に重要な役割を果たす。
要は「有限ないのち」を完璧に「生きる」が課せられているのである。

「死」の向こう側は「無記」である。
「死」の向こう側を「考えない」で「生きる」のである。

『死を「めざして」生きる』

だから「仏教」だけの「ユニーク」な「生き方」である。

「非仏教」は「死」は「通過点」でしかない。

「こころ」「魂」「霊魂」「精神」が
「実体」として「消滅しない」で「続い」て行くのである。

「今の生き方」は、「あの世」でやり直しが効くのである。
だから「この世では、ぞんざいに生きてもいい」のである。

「仏教」は「やり直しがない生き方」である。
だから『死を「めざして」生きる』
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 02:00:05
苦という自己の(精神的)消滅という有余涅槃なら、
今回の記事を全体的に眺めた場合には
論理の整合性に矛盾を感じる。

なぜなら有余涅槃が何故、
法外な突飛も無く桁外れなユニークなアイデアとなるか
思考の論理性が崩れて来るからだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 02:09:38
死とはごくごくありふれた
日常の茶飯事なのである。
死ぬ時節になればいい気分で死ぬだけである。
元来、わざわざ死を目指す必要などサラサラ無いのである。
言葉に騙されてはいけない!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 02:10:47
死を目指して生きるのは
トキソプラズマという寄生虫の仕業なのである
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 02:15:37
>なぜなら有余涅槃が何故、
法外な突飛も無く桁外れなユニークなアイデアとなるか


これ仏教やってない人だったら、ユニークかどうかはともかくとして、普通に、法外で突飛も無く桁外れな話ですよね?

返信する
『正法眼蔵』「全機の巻」 (イエスちゃん)
2020-01-25 02:16:19
『道元さんも
「死」を目指して生きた人なのか???』


諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。
その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、「死」も「死」を透脱するなり。
・・・
現成これ生なり、生これ現成なり。
その現成のとき、生の全現成あらずといふことなし、「死」の全現成にあらずといふことなし。
・・・
生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。
しかあれども生は全機現なり、「死」は全機現なり。
しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり「死」あるなり。
しずかに思量すべし。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 05:54:30
今回の記事で南さんが主張したいのは、
南さん自身が仏教に対峙する考え方として、

仏教は、
飛んでもハップンの、非人間的な、常識を大きく外れる、人間として想定外の、
【ユニークで桁外れなアイデア】を提示している・・・と言いたいのであろうと思われる。
それが「死を目指して生きる」宗教という言葉と同義語化している訳である。

現世で寂静・安寧・幸せを得る常識的な有余涅槃を始めっから否定している訳である。
来世での幸せ(入滅後の無余涅槃に於ける【寂静】)も根本的には否定している事に成る。

円満で、円熟した思考を持つ、通常の仏教者)群とはかなりかけ離れた事を
此処では主張してみた訳である。
(本心は何処にあるのか我知らず…)。

xx君式の、
常識の枠を超える事の出来ない説教論文を幾ら引き合いに出しても
全く通じないのである。
返信する
「仏教」のユニークさは「出家」 (イエスちゃん)
2020-01-25 07:38:23
「仏教」のユニークさは「出家」である。

「ユダヤ教」の「ラビ」は「在家」である。
「キリスト教」の本質的な創始者・使徒パウロは「在家」である。
ナザレ村のイエスも「在家」である。
「イスラム教」の創始者・ムハマッドも「在家」である。

そして、「絶対神」・「超能力者」が救ってくださる。

釈尊の「仏教」だけは「出家」である。
「絶対神」・「超能力者」が救って下さるのではない。

自分自身が「修行」して「仏陀」・「覚者」・「目覚めた人間」に成って、救われる。

釈尊はリアリストであった。
「在家」においては「修行」ができないと「自分の経験上」判断した。
だから「修行者の集団」「サンガ」を造って、そこで「教え」を説いた。
「無常」「無我」そして「無記」。

「在家者」は「修行」しないから・出来ないから、
「無常」「無我」そして「無記」は理解できないと、最初から断念している。

それは、自分の体験から、判断している。

初転法輪の「相手」は「出家」者である。
当初は、「釈尊にヨーガを教えた師匠」の二人を考えたが、既に、亡くなっていた。
そこで、かつて一緒に修行した「仲間の僧」の五人に対して「教え」を説いた。

彼らは「出家」者だから、理解ができた。

釈尊の「仏教」の教えは、二つの「コース」であった。
「出家向けコース」と「在家向けコース」とである。

「出家向け」は「無常」「無我」そして「無記」
「在家向け」は、「サンガ」に寄進した功徳で「昇天」できるとした。
つまり「無常」「無我」そして「無記」は「在家」には理解できないと断念した。

釈尊はリアリストであった。
「仏教」は「出家」が最初から「王道」であった。

他の宗教は、みな「在家」であった。
そして「人間」は決して「絶対神」には成れなかった。

「仏教」だけが、自分が「目覚めた人間」「覚者」になることを教える。

「仏教」だけがユニークである。
その「出家」者には「性行為」が禁止される。
他の宗教にはない。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 08:24:16
南さんが今回の記事で主張したいポイントとは、
仏教は
>「死によってのみ生を肯定している」
>「自己の存在は死によって意味を持つ」・・・

つまり
「死が無かったら人生は無意味だ」と言うことであろう。
「死が無ければ生きて居てもしょうがない」、「生きて居るという事自身については否定する」という事であり、
「自己の存在は死が無かったら全く無意味だ」と言っているのであり、
それが釈迦の主張だったと南さんが解釈しているという事だ。
これは極少数派である南さん特有の言い回しに見える。
他の仏教者がこんな言い方をするとは思えない。

返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 09:08:24
う~ん、君は、
>「死ぬ事によってのみ意味が在る生」だ…なんて言う言葉は

特攻隊員がズット聞かされ続けた洗脳言葉じゃないですかね。
今様で言えば、イスラム過激派首領が
自爆テロの少年を丸め込むときに使用する言葉にふさわしい感じ。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 12:41:45
「人は幸せだから笑うのではない。笑うから幸せになるのだ」とアランは言ったわけであるが、

「死をめざして生きる」人は
笑ったり、幸福だな~とか思った事はあるのだろうか??

何やら南さんだと、
「自分は心から楽しいと思った事は一度も無い」とどこかで言ってたが、
結構笑ったり、幸福だと思ったりするんだろうか??
返信する
「死」・・・肉体の不浄 (身念処) (イエスちゃん)
2020-01-25 14:43:04

四念処
しねんじょ
catvāri smṛtyupasthānāni

(1) 肉体の不浄 (身念処) ,
(2) 感覚の苦 (受念処) ,
(3) 心の無常 (心念処) ,
(4) 法の無我 (法念処)
に思いを凝らす観法。
返信する
汚れたモノよ、死ね!! (Unknown)
2020-01-25 15:22:37
肉体は不浄であるので
不浄から遁れる為に
「死をめざして生きる」しかない??

