お集まり方々、それではこれから、ご一緒に坐禅をしてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
昨今では、坐禅や瞑想がある意味ブームの様相を呈しておりまして、皆さんもその辺の事情はよくご存じでしょう。
さて、そのような様々な坐禅・瞑想をざっと見渡した時、私が感じるのは、手足の組み方や姿勢の制御、呼吸の仕方など、身体的技法や作法については、大差がないということです。少なくとも、違いより共通性がはるかに大きい。
違うのは、坐禅・瞑想を語る文脈です。つまり、何を問題にして、あるいは狙って、それを行うかということです(「見性」「非思量」「マインドフルネス」「気づき」、エトセトラ)。そしてこの違いが、坐禅・瞑想中の意識をどう誘導していくかに、大きく関っているのです。
そこで、具体的な坐禅の作法や仕方を説明申し上げる前に、これから坐禅を行う狙いについて、若干のご説明をさせていただきます。
皆さんは別に修行僧になろうというわけではなく、お仕事をお持ちであり、それぞれに家庭での生活もおありでしょう。その日々の中で今坐禅を学ぼうというわけですから、それは「坐禅を日常生活に活かす」という類の文脈に乗ることになるのでしょう。
とすると、この場合、よく坐禅希望者から聞く話は、仕事や家庭での喜怒哀楽、さらに嫉妬や忍耐、誇りや傲慢、などの感情や態度に翻弄される自分の心身の疲れをなんとかしたい、考えすぎて煮詰まった頭をなんとかしたいということです。
これには、これからご紹介する坐禅は、一定の効果があります。つまり、意識のクールダウンは、坐禅の基本的な効能だからです。
私は、時として、様々な困難や苦しさを抱えた方のお話をうかがいますが、そういう時いつも思うのは、苦しさを何とかしたいと思うなら、まず自分が何を欲望しているのか、あるいは何を問題にしているのか、そしてその欲望と問題をめぐる当事者の人間関係がどうなっているのかを、具体的に明示的に明らかにしなければならないということです。
このとき、そのような明らかにすべき欲望や問題の正体を幾重にも覆って見えなくしているのは、まさに先に挙げたような種々の感情なのです。逆に言うなら、感情が波立って苦しいと言うなら、そのような感情の問題はほとんどが実は考え方や認識の歪みに由来するということです。
したがって、まずはこの感情を冷やし、しばらく除去して、見るべきもの、己の欲望や人間関係の在り様を露わにしなければなりません。坐禅はそのために、非常に有効だと言えるでしょう。
それは、坐禅で冷たく静かな視座や視点を確保して、自らの在り方を「見直す」ことなのです。
何かを欲望して(=何かを目的にして)全力疾走する者には、周囲の景色も自分の足元も、いま現在自分がどこを走っているかもわかりません。それは立ち止まらない限り、見えないし、わからないのです。
時々、できれば定期的に立ち止まり、どこから来て、どこに向かい、いまどこにいて、自分の心身状態はどうなのか、これらを見直し、点検すべきでしょう。それが確実な走りというものです。
私が今日皆さんにご紹介するのは、このような「見直す」ための基礎的方法としての坐禅です。では、これからご一緒に坐禅をしてみましょう。
昨今では、坐禅や瞑想がある意味ブームの様相を呈しておりまして、皆さんもその辺の事情はよくご存じでしょう。
さて、そのような様々な坐禅・瞑想をざっと見渡した時、私が感じるのは、手足の組み方や姿勢の制御、呼吸の仕方など、身体的技法や作法については、大差がないということです。少なくとも、違いより共通性がはるかに大きい。
違うのは、坐禅・瞑想を語る文脈です。つまり、何を問題にして、あるいは狙って、それを行うかということです(「見性」「非思量」「マインドフルネス」「気づき」、エトセトラ)。そしてこの違いが、坐禅・瞑想中の意識をどう誘導していくかに、大きく関っているのです。
