新型ウイルスの問題で落ち着かない日々が続きますが、時あたかも入試本番の頃あいです。受験生の皆さんには、どうか無事に日ごろの努力の成果を出しきっていただきたいと、願うばかりです。
だいたい、前の年の秋ぐらい、つまり受験生とその親たちが焦りを感じ始めるあたりから、親である私の知り合いや檀家から、「この子、ちっとも勉強しないんです。方丈さんから勉強するように言って下さい!」と迫られることが多くなります。
学校嫌いだった私が勉強を真面目にしたはずもなく(試験は入試も含め、一夜漬けか突貫工事)、他人様にそんなことを言えるはずがありません。そういうときには、まず親に意見することにしています。
「ぼくだってしなかったのに、そんなこと言えないよ」
「でも、方丈さんはしなくてもデキたから」
「ちがうよ、尻に火がついてから突貫工事で滑り込んだんだよ。まともにやってないのは、ほんとうだもん。言えないよ。それにさあ、アナタ、そう言うけどさあ、自分が中学生の頃、そんなに勉強したの?」
「・・・・・、いいえ、・・・・」
「でしょ。自分がしなかったのに無理強いはまずいんじゃないの。だいたいさあ、親や他の大人に勉強しろと言われて、やる気になったことある?」
「・・・・・」
「ないでしょう」
「まあ・・・」
「人間さあ、勉強するのはね、もともと勉強が好きという極めて少数の人間と、イヤだけれどもしなけらばならないと覚悟を決めた大多数だけだよ。要は、本人の意志の問題なんだな」
その場に受験生の子供がいなければ、このような話を親にだけにして、早々に引き上げるのですが、そこにいるとなると、これだけでは帰りにくい。親に恨まれそうだからです。そこで、子供に
「あのさあ、君さあ、これ受験に限らずだけどね、勉強って、なんでしなくちゃいけないんだろうね。そう思うわない?」
「・・・、思うときも」
「でね、ぼくもそれずっと考えてきて、ずいぶん年取ってから思いついたんだけど、たぶんね、自由になるためだよ。今よりもっと自由になるため。今の世の中ね、自由の現実的な意味は『選択の自由』なんだよな」
「はあ・・・」
「だとするとね、選択するには何を選択するのか、どう選択するのかという知識がどうしても要るんだよ。それが不足するとまともな選択はできないの。だから、義務教育で出てくるような知識は今後の土台として、一通り齧るか舐めるかしていたほうがいいと思うんだな」
「あんまり役に立たなそうでも?」
「いつ何が役に立つのかは、あまりせっかちに考えちゃダメなんだ。君まだ、十ウン年しか生きてないでしょ。その程度の経験でこれから長い先のことを割り切らない方がいいと思うなあ」
・・・・と、こんな言い逃れのごとき理屈を言い捨てて、方丈は脱兎のごとく帰るわけです。
ちなみに、最近私は思うのですが、我が国の学校制度はそろそろ抜本的に改めた方がよいのではないでしょうか。いまのシステムは、基本的に明治以来の、集団主義的先行集団キャッチアップ型、つまり一致団結ガンバレ主義の思想に貫かれたままです。これは耐用年数が過ぎつつあるでしょう。
このとき、個性を伸ばすとか考える力とか、わけのわからないご託宣を言うより、次世代の教育のために一番効果が早いと思うのは、クラス制度を廃止した学校体制を構築することだと思います。
「ぼく、大学に行って一番ほっとしたのは、クラスが無くなったことです。学校が息苦しくていやだっのは、クラスがあったからなんだと、ようやくわかりました」
面談していた学生がこう話した時、私は過去を顧みて、まさに目からウロコが落ちる思いでした。せめて中学生以降は現在のごときクラス制を廃止してみたらどうでしょうか。けだし、そういう具体的な創意工夫が、新たな学校像と教育方法に道を拓くでしょう。
さて、ここからは勉強にまつわる昔話です。
昔の教員はとにかく職場結婚が多かったようで(今もその傾向ありか)、私の父母は教員で、二人の祖父と一人の祖母も教員です(ちなみに叔父一人と妹。これで学校が好きになるわけがない)。
このことを人に話すと、それはそれは教育熱心な家だったんだろうと思われがちですが、我が家はまったく違いました。私は小学校から大学まで、ほとんど勉強しろと言われたことがありません。
断言しますが、私は言われなくてもする少数派ではありません。そして、そのことを両親は承知していたはずです。と同時に、勉強しろと言っても、まったく効果のないタイプの子供だということも見抜いていました。
一時期、あまり何も言わないので、通知表さえ見ていないのではないかと疑ったことがあります。特に父親はひどかった。
小学校の2、3年生だった頃、一度だけ父親に宿題を教えてもらいに行ったことがあります。居間で新聞を読んでいたので、
「ちょっと、宿題のここわかんないから、教えて」
と、近づいたら、新聞から1ミリも目を離さず、
「家に帰ってまで仕事はしない!」
本当に唖然としてしまいました。まるで教育無関心としか思えませんでした。確かに、こういうことを平然と言い放つ人物が、息子の成績をとやかく言える筋合いではないでしょう。
実際、小さいころからよく怒られたのは、ご飯を食べる量が少ないということと、外で遊ばないということ(つまり健康面)、そして烈火のごとく怒られたのは、受け売りのごとき中途半端な知識を、偉そうにひけらかした時くらいでした。
その父親がたった一度だけ、成績について苦情をいったのは、私が大学1年の時です。
当時私は入学早々、たちまちのうちに引きこもり同然の状態になり、まともに学校に行かなくなっていました。学年末の成績は惨憺たるもので、かろうじて留年だけはまぬがれるという有様でした。
ですが、別に親に知られるわけでもなし、大した問題ではないとタカをくくって帰省してみると、なんとなく父親が浮かない顔をしているのです。変だなあとは思いましたが、すぐ忘れていたところ、ある日の夕食後、彼は切り出しました。
「あのなあ・・・」
「え?」
「実はこういう物が送られてきてなあ・・・」
「あっ・・・」
びっくり仰天! 大学の成績表ではありませんか!! なんで彼の手に!? なんと、大学は卑怯にも親元に送り付けていたのです!!!(あとでそれが普通だと知りました)
沈黙する以外にテのない私に、父親はしみじみと
「おまえなあ、おれはさ、しがない教員で、稼ぎもそうないことは知ってるだろ」
「・・・・・」
「それがさ、お前を東京の私立大学に出しているわけだ。ということから言わせていただくと、さすがにこの成績は、切ないなあ・・・・」
これは、こたえました。そりゃそうだろうなあ、と思うほかありません。想定外の泣き落としにあって、私は周章狼狽、翌年は親に面目が立つ程度の成績を拵えました。
母親もユニークな接し方をする人で、見切りが早い。音楽教師だった彼女は、ものは試しと、私が小学校に入りたての頃、「バイエル」とかいう赤い楽譜の本を買ってきて、私にオルガンを弾かせようとしました。
ところが、始めてからものの15分くらいたった頃、突然
「ナオちゃん、つまんないんでしょ。じゃ、やめようか」
と即断して、一方的に打ち切ったのです。
そのとおり。私はまったく面白くありませんでした。母親はその後、もはや二度と私にオルガンを弾かせようとしませんでした。才能のなさを見切ったわけです。
その母親が、成績がらみで、やはり1度だけ怒ったことがあります。
私は中学3年のとき、学級担任とまったくソリが合わず、成績が下がったことがあります。とにかく頑迷と言うか独善的と言うか、教条主義が服を着て歩いているような男で、私は辟易していたのです。
そろそろ高校入試が意識され始めたある日、後日のいわゆる三者面談の前段階で、担任と保護者の2者面談がありました。
当日、私が学校から帰ってみると、母親がいつになく険しい顔をしているのです。そして、私が台所に入って来たのを見ると、えらく厳しい口調で、いきなり、
「あんた、ナメられてるわよ!」
私は母親がそんなセリフを口走るとは思いもしなかったので、事態が飲み込めません。
「〇〇(担任の名前)みたいな、あんなのにナメられてどうするの! 見返してやりなさい!!」
ここでようやく、母親が成績の件で担任に面白くない話をされたんだとわかりました。
それにしても、これほど頭にきているとは(担任の名前を呼び捨ての上、「あんなの」呼ばわり!)。さすがに同じことが二度起るのはまずい。それにあの〇〇にナメられるのは、オレも我慢できん。
私はその後、今までの人生でおそらく一番、勉強して成績を回復させました。
今にして思うと、息子の性格を熟知していた両親が、父親は泣き落とし、母親は息子の敵愾心に火を点けるという、技ありの方法で「イヤでも勉強しなくてはいけない」気にさせたというわけです。
人によって勉強の仕方もさせ方もそれぞれでしょうが、この時期になると、ふいに昔を思い出したりします。今回は長々恐縮でした。
だいたい、前の年の秋ぐらい、つまり受験生とその親たちが焦りを感じ始めるあたりから、親である私の知り合いや檀家から、「この子、ちっとも勉強しないんです。方丈さんから勉強するように言って下さい!」と迫られることが多くなります。
学校嫌いだった私が勉強を真面目にしたはずもなく(試験は入試も含め、一夜漬けか突貫工事)、他人様にそんなことを言えるはずがありません。そういうときには、まず親に意見することにしています。
「ぼくだってしなかったのに、そんなこと言えないよ」
「でも、方丈さんはしなくてもデキたから」
「ちがうよ、尻に火がついてから突貫工事で滑り込んだんだよ。まともにやってないのは、ほんとうだもん。言えないよ。それにさあ、アナタ、そう言うけどさあ、自分が中学生の頃、そんなに勉強したの?」
「・・・・・、いいえ、・・・・」
「でしょ。自分がしなかったのに無理強いはまずいんじゃないの。だいたいさあ、親や他の大人に勉強しろと言われて、やる気になったことある?」
「・・・・・」
「ないでしょう」
「まあ・・・」
「人間さあ、勉強するのはね、もともと勉強が好きという極めて少数の人間と、イヤだけれどもしなけらばならないと覚悟を決めた大多数だけだよ。要は、本人の意志の問題なんだな」
その場に受験生の子供がいなければ、このような話を親にだけにして、早々に引き上げるのですが、そこにいるとなると、これだけでは帰りにくい。親に恨まれそうだからです。そこで、子供に
「あのさあ、君さあ、これ受験に限らずだけどね、勉強って、なんでしなくちゃいけないんだろうね。そう思うわない?」
「・・・、思うときも」
「でね、ぼくもそれずっと考えてきて、ずいぶん年取ってから思いついたんだけど、たぶんね、自由になるためだよ。今よりもっと自由になるため。今の世の中ね、自由の現実的な意味は『選択の自由』なんだよな」
「はあ・・・」
「だとするとね、選択するには何を選択するのか、どう選択するのかという知識がどうしても要るんだよ。それが不足するとまともな選択はできないの。だから、義務教育で出てくるような知識は今後の土台として、一通り齧るか舐めるかしていたほうがいいと思うんだな」
「あんまり役に立たなそうでも?」
「いつ何が役に立つのかは、あまりせっかちに考えちゃダメなんだ。君まだ、十ウン年しか生きてないでしょ。その程度の経験でこれから長い先のことを割り切らない方がいいと思うなあ」
・・・・と、こんな言い逃れのごとき理屈を言い捨てて、方丈は脱兎のごとく帰るわけです。
ちなみに、最近私は思うのですが、我が国の学校制度はそろそろ抜本的に改めた方がよいのではないでしょうか。いまのシステムは、基本的に明治以来の、集団主義的先行集団キャッチアップ型、つまり一致団結ガンバレ主義の思想に貫かれたままです。これは耐用年数が過ぎつつあるでしょう。
このとき、個性を伸ばすとか考える力とか、わけのわからないご託宣を言うより、次世代の教育のために一番効果が早いと思うのは、クラス制度を廃止した学校体制を構築することだと思います。
「ぼく、大学に行って一番ほっとしたのは、クラスが無くなったことです。学校が息苦しくていやだっのは、クラスがあったからなんだと、ようやくわかりました」
面談していた学生がこう話した時、私は過去を顧みて、まさに目からウロコが落ちる思いでした。せめて中学生以降は現在のごときクラス制を廃止してみたらどうでしょうか。けだし、そういう具体的な創意工夫が、新たな学校像と教育方法に道を拓くでしょう。
さて、ここからは勉強にまつわる昔話です。
昔の教員はとにかく職場結婚が多かったようで(今もその傾向ありか)、私の父母は教員で、二人の祖父と一人の祖母も教員です(ちなみに叔父一人と妹。これで学校が好きになるわけがない)。
このことを人に話すと、それはそれは教育熱心な家だったんだろうと思われがちですが、我が家はまったく違いました。私は小学校から大学まで、ほとんど勉強しろと言われたことがありません。
断言しますが、私は言われなくてもする少数派ではありません。そして、そのことを両親は承知していたはずです。と同時に、勉強しろと言っても、まったく効果のないタイプの子供だということも見抜いていました。
一時期、あまり何も言わないので、通知表さえ見ていないのではないかと疑ったことがあります。特に父親はひどかった。
小学校の2、3年生だった頃、一度だけ父親に宿題を教えてもらいに行ったことがあります。居間で新聞を読んでいたので、
「ちょっと、宿題のここわかんないから、教えて」
と、近づいたら、新聞から1ミリも目を離さず、
「家に帰ってまで仕事はしない!」
本当に唖然としてしまいました。まるで教育無関心としか思えませんでした。確かに、こういうことを平然と言い放つ人物が、息子の成績をとやかく言える筋合いではないでしょう。
実際、小さいころからよく怒られたのは、ご飯を食べる量が少ないということと、外で遊ばないということ(つまり健康面)、そして烈火のごとく怒られたのは、受け売りのごとき中途半端な知識を、偉そうにひけらかした時くらいでした。
その父親がたった一度だけ、成績について苦情をいったのは、私が大学1年の時です。
当時私は入学早々、たちまちのうちに引きこもり同然の状態になり、まともに学校に行かなくなっていました。学年末の成績は惨憺たるもので、かろうじて留年だけはまぬがれるという有様でした。
ですが、別に親に知られるわけでもなし、大した問題ではないとタカをくくって帰省してみると、なんとなく父親が浮かない顔をしているのです。変だなあとは思いましたが、すぐ忘れていたところ、ある日の夕食後、彼は切り出しました。
「あのなあ・・・」
「え?」
「実はこういう物が送られてきてなあ・・・」
「あっ・・・」
びっくり仰天! 大学の成績表ではありませんか!! なんで彼の手に!? なんと、大学は卑怯にも親元に送り付けていたのです!!!(あとでそれが普通だと知りました)
沈黙する以外にテのない私に、父親はしみじみと
「おまえなあ、おれはさ、しがない教員で、稼ぎもそうないことは知ってるだろ」
「・・・・・」
「それがさ、お前を東京の私立大学に出しているわけだ。ということから言わせていただくと、さすがにこの成績は、切ないなあ・・・・」
これは、こたえました。そりゃそうだろうなあ、と思うほかありません。想定外の泣き落としにあって、私は周章狼狽、翌年は親に面目が立つ程度の成績を拵えました。
母親もユニークな接し方をする人で、見切りが早い。音楽教師だった彼女は、ものは試しと、私が小学校に入りたての頃、「バイエル」とかいう赤い楽譜の本を買ってきて、私にオルガンを弾かせようとしました。
ところが、始めてからものの15分くらいたった頃、突然
「ナオちゃん、つまんないんでしょ。じゃ、やめようか」
と即断して、一方的に打ち切ったのです。
そのとおり。私はまったく面白くありませんでした。母親はその後、もはや二度と私にオルガンを弾かせようとしませんでした。才能のなさを見切ったわけです。
その母親が、成績がらみで、やはり1度だけ怒ったことがあります。
私は中学3年のとき、学級担任とまったくソリが合わず、成績が下がったことがあります。とにかく頑迷と言うか独善的と言うか、教条主義が服を着て歩いているような男で、私は辟易していたのです。
そろそろ高校入試が意識され始めたある日、後日のいわゆる三者面談の前段階で、担任と保護者の2者面談がありました。
当日、私が学校から帰ってみると、母親がいつになく険しい顔をしているのです。そして、私が台所に入って来たのを見ると、えらく厳しい口調で、いきなり、
「あんた、ナメられてるわよ!」
私は母親がそんなセリフを口走るとは思いもしなかったので、事態が飲み込めません。
「〇〇(担任の名前)みたいな、あんなのにナメられてどうするの! 見返してやりなさい!!」
ここでようやく、母親が成績の件で担任に面白くない話をされたんだとわかりました。
それにしても、これほど頭にきているとは(担任の名前を呼び捨ての上、「あんなの」呼ばわり!)。さすがに同じことが二度起るのはまずい。それにあの〇〇にナメられるのは、オレも我慢できん。
私はその後、今までの人生でおそらく一番、勉強して成績を回復させました。
今にして思うと、息子の性格を熟知していた両親が、父親は泣き落とし、母親は息子の敵愾心に火を点けるという、技ありの方法で「イヤでも勉強しなくてはいけない」気にさせたというわけです。
人によって勉強の仕方もさせ方もそれぞれでしょうが、この時期になると、ふいに昔を思い出したりします。今回は長々恐縮でした。
盛岡のお寺は、第三十五世である。
息子にお寺を継いでもらわなければ、寺を出なければならない。
そこで「出家」させる必要が生じる。
その時、どうしたか・・・
話てくれた。
南師の御母堂は、
「何も坊さんに成らなくても…」
と、嘆かれたと聞く。
「出家」のさせ方、
これは難題
南さんのご両親は、やはりそういうとこが教員らしいです。
人を見抜く眼がある。関わるテクニックがある。
けど、15分は早過ぎですね笑。
頑張ることは簡単ですが、どう頑張るかが難しいのではないでしょうか。それぞれの勉強の仕方、環境、効率、自分に適切な仕方を見付けることが鍵だと思うんです(勉学に限らず)。
僕の知る人も、突貫工事で勉強して、頭の良い学校に行った人がいましたが、勉強するような人柄ではないんですよね(サッカーもしてたし)。彼なりの頑張る仕方を知っていたのかな(ある意味、元も子もないセンス的なもの)。
自分とは何か〜と体を抉って探してました。まさか30歳を超えて生きていられると思わなかったですよ!仏教は大切な趣味とします。
自分の話で恐縮ですが、私の子どもは大学生になってから勉強をするようになりましたね。もう少し早くやっていれば、もう少し社会的に良い思いをさせてもらえたのにと思います。
それにしてもあの当時から、親に成績表を送るなんであったのですね。最近始まったことかと思いました。
その人の性格、もって生まれた資質、言葉のタイミング、その言葉を聞いたときの境遇など、様々な要素が絡んでいるでしょう。
勉強をさせようとする言葉も、仏教の言葉も、心に響いたり、行動を変えさせるのは言葉だけではないと思います。
感動して、行動を変えた言葉も、時を経てみると陳腐に思えるときもある。
ただ思うのは、南さんはご両親の元で育てられてとても運が良かったのでしょうね。相性が良かったのかもしれませんね。
その運をガッチリ掴めたのは、ご自身の努力だったのか、それともやはりそれも運だったのか。
「まあ、とりあえずはそれほど悪くはない父親だったよね」と子供達から死んだ後に語ってもらえるようにしたいと今でも思っていますが、遅すぎるかなあ。
勉強も学校もギライでも
先生次第ではズキになる
先生に恋でもするもんなら
成績もハートも上昇気流
間違いなし
勉強させたいなら、身籠った時から親も勉強すべし!
それでもダメなら諦めろ!
もし、選択できるようになったとしても、「わけのわからないご託宣」を言うような大人になるかもしれないのだよ。