ナルホドこれが理由だったのか??
死んだら清浄になるのか??

では心は不浄で無いのか??
心も不浄なのか??

身心一如、
およそ、全ての人間は不浄なり!!
・・・全ての人、一人の例外もなく
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 15:26:54
此の世は美しく
人生は甘美だ(by釈迦)
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 15:51:27
>深く透徹した眼差しで、
釈迦は実存の不浄さを暴いたのであった!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 17:16:41
>死が無かったら人生は無意味だ」
>「死が無ければ生きて居てもしょうがない」

はあぁぁぁ?頭湧いてる?
とか言いそうになったけど、もしかしたらほんとにそういうこと考えてるかもしれない気がしてきた。

これの逆パターンは「死んでも自分」てやつじゃない?
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 17:18:37
あ、逆パターンというのは、結局同じことを逆から言ってるだけって意味ですよん。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-25 22:12:27
私は誰の役に立ってるのか。
誰を大切にして生きているのか
他者を信じ切る有余涅槃
自己の命尽きる時、無余涅槃
返信する
メガミサマモウンチスル‼ (Unknown)
2020-01-26 00:01:07
>肉体の不浄(身念処)

釈迦は言ったらしいよね。
「うんうん、オンナってくそダメだぜ。
だから女には触れるなよ。抱いてはイカン。抱いたらお前も汚れるぜ!!」
「抱いたりしてたら、お前には最早、悟りはコネ~ぞ」

ダ・・カ・・ラ・・・悟りたいんだったら
「お前なただただ死を目指して生きてろ!!」

なるほど、けた外れでユニークなアイデアだなァ~。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-26 00:21:32
>(仏教は)「死によってのみ生を肯定してる」・・・

そ~かァ~!!
じゃあ、「死」って素晴らしいんだね。
「死」こそが人生の救いだね。

じゃあ早く「死」が来るといいよね。
待ち遠しいよね、死が来るのが!!

んんん、
同時に「死は苦だ、死は苦だ」って説く
のはこれ如何に??

4≠9
返信する
反省‼ (Unknown)
2020-01-26 00:58:34
修行とは生きてる自分を変える為
(死んだら修行が出来なくなるよね…)

トイレ修行をうやうやしく行えば、
清浄なウンチ、清浄なオシッコが出て来るのである。
メガミさまのおうんち溜めも光輝く宝石箱となる。

修行はまことにありがたく
桁外れな行いで在り

深く透徹な眼差しで観ずれば・・・
此の世は美しく、
人生は甘美なのです。

死をめざすのは・・・
ちょっと保留でいいかしら??
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-26 01:52:13
森の中の、
死体がゴロゴロ・・・
その乱雑に放置された
その傍らに「生」を営めば、

ウジがわいて、悪臭を放ち、
腐れ朽ちて行く他人の死体を眺めて

無常無我を観じる・・・
それはしょうがない、当然だ。

しかし、
全ての生きてる肉体までも、
いや、生きてる人間全体を
The「不浄」と思ってしまう。
これはまさに勘違いの悪い副作用である。

もうそのトラウマを払拭する為には
もはや他人の死体を見なくても済むように、

自分自身が死んでしまわなければならない。
【死をめざして生きる!!】

返信する
七覚支…悟りの7つの支分をなす項目。 (イエスちゃん)
2020-01-26 02:35:02
七覚支(巴: satta bojjhaṅgā, サッタ・ボッジャンガー)

念覚支 - 気づき(サティ)、心で今の瞬間の現象を自覚すること
択法覚支 - 法の中から真実のものを選ぶ
精進覚支 - 努力
喜覚支 - 喜びに住する
軽安覚支 - 心身に軽やかさ・快適さを感じる
定覚支- 心が集中して乱れない
捨覚支 -対象に囚われない
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-26 03:35:35
理解力のなさ、幼稚な思考で騙る自称救世主様。悟りとか求めないとの南さんの言葉を無視し自説を垂れ流している。さようならイエス様
返信する
死をめざして生きる人の一日! (Unknown)
2020-01-26 05:50:30
昨夜寝たままで
今朝、目覚めなければよかったのに・・・、

ああ残念、不覚、無念なり。
今朝も眼がパッチリ覚めてしまった。

空が青くて
朝日のすがすがしさに負けそうで
今日もまた嫌な予感がする。
なんか今日も死ねない感じが有る。

街にブラッと出れば、
交通事故で死ねるかしら??

其れともレストランでフグを食べて
死ねるかしら?
毒キノコでもいいんだけど!

(途中、略)

ああ、もう夜になった。
今日も死ねなかった。
何故死ねなかったかの懺悔で
我が身が引き裂かれる。

ナムアミダブツ、
明日の朝こそ、
永久に目覚めぬ私でありたい!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-26 05:59:16
死体が腐りウジがわいて朽ちていく様を観て

これに人生の哀しみと儚さと苦しみを観るか、生命の循環する偉大なる力を観るか

人によって違うんだろな
返信する
無余涅槃論者と有余涅槃論者の激突? (Unknown)
2020-01-26 09:38:32
>7覚支

ですね、ですね
明かに有余涅槃!!
有余涅槃における涅槃寂静!!

これだったら
「死をめざして生きない」方がいいですよね。死を目指す必要がなくなるし。。。

なまじっか「死を目指して生きる」と
7覚支の多くが失われちゃいそうですものね。。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-26 10:07:38
今様で言うと、アパートの一室で
だいぶ前に孤独死で死んだ人の
死体にウジが湧き、異臭を放つ。

其の異臭を嗅ぎ付けた誰かの通報が機縁となって、
やっとあの世に荼毘(ダビ)される訳だけど、

死体に群がる生きてるウジを見て、
生命の循環する偉大な力を見る事は
いくら「お釈迦様でもご存じあるめえ・・・
返信する
輪廻論者の異常な境地 (Unknown)
2020-01-26 10:18:28
人の死体=ウジの生命の源泉

よって
人は死してウジに輪廻する‼
ウジはハエに栄華する。

ああ何たる
「生命の循環する偉大な力だ‼」
何て観ずるのは
君だけじゃあ無いのかなァ~。
よぅわからん。。。

返信する
九相図…うち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた (イエスちゃん)
2020-01-26 10:44:55
九相図(くそうず)とは、
屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画

『大智度論』『摩訶止観』などでは

脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。

「愛欲への執着」から、離れるために
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-26 11:12:48
アッ、そ~か~。
生物学を学んだ人なら
食物連鎖の仕組みをよく理解してるから
腐敗肉を食べる生命力に感動するんだろうかね。
「生命の循環する偉大な力」派になるよね。

でも2500年前の釈迦だと、そう言う勉強はしてないから、
The【肉体の不浄】しか感じる事が出来なかったのだ・・・
ということになるのかな。

そこから無常無我思想が生まれたんだから
何たる皮肉と言えば皮肉、
何たる奇遇といえば奇遇、
何たる幸運といえば幸運。

南さんにとっては同類の偉人を見つけて
助かった・・・
気持ちよく「死をめざして生きれる」
返信する
つまり (Unknown)
2020-01-26 11:23:39
めざすものは、目指さないんですな。
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Unknown (Unknown)
2020-01-26 11:58:00
もし釈迦が幼児の時、
決して腐る事のないプラスチック製の
キューピー人形ちゃんと馴れ親しんでいたのなら