そこで、具体的な坐禅の作法や仕方を説明申し上げる前に、これから坐禅を行う狙いについて、若干のご説明をさせていただきます。
皆さんは別に修行僧になろうというわけではなく、お仕事をお持ちであり、それぞれに家庭での生活もおありでしょう。その日々の中で今坐禅を学ぼうというわけですから、それは「坐禅を日常生活に活かす」という類の文脈に乗ることになるのでしょう。
とすると、この場合、よく坐禅希望者から聞く話は、仕事や家庭での喜怒哀楽、さらに嫉妬や忍耐、誇りや傲慢、などの感情や態度に翻弄される自分の心身の疲れをなんとかしたい、考えすぎて煮詰まった頭をなんとかしたいということです。
これには、これからご紹介する坐禅は、一定の効果があります。つまり、意識のクールダウンは、坐禅の基本的な効能だからです。
私は、時として、様々な困難や苦しさを抱えた方のお話をうかがいますが、そういう時いつも思うのは、苦しさを何とかしたいと思うなら、まず自分が何を欲望しているのか、あるいは何を問題にしているのか、そしてその欲望と問題をめぐる当事者の人間関係がどうなっているのかを、具体的に明示的に明らかにしなければならないということです。
このとき、そのような明らかにすべき欲望や問題の正体を幾重にも覆って見えなくしているのは、まさに先に挙げたような種々の感情なのです。逆に言うなら、感情が波立って苦しいと言うなら、そのような感情の問題はほとんどが実は考え方や認識の歪みに由来するということです。
したがって、まずはこの感情を冷やし、しばらく除去して、見るべきもの、己の欲望や人間関係の在り様を露わにしなければなりません。坐禅はそのために、非常に有効だと言えるでしょう。
それは、坐禅で冷たく静かな視座や視点を確保して、自らの在り方を「見直す」ことなのです。
何かを欲望して(=何かを目的にして)全力疾走する者には、周囲の景色も自分の足元も、いま現在自分がどこを走っているかもわかりません。それは立ち止まらない限り、見えないし、わからないのです。
時々、できれば定期的に立ち止まり、どこから来て、どこに向かい、いまどこにいて、自分の心身状態はどうなのか、これらを見直し、点検すべきでしょう。それが確実な走りというものです。
私が今日皆さんにご紹介するのは、このような「見直す」ための基礎的方法としての坐禅です。では、これからご一緒に坐禅をしてみましょう。
ご存知のことでしょうが、問題は改善されているのでしょうか。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/rinshougaku/fl-gakuhihan/menu-e-gakusha.htm
くたばる喜びとっておけ。
https://m.youtube.com/watch?v=f3cvboHrUoI
聴いて下さい。
ー臨床仏教カウンセリングー
<こういう方法が、セロトニン神経を活性化させて、感情(仏教でいう貪瞋癡から起きる)のノル・アドレナリン神経を抑制するという。>
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shussoku-shoki.htm
坐禅会に参加する前に。
体操の内村選手が明かした。
<食事については「普段はバランスよく食べるようにしていて、試合1週間前になったら炭水化物がほしくなる。そこはランナーの方々と同じかもしれない」と話したが、その後に「朝起きて寝るまで1回しか食べない。あんまり真似しない方がいいかな」と、驚くべき事実を明かした。
大学生の頃から続けているそうで、食べるのは夜だけ。量についても「1回計ってもらったら、1000キロカロリーちょっとだった」という。
それでも練習前に食べると「やる気がなくなってしまう」そうで、「ここまでストイックにやってきてこれが1番合っている」と、もはや修行僧か仙人かというような食生活を明かした。>
坐禅の前に
食べるのを止めてみます!
