恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

三つ子の偏見

2010年09月10日 | インポート

 幼い頃の考え方や習慣などは、大人になっても変わらないことを喩えて、「三つ子の魂百までも」と言ったりしますが、私なんぞはまさにそのとおりで、ものの考え方や感じ方のおおよそは、まるで成長がなく、子供の頃と変わらないままです。

 とりわけ、無防備な頭にビルトインされたいくつかのイメージは抜き難く、ほとんど「偏見」のまま固まってしまいましたが、後にそのイメージを雑多な書物から引き出したアイデアで言語化する作業をしてみると、結構、ものの見当がついたりしました。

 おそらく、小学校の4年か5年生の頃です。社会科の授業で工場見学というものがありました。無論、そういうところを実際に見るのは初めてで、学校嫌いの私も、かなり楽しみにしていました。

 行ったのは缶詰工場で、確か同級生の父親が働いていて、丁寧に案内してくれたと思います。

 私たちが入っていくと、だだっ広い工場にはいろいろな機械がところせましと並べられ、その合い間合い間に、白い帽子と白いマスク、白い手袋に白い服の従業員が立ち並び、彼らを縫うようにベルトコンベアが張り巡らされ、大量の缶が列をなして流れていました。

 みんなでそれを眺めながら、説明を聞いているうち、私は急に、どうもどこかで見たことがある風景だと思い始めました。工場など、入るのはこれが初めてなのに、何か知っているところのような気がする。

 私は妙な不安に襲われ、説明や見学など上の空で、どこで見たのかを必死で思い出そうとしました。そして、散々考えたあげく、ようやく思い当たったのです。ああ、ここは病院と学校に似ている。缶詰はぼくだ。

 当時病弱だった私が馴染みの病院も、行くのが億劫だった学校も、工場そっくりだ。だからイヤなんだ。私は、医師には恩義を感じていたし、好きな教師もいたのに、なぜ、病院や学校に生理的な嫌悪感があるのか。そのとき私は、ありありとわかったのです。ぼくが缶詰にされるからだ。

「おじさんたちは、みんなにおいしく食べてもらえる缶詰を毎日一生懸命作っています」と、門まで我々を見送ってくれた同級生の父親に言われたとき、私は、ぞろぞろと門から出て行く自分たちが、その先で待っている世の中の大人に食べられていくような感じがしていました。

 その日、おみやげに桃の缶詰をもらったのですが、これ以後長いこと、私は果物の缶詰が食べられなくなりました。缶詰を開けると、中身が自分の脳のような気がしたのです。

 このときのイメージが、私の「社会」のイメージの原型です。常に高効率で大量の生産と消費と交換を求められる市場経済社会で、それにふさわしい規格どおり製品としての人間を制作する学校。規格外製品や不良品を選別し、修理するか始末する病院。善い悪いはともかく、そういうシステムを前提に動いているのが我々の社会だろう・・・・、後に中途半端な知恵がついてきたときに、考えたことの大元は、結局、あのときの工場見学でした。

「偏見」はまさに斥けるべきです。しかし、それがどういう「偏見」なのか、なぜそんな「偏見」を持つようになったのか、それをきちんと考えることは、「偏見」を解体するために必須である以上に、そこから人間の在り様を学び取る、きわめて重要な方法だと思います。


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16 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ランビック 様 (スイートスタウト)
2010-09-19 08:48:21
ランビック 様

> 一つに纏められるのは難しいのではないかと、書いている内にふと思いつきました。

 おっしゃる通りだと思います。ある「事象」に関する「認識」が正しいかどうか、を問う際、その「評価基準」によって、その「評価結果」(「正見」か「偏見」か)は、どちらにも、転ぶかもしれません。
 車の例では、「設計思想」に関する「評価基準」として、「機能」面だけでなく、例えば、「エコ」や「性能」、「デザイン」という新たな基準が設定されると、やはり「評価結果」が変わる可能性があります。(「評価基準」もまた、「正見」か「偏見」か、その内容とともに評価しなければならないでしょう。)
 「評価基準」に限らず、「事象の性質」(認知可能か不可能か、形の有るものか無いものか、静的か動的か、単純か複雑か、確実か不確実か、自然か不自然か、計量可能か不可能か、など)や、「事象」に対する人間の「認知能力」(知識量、情報収集能力など)、「認知能力の個体差」、「認知バイアス」、「信条」(その有無や内容)などなど、「正見」を問う際には検討するべき要素がたくさんあると感じます。
 そのような要素をかかえたものを、「少人数」の間ではともかく、「より多くの人」の間で、「一つに纏める」ということは、容易ならざるものであり、また幻想かも知れません。
 今、私の目の前に小学校の卒業記念でもらった「思い出」の文鎮があるのですが、たかだか、そのひとつの文鎮でも、その文鎮に関する私の「認識」と、皆様の「認識」は、「異なるところがある」、といっても過言ではないでしょう。
 果たして何をもって「正見」とするのか、その「共通認識」さえもないような気がいたします。その言葉の内容に「完全性」、「絶対性」を求めるのかどうかも含めて。
 そもそも「正しい」という形容詞をかんがみれば、最後は感覚的に総括されるものなのかも知れません。
 以上、どこまでも「あやふや」な「偏見」でした。ありがとうございました。
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心理的な原風景については、社会というよりも、小... (南京ハゼ)
2010-09-18 22:39:58
心理的な原風景については、社会というよりも、小さな子供ながらに周りの大人達のその場その場の真偽をどこか傍観者のように見ていた気がします。きっと子供は皆そうなのかも知れませんが、何故か確信を持って、それは嘘だと心の中で言い切っていました。