諸行無常・諸法無我思想は生まれなかったかもしれない。

全く縁起のなせる業である。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-26 12:03:37
なるほどね。
目指す者は目指さない・・・

言う人は言わない…と頬かむり
返信する
臨済禅師は、人間を「糞袋」と言う (イエスちゃん)
2020-01-26 16:36:49
臨済禅師は言う。

大徳、
汝は鉢嚢屎担子(はつのうたんす)を担(にな)って…

鉢嚢・屎担子:
鉢嚢とは雲水の食器入れのこと。
屎担子とは「糞袋」のことで「肉体」のこと。
「食器入れを身に付けて動く雲水の肉体」を蔑視した言葉


確かに、どんなに「肉体」を大切にしても、
「糞・製造機」であり、
「糞を「きれいな皮膚」で覆い、見えなくしているもの」。

その「中身」は「九相図」で、だんだん剥き出しになってくる。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 02:05:43
子供のころはみなウンチ好き。
僕の偉大な創作物だと臭いさえも好ましい。

臨済禅師がクソ蔑視する方こそ
完全な妄想であり、錯覚だった。

食べてもウンチが無ければ
人(動物)みな無限に巨人化して
地球の自転角度が狂ってしまうかも。
地面も沈んでしまうかも。
食物連鎖も止まって生命を維持できない。

最近ではウンチ発電も可能になってきている。
左様に子供のウンチ礼賛こそが正解なのである。

臨済禅師の方こそが偏見にがんじがらめになって、低俗思考になり果てて、
ものの摂理・真理を見極められない愚者なのである。

まあ、
釈迦の肉体不浄観については言うまい。妄想・錯覚に過ぎなくても、
それが無常・無我の発明に結び付いたんだから、
彼の事を批判せず無記でいようと思う。

注;発見でなく発明。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 03:16:45
ほほう!
うんち欽仰派と
うんち蔑視派の
クソまみれの論争ってとこですかね。

欽仰(きんぎょう)・・・仰ぎ敬うこと。

「死を目指して生きる」人は
うんち蔑視派? 欽仰派?
ウンチが出なくて死ぬ人は
自死する人より多いらしいよね。
つまり詰まりウンチは死活問題だからね。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 04:53:33
「死を目指して生きる!!」
うんうん、とてもいい言葉だよね。

今のニッポンの老人の80%(?)は経済的苦境に立たされて、老後破産に怯える。

まさに「死を目指して生きる」しかない。
よう言って呉れました、和尚様・・・
返信する
臨済禅師の糞談義 (Unknown)
2020-01-27 05:28:44
おしなべて修行僧はバカだから、
貴様は「鉢嚢・糞袋」だとこき下ろして置けば、

バカな奴らは自尊心を砕かれて、
おとなしくなるわいな、シメシメ!!

ナルホド
馬鹿を相手にするならこれが良い・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 05:41:18
釈迦が当時レベルでの科学的訓練は受けていたとしても、
ウジ虫わく腐乱死体をみれば、
身体不浄論を信じ込んでしまうだろう。

生きてる人体の奇跡的神秘なる生命力には思いも及ばなかったろう。

不浄な身体、消えてなくなれ!!
「死を目指して生きる」由縁である。

だが何故、現代人の南和尚さん迄もが、
「死を目指して生」きたいのか??

其れこそが摩訶不思議である。
いったい南和尚の脳内はどうなっちゃってんのだ???
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 07:20:40
ただひたすら「死を目指して生きた」お釈迦様は、
「人生は大変だけど面白い。
悲しい事もあるけれど
楽しい事も一杯あった・・」

何て言う風には思わなかったのだろうか??
返信する
「何」が楽しみか?が完全に変わる。 (イエスちゃん)
2020-01-27 07:59:46
『ただひたすら「死を目指して生きた」お釈迦様は、
「人生は大変だけど「面白い」。
悲しい事も「あった」けれど
楽しい事も一杯「あった」・・」
何て言う風には「思わなかった」のだろうか??』

「250戒」から見ると「俗の、楽しみ」を欲していません。
「戒」は他人からの強制ではありません。
「自分からそのようにする」という「生き方の変更の自分の決心」です。

他方、「戒律」の「律」は「共同生活の掟」であり、他からの強制です。
破ると「サンガ」から追放されます。

殺人でも、罰は「追放」だけです。

「250戒」で「自分は、何を楽しまないのか」を列挙しています。

「俗世間の楽しみ」から「完全に離れる生き方」です。

「出家」とは、「生き方」が、180度、変わるのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 08:43:17
無常無我を標榜し
「死を目指して生きる」ことを専らとする禅僧の、
妻であるお庫裏さんは、
子をもうけて寺の跡継ぎにしたいとは考えない筈と思われる。

オクリさんの願いはただ一つ、
夫のオトコを立派に立たせて
潔くうつくしく「死を目指して生き」させることなのであろう。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 09:06:13
俗世間の楽しみから完全に離れて
禅僧とお庫裏さんは夫唱婦随
返信する
Unknown (小坊主)
2020-01-27 09:10:01
ニルヴァーナについて、どのような状態を言うのか、経典に一切具体的な記述がないと言いながら、それは「ブッダの死」だ、というのは、矛盾していると思います。
ニルヴァーナといのは、あくまで方便であり、ニルヴァーナを目指すが、ニルヴァーナを目指すのではないとわたしは考えます。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 09:27:15
新「天変地異」の時代でのコメ(2019-10-29, 17:30:51)で曰く・・・

「xxさんは齢を取り過ぎて、もはや異なる見解を受け入れることができなくなってしまったのですね。
これだけ頑なにご自分の主張を繰り返される理由は、きっと怖いからでしょう。
死が近ずいていることが怖いのです。
高齢になり、自分の人生の意義を確認したいがために主張を押し付け、認めてもらいたいのでしょうね」
・・・とあります。
ホントの処はどうなんでしょうかXX君。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 09:47:11
俗世間の楽しみから完全に離れて・・・
何て言う事に成ると、