「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし。但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし。是時初めて生死を離るる分あり。唯一大事因縁と究尽すべし。」
今回の記事は、『修証義』の言い換えでしょうかね。
『修証義』の第一章第一節は、その四苦八苦から逃げてはいけない。ゴマかしてもいけない。苦を正面から見据えて、苦しみのど真ん中であっても、めげずに生きていく覚悟をさとすお経なのです。
人間は苦を嫌い楽だけを求めがちですが、夢を追い求めて生きるのでは、いつまで経っても煩悩の虜となって苦しみが倍増するだけです。胆をすえて生き抜くことを教える『修証義』は、まさに禅の思想と教えであります。
はて、この仏教者の命題が、どれ程の大衆に、通じるのだろうか。
大阪のカルチャーセンターでの出来事でしたか。
残念ながら此方には、そんな高度な坐禅会は、ブームとなっておりません。
是非、全国展開も考えてみて下さい。
それで救われるなら、羨ましい限りです。
アーメン。
やはりニーズがあるってことでしょうね。
若い自分も、ある時から日記を捨てました。感情のオンパレードなだけで、実体視したり、紙の無駄遣いでしかなかったからです。
まあ一時、パソコンに打ち殴ることはありましたが、壊れたので読み直すことも出来ませんしね。
自分の感情を、どこに何を書いたところで害でしかなく、意味の無いことも知りました。
坐禅よ、ありがとうです。
翌日も同じく書いてスッキリした。
1週間後には紙に書くことが当たり前になり、結局書いてる内容も同じことなので馬鹿らしくなる。
結局経験でしか自分を変えられないと思った。座禅は補助的役割なのかなと思った。
自分は何の偏見もないのでアマゾンのシャーマンの儀式の方が本当の意味で自己を解体出来るんじゃないかな。自己を解体するには恐らく強烈な想像を超えるカタルシスが必要と思う。なので座禅は日常の補助ぐらいなのかなと思う。人それぞれ同じ座禅でも感じ方、体感、などは異なると思うのであくまで自分の意見です。
ですので坐禅は、自我を殺しながら生きることを、スマートに教えてくれる最善の策となるのです。
眼のない篩にかけられたんなら、結構なことだ。
下らない篩から、下らない篩をかけられても、粉々にはなれない。
私はまあ、わかる範囲の微々たるものでですが、徹底的に因果関係を暴き出し、さしてどうでもよいことに気を取られて疲れていた自分に気付き、坐禅によって、どうでもよくしてしまいます。
それでも浮かび上がって来たら、どうでもよくないことなのかを、再び検証するようにしています。
毎日の繰り返しで、余計なことを削ぎ落とされるようです。
good luck time 自分です。
そこからわい。
息を吸いながら吐くことなど、同時には出来んわいね。
せやろ?
波打ち際に立ち止またらな、息を吸うたり吐いたするんがな、ようけ身に染みて感じられるようになるわい。
真に生活を営むゆうんはな、さこからわいね。
>「坐禅を日常生活に活かす」という類の文脈に乗ることになるのでしょう。
これだと何だか、日常に活かしてはいけないような文脈に映りますが、対義的には、「坐禅で日常生活を殺す」となりますかね。
なお、「活かす」の反対語には、「棚上げ」や「消す」もありました。
これまで積み重ねてきた体験、自分を取り巻いてきた環境などに依る、思考のクセ、認識の歪み(言葉が妥当でないかもしれないが)である。「認知バイアス」などといわれる。
もっとも、それは、悪いものとも、良いものとも思ってはいない。それが、多様性を生むのであろうから。
南師のおっしゃる「在り様を露わにする」とは、このようなフィルタを外して、物事をあるがままに観る。ということではなかろうか。
このように受け止めることとする。廓然無聖。
「確実な坐り」
だけを、ご指導願います。
狙いは坐禅、のみで。
<国は放射能濃度が基準値以下の汚染土について、最大で99%再利用可能と試算し、県内の公共事業で再利用する計画を進めている。県外で最終処分するためにも総量を減らす狙いがあるとするが、地域住民から「放射線が不安」「事実上の最終処分だ」と反発が出ており、実現は見通せていない。>
国の統計とか試算とか、アテになるの?
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-003/
これも?
ここでは、全てを見直し「明らかにして」から、坐りましょうね。』
その通りです。
「正しい見」を持ち、「正しい定、禅定、坐禅」を行う。
「輪廻」も「極楽」も、みんな関係ない。
こんな変な日本語使わないために坐禅するでおk
ただヒタスラに坐りたいだけなのですが、ダメでしょうか。
煮詰まりコースと
ひたすらコースに
分けては頂けませんか。
釈迦が無記で示された生き方でもありましょう。
ここでは、全てを見直し明らかにしてから、坐りましょうね。
釈迦は順番が逆だったかと思いますが。
(漢字で表記すると、釈・一行)が
世界中に広めた「マインドフルネス」瞑想は、
臨済正宗の坐禅そのものです。
「マインドフルネス」とは「正念持続」の修行法そのものです。
中国は禅宗だけとなり、更に臨済宗が主流となり、それがヴェトナムに伝わったのです。だから、ヴェトナムは「大乗仏教」です。
ヴェトナム戦争の時、ガソリンを浴び、坐禅の姿で、政府の仏教徒弾圧に対して、「焼身で抗議した僧」のお寺に行きましたが、奥の方に膨大な僧侶の墓群があって、漢字で「臨済正宗xx世・釈yy」と刻まれていました。
「仏教」ですから、xxxに効果がある、
と言えるだけです。そして、
外の方法では「根本的に」治すことができない。
というのが限度ギリギリです。
道元和尚も「釈尊が用いた方法だから、坐禅こそ正しい方法である」と教えます。
後は、本人の決断だけです。
つまり、賭けなのです。
南師は「釈尊の仏教」に賭けた。
心を穏やかにする為の
「マインドフルネス」瞑想で無くて、
仏教で無くてはいけない理由って
いったい何処にあるのでしょうか??
