お集まり方々、それではこれから、ご一緒に坐禅をしてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
昨今では、坐禅や瞑想がある意味ブームの様相を呈しておりまして、皆さんもその辺の事情はよくご存じでしょう。
さて、そのような様々な坐禅・瞑想をざっと見渡した時、私が感じるのは、手足の組み方や姿勢の制御、呼吸の仕方など、身体的技法や作法については、大差がないということです。少なくとも、違いより共通性がはるかに大きい。
違うのは、坐禅・瞑想を語る文脈です。つまり、何を問題にして、あるいは狙って、それを行うかということです(「見性」「非思量」「マインドフルネス」「気づき」、エトセトラ)。そしてこの違いが、坐禅・瞑想中の意識をどう誘導していくかに、大きく関っているのです。
そこで、具体的な坐禅の作法や仕方を説明申し上げる前に、これから坐禅を行う狙いについて、若干のご説明をさせていただきます。
皆さんは別に修行僧になろうというわけではなく、お仕事をお持ちであり、それぞれに家庭での生活もおありでしょう。その日々の中で今坐禅を学ぼうというわけですから、それは「坐禅を日常生活に活かす」という類の文脈に乗ることになるのでしょう。
とすると、この場合、よく坐禅希望者から聞く話は、仕事や家庭での喜怒哀楽、さらに嫉妬や忍耐、誇りや傲慢、などの感情や態度に翻弄される自分の心身の疲れをなんとかしたい、考えすぎて煮詰まった頭をなんとかしたいということです。
これには、これからご紹介する坐禅は、一定の効果があります。つまり、意識のクールダウンは、坐禅の基本的な効能だからです。
私は、時として、様々な困難や苦しさを抱えた方のお話をうかがいますが、そういう時いつも思うのは、苦しさを何とかしたいと思うなら、まず自分が何を欲望しているのか、あるいは何を問題にしているのか、そしてその欲望と問題をめぐる当事者の人間関係がどうなっているのかを、具体的に明示的に明らかにしなければならないということです。
このとき、そのような明らかにすべき欲望や問題の正体を幾重にも覆って見えなくしているのは、まさに先に挙げたような種々の感情なのです。逆に言うなら、感情が波立って苦しいと言うなら、そのような感情の問題はほとんどが実は考え方や認識の歪みに由来するということです。
したがって、まずはこの感情を冷やし、しばらく除去して、見るべきもの、己の欲望や人間関係の在り様を露わにしなければなりません。坐禅はそのために、非常に有効だと言えるでしょう。
それは、坐禅で冷たく静かな視座や視点を確保して、自らの在り方を「見直す」ことなのです。
何かを欲望して(=何かを目的にして)全力疾走する者には、周囲の景色も自分の足元も、いま現在自分がどこを走っているかもわかりません。それは立ち止まらない限り、見えないし、わからないのです。
時々、できれば定期的に立ち止まり、どこから来て、どこに向かい、いまどこにいて、自分の心身状態はどうなのか、これらを見直し、点検すべきでしょう。それが確実な走りというものです。
私が今日皆さんにご紹介するのは、このような「見直す」ための基礎的方法としての坐禅です。では、これからご一緒に坐禅をしてみましょう。
昨今では、坐禅や瞑想がある意味ブームの様相を呈しておりまして、皆さんもその辺の事情はよくご存じでしょう。
さて、そのような様々な坐禅・瞑想をざっと見渡した時、私が感じるのは、手足の組み方や姿勢の制御、呼吸の仕方など、身体的技法や作法については、大差がないということです。少なくとも、違いより共通性がはるかに大きい。
違うのは、坐禅・瞑想を語る文脈です。つまり、何を問題にして、あるいは狙って、それを行うかということです(「見性」「非思量」「マインドフルネス」「気づき」、エトセトラ)。そしてこの違いが、坐禅・瞑想中の意識をどう誘導していくかに、大きく関っているのです。
そこで、具体的な坐禅の作法や仕方を説明申し上げる前に、これから坐禅を行う狙いについて、若干のご説明をさせていただきます。
皆さんは別に修行僧になろうというわけではなく、お仕事をお持ちであり、それぞれに家庭での生活もおありでしょう。その日々の中で今坐禅を学ぼうというわけですから、それは「坐禅を日常生活に活かす」という類の文脈に乗ることになるのでしょう。
とすると、この場合、よく坐禅希望者から聞く話は、仕事や家庭での喜怒哀楽、さらに嫉妬や忍耐、誇りや傲慢、などの感情や態度に翻弄される自分の心身の疲れをなんとかしたい、考えすぎて煮詰まった頭をなんとかしたいということです。
これには、これからご紹介する坐禅は、一定の効果があります。つまり、意識のクールダウンは、坐禅の基本的な効能だからです。
私は、時として、様々な困難や苦しさを抱えた方のお話をうかがいますが、そういう時いつも思うのは、苦しさを何とかしたいと思うなら、まず自分が何を欲望しているのか、あるいは何を問題にしているのか、そしてその欲望と問題をめぐる当事者の人間関係がどうなっているのかを、具体的に明示的に明らかにしなければならないということです。
このとき、そのような明らかにすべき欲望や問題の正体を幾重にも覆って見えなくしているのは、まさに先に挙げたような種々の感情なのです。逆に言うなら、感情が波立って苦しいと言うなら、そのような感情の問題はほとんどが実は考え方や認識の歪みに由来するということです。
したがって、まずはこの感情を冷やし、しばらく除去して、見るべきもの、己の欲望や人間関係の在り様を露わにしなければなりません。坐禅はそのために、非常に有効だと言えるでしょう。
それは、坐禅で冷たく静かな視座や視点を確保して、自らの在り方を「見直す」ことなのです。
何かを欲望して(=何かを目的にして)全力疾走する者には、周囲の景色も自分の足元も、いま現在自分がどこを走っているかもわかりません。それは立ち止まらない限り、見えないし、わからないのです。
時々、できれば定期的に立ち止まり、どこから来て、どこに向かい、いまどこにいて、自分の心身状態はどうなのか、これらを見直し、点検すべきでしょう。それが確実な走りというものです。
私が今日皆さんにご紹介するのは、このような「見直す」ための基礎的方法としての坐禅です。では、これからご一緒に坐禅をしてみましょう。
チェックしてみましょう。
行きはマラソン
帰りは戦(いくさ)
いま何時代?
立ち止まって観ましょうか。
子宮に帰れない切なさよ。
穴に戻りたい。
地上は目映ゆ過ぎる。
見直したら負けだもん
世直しをして下さい!
それもして欲しいけど、坐禅会の全国ツアーはどうですか?
大阪でやるみたいですけど、ウチは大阪も遠いンですよ。
個人的には関東地区でお願いします
感情など、屁でもないわい。
でも、坐禅は流行らせて下さい!
滅尽定しか興味ありません、あしからず。
どうぞ宜しくお願い致します。