xx君自らが持ち出してきた十牛図の第9図、10図などの境地はどうなっちゃうのでしょうか??
返信する
禅語の表現 (k)
2020-01-27 16:38:53
皆さんご指摘のように禅では度々人間や仏性までをも糞便のようなものに例えてつまらない存在だということがあります。その最たるものは「乾屎橛」でしょう。しかしこうした表現は「A=B」であると受け取るべきではないと思います。例えば「仏性=乾屎橛」「女性=糞袋」のようにです。そうではなくて、もともとあるものに執着している人に向かって、そのようなものにとらわれてはいけないという警句としてあえて発せられるものだと思います。つまり、仏性や女性に対する執着がない人に向かって、乾屎橛、糞袋と言っても意味がないのではないでしょうか。正法眼蔵「山水経」だったかと思いますが、同じ水でも天人はそれを装飾品だと見て、魚はそれを宮殿だと見るといった話があったように記憶しています。因みにわたくしは魚にとって水は空気のようなもので、水の流れは風だと思います。つまり、対象物の意味は不変ではなく、それを見る者にとって変わるのだと思います。水は水に違いないわけですが(水は絶対に水です)、見る者や状況の違いによって水(の意味)が(その人が思っている)水(の機能を果たす)とは限らないということでしょう(死体にわくウジも同様でしょう)。だから、ある対象物に対する見方が凝り固まっている人に、ああも見える、こうも見える(そしてそれらはすべて真実である)ということをインパクトをもって伝えるためにどぎつい表現をするのだと思います。きっと女性を怖がって毛嫌いする人に、釈迦や禅僧は女性を糞袋だとは言わないと思います。逆手に取れば「饅頭怖い」ですね。
こうした逆説的な表現を好むのは、あくまでわたくしの想像ですが、やはり道教の影響が大きいのではないでしょうか。「大道廃れて仁義あり」という言葉がありますが、これは仁義を重んじる儒教あって意味がある言葉だと思います。道教も実は儒教が嫌いなわけではなく、凝り固まって窮屈になった文化を前にしてアンチテーゼを示すのが好きなのではないかと思います。「虎渓三笑」の故事は有名ですが、山の中に引っ込んで修行する禅文化は道教と非常に近しい関係にあったと思われます。
なお、仏性がきれいか汚いかについていえば、確か唐の時代の中国禅で論争になった話だと記憶しています。おそらく、美しくも汚くもないという話で決着らしいものがついていたようにおぼろげながら記憶しておりますが、はてどうだったか…。日本では仏性は月のように美しいとかいう話をする方もおられますが、わたくしは、仏性は美しくも、汚くもないとする立場の方が、禅の思想全体からすれば、より整合的ではないかと思っています。死体のウジはきれいでも汚くもありません。恁麼です。死体に群がる汚さも、生命の現れである美しさも不二なのではないでしょうか。
長々と失礼いたしました。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-27 17:49:40
色即是空、空即是色とちょっぴり似ているのかな。A=BとB=Aではないということかな。両方わかることのなんと難しいことか。
返信する
「楽しみ」は「息を吐く」「息を吸う」 (イエスちゃん)
2020-01-27 20:14:39
「楽しみ」は「息を吐く」「息を吸う」

と、西田幾多郎は言う。

当時、西田の家族は妻も含め病気で倒れており、
子供達も次々と亡くなっていた状況であった。
文字通り、どん底に陥っていた状態であった。

そして、その中で、わざわざ、確認するように・・・
「楽しみ」は「息を吐く」「息を吸う」


普通の人はこれを「楽しみ」とは感じない。

道元和尚も、
「坐禅」を「安楽の法門」と勧める。

釈尊の場合も
「禅定」を「楽しんだ」。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 01:40:37
禅語の表現様。
コメントありがとうございます。

南和尚の「死を目指して生きる」を字義通り受け取ってはいけないって意味な訳ですよね。
やっぱり禅僧の常套手段である、意表を突く事を楽しむ過激発言だと・・・

もし東北大震災で津波から逃れようと必死で高台の方へ逃げまどってる人々に向かって、
南さんが「おいおい、死を目指して生きるお前さんは津波の方へ向かって進んで行かなきゃ、ダメじゃろが!!」とかと言って、檄を飛ばすなんて事はなさらないでしょうしね・・・
有言不実行!!
返信する
共に楽しみを糧とする。 (Unknown)
2020-01-28 02:37:15
世俗の楽しみと
仏教者の楽しみは違うのだ。
死を目指すのも楽しくてしょうがない。

仏教者の楽しみの方が高級なのである!!
(per XX君??)。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 02:40:09
仏教者の大概は・・・死は楽しみである。
XX君だけは・・・死は苦であるの一本鎗。
返信する
死を目指す人よ (Unknown)
2020-01-28 02:48:37
息を吐く事が楽しい。
息を吸う事も楽しい。

息を吐かない事は苦しい。
息を吸わない事も苦しい。

死ぬ事は
楽しいのですか苦しいのですか??
ハッキリして下さい。
返信する
無明な人の使う言葉 (Unknown)
2020-01-28 02:53:34
吐く言葉の節々から漏れ出す
辻褄の合わなさ、
論理の整合性に対する疑惑。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 03:04:31
>死体のウジはきれいでも汚くもありません、恁麼です・・・

んんん、
じゃあ釈迦の身体不浄論は何処から出たのか??
釈迦が心底そう感じたからでしょうに・・・、
たんに禅僧かぶれのおふざけだったとでも?
返信する
四念処 (Unknown)
2020-01-28 03:14:51
1-25,14:43:04コメ参照

肉体の不浄(身念処)が
単なるこけおどしのおふざけだという事なら、
四念処第3、第4の無常無我も
単なるこけおどしのおふざけだということになる筈だね。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 03:36:27
超後期高齢者で在りまする。

この先々、
死者が跋扈(ばっこ)する恐山に立て籠って「死を目指して生きるオタク」に徹すべきか、

それとも、
街場の哲学者、内田樹さんの
「悩める者よ集まれオタク」の凱風館に蟄居すべきか・・・

はなはだ悩ましき処でござりまする。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 04:16:10
小坊主様
>ニルバーナを目指すが
>ニルバーナを目指すのではない・・・

ってどういうことですか??
返信する
釈尊が悟った時、何日も… (イエスちゃん)
2020-01-28 04:25:33
釈尊が悟った時、何日も…
「息を吐く」「息を吸う」…「楽しみ」!

その直前は、断食の「苦行」であり、死の直前までいっていた。

(ジャイナ教の「大雄」はそのまま死に向って行ったが…。)

釈尊は、その直前で、踏み止まり、そこから引き返して来た。

「苦行」は「解決には至らない」と気づいた。

「禅定」こそが、解決に導くと「予感」した。
「乳粥」を摂って、体力を回復して…

「息を吐く」「息を吸う」…「楽しみ」、そして「安楽」「平安」!

最高の「楽しみ」ではないか…「息を吐く」「息を吸う」!