皆様のご意見をお聞かせ下さい。
多くの仏教宗派は
極楽へ行く為には仏教遣らなきゃ駄目だとか、
輪廻から解脱する為に仏教を遣るんだとか言う様ですが、
一味違った南教としては
仏教で無ければダメだという理由は何なのでしょうか?
「少しは見直したら如何やす?」という御坊さんも、いらっしゃいますしな。
区別せえへんで欲しいどす。
お偉いさん、悟るまで、しごいてえな。お願いどす。
こうやってな、見直せば見落とししにも気づくわいね。
せやろ?
それでもカレーみたいにゴチャゴチャ煮込んだらな、すぐ食べるんやないわい。一旦火を止め、一晩寝かせば、味わい深くなるわいね。
何をどう調理するか、腕の見せどころわいね。
せやろ?
何をどう考えられるかが問題わいね。
その通りだと思います。
この記事の主眼はクールダウンなのであって、
どのように点検するかは本人次第だという話だと思いますよ。
問題の構造を明示化するのでしたら、紙とペンを持って、書き出す、括る、繋ぐ、といった作業をするほうが効果的であろう。
そのための準備として。つまり、坐禅をして頭をクールダウンするという狙いでしたら受領できるであろう。
そも、坐禅にあたって、お坊さんと一般人の区別などいらない。
このように感じた。
知ることは、習うこと
習うことは、問えること
いつでも習うことができる人にしか
問うことは出来ないというわけです。
禅定状態で、社会生活は出来ないのでは?
禅定は冷却解放状態
生活は年中稼働状態
原発の因果関係や、
社会構造を見直すことは出来ますか。
恐らく、答えを持つ者は、疲れないし煮詰まることもなかろう。
疲れたままの者は、問い方を知らないだけではあるまいか。
修行とは仏法であり、仏法とは修行であるまいか。
・・・その「問」こそが重要である。
「問」のない人には、「仏教」は無縁である。
また「問うところ」に「答え」がある。
南師は「問」の重要性をご指摘なさっている。
意識する心が静まらない限りすべてが妄想であって、夢である。
狙いは、目覚め。
「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ」
この文脈に対してはどうなるのか、明らかに明示してもらえませんか。
http://josenji.net/jousenji0723_10.html
ひとり佛祖道のみに保任せり。
「このとき、六根六塵(ろっこんろくじん)あらたにきたらざれども、清浄の功徳ありて現前(げんぜん)す、うたがふべきにあらず、三毒四倒(さんどくしとう)いまだのぞかうらざれども、清浄(しょうじょう)の功徳たちまちに現前するは、仏法なり。」
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-161.htm
「何もナイっすよ。」
「何もナイだと?」
「誓って、ナイっす。」
「ではアノ日、お前はどこから来て、どこに向かった?その後、どこに居た?」
「確かアノ日は、東から来て、西に向かい、12時辺りのところに居たっす。」
「その時、どんな気持ちだった?」
「どんな気持ち?っすか?腹が空いたんで、立ち食いソバ屋に入り、ズーズーしたっす。」
「ズーズーか・・・、あの頃が懐かしい・・・」
「あのオレ、もう帰ってもイッスか?」
「ああ、時間とらせたな。また来いよ。」
「イヤっす!」
3Sみたいなもんなら、まあそうだろうなと思う。整理整頓清掃。
または断捨離。
ごちゃごちゃの家だとそれだけで疲れるから、
まずは、はっきりゴミとわかるものは捨てよう、とか。
山盛りの服だけど、実際着てます?とか。
要素が少ないとやることも考えることもあんまり複雑でなくて済む、とかね。
そう言えば断捨離の人の書いてるものって、今回の記事と似た感じかも。
気楽にフラっと、坐禅会に参加したところ、こんな説教が待ち受けていたんでは、オチオチ坐ってられませんよ。