年と共に何故嘘をつかなくてはならなかったのか、また自分が偽りだと感じることを正しいと信じている人もいるんだな…いろいろとあるとなんとなく知ってゆきました。

ただ、今思うのは、自分のモチベーションによって左右されること、それだけは避けたい…自分の大切にしたいと思う事においては、意識できる範囲は限られ狭くても、いつでも気付けるようになりたい…と切に思います。

ともすると、厄介な私という墓穴を掘ってしまいますので、呆けて空を眺めるような無責任さでありますが。
主観でしかありませんが、言葉というものを漠然と考えた時、勿論様々の場合があるかと思いますが、会話で2割、文章で6割位が良いところなのかな…と思ったりします。言葉がいかようにも理解、利用され得る危うさや際どさをつくづく感じます。核心においては、自然を眺めたり手を合わせたりという時に自分の中で自由にあるくらいかな…というような気が致します。
訳の分からぬ事を長く失礼致しました。
涼しくなり夏の疲れがでる頃ですが、どうぞご自愛くださいますよう心よりお祈り申し上げます。

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 方丈様、ペールエール様、今私が抱えている問題... (ランビック)
2010-09-18 11:36:35
 方丈様、ペールエール様、今私が抱えている問題を整理してくれるようなお話をしていただき、誠にありがとうございます!
正直、やられた~と感じております(笑)

 魂を磨くためには人と交わらなければいけないと、私の尊敬する方も申しておりました。全くその通りだと思います。人と交わらなければ、偏見も差異も分からず、それらが分からなければ他人も社会も自分すらも分からない、本当にそう思います。

 また私はtwitterでは、自分とは相容れない考えを持っていたり、実社会では接点が極めて薄い人達からもその考え方等も積極的に学ぼうとしております。(まるでtwitterの良さばかりを宣伝をしているようですが、同時にそれに伴う大きな欠点も感じております。全部良いものはなかなか少ないようです)

 その過程の中で、「ああ、違うと思っていた人とは案外根元が似通っているけど、ある所から枝分かれしたんだなあ」と思ったり、「やっぱり根本とする所から違うのかなあ・・・」と思うことがあります。

 例えて言うならば、同じ車というカテゴリーであっても、バスとスポーツカーは外見は大きく異なるものの「人を乗せて運ぶ」ことを中心に、クレーン車は「クレーン機能」を中心に設計されております。

 それぞれの設計思想は決して間違いではなく、恐らく「正見」というのも、どこかで共通するものを有するのかもしれませんが、一つに纏められるのは難しいのではないかと、書いている内にふと思いつきました。
(ペールエール様も「正見」を問うと奥が深いとおっしゃっておられますが、私の考えるような小さな事も含まれるのでしょうか)

 駄文ばかりを重ねて申し訳ございませんが、「偏見」と「正見」とを見据えて、少しでも生きていくことが軽やかに、健やかになるよう努めていきたいと思います。
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 「偏見」が「偏見」と分かるには、「正見」を認... (偏見論者 with ペールエール)
2010-09-17 23:24:48
 「偏見」が「偏見」と分かるには、「正見」を認識し、「正見」と区別ができるということだと思います。ただし、「正見」が「正見」であることの証明は、「私」一個人の頭の中で完結するものではないと感じております。(「私」が恐る恐る書いているこの文章もまた、「偏見」に過ぎないでしょう。)
 「私」の「偏見」が「正見」であることを証明するためには、まず第一歩は「私」の「偏見」は、多くの人の目にさらされる必要があるように感じます。
 そうして「正見」らしいものに少しずつ迫っていかねばならないと存じます。(「正見」とは何か、これも、中身を問うと、奥が深いと感じておりますが・・・)
 その先は、きっと、「辛抱強く、手間をかけながらメンバーの努力で改良していく」(院代様の記事「はばかりながら」より勝手に引用)ということでしょう。
 最近、Twitterなるものをひそかに垣間みはじめましたが、もう、それは、それは、「偏見」がうようよ(もちろん、この感想も、「偏見」なのですが・・・)。 しかし、そんな「偏見」が叩き上げられるツールとして、少なくとも「バニラ香日本酒」様のおっしゃる、「鎌倉時代」にはなかったものかなぁ、と感じております。
 今日は酔いのついでに失礼いたしました。院代様、ありがとうございました。
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帰郷した折、子供の頃の作文、日記などを読む機会... (バニラ香日本酒)
2010-09-15 11:46:18
帰郷した折、子供の頃の作文、日記などを読む機会がありました。
嫌なほど「今の私」と変わらない自分を見出し、成人以降の私しか知らない妻とともに、大いに苦笑しました。