「息を吐く」「息を吸う」に「楽しみ」を見出した。

釈尊の場合も
午前中は「托鉢」「乞食・こつじき」を行い、
午後は、「禅定」を「楽しんだ」。
80歳で亡くなるまでの「新しい生き方」であった。

「息を吐く」「息を吸う」…「楽しみ」。

だから、釈尊は「自殺」を勧めなかった。

ジャイナ教とは、「別の道」を歩んだ。
返信する
名言 (Unknown)
2020-01-28 04:41:21
「内田樹」言;

オトコは謎を解こうとする生き物だ。

オンナは謎を解こうとしない…何故なら
女性そのものが謎なのだから!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 04:51:43
息する楽しみと息吐く楽しみ…

だからね、それと
「死を目指して生きる」という事と論理的な矛盾が無いかって言う設問だよね。

南和尚の解釈だと
35歳の時は息を吸う楽しみと息を吐く楽しみに酔いしれた釈迦は、
それ以降は下り坂で、なんの楽しみも無く、無謀にも苦悩の「生」にわが身を賭けて、
「死を目指して生きた」という事になる訳だね。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 05:59:24
>ニルヴァーナがブッダの死と言うのは矛盾だ・・・(by小坊主さん、1-27,09:10:01)

南和尚にとっては
ニルヴァーナ=有余涅槃と言う事は
彼の理論からすれば矛盾そのものであり、
従って、ニルヴァーナ=無余涅槃=ブッダの死しか存在しない。。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 06:11:21
男らしさ、女らしさ、子供らしさ、老人らしさ、釈迦らしさ、道元らしさ、南和尚らしさ、XX君らしさ、太陽らしさ、月らしさ・・・

で君は君らしく生きればよい。
ただそれだけの事だ!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 06:14:11
右脳と左脳を同時に使えるのはオンナの特権
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 06:22:33
「死を目指して生きて見ろ」=
「死なないから!!」
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 06:30:32
哲学的定義での『ニヒリズム』とは
存在の意義を否定する事。
南和尚の得意技。
存在を否定する事によって意味が出る、
「死を目指して生きる」論。
(死とは存在を無にすることだ。)
返信する
釈尊は悲しんだが「苦」としなかった (イエスちゃん)
2020-01-28 07:15:05
釈尊は悲しんだが「苦」とは、しなかった。

釈尊は、80歳も長寿だったので、
高弟が自分よりも先に亡くなった。
釈尊は、それを「悲しんだ」が「苦」とは、しなかった。

釈尊は、病気や老いで、体を「痛まれ」た。
しかし、それを「苦」とはなされなかった。


返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 08:29:09
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪
釈迦は有余涅槃派だよね。
生きながらにして「苦」の滅尽達成者。
「死を目指して生きる」必要サラサラ無し!!
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 08:44:02
恁麼、いんも!!
ありのままでのアナ雪さん。
南和尚が異論を唱えておったよね、たしか・・・
返信する
「老」と「老苦」とは、まったく異なる (イエスちゃん)
2020-01-28 09:46:37

「老」と「老苦」とは、まったく異なる。

「老苦」は、「老」を「拒絶する姿勢・こころ」である。

釈尊は「老」を自然として「受け入れ」た。

その理由は
「諸行無常」
「諸法無我」
を知ったから。
返信する
その時節を知る (イエスちゃん)
2020-01-28 09:53:28


『「災難に逢う時節」には、災難に逢うがよく候
 「死ぬる時節」には、死ぬがよく候
 是はこれ災難を「のがるゝ妙法」にて候 かしこ』

じたばたしない「覚悟」

良寛和尚は、死ぬほどの坐禅修行をしたから、言えた。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 10:04:12
生苦は生を拒絶する姿勢・こころ
老苦は老を拒絶する姿勢・こころ
病苦は病を拒絶する姿勢・こころ
死苦は死を拒絶する姿勢・こころ
返信する
釈尊は、「老い」と戦わない!「死」と戦わない! (イエスちゃん)
2020-01-28 10:43:43
釈尊の「生き方は」、「老い」と戦わない!「死」と戦わない!
釈尊の「生き方は」、「老い」を厭わない!「死」を厭わない!

それは「生」と「死」とを、両方を、
「諸行無常」と観たから。
それは「生」と「死」とを、両方を、
「諸法無我」と観たから。


「生死の中に「佛あれ」ば、生死なし。」
またいはく、
「生死の中に「佛なけれ」ば、生死にまどはず。」
こころは夾山(かっさん)定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 11:58:22
釈尊の生き方は
有余涅槃を獲得した生き方である・・・と。

それを信じられない人の場合、
ニルヴァーナはブッダの死だと定義する??
返信する
釈迦は岩崎彌太郎、お経は寓話 (k)
2020-01-28 15:52:15
生に取り憑かれていた、あるいは恐れすぎたという意味で死にも取り憑かれたシッダールタにはウジのわいた醜い死体も意味があったことでしょう。しかし、無我を悟った後の釈尊には、そのようなものは無用だったと思います。悟った後も釈迦が瞑想にふけるシーンはよくありますが、悟った後の釈迦がいつまでも死体を見ていたという話はないのではないでしょうか。
禅定についていうと、それが何を指すのかは人によって異なるので、一概には言えませんが、一つ確かなことは、道元は「坐禅箴」のなかで自分の心が平安になるために坐禅をすることについて否定的なことを言っています。わたくしは曹洞宗の信徒ではないので道元の話を鵜呑みにするつもりはありませんが、この点については賛成します。リラクゼーションや自己催眠はきちんと学べば簡単で誰でもすぐに習得できますが、自分でやってみて思うのですが、あれは仏教ではないと思います。また、坐禅や瞑想の最中に体験する異常な意識体験も違うと思います。南先生流に言えば「あんなのはただの生理現象」でしょう。ちなみに僕はビパッサナーをやろうとすると目をつぶっているのに眩しくなります。迷信深い人なら「悟りの光」とか勘違いするのではないかと思います。
するのだと思います。
閑話休題。死を目指して生きるという点について話をさせていただきますと、「現成公案」の薪と灰の話を参考にすれば、生と死は不連続でしょう。もちろん、生の先に死があるわけですが、「而今」を真実とすれば、生きている間は生しかないわけです。わたくしはマラソンや1,000mくらい水泳をするのですが、いつも早く終わらないかなぁとか、つい、あと半分だ、あと1/4だとか、終わりのことばかりを想像してしまいます。こういうのは禅の精神に悖ると分かってはいるつもりです。今ココで正しい一挙手一投足を狙わなければいけないはずです。全然ダメダメですが、それでも今ココにあろうと努めてはいます。南先生がおっしゃる、死に向かって生きるというのは、こういうことなのかなぁと想像しています。現在ゴールにいない以上、ゴールのことなんかに思いを向けずに、いまあるプロセスを100%生きることこそ肝要である、しかし、逆説的な話ですが、ゴールを設定しないとプロセスは出現しない以上、向かう先はゴールである、ということではないでしょうか。プロセスのためのゴールと言えば良いでしょうか。無所得無所悟の曹洞宗の坐禅は、坐禅を体験している而今において、一炷の間ひたすら正しい坐相を狙い続けるということではないでしょうか。そしてこれこそがプロセスたる生とゴールたる死の縮図なのではないでしょうか。
なお、ありのままの自己はやはりダメだと思います。これは古来、よく出てくる議論のようですが、話が長くなったので、このあたりでやめますが、什麼という言葉は現象のありようについて論じるときに使うべきで、煩悩に振り回されている最中の自己を肯定するための言葉ではないと理解しています。煩悩に振り回されている自己は確かに什麼でしょうが、それを肯定するための言葉ではないと思います。南先生がどのような文脈でおっしゃったのかは存じないのですが、わたくしも坐禅で非思量を体験した上での自己こそありのままの自己(あるいは無我)だと思うので、よくある「何もしないでそのままできれいな仏性」論に与するつもりはありません。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-28 16:35:05
仏教にとって生きることは苦を克服する為の修行というわけですから、切札を使えないようにすることは当然と言えば当然なわけです。
苦を克服することにおいてのみ生としての意味があるわけですから、生を苦の克服として成し遂げる為の修行と見做し、それを実行し、それを完了すること、即ち、修行の完了として目指すべきものとして死を成し遂げること、言い換えるなら、自ら死を作りだすということになるわけです。
つまり死を業にすることで目指すことが可能になるわけです。
死に対してせいぜいお茶を濁す程度のことしか思いつかないようではとてもとても・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-28 17:03:31
何だかんだ幾らでもこじ付けは出来そうですが、
「死を目指す」という以上
「死がゴールなのか?」という事についての明確な論理的認識が曖昧だと考えられます。