ただ、そう考えても、確かに当てが合っているのか、当人もわかりません。
そして、結局、考えが明確にまとまらないまま、やれるだけのことはやり、あとは時間にまかせる、なるようにしかならない、となるわけです。
全ては、相手があってのことですから。
逆に言うと、考えても限界があり、現実的な行為として、全力を尽くすしかない、と。
いきなり明確になど考えられるなら、苦労しませんよね。
そして大体の人が、明確になど考えたくないのではないか?と思う訳です。
ですので、まず明確にする気がないことには、話になりますまい。
これが「基礎的方法」なら、「応用編」では、悟れるかもしれませんね。
後は、饅頭でも食べながら座談会でも、十分な気がします。
禅問答や待機説法などをしてみては如何でしょうね。
わざわざ坐禅を持ち込まずとも、頭はショートするはずです。
(スマナサーラさんには、この動機がない!受身であり、「頭がいい」ので少年時代にスカウトされただけ。だから最初から能天気。)
それが、「他の苦み」からの解放に繋がっていると知った。
「苦」からの「発想の転換」である。
気づき、目覚め、覚醒、・・・
点検はここに出現して来る。
僕は、来た球を当たり障りなく、返してるだけの生活です。
なので、南さん流座禅は、あまり使う必要性が出てこない。
だから、ジョギングしたり、音楽聴いたりするだけで、自己解除自体は事足りる。
南さんは、考えることが明確な人のような気がします(性癖)。
人って、そんなに明確に考えて、生活してるのかな、と思います(なるようにしかならない)。
私も真似したいとは思いますが、必要性がなく、性分に合わない感じがあります。
出家の場合には、
現れ出た変性意識には
オーラの色彩が付いてくる。
天空に現れるオーロラと同じ現象である。
禅定8段階+滅尽定には固有の色が有るので、
只管打座実施中の出家修行者から立ち上るオーラが放つ色彩によって、
彼が今、禅定のどのレベルに居るか
外部者にも分かる様に成っているのである。
第4禅定まで達すれば、ニルバーナは君のモノだ!!
考えて、考えて、どう考えても・・・
ヤッパリ答えなんて出て来ない!!
じゃあ考えるなんて事は、
もうやめといて
ひたすら只管打座???
「下手の考え休むに似たり」で、
考えながら歩くと言っても、
9割は下手な人(僧侶も含めてね・・・)
~~という事実の、面倒くさい言い換えに過ぎませんが・・・って、
ヘタな考え?
ヘタでない考え?
時々南さんが書いているように「ある状態(禅定?)に入る」として、
それって「言語の機能、認識の機能を超低下させた状態」、でいいのかな、そういうのだとして、
でも修行僧も社会人でしょ。
南さんも社会人でしょ。
坐禅中のその状態で社会人生活してるわけじゃないでしょ。
言語を使い認識して生活してるでしょ。
そのさなかに坐禅中の「ある状態」って何か影響してるのかな。
わたしは「してなくない?」って気がするんだけど。
ブッダの特権的な走りを、なぜ衆生に説かれるのか、甚だ疑問です。
何かあったのでしょうか。
④行住坐臥しながら修行する人
>どこから来て、どこに向かい、いまどこにいて
これはつまり生死の命題ですからね。
片手間に、点検や確認などで済むような話ではないでしょう。
一般人で、どこから来たのかわかるくらいなら、出家も修行も必要ない訳です。
坐禅も必要なくなるでしょう。
レンガなど、どんなに駆使して積み上げても、形あるものはいずれ壊れるのです。
その無常の中でも、せめて、バランスよく積み上げているか?など、出来上がるまでの積み方が問題となる訳です。
つまり、因縁返し。
因縁は返すもんやなく、
生起するもんです。
釈迦や先人を観ると、
身内に直接的な恩を返して、
ぬか喜びなどしていない。
世の中には恩を返せない人もいるが、相対的な恩など返す必要はなかろう。
