「理解する」「わかる」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。
一つは、事象Aと事象Bとの間の対応関係を記述して、「理解した」「わかった」と言う場合です。例えば、脳の物理的・化学的過程と意識現象の対応関係を記述して、「意識が解明された」と称するときなどです。
意識の場合、対応関係の記述で「理解」とするのは、無理があります。なぜなら、「怒る」という現象を脳の物理的・科学的過程として解明したとしても、「自分が正しい」という「信念」も持たない者は怒れないからです。「自分が正しい」を科学的に解明することは不可能でしょう。
もう一つは、事象AとBを因果関係で説明できたときに、「理解した」と考えることです。つまり「AによってBが起こった」と説明することをもって、「理解した」と考えることです。
すぐにわかるように、この説明にも難があります。つまり、同じ事象に複数の因果関係を設定でき、どれが正しいかは、説明そのものでは決められないからです。
「宇宙は神によって創られた」という説明と「宇宙はビッグバンによって生まれた」説明の正誤は、説明自体から結論できません。
対応関係にしても因果関係にしても、説明の正誤は再現性にかかっています。つまり、事象Aを再現したら、かならずそれに対応して、あるいはそれを原因として、事象Bが再現されるかどうかです。
怒ったときの脳の物理的・化学的過程を解明したと言うとき、同じ過程を再現したら、必ず人が怒れば、それを「理解」としようというわけです。
あるいは、特定の角度と特定の力で、特定の重さのボールを打ち出せば、何回やっても同じ距離まで飛ぶことを再現して、ボールの飛翔についての「理解」と考えるのです。
この再現性によって説明の正誤を判断する場合の最大の障害は、たった1度しか起こら無いことに関しては、正誤が判断できないことです。まさかビッグバンを再現するわけにもいきますまい。
すると、再現不能な事象の理解は、所詮「信念」にすぎません。ということは、宗教が時に「迷信」となるように、科学もやはり「迷信」になる時があるでしょう。
その一方、再現可能性による理解は、結局、人間が対象を操作し支配することと同然です。しかし、操作し支配できることが「正しい理解」だと言うなら、「権力を持つ者が正しい」ということと違いがありません。それは浅はかというものでしょう。
人間に開かれた世界と魚に開かれた世界は決定的に違い、どちらが「正しい」世界か誰にも決められない以上、我々の理解はすべからく誤解であり、そのうちで最も支持を得た誤解を理解と決めておこうという、所詮は身もフタもない内輪の多数決話になるしかありません。
ゴータマ・ブッダが「真理」の主張を戒めるゆえんでしょう。
一つは、事象Aと事象Bとの間の対応関係を記述して、「理解した」「わかった」と言う場合です。例えば、脳の物理的・化学的過程と意識現象の対応関係を記述して、「意識が解明された」と称するときなどです。
意識の場合、対応関係の記述で「理解」とするのは、無理があります。なぜなら、「怒る」という現象を脳の物理的・科学的過程として解明したとしても、「自分が正しい」という「信念」も持たない者は怒れないからです。「自分が正しい」を科学的に解明することは不可能でしょう。
もう一つは、事象AとBを因果関係で説明できたときに、「理解した」と考えることです。つまり「AによってBが起こった」と説明することをもって、「理解した」と考えることです。
すぐにわかるように、この説明にも難があります。つまり、同じ事象に複数の因果関係を設定でき、どれが正しいかは、説明そのものでは決められないからです。
「宇宙は神によって創られた」という説明と「宇宙はビッグバンによって生まれた」説明の正誤は、説明自体から結論できません。
対応関係にしても因果関係にしても、説明の正誤は再現性にかかっています。つまり、事象Aを再現したら、かならずそれに対応して、あるいはそれを原因として、事象Bが再現されるかどうかです。
怒ったときの脳の物理的・化学的過程を解明したと言うとき、同じ過程を再現したら、必ず人が怒れば、それを「理解」としようというわけです。
あるいは、特定の角度と特定の力で、特定の重さのボールを打ち出せば、何回やっても同じ距離まで飛ぶことを再現して、ボールの飛翔についての「理解」と考えるのです。
この再現性によって説明の正誤を判断する場合の最大の障害は、たった1度しか起こら無いことに関しては、正誤が判断できないことです。まさかビッグバンを再現するわけにもいきますまい。
すると、再現不能な事象の理解は、所詮「信念」にすぎません。ということは、宗教が時に「迷信」となるように、科学もやはり「迷信」になる時があるでしょう。
その一方、再現可能性による理解は、結局、人間が対象を操作し支配することと同然です。しかし、操作し支配できることが「正しい理解」だと言うなら、「権力を持つ者が正しい」ということと違いがありません。それは浅はかというものでしょう。
人間に開かれた世界と魚に開かれた世界は決定的に違い、どちらが「正しい」世界か誰にも決められない以上、我々の理解はすべからく誤解であり、そのうちで最も支持を得た誤解を理解と決めておこうという、所詮は身もフタもない内輪の多数決話になるしかありません。
ゴータマ・ブッダが「真理」の主張を戒めるゆえんでしょう。
たった1度しか起こら無いであろう生死に関しても、正誤の判断は、できることではないですよね。
ここが、曹洞禅仏教のキモですよね。怒りようが、ありません。
他者が考えているそのことはわからないことではない
しかし、それがまさにそのことであったかは
やはり永遠にわからない
思考は思考し得る限りのものしか思考してはいない
それは、それを辿るべくあらかじめ用意された回路を
等しく経巡り、否応なくその表白へと導かれてしまう
大脳が大脳を考えているとするならば
それら幾百億の脳細胞群の、どこに、どのあたりに
あるいはどの過程に、この「私」が
まぎれもない他でもないこの「私」が宿っているのか
現れるのかが示さなければならない
意識と肉体とは密接不可分でありながら
やはり可分であるというためには、痛いのは肉体であり
それを観察している意識は少しも痛くはないという事実が示す
世界に意味など、もともとない
それは、ただそこにあるだけなのだ
例えば仏教は、万象は、
ただそのようにあるところのものであったし
あるし、また、あり続けるゆえに
認識の無力を知ったならば
全肯定こそ至福と説いた
多くの仏門禅門の達者たちもまた
「そのまた向こう」を問うは愚かと放棄するか
あるいは全く忘れてしまった
宗教はいつも、ひとをそんな気にさせる
因ー過去ー生
縁ー現在ー私
果ー未来ー死
この構図で宜しいのでしょうか。
だって支配下におくわけにはいきませんし。
女性が唐突に機嫌を損ねる現象に対して
完全な再現性は不可能ですし~。
分からない!
からドキドキする
分からないって素敵☆
女性が笑う時より怒る時に、魅力を感じる性癖の男性もいますね。
南さんは学校の先生であるお父上から、子どもがそんな難しい事を考えなくていいと言われたとか。
ビッグバンを再現して頂くしかなさそうです。
戦争を再現して、まるで輪廻しているかのようだ。