死によって極楽とかあの世・異次元の世界へ行くとか言うならまだしも、
超越否定の立場を取るなら、
死んでしまえば絶対的絶無となるのだから、

死というものを
目指すべき【ゴール】と定義するのは論理的におかしいのではないかという訳です

あくまで生きている間に悟ることがゴールで在り、
生きている間に悟らなければ
修行した甲斐がないという訳です。
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Unknown (Unknown)
2020-01-28 17:52:51
悟ったから、ゴールは死ぬことだとわかったのでは。
悟るは動詞。目的語を省略して、悟りと名詞にするから、わからなくなる。
○○○を悟るの「○○○」とは、具体的になに?
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Unknown (小坊主)
2020-01-28 18:06:04
>ニルバーナを目指すが
>ニルバーナを目指すのではない・・・

結局、言葉で表現することに限界があると言いましょうか。ニルヴァーナを目指すが、それは言葉で捉えることができないものなので、仮に、ニルヴァーナという言葉、概念をもって説明しているにすぎない、ということですかね。
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Unknown (Unknown)
2020-01-28 20:40:33
初転法輪では、かつての仲間五人に説法で悟りを得させたわけだから、言葉で伝えられたのではないでしょうか。言葉に表すことができないなんて、悟っていない人の言い訳か、あるいは何らかの意図を持った詐欺的表現じゃないのかなあ。
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Unknown (Unknown)
2020-01-28 22:38:48
人生を(スポーツの)レースになぞらえて、
「死」を最終到着点(=ゴール)だという表現法は有るでしょう。

しかし普通の人は
「死に向かって生きている」、「死を覚悟して生きる」、「死を受容して生きる」みたいに言うでしょう。

だからと言って「死」が人生の完成形だと言うのは少しおかしいと思います。
「死」は人の宿命だという事だけであって、生きる目標ではない筈ですから・・・通常なら。

しかし今回南さんが、あえて「死を目指して生きる」と言ったのは
釈迦の生き様を見ての南さん観な訳です。
つまり、南さんは釈迦の、いや、人間の有余涅槃を認めていないから、

ニルヴァーナとは無余涅槃のことである。ニルバーナとはブッダの死である。
修行で釈迦はニルバーナを目指した筈だから、つまり釈迦は死を目指して生きたのだ。仏教とはそう言うものなのである。
これが南流仏教解釈だという訳です。

別に何がどう悪いという事ではありません。ちょっと変わった考え方だと思うだけです。
つまり、生きてる間に釈迦は悟らなかった筈である。
生きて居ての修証一等も無いんじゃね・・・とか。
とまあそんなところでしょうか。

追。
だだ私が矛盾を感じるのは、
【超越を否定する人】にとっては、
死は(無余的)涅槃【寂静】という、
死者が感じているとされる「特殊な境地」などという事はあり得なく、

ならば涅槃絶無というべきで
境地も無し、死後の世界も無し、意識も無し、全てが滅失の、
永遠の絶対ゼロの事である筈なのだから、
人は「死を目指して生きる」何て言う表現は不可解で在るとは思っています...


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Unknown (Unknown)
2020-01-28 22:52:01
言語の問題
形而上あっての釈尊、
釈尊あってのナーガールジュナ
ナーガールジュナ道元親鸞哲学者あっての南さん
発見

諸行無常
言語内実存
諸法無我

縁起
そこからの命尽きるまでの慈悲 菩薩行
やりきった、涅槃
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Unknown (Unknown)
2020-01-28 22:57:37
>ooを悟る…とは具体的に何を悟る??

①.xx君流にいえば、
此の世を無常無我だと知った。
知ったら、アラ不思議、【苦】が無くなっちゃった。
今生きてる俺は最早、苦を感じる事が無いのだ、のだ、のだ!!・・・とまあそんなとこかと。

②.南和尚風に言えば、
そんな悟り何てこの世には無いのだよ。
ただ単に坐禅で得られる変性意識に自分流ストーリーを乗っけただけだ(喝‼)
・・・となるでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2020-01-28 23:09:19
>形而上あっての釈尊

?????
釈迦と形而上学は似合わない。

やり切った(から)涅槃・・・
「涅槃」即是「死」。
涅槃(永遠の滅失、全てが無と帰する)が人間の運命だ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 01:54:41
新命題が浮かび上がってきました。
此の世は「苦界」である・・・
いい事なんか一つも無いように見える。

・・・が悟ればこの世が「楽界」へと変わる。
此の世が美しく人生は甘美にみえる。
苦なんて一つも無い。

さてここで、
人が死なないとすると修行は成り立たないであろうか??

答え。「もちろんそんなことは無い。
誰もが修行して悟りたい。有余涅槃の寂静を獲得したい」。

だから有余涅槃を信じる人には
「死を目指して生きる」必要は無い、
・・・。

しかし
超越否定+有余涅槃否定なら、
君は幾ら修行しても何の意味も無い。

・・・とまあそれは禅僧風で過激発言だけど、
例え有余涅槃がなくても、修行すれば、
より清く正しい人生は送れそう・・・

そんな程度かな??
そんな境地、
別に仏教で無くても可能そうですかね。
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正確に理解をしてくださいね (イエスちゃん)
2020-01-29 02:21:03
『此の世を「無常」「無我」だと知った。
知ったら、アラ不思議、「【苦】が無くなっちゃった」。
今生きてる俺は最早、「苦を感じる事が無いのだ」・・・』

釈尊は「悲しみ」を感じる。
高弟達が、老いで、自分よりも先に亡くなっていったので。
きっと涙を流して、声を出して、泣いたであろう。
「お経」に、その悲しみ嘆きが、記録されているから。

しかし、それを「苦」にしなかった。
「諸行無常」と知ってしまったから。


釈尊は、老いの体に鞭打って、最後の旅を続けた。
「老いの体」はボロボロで、その痛みが強い。
まるで、ガタガタの車を、紐で縛ってバラバラにならないようにして、運んでいくようだ、と仰る。