>>自分の心身状態はどうなのか、これらを見直し、
>>点検すべきでしょう。
>こんな命題的な難しいことを、考えないといけないのでしょうか。
そんな難しく考えることでもないんじゃないでしょうか。
イソップ寓話のレンガを積む話ってありますよね。
あれは「目的を持つと良いよ」的なことだと思います。
南さんの言う点検はレンガを積むこと自体を
時折考え直す感じじゃないですかね。
自分がどこまでレンガを積んだのか振り返って、
本当は止めたかったりしないのか気持ちを確認してみる、みたいな。
続けるなら続けるで、それは何の目的でやるのか。
「手段の目的化」ってのも人間の抱える問題で、
そういった事にも効用がありそうな感じもします。
①考えないで歩く人
②考えてから歩きだす人
③考えながら歩く人
こう書くとやはり③が良さそうな感じがします。
ただ③は時々立ち止まって考えてるのかもしれませんね。
こんな命題的な難しいことを、考えないといけないのでしょうか。
また、南師ご自身は、出家を「見直す」ことがあるのでしょうか。
身心一如を考えてみます。
言葉で疲れ
言葉で頭がゴチャゴチャでは
身心バラバラですもんね。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/29748b9d758e3cbd5ac41b4daf11da62
脱落してみたいです。
出家してもな、世俗に戻れば結婚したり××したりな、戒律とは程遠い生活しておるやろ。
せやろ?
やからな、1割くらい使えれば、マアマアゆうことわいね。
そこは座った後に、僧侶の腕も問われることでしょう。
恐らく、そのような人達は、座れば当たるみたいな態度で、参禅されてるんでしょうから。
アンタが変わらんことには、何ともならんでしょ、という話かと。
それにな、一定のクールダウンを坐禅に求めてもな、一定でしかないわいね。
人から言われて見直す内はな、確実にも見直せんやろ。
せやろ?
坐禅で、チチンプイプイ何とかしたいなど、自己を忘れて出直すしかないわいね。
どこから来て、どこに向かい、いまどこにいて、自分の心身状態はどうなのか、これらを「見直し、点検すべき」でしょう。
それが「確実な走り」というものです。』
「確実な走り」という効用で坐禅を規定するのは道元和尚の教えとは異なる。
道元和尚は「安楽の法門」と教えた。
つまり「安楽に到達できる道への真理の門」「安楽であるところの法門」
という効用で坐禅を勧めた。
それが間違いを誘導する副作用があるので、
『仏法は仏法のためにそれ自体のために求める』
と教える。
二祖の『正法眼蔵・随聞記』は、プロ・二祖を相手にした道元和尚の教え、
日本達磨宗の「洗脳から抜け出すプログラム」です。
二祖は公開するつもりはなかった。
二祖「自身」に対する自戒の書です。
晩年まで捨てなかった。
常にそこに戻る必要があったから。
卒業出来ていなかったので、
最後まで「何かひっかかり」が存在した。
元に戻って、
馬の前にぶらさがっているのニンジンは、
馬を「走らせる」工夫です。
決して、その目の前のニンジンを「食べさせる」のが目的でない。
坐禅をやってみると、それが解かる場合もある。
ただし、
臨済宗の坐禅もあるし、
日本達磨宗の坐禅もあるし、
中国の「北宗」の坐禅もあるし、
インドのヨーガ行「唯識派」の坐禅もあるし…
南さんは講話でも笑わせてくれるし、一つでも、今日、話を聞いて良かったって事がある。このブログも難しいし、解らない事も多いけど、やっぱり次の更新を心待ちにしている。それだけじゃダメなンですか?
南さんの坐禅会に参加したら幸せになれる、とはいかないけど、ちょっと参加したみたい、行ってみようかなと思うだけじゃ、ダメなンですか?
(なんて、どこかの政治家を真似してみました)
お釈迦さんが梵天に三度請われて説法を始めた(だっけ?)