『「偏見」はまさに斥けるべきです。しかし、それがどういう「偏見」なのか、なぜそんな「偏見」を持つようになったのか、それをきちんと考えることは、「偏見」を解体するために必須である以上に、そこから人間の在り様を学び取る、きわめて重要な方法だと思います。』

大変勉強になります、本当にありがとうございます。
好ましくない偏見とともに、好ましい(と思っている)偏見も見つめなおし、解体した上で、再構築することが、本当に重要だなあと思っております。

特に私など、今は物事がうまく運ばず、停滞し、閉塞感を感じており、なおかつ、納得しなければなかなか重い腰が上がらない厄介な性格なので、この分析作業を行っていきたいと思っております。

また、『性格自体に焦点をあてず、好ましくない結果を生み出すクセを自覚して、そのクセのみを治してゆくことが快適に生活するためのコツ』と、プロのギャンブラーから伺ったことがあります。
時折、自己嫌悪に陥ることのある私には、大変良いことだと思って実践しております。

人の性格を土台から変えるのは途轍もない危険性を伴うような非常に困難なものなので、この行動と、この度の方丈様のおっしゃる分析を通してよりよく生活していきたいと思っております。


所で、日本人の精神的な閉塞感を歴史的に考えると、平安末期が連想されてなりません。その後、その閉塞感に対応するように「鎌倉仏教」が勃興したのではないかと思われます。
日本人の造りかえる力が発揮されて、後世から「平成仏教」と言われるものが出来たらいいなあ、などと無責任に夢想しております。。。


また話は代わりますが、twitter機能が外されて少々残念です。twitterでは、自分がfollowしている有名人の幾人かが、方丈様と是非とも御対談の機会を持ちたいとつぶやいておりました。類は友を呼ぶではありませんが、私が敬意等を持っている方も、やはり同じようなお考えを持っているのだなあと思いました。
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>ものの考え方や感じ方のおおよそは、まるで成... (風蓮)
2010-09-15 08:04:16
>ものの考え方や感じ方のおおよそは、まるで成長がなく、
>子供の頃と変わらないままです。


っと冒頭で書かれていましたが、方丈様、「今、現在」は子供時代の閉塞感の呪縛から解放されていますか?

桃缶は、所詮、桃缶。
方丈様の市場経済、学校、病院等に対するイメージも「極」に偏っているように思いました。

ところで、今度は、仏教という思想、意味づけに呪縛されているということはないでしょうか?







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失礼いたします. (えいしん)
2010-09-13 10:30:55
失礼いたします.
三つ子の魂。。幼少の頃。。。
自分は友達がリリーの缶詰の社長さんの所の子だったので、
小さい頃から缶詰=お金持ち
ってイメージが、、、、、なさけない。。。

缶詰といえば、ホワイトアスパラ。高級なサラダに一本だけ乗っかっていたものでした。

大きくなって一人で稼げるようになったら(自活したら)一缶まるごと食べるのが夢でした.

東京に出てきて、初めてもらったお給料でアヲハタのアスパラを一缶食べたとき、一人前になったなあ。と感慨にふけりました。(笑)

