今や、元気は「出す」ものではなく「もらう」ものであり、意見は「私的に」言うものであって、「私が」言うものではない。
皆で協力しよう!、と声高に言う人間が、協力の結果一番得をする場合が多い。
正しいと思ったことを繰り返し言う人より、往々にして、繰り返し言えば正しくなると思っている人の方が、強い影響力を持つ。
根本的に愚かな人間は、自分が言う場合も言われる場合も、批判と誹謗の区別がつかない。
器の大きい人とは、仕事を他人に任せることができて、結果の責任を自分で取る人であり、器の小さい人はその真逆である。
脳と意識の区別をつけずに論じる人は、地図に人が住めると考える人と変わらない。
老いと病に馴染むこと、他人を無条件に赦すこと。それを少しずつできるようにしていくことが、死ぬ練習なのだ。
皆で協力しよう!、と声高に言う人間が、協力の結果一番得をする場合が多い。
正しいと思ったことを繰り返し言う人より、往々にして、繰り返し言えば正しくなると思っている人の方が、強い影響力を持つ。
根本的に愚かな人間は、自分が言う場合も言われる場合も、批判と誹謗の区別がつかない。
器の大きい人とは、仕事を他人に任せることができて、結果の責任を自分で取る人であり、器の小さい人はその真逆である。
脳と意識の区別をつけずに論じる人は、地図に人が住めると考える人と変わらない。
老いと病に馴染むこと、他人を無条件に赦すこと。それを少しずつできるようにしていくことが、死ぬ練習なのだ。
お忙しい中、更新ありがとうございます。器の小さい私ですが、充分に死ぬ練習をして、立派に死にたいと思います。
勇気を貰ったとか
元気も勇気も自ら出すもの
他人任せの今様なのか
浅ましいと感じます
脳神話に盲信する誤り
脳状態が引き起こすのは
主として身体への指令であり
行動への構えである
脳が知覚を生み出している
と言うのを脳神話と呼ぶ
物語を生きるのは脳ではない
人である。
社会が真逆に進んでるのが興味深い所です。アンチエイジングやら子供は汚いから除菌やら差別を無くそうと声高に叫ぶ事やらエトセトラエトセトラ。
死からも段々と目を背けるようになっている現代社会ですが、果たして死ぬ練習がどこまでこの社会に残っていられるのか見ものです。
我々の住む社会は本当に現実から乖離始めてる感じがして居心地が悪いです。
このブログにも、何時もタイトルを繰り返して書く自称救世主の品の無さが目立ちます。死ぬ練習よりしぶとく生き残る練習を実行中なのか?
批判もできるだけやめてみる!!
批判も貪瞋痴の一つなり。
結局自分の体に毒が回る(by小池龍之介)。
他人を無条件で許すこと。
君には死ぬる練習が必要だ。
私は勿論愚かでしかないが、自分ではなく誰か他の人のことを言われてると思う人も愚かだ。
他人が私の人生を生きるわけじゃない。私の人生を生きることは私のみにしかできない。
南さんがどのようなお気持ちでおられるのか知らない。しかし、私が根本的に愚かであるのは事実だ。
ありがとうございます。
「僧侶とは精神的インテリア・デザイナーである」。
己という部屋の中のゴミを捨て、徹底的に大掃除し、その後で、どんな(心の)家具がしっくりくるかをレイアウト・デザインしなおすためのテクニック、言い換えれば精神の鍛練。
そのお手伝いをすることが、僧侶の仕事です。
「仏教とは言語批判だ」と言って喧々諤々のあまり、
僧侶の本分をわすれてはいけない・・・のかも??