っていうのかなぁと思う。
何かそれに準えるようなものを思ったのかなって。
恩返し、という言葉もこのブログには出てきてた。
「世俗」に対してじゃなかったような気がする。
お山に骨を埋めるつもりってそういう事でしょって思う。
そして、「ここにこの先あなたの歩く道はない」って話になってるなってことで。
でもこの場合、世俗の為というより、修行した事を世の中に還元したいという意味ではありませんか?
そうでないと、修行のための修行という感じで、修行した事が世の中に何の意味ももたらさないという事になりますよねぇ。
今回の記事も色々な解釈があるとは思いますが、一つでも、1人でも、南さんの言葉に救われたり、共感する人がいればそれでいいじゃありませんか?
今時、皆さん教養があり、学問があり、誰もが共感出来ることなんてないと思うンですよ。
そんな世の中で、南さんのやっている事って貴重な事だと思いますねどねぇ。
わたし思うんだけど。
南さんが世俗に救われたんじゃないの?って。
知ってるんですか?
「苦」を経験するということは、
直接的な質感(クオリア)と言語が混在することによって、「苦」として経験するわけです。
禅という経験は、意識から言語を取り除いた
直接的な質感(クオリア)だけの経験ということです。
普段、我々が苦として経験しているものは、
無意識に、言語による侵食を受けているという
事実に他なりません。
眠れない人には夜は長く、
疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者どもには、
生死の道のりは長い。
それでも坐禅を使う気なら、問題を明らかにしてこいよ、とまあこんな感じですかね。
妙に不気味に感じる今回の記事の「狙い」なのでしょうかね。
何とかしようと思うのが間違い
なににもならん。どうもならんてのは沢木さんの言葉だ。
人間廃業を謳いながら片や効能を謳うんですかね
意識のクールダウン?
苦しみの克服?
坐禅の基本的な効能??
功利主義的ですね。
これってほんとなんですかね?
妙に迎合してる感じがします。
仏法は仏法のためにそれ自体のために求める
他になにも求めないとは趣旨がまるで違うように思えますが
それともそれは理想として謳っているだけで僧侶というプロ向けのものであり
一般人は別の動機目的を想定するとでもいうのでしょうか?
プロ向けはこうでアマは目的化そう乖離してしまってるということ?
仏教仏法をなにかに「使う」利用するといってはばからない姿勢自体にゆがみがあるんじゃないですかね?
まるで自分は相対化できて冷静な目をもってるといわんばかり。
そういえる自信ってどこからくるんですか?
狙いは「万事休息する」ことであり
「見直す」ことではないはずですが
一般向けにはそうなるんですかね。
なぜ煮詰まり過ぎたのか?
疲れたからと目を離したり、火加減の調節などを怠っておりました。
自己反省し、次に活かしたいと思います。
どうしてくれましょう。
何やかんや根拠のないことを考えると、逆に迷路に嵌まりそうですが、そんな所を「確実に」走れるんでしょうか。
どう見直すというのでしょう。一般人には難し過ぎます。
「心がラクになる生き方」を読んでみては如何でしょう。
https://bookmeter.com/books/12118267
参考までに。
「私は立ち止まっておる。」と。
「止まっていないのは、そなたの乱れた心じゃ。」と。
どかも走っとりゃせんわいね。
坐す前からわざわざ問題を露わにせんでも、坐せば露わになるわいね。
せやろ?
世の中このように、何とかしたくても、何とも出来ない事ばかりです。
何とか出来そうな事というのは、ある意味、おめでたい事なのでしょうかね。
歪んだまま、坐禅する前に、あれやこれや考えても、クールダウンどころか、ヒートアップしかねない気もしないではないですね。
僭越ながら、個人的には採用しかねます。
「座禅」わたしも朝、座らせていただいています。
格差社会、分別社会に生きている私。
「苦しみ」も普段あまり、考えないことですが、本当に苦しい時もおっしゃるように考えられたら、いいですね。
そこにはプロアマ、性別、年齢、職業、学識、等々の属性は全く関係なく、その坐る人の切実さと真剣さがあるかないか、だけしか問題はないと思う。
活きながら黄泉に陥つ、という遺偈に集約されていると思う。
少しだけ、生き直します。
坐禅に生きて、坐禅に死
今日も坐禅を組み直すぜ!
坐禅会も坊さん要らんわいね。
見直してもらうから、見直せるんやろ。
せやろ?