しかし、その「老い」も、その「痛み」も、「苦」にしなかった。
「諸法無我」と知ってしまったから。

「悲しみ」も「痛み」も「老い」も、
そして「死」も、「苦」にしなくなっていた。


全てを、「自然に」受容できる「生き方」であった。

『「災難に逢う時節」には、災難に逢うがよく候
 「死ぬる時節」には、死ぬがよく候
 是はこれ災難を「のがるゝ妙法」にて候 かしこ』


「地震」や「津波」や「死」が、自分に「来たら」、
それを「じたばたさずに」「静かに」
受け入れる「生き方」であった。

「涅槃・ニルヴァーナ・寂静」。
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 02:32:58
初転法輪でも分かる通り
釈迦は有余涅槃した。

その後も哀しむ事もあったなら、
喜んで「やったぜベービー」って叫んでも居たろうか。

涅槃寂静という言葉の再定義が
必要になりそうだ。
それと悲しみと苦とは別であると言う論理は何処にあるかとか・・・
だいたい「苦」ってなんだよ・・・とか。
xx君の言ってる事はオブラートにつつんで巧みに偽装した単語集みたいに見える。
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「禅定」「坐禅」の体験が必要 (イエスちゃん)
2020-01-29 02:59:14
『初転法輪では、「かつての仲間」五人に説法で悟りを得させたわけだから、
「言葉で伝えられた」のではないでしょうか。』

最初に教えを説こうとした相手は、
釈尊に「禅定・坐禅」を教えた二人の師匠でした。
「禅定」がまだ浅い師匠と、より「深い」師匠との二人です。
しかし、二人とも既に亡くなっていたので、
仕方なく、次善の策として、
かつて一緒に修行していた仲間なら、理解が可能ではないかと考えて、何100kmも離れた場所にまで会いにいくのです。
そして、何日も徹底的に議論を続けたのです。
そして、ようやくひとり「コンダーニャ」が理解できたのです。

つまり、「誰でも」理解できる教えでないのです。

「禅定」「坐禅」という修行が必要なのです。

だから「仏教」には「出家」があり、「サンガ」を造ったのです。

そして修行が完成した「高弟達」は独立して、インドの大都市に「サンガ」を拡大・拡散していったのです。

「サンガ」こそが重要なのです。
「禅定」「坐禅」が。

最初に「本人の体験」があって、
「「その体験」が「それ」なんだ」と示すことが出来るだけである。

「熱い」は「言葉」で伝えることはできません。
「火に手で触れて体験する」で知るのです。
言葉の「火」は「熱く」ありませんから。
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「坐禅」は、眼を閉じてはいけません。 (イエスちゃん)
2020-01-29 03:28:17
『ちなみに僕は「ビパッサナー」をやろうとすると「目をつぶっている」のに眩しくなります。』

「インドのヨーガ」や、所謂「瞑想」などとは、「仏教」はまったく違います。

「坐禅」では「目を閉じて」はいけません。

「眼を開いた状態」で「眼」に「意識」を向けないようします。
「見えたまま」にして放置します。

「聞こえたまま」にして放置します。
意識しないようにして、
脳の活動を低下させ、「活性化」させないようにします。

「自己意識機能」「言語機能」も停止させます。

「鳥の「多様な鳴き声」を「何の鳥」かを判断しない状況に持っていきます。
これはトレーニング・訓練でできます。

要は「思考」を停止するのです。

「非思量」「思量に非ず」なのです。

そして、それは「梵我一如」ではないのです。
「梵我一如」は「有我」なのです。
「インドのヨーガ」は「有我」なのです。

「仏教」は「諸法無我」なのです。
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ご指摘ありがとう (k)
2020-01-29 04:35:32
ビパッサナーもヨガも試みた際(いまでも試みることは時折ありますが)、それぞれ指導者についてやっているので、坐禅と混同してはおりません。ご心配なく。わたくしには坐禅が一番難しいです(笑)。
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 04:47:29
xx君の主張展開の如く、
仏教は(何十年?もの)修行した結果、
悟りを開いて有余涅槃する事であります。

即席ラーメン『修証一等』など無いのであります。

でも運悪く一生懸命修行しても
やっぱり「悟り」を得られず、(有余)涅槃の寂静境地に成れなくても・・・

自分はダメだったけど、
兎に角、遣れるだけやったのだと、

自己受容が出来て
悔いなく死の床に就けるでありましょう。
「じゃあね、この世よ、おさらば仕りまする」・・・と。
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 04:58:18
>釈迦は弟子が死んだ時哀しみ嘆いたが、それは「苦」では無いのです・・・

って「それは苦で無くて楽の一種って事ですか??

釈迦が100万人の弟子を抱えていて
毎日2~3人ずつ死んで行ったら、
釈迦は涙が乾く暇が無くなる訳で、
それは「苦」でなくて何だって言うんでしょうかね。

それに「悲しむ」と言う行為は感情のブレそのものだから、
The「寂静」とは程遠い現象で、
仏教の言う「寂静理論」の妥当性を失する事に成りませんか?
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 06:18:38
仏陀は座禅をしたが、遊説もした。積極的にね。つまり、言葉を巧みに利用した。自分の考えを他者に伝えるために。炎の暑さは伝えられないというが、本当にそうだろうか。伝えるべき何かを、本当にわかっていないだけか、あるいは、別の目的があって真剣に伝えようとしていないのでは?
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「白髪」は「諸行無常」そのものである (イエスちゃん)
2020-01-29 07:12:13
「白髪」は「諸行無常」そのものである。
全ての人に「平等に」「いつかは」来る。

「白髪」を「気」にする人。
「白髪」を「苦」にする人。
「白髪」を「恨む」人。

「白髪」を「苦」にしない人。
「白髪」を「気」にしない人。
「白髪」を「気」にならない人。
さては、
「白髪」を「人生の勲章」として自慢する人。

「白髪」は「諸行無常」そのものである。
全ての人に「平等に」「いつかは」来る
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南師の説くように… (イエスちゃん)
2020-01-29 07:39:06
『あるいは、別の目的があって真剣に伝えようとしていないのでは?』

南師の説くように…
釈尊は「悟りの具体的な内容」を説明しなかった。

「悟り」に至る方法を、丁寧に説いた。

その方法は「八正道」である。

この「正しい方法」で修行すれば「涅槃寂静」に到達すると。

自分自身の体を動かして、実際に体験・経験するしかない。

「言葉」で知っても、無意味である。

「赤い」「林檎」も、
「赤い」を実際に知り、
「林檎」も実際に知るしかない。

外人に「納豆」をいくら言葉で説明しても「納豆」を実感できない。
実際に「食べさせ、経験させる」しかない。
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 08:48:36
それでも、仏陀は説法を死ぬまで続けた。「自分の言葉」で表現し続けた。
炎のあつさ。温い、暑い、熱い、痛い、そして、無感。人間センサーが破壊されるまで、様々な表現がある。どれを取り出して、さらにそれを具体的にどのように表現しようとするか。
言葉も、行動も、受け手の感覚によっても違うだろう。
ご自分の文字図らだけの理解に固執するのではなく、自分なりの表現や工夫がないと、何も伝えられない。他人の言葉を記憶しただけでは、理解されているとは思えない。
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皆さん、せっせと死にましょう。 (Unknown)
2020-01-29 10:23:24
南和尚の引っ張り出したい結論は、
仏教者とは「死を目指して生きる」群衆だと言いたいらしい。
それが他には無い仏教者独自の境地であるのだと。
死ぬ事によってのみ、その人が生きた意味が生まれる集団なののだと。

