思いつき禅問答シリーズ。(これで何回目か?)
ある修行僧が趙州従諗禅師に質問しました。
「禅師は何ものなのですか?」
即座に禅師は言いました。
「東門、西門、南門、北門、だよ」
この問答は、普通は次のように解説されます。
冒頭で修行僧は「本来の自己」、あるいは「真実の自己」とは何かを問うている。これに対して、禅師の答えた四つの「門」は、要するに方便として使う言葉のことだ。
つまり、「本来の自己」そのものを言葉で表すことはできないから、様々な方便で「真理」の在り処を比喩的に示すほかはない。それは門構えから中にある屋敷を想像させるようなものなのだ。
私はこの解釈をとりません。禅師が門にしか言及しない以上、中に屋敷があるかどうかなど、わかりません。「門だけしかない家」なのかもしれません。この場合、「家」が「自己」で、「屋敷」が「本来の自己」を意味します。
もし、門以外どうしても見ることができない、ということになると、我々は多くの場合、中に屋敷がある前提でものを考えるでしょう。すると、見えないことに耐えられなくなった誰かが、「見てきたような嘘」で屋敷の様子を語るかもしれません。
仮に多くの人がこの家に非常に興味があり、屋敷を見たいと常々思っていたら、この誰かが語る「屋敷の様子」に感心したり、大いに満足するかもしれません。
この屋敷話が大ウケするとなると、ウケ狙いでまた別の誰かが「見てきたような嘘」を言い出すかもしれません。これもウケたとなると、さらに次々「嘘」が出て来て、それぞれにファンが付き、百花繚乱状態になるでしょう。
我々は屋敷話に乗るべきではありません。禅師が言うように、門だけの家を見て、そこに留まるべきです。一つの門から入っても、屋敷を見ないまま、別の門から抜け出てしまうような家なのかもしれません。
あえて言えば、その家で「暮らす」とは、この門の出入りを際限なく繰り返しながら、見ることのできない屋敷を仮設しては撤去し、建て直し続ける運動なのです。
ある修行僧が趙州従諗禅師に質問しました。
「禅師は何ものなのですか?」
即座に禅師は言いました。
「東門、西門、南門、北門、だよ」
この問答は、普通は次のように解説されます。
冒頭で修行僧は「本来の自己」、あるいは「真実の自己」とは何かを問うている。これに対して、禅師の答えた四つの「門」は、要するに方便として使う言葉のことだ。
つまり、「本来の自己」そのものを言葉で表すことはできないから、様々な方便で「真理」の在り処を比喩的に示すほかはない。それは門構えから中にある屋敷を想像させるようなものなのだ。
私はこの解釈をとりません。禅師が門にしか言及しない以上、中に屋敷があるかどうかなど、わかりません。「門だけしかない家」なのかもしれません。この場合、「家」が「自己」で、「屋敷」が「本来の自己」を意味します。
もし、門以外どうしても見ることができない、ということになると、我々は多くの場合、中に屋敷がある前提でものを考えるでしょう。すると、見えないことに耐えられなくなった誰かが、「見てきたような嘘」で屋敷の様子を語るかもしれません。
仮に多くの人がこの家に非常に興味があり、屋敷を見たいと常々思っていたら、この誰かが語る「屋敷の様子」に感心したり、大いに満足するかもしれません。
この屋敷話が大ウケするとなると、ウケ狙いでまた別の誰かが「見てきたような嘘」を言い出すかもしれません。これもウケたとなると、さらに次々「嘘」が出て来て、それぞれにファンが付き、百花繚乱状態になるでしょう。
我々は屋敷話に乗るべきではありません。禅師が言うように、門だけの家を見て、そこに留まるべきです。一つの門から入っても、屋敷を見ないまま、別の門から抜け出てしまうような家なのかもしれません。
あえて言えば、その家で「暮らす」とは、この門の出入りを際限なく繰り返しながら、見ることのできない屋敷を仮設しては撤去し、建て直し続ける運動なのです。
あとドラえもんのどこでもドア。
何故か、杜子春に出てくる唐の長安の…。と言う話を思い出しました。
移動の多い南さん、何かと気をつけて下さいね。
中の様子は、決して此方からは見れないけどね!
読書も探しやすいでしょうし。
(修行していない)
仏弟子は屋敷話をしない。
(修行している)
僕は私流でこう考えるんだがどうだろか?
四方八方、高い白壁で囲われて、
東西南北には大きな閉じたままの門が有る。
内部の様子は全然分からない。
蟻の穴みたいなスキマを覗いて見ても、
全く内部の様子がよく分からない。
でもその穴から、人は妄想を膨らませて中はどうだったこうだったと勝手に物語をつくって巷に喧噪する・・・。
言わんとする処は、
幾ら瞑想・只管打座しても、得られるのは単なる変性意識だ。
やれ悟りだの、仏に逢ったとか、真理を発見した、なんかというウソぱっちな物語を作り上げるな。
禅定などが普遍の真理であるなどと思うな。
個人的主観にすぎず、妄想・錯覚と区別がつかんじゃないか。
仏教の境地とはそんなもんじゃね~だぜ。
モット理知的・理性的なモノであるべきなのじゃ・・・と。
(立派な、「修証一義」否定派ですな!!)
他人には俺の事が分からない、
おれも自分の事が分からない。
何もかも分からないから
人生とは絶えざる『スクラップ&ビルド!!』
「仏というもの」はない。
「仏という生き方」だけがある。
「東門、西門、南門、北門、だよ」
「どの方向の衆生でも、通して上げる働き、だよ」
「仏教」は「カルマ論」「業論」「行為論」である。
「仏の生き方」をしている間が「仏」である。
「仏の生き方」を止めたら「衆生」である。
自分は「衆生を通す働き」そのものである。
「東門、西門、南門、北門、だよ」
中国の都市は、分厚い城壁に囲まれていて、
東門、西門、南門、北門を、夕には閉じて朝に開け、夜間の襲撃を防いだ。
農民も、夜は城内で暮らし、都市から農地に出勤していた。
つまり、「安全地帯へ通す働き」である。
vs
B.阿修羅撹乱
南和尚の定義によれば、
Aはバーチャルで、Bがリアル。
決め手は他人の頬っぺたをペンチで思いっ切りひねり潰してみる事。
仏という者も無い。
ブッダは仏では無い。
ただあるのは
人間が勝手にこしらえた神という概念、仏という概念、即ち善という概念だ。
人は善という概念、即ち架空・空想の物語りに寄り縋ることによって、
此の世をつつがなく生きて行ける。
(と道元さんが言ってるかな?、
かなかな???)
黄門もいいけど禅門もいいよね。