歪みを矯正してからやな、理屈は後わいね。
http://fernwelt.net/b/10-cognitive-distortions/
思考のマチガイを見つけるツール
そして、坐り直したり何かして、最後は開き直ります。
以下
さい「さい」の辞書の結果
〖哉〗 サイ・かな・や
1.
詠嘆・賛嘆を表す助字。 「善哉(ぜんざい)」
2.
疑問・反語を表す助字。
このように全く相反する意味が含まれる
よって「直哉」という文字の示す意味は2通り考えられる。
1に従えば「おお!なんてまっすぐなんだ」という有体な解釈。
2に従う場合
まっすぐであろうか(いやそうではない )
疑問系の問いという形で否定が隠れているが反って否定が結果的に強調される反語である。
疑問=問いであるため
問い疑問を強調する南さんを表す意味としては2の解釈がふさわしい。
結論:直哉という文字の示す意味とは「直であろうかいやそうではない」=「ひねくれ者、こじらせた厄介者」
曹洞宗こじらせ派
なぜか?
そこには他者がある。
真っ直ぐに坐して見る。
歪みに気づいて見る。
なぜか?
半眼にして
何度も問い直してみて下さいね。
見直すには、眼がいる。
聞き直すには、耳がいる。
吸い直すには、鼻がいる。
お口直しには、舌がいる。
作り直すには、身がいる。
居直るには、意がいる。
これを眼 耳 鼻 舌 身 意
(げんにびぜっしんに)六根と言います。
六情根ともいいます。
この六根をとおして
色声香味触法
(しきしょうこうみそくほう)
六境(ろくきょう)を私たちは知ります。
そして
喜怒哀楽愛悪(きどあいらくあいあく)
という六つの情が揺れ動きます。
これを六情というんです。
何度も何度も
やり直してみて下さいね。
カッカしてる時に坐禅するより、まずは自分との対話が必要かと。
または、広い海に身を置くとか、スーパームーンを1時間くらい眺めるとか、写経とか可視化できるものから、見直してみては如何でしょうね。
いきなり坐禅は、ハードかもしれませんね。
ひたすら、歩きます。
🐢
坐禅前の1週間は、主食をお粥とし、断食気味で坐してみましょうか。
諸々の問題や人間関係を、図にし
てみましょうか。
感情の逆を、口に出してみましょうか。
つまり「非想非非想」?
しかしそれは取引ではない?
ただ単に
人は特殊な身体操作で
そんな変性意識に達するのだと
実体験するだけだ・・・が南流なんですよね。
何の為??
タダタダ、この世は「諸行無常」「諸法無我」である事を実感する為??
俺なんて生まれる前からそんなこと知ってるぜ!!
でも和尚さんは滅尽定なんか信じていないのでしたよね・・・・
じゃあ、修行者は何のために修行するの??
南さん自身おっしゃったじゃあ無いですか。
普通の僧侶は、
悩める人から煮詰まった相談を受けると、
もう面倒くさく成って、
ついつい簡単に逃げてしまうと・・・。
「さあ、では坐禅しましょう」と・・・。
で南さんは仰いましたよね。
「坐禅さえすれば事は済むなんて単純なモノじゃあねェ」って。
じゃあ、お尚さんはどう責任を
お取りになるお積りなのでしょう??
では修行者の座禅は何を目指すのか??
滅尽定???
つまり釈迦の悟り???
行住坐臥なり。
坐って足を組む事のみが坐禅ではない。
日々の気付きは、どこにでも転がっている
他人のした事と、
しなかった事を見るな。
ただ、自分のした事と、
しなかった事だけを見よ。
坐禅もせずにできることではないわけです。
どうぞ宜しくお願い致します。
滅尽定しか興味ありません、あしからず。
でも、坐禅は流行らせて下さい!
感情など、屁でもないわい。
それもして欲しいけど、坐禅会の全国ツアーはどうですか?
大阪でやるみたいですけど、ウチは大阪も遠いンですよ。
個人的には関東地区でお願いします
世直しをして下さい!
見直したら負けだもん
子宮に帰れない切なさよ。
穴に戻りたい。
地上は目映ゆ過ぎる。
チェックしてみましょう。
行きはマラソン
帰りは戦(いくさ)
いま何時代?
立ち止まって観ましょうか。