誰かがコメしていたけど、
特攻隊員や、自爆テロ集団と同じように、
死を果たしてこそ人が生きた意味が成り立つ集団…それが仏教者だ。

これが南和尚の理解する仏教の立ち位置なのであろう。
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 10:28:22
オームのポア思想?
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私見ですが (Unknown)
2020-01-29 14:24:41
ワタクシ思うには
今回の様な論議が起きるのは、
釈迦の死後、誰かが言い出した仏教スローガンの『涅槃寂静』という合成語から問題が派生して来ているように思われる。

涅槃即ちニルヴァーナとは元来、
「火が燃え尽きてしまって、(火と言う)存在が滅尽している状態」、が原義であると聞く。

其処から考えられるのは
輪廻の循環的再生産から離脱・解脱した故に
輪廻によって本来、繰り返される「苦」から永劫・永久に解放される…という意味でのニルヴァーナと、

その境地を表現するために、
安寧・平静という意味を込めた「寂静」という言葉を融合して、

『涅槃寂静』という熟語を作り上げたものと考えられる。

「超越的存在」を否定しない立場なら、
有余涅槃・無余涅槃の両方に、寂静は意味を持つが、

超越否定を前提とするなら、
有余涅槃としての涅槃寂静は意味が在るが、
死後の後の無余涅槃での涅槃寂静は意味がない。寂静で無くて絶無であるからだ。

超越否定・無余涅槃のみ認める、
という南和尚の場合、
涅槃に「寂静」という単語を添わせるのは論理的でない。
同じく「死を目指して生きる」という言葉も論理の整合性を欠く
…と思われる。
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実際に『阿含経』相応部を読めば解ります、それから議論を (イエスちゃん)
2020-01-29 14:52:09
実際に『阿含経』相応部を読めば、解ります、それから議論を…
根拠のない想像での「空論」はまずいです。

阿含経典〈1〉
「存在の法則(縁起)に関する経典群
人間の分析(五蘊)に関する経典群」
(ちくま学芸文庫)
増谷 文雄 | 2012/8/1

阿含経典〈2〉
「人間の感官(六処)に関する経典群
・実践の方法(道)に関する経典群
・詩(偈)のある経典群」
(ちくま学芸文庫)
増谷 文雄 | 2012/9/1

阿含経典〈3〉
「中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集」
(ちくま学芸文庫)
増谷 文雄 | 2012/10/1
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 15:19:06
あくまで死であり、「涅槃寂静を目指して生きる」とは言われていない点をみると、それは意味するところが違うのではないでしょうか。

何にしてもでしょうが、我々が何を目指そうと、我々には「死の手前」までしか為すことはできないのですから。


返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-29 16:02:07
お経は全て仏陀が死んでから100年以上もの伝言ゲームしたもので、しかも翻訳者の誤訳も入っている。私たちは、それを踏まえつつ、想像で推論するしかない。すべては、空論であろう。それを受け入れた方がいい。
色即是空、空即是色。
返信する
只ひたすらに寂静を目指すぜ! (南天)
2020-01-29 16:18:40

と、気合いが入り過ぎると逆効果なのが難点。

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Unknown (Unknown)
2020-01-29 16:37:22
阿含経(相応部、サンユッタニカーヤ)では
終始、現法涅槃(有余涅槃)の境地が説かれている。
だから涅槃【寂静】でよい訳である。

南和尚が何故、死によってしか生きる意味が無い(=自己の存在は死によってのみ意味を持つ=無余涅槃が無ければダメだ)みたいにいうのか、
サンユッタニカーヤを幾ら見ても、
理解不能と言わざるを得ない。
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それは死が希望だから。 (Unknown)
2020-01-29 21:38:47

>死によってしか生きる意味が無い(=自己の存在は死によってのみ意味を持つ=無余涅槃が無ければダメだ)みたいにいうのか


それは死にたいから。死の無い生は絶望だから。

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Unknown (Unknown)
2020-01-29 21:50:39
ヤッパリ其処へ行くかな。
まあ悟れない苦衷の個人としてはしょうがないな。

でも南さんは仏教者の特徴とし今回のタイトルを付けたわけだよ。

仏教者以外は、「死を目指さないで生きる」って言ってる訳だよ。

仏教者は「悟りを目指して生きる」って言うべきでは無かったのかねェ~。

悟りって有余涅槃(現法涅槃)の事だよ。
相応部(阿含経、サンユッタニカーヤ)が繰り返し繰り返し説いている説法だよ。
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論理の不整合性 (Unknown)
2020-01-29 21:58:00
死の無い生は絶望だって誰が決めたの??

現法涅槃(有余涅槃)を得た覚者でも、
死が無い生は絶望だって言ってる訳なのかな?

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Unknown (Unknown)
2020-01-29 22:04:03
絶望では無くて
恁麼(いんも)でしょう、恁麼!!

ウジも女性の体もウンチも汚くないよ、恁麼だよ。インモウンチ、インモ隊。
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 22:21:57
死を目指して生きる(by 新型コロナウィルス)

悟りを目指して生きる(by 仏教者)
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 22:33:14
「死」「涅槃」も当人でしか分からないから同じ
死ぬまで頑張りましょう、助けられ、助け、他者と仲良く
人間の言語内実存の宿命、諸行無常、諸法無我を知りながら、他者を頼り、頼ったら大切な人が自然に増えるような
たまに甘美だなって思います 楽しいなって
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Unknown (Unknown)
2020-01-29 22:59:51
現世涅槃なら当人は分かるが、

死は当人には分からない(・・・非超越派の場合)。

死が分からないから
分る現法涅槃を目指す。

たまに甘美だなって思います、楽しいなって・・・此れは正論
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コロナとインフルが違うように (Unknown)
2020-01-30 00:11:30
悟りと涅槃も違うよ。

たぶんだけど。
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Unknown (風子)
2020-01-30 23:16:30
今回の提唱は高度で深遠でとても歯が立たない。仕方がないのでこの本を読んで慰めています。
サブタイトル
生きるって、死ぬほど大変。まぁ、色々あって絶滅したんですけどね。
タイトル
「古生物のいたたかな生き方」
目次
*ハッタリが効かない相手もいる。
・・・と知っておくべき?
*とんがって生きる?平凡に生きる?
・・・どっちにせよ滅ぶときは滅ぶからお好きなように
*ひねくれたって成功できる。
*変われないならかわらなくてもいい
*先駆者であれ

面白い本であった。
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