昨年茨城県土浦市のJR駅頭で起きた通り魔殺傷事件の犯人、金川真大被告が最近の公判で行った発言が報道されました。その内容がある種の「衝撃」をもって伝えられているようですが、私には何となく、彼の言いたいことがわかるような気がするのです。
彼はまず、善悪の区別がつくのか?と問われて、「常識に照らせば」と答え、「常識を取り外せば」と重ねて問われると、「善悪自体存在しません」と言います。
このほかにも彼は、様々に問いかける相手に、「常識を通せば」「常識で考えれば」と繰り返し、そのたびに、「常識外」の考えを述べるのです。つまり、「常識」は理解できるが、自分はそれを拒絶しているのだ、と言いたいのでしょう。それはすなわち、「常識」を規定する「他者」の拒絶、なのです。さらに言うと、拒絶しても構わない程度の関係しか「他者」と結べてこなかった、ということでしょう。人間の存在、あるいは「自己」の存在が「他者」との関係に由来するというなら、この拒絶は、存在を著しく劣化させ、空虚にしていくことになるはずです。
ですから、彼は殺人を「蚊を殺すことと同じ」と言い、罪の意識がないのかと問われれば、「ライオンがシマウマを食べるとき、シマウマに悪いと感じるか」と答えるのです。「他者」を拒絶している以上、我々にとっての「他者」は、彼のカテゴリーにおいては「他者」でも「人間」でもなく、物や動物に等しいわけです。
たまりかねた相手は「あなたは自分で無理していない?」と言いますが、これに被告は「していません。ウソ発見器を使ってもらって構いません」と答えます。
私は、この「ウソ発見器」云々に、彼の殺人が一種のイデオロギーであることを感じるのです。つまり、あえて「ウソ発見器」などと言い出すのは、それが「主張」だからです。
どういうことか? 被告は「生きている意味」を感じなかったかもしれませんが、「自己であることの欲望」は持ち続けているということです。つまり、他者を拒絶した彼が、にもかかわらず「自己であること」の根拠として持ち出してきたのが、自分は善悪を超えた存在であるという「理念」であり、その「理念」を現実化して「自己」を根拠付ける行為が、無差別殺人だったということだろうと、私は思うわけです。
だから、「死刑になりたくて殺人を行った」という「不可解」な発言が出てくるのです。ならば「自殺すればよいだろう」と言われると、被告はなんと、自殺は「痛いから」イヤだと、まったくナンセンスな答え方をします。絞首刑も「痛い」でしょうに。
ここで彼が言いたいのは「痛い」かどうかでは全くなく、「自殺では意味がない」ということなのです。なぜなら、彼の場合、「自己であること」を欲望していることには、いささかの変わりもないからです。ところが、「自殺」はまさに「自己であること」の否定になってしまい、彼のイデオロギー自体を無意味にします。したがって、死刑と言う他殺による自殺は、「常識」が提示するような、どうでもいい「生きる意味」を否定しつつ、「自己であること」を肯定する唯一の方法、ということになります。
彼が「運命について考え」て、「人の未来は決まっている」と「悟った」というとき、彼の殺人がイデオロギーの実践であることは、明らかでしょう。「他者」を拒絶して「運命」に「自己」を託す、ということです。
秋葉原連続殺傷事件を起こした加藤智大被告には、他者への絶望があり、絶対零度ともいうべき孤独を感じます。絶望は拒絶ではありませんから、彼の場合は、多くの同じような境遇の若者の共感を引き起こしたのです。しかし、他者を拒絶した金川被告には共感は集まりにくいでしょう。その代わりあり得るのは、イデオロギーを持つ者の割り切れた潔さを「カッコイイ」とする、共鳴者や支持者でしょう。
この土浦事件のケースでは、「他者」との関係から「自己」を起こしていくことができなかった人間の在り方が、悲劇的な一典型として見て取れるように思います。
いま私は、善悪を規定する倫理の根拠として、「他者から課せられた自己を引き受ける」という、決断と行為を考えています。そして「他者」から切り離された「自己」の空虚が何らかのイデオロギーと結びつくとき、大きな厄災を招く最初の一歩が始まるような気がしてなりません。
追記1:筆者の都合により、次のブログ更新は23日以降になる予定です。
追記2:最近、筆者に面会を希望される方がおられますが、かならず事前に電話等でご連絡下さい。恐縮ながら、恐山、霊泉寺、赤坂別院、いずれの場所であれ、日時の確認がないまま直接来訪されても、不在の場合が多く、申し訳ないことになります。日時が折り合えば、お会いすること自体は何のご遠慮にも及びません。あしからず。
自己愛、私にもあります。けれど、最近仏教の無私を学びました。無私は強力なのですが、自由すぎて不安になることもあるのですが、今のところ正しい感情なのでしょうか?
ホント、ゲームの世界の中だけで自己完結してもらいたかったです。甘えるのもいい加減にして欲しいと思います。
誰が狂っていて、誰が健全だなんて、言えないでしょう。
この世界の病は僕らと地続きで、それを自分とは別ものと観るのは欺瞞でしょう。
彼と同じくらいは僕たちも病んでいるんじゃないでしょうか。
16日に豊川稲荷東京別院に初めてお邪魔させていただこうと考えていますが、、、、
多くの場合、私以外の者が応答することになりますので、あらためて私からご連絡の電話を差し上げたく存じます。差し支えない電話番号をご伝言下さい。
なお、電子メール、手紙等には一切お返事いたしません。あしからず。
東京に住む者です。この度、どうしようも無いことで困り果て、思わず書かせて頂きました。
実は私は、原因不明の病気にかかり、現在寝筋肉に力を入れることが困難になり寝たきり、歩くことも食事で食べものを噛むことも、身の回りことをすることも難しく、会話で声を出すことも厳しい状態です。
また、呼吸をすることもものすごく苦しい状況です。
しかし、少数ながら専門の医師がいますが、国も全く私の病気には力を入れてなく医師からは冷たい態度で、半ば放り投げられているような状態です。
そして、困ったことに原因不明で認知度が低い為、病気に対する誤解が多いため、家族もどんどん態度がきつく変わり、家族内での争いが絶えなくなって来ました。
ベッド上での身動きも苦しく、病気の症状の苦しさに耐えきれない状態で、家族との諍いが絶えなくなり、生き地獄のような状態です。
このようなことをここに書くことは、おかしいとわかっていますが、もう耐えきれず。
自殺も考えるようになって来ました。
困り果てています。誰一人、見方がいない状況です。
こんなことを書くのも非常識かと思いますが、少しで助けて
「他者から課せられた自己を引き受ける」のは・・・
状況によって非常に体力・精神力の要る認知行動でしょうか、自他を客観視し内省できる冷静さがなければ『悲劇的な一典型』も充分起こりうると思います。自分の悪感情は何に起因し、解決策はあるのか云々・・・臭いものに蓋をしないでむしろ凝視する、血を吐くような自分との戦いも余儀なくされるかも知れませんし、第3者に認知療法を委ねる事も大切なのでしょう。
「自己を引き受け、現状を受け止めどう生きるかを見いだせた人」が増える事を祈ります・・・(-人-)
当ブログの内容とは直接関係ありませんし、具体的な状況もわからないので、アドバイスしにくいとは存じますが、
患者として、あるいは看護者として同じような経験のある方、
国の指定外となる難病の相談先について知識をお持ちの方など、
何かよいお考えやご意見をお持ちの方、異例ではありますが、コメントをお寄せくださると有難く存じます。
病気に関して私は全くの門外漢ですが、ネットでできる限りのことを調べてみました。「ゆう」さんの病気は神経難病と分類されるカテゴリーに入るのではないかと推察します。神経難病に関する資料としては、「神経難病患者サポートマニュアル」という文書を見つけましたのでURLを記します。
http://www.niigata-h.go.jp/nanbyo/shinri/suport.pdf
ただし、「ゆう」さんは専門医の診察を受けていらっしゃるようなので、治療面での知識を得ることはそれほど難しくないでしょう。問題になっているのは、介護をなさっている家族との関係であり、メールを読む限りでは、第三者の介入が必要ではないかと思われます。東京都では下記の電話相談サービスが利用可能ですので、活用をお勧めします。
ふくしよろず相談
料金 無料
電話番号 03-3269-4165
受付時間 月曜除く毎日9:00~20:00(土・日のみ17:00まで)
「福祉に関する相談全般に対応。介護や生活の相談だけでなく、心の悩み、日常の問題、その他ジャンルを問わず何でも受け付ける。電話、来所ともOK。」
万が一、「ゆう」さんが死ぬことを真剣に考えているのなら、下記に電話をしてみてください。
相談電話番号:
03-5286-9090
私には、「ゆう」さんの病状や精神状態を理解しているわけではありません。従って、「死ぬべきではない」と申し上げることはできません。しかし、「生きる」という選択をして欲しい、と勝手ながら希望しています。そして生きるための努力を、もう少しして欲しいと願っています。