私の缶詰の思いは、方丈様のような哲学ではなく、大人になっても、幼稚なもので、あまりの次元の違いに愕然としました。そして今でも、嫌なことがあるとアスパラを一缶食べている、成長のない自分です(恥)
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恐らく下の方はこのブログの主旨は永久に理解でき... (Unknown)
2010-09-12 22:20:30
恐らく下の方はこのブログの主旨は永久に理解できないのでしょうか。他のブログでご活躍できる方だと思います。
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テーマと全然関係ないんですが、8月末に恐山に行... (myotoku)
2010-09-12 10:34:30
テーマと全然関係ないんですが、8月末に恐山に行ってきまして…けっこう期待して行ったんですが、低級霊もいねーし、ガイドに連れられた妄信者ばかりだし、ほんとうに昔の人の造ったテーマパークという感じで大したものはなかったのですが…3体ほど居りましたね。神クラス。
2体は自然物に、1体は造形物に宿っていました。あんまり関係ないんでろくに挨拶もしなかったんですけど、世の中には知りたい人もいるんじゃないかと思って、コメントすることにしました。
詳しくは知りませんがその1体がこれ↓
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d5/Jizo-osorezan-jpatokal.jpg
どうせ拝むんだったら、この方にお供えして願掛けたほうが良いのにな~とか思いながら帰ってきますた。
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三つ子の魂・・・。 ()
2010-09-12 08:28:41
三つ子の魂・・・。
人間として生れて、夢の中に未だ居るようなこの大事な時期に・・・。
親からの虐待、叱責などを受けて育ってしまう子供たちは、将来、どんな大きな解体作業をせねばならないのか?
・・・と、現代社会の今時のニュースを聞くと痛ましい気持ちになります。
私自身、4人の子の子育てが充分上手く出来たとは、思えず後悔をする日もある。

いつも優しい母でいられるわけもなく、自分との葛藤の中で子供と向き合うのは、切ない時もあった。
それにしても。。。
何も抵抗出来ない自身の子を虐待する事実を肯定できる理由は、何1つないのでは・・・。

三つ子の魂の中に憎悪という偏見が膨らまないようにと、願うしか出来ない自身もまた、はがゆいばかりです。
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直哉さま こんにちは (ルート2)
2010-09-11 11:27:44
直哉さま こんにちは

品質、価格が安定した商品を世間は求めるんですね。 モモ缶も 人間も 否定はできない。
味付けやサイズなど時代によって好みがかわるんだよね

規格外は当たればいいけど外れもある。
外れに近い私は、小さい頃からモモ缶にあこがれた
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ベルトコンベアーに乗って生きる人生もまた良しと... (ROMROM)
2010-09-11 09:32:31
ベルトコンベアーに乗って生きる人生もまた良しと思ってもいいのではないでしょうか。
ベルトコンベアー自体は仮想の現実であっても、それを前提に社会が成り立っている現実があれば、そのコンベアーのうえで楽しく生きる術を模索するのもありかなと感じています。
もちろん仏教とは異にするスタンスだということは承知のうえで。いかがでしょう。
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 幸か不幸か、比較的自分が納得できる方向を選ぶ... ()
2010-09-10 21:02:09
 幸か不幸か、比較的自分が納得できる方向を選ぶことのできる生き方をしてきた私は、「社会」を「缶詰工場」のようだ、と思ったことは無いようです。
 しかし多くの人が優良な規格品であろうと努力しているかもしれない社会の中で、規格外の缶詰でいることは多少の苦労を伴うのかもしれません。優良な規格品であろうとするのと同じ位に。そして、その苦労は、とても理解されにくいのです。
 
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今回の南直哉和尚の投稿は、ミッシェル・フーコー... (樹慶三)
2010-09-10 13:18:51
今回の南直哉和尚の投稿は、ミッシェル・フーコーが言っていることとほぼ同じです。これからは、学校では学ぶことが面白く、病院では治すことが楽しく、工場では働くことに意味を見いだせるように、そして子供たちが成人して飛び込む社会が、市場や経済価値だけではなく、ご縁がいかされる世の中にしたいと思います。
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南方丈様 (虚空)
2010-09-10 12:31:31
南方丈様

朝夕…涼風が心に空いた心穴を吹き抜けるような白露の候…
南方丈様…如何お過ごしでいらっしゃいますでしょうか?


人間、この世に一度…生み出されてしまえば、皆…何がしかの?
三つ子の魂を抱え…

心穴に蓋をしたり…心穴を開け放ったり心穴、缶詰めになったり…
心穴、缶詰めにされたり

人間(大人)がつくり出した社会という風が…あたかも自然を装って吹いてきます。

心穴を吹き抜ける世の風~冷たくもあり、温かくもあり~

如何様にも吹き…
思いどおりになることなど何一つ無いようです。

此度の南方丈様の問い…私めも幼少の頃思いだしました。

生来?不器用な私めは3歳でアウトサイダー園児!
生きるとは何?

死ぬとは何?

今ここ私って何?

考えたって分かりっこない事を延々と考えてたりして…
周囲の大人達から『こまっしゃくれた子だねぇ…困ったもんだ。可愛いげがない子だ…』と、世間様の風あたりまくり?だったこと思いだしました。

私も三つ子の魂の偏見の解体…自己に深く問うてみます。

南方丈様…有り難うございます。

合掌 虚空 拝
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在り様を学び取る・・・頑張っております (弄精魂)
2010-09-10 10:37:06
在り様を学び取る・・・頑張っております
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