恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「ニルヴァーナ」私見

2018年03月20日 | 日記
すでに何度か述べたとおり、「ニルヴァーナ」について、それが何であるかという説明は、仏典にありません。それが何でないかは、説かれていますが。

「無上の安らぎ」みたいな表現は出てきますが、その具体的な境地が小春日和のうたた寝(かなり多くの人にとって、「無上の安らぎ」でしょう)とどうちがうのか、誰にもわかりません。

 それもそのはず、仏典における「ニルヴァーナ」の具体的現象は、ブッダの死だからです。死が何かわからないのは当然で、したがって「ニルヴァーナ」にまともな説明が何もないのです。

 すると、「ニルヴァーナ」は仏教の最終目標であるにしても、それが何だか定義されないのですから、我々にとっては「達成」すべき対象になりません。

 わけのわからないものを目標にするなら、それは「受容」という方法でアプローチされるほかないでしょう。つまり、この「目標」は我々の能動的行為の対象とはなりようがなく、結果的に、その根本において受動態で応接するしかありません。

 つまり、我々は死に対して何もできない以上(「終活」とは、自分がかってに設定した「死」までの心配に過ぎない)、いかにそれを受け容れるか以外、考えることはないわけです。

 このとき、「わからないこと」を受け容れるのに一番「ラク」な方法は、それを考えることを止めることでしょうから、だったら考える主体を解体してしまえという発想は、ラジカルであると同時に、実に利口なやり方でしょう。

 ということは、「ニルヴァーナ」を様々にデザインして語れば、それに応じてロマンティックなストーリーの仏教や仏教型宗教は何種類もできるでしょう(このうち、『だったら、さっさと死んでしまえば、その方がイイだろう』というのは、最も愚かなストーリーです。それは『死ねば今よりラクになる』という妄想で行う能動的行為にすぎませんから、ニルヴァーナの誤解以外の何ものでもありません)。

 言うまでもなく、それのどれが「真実の教え」かなど、決めようがありません。結局、自分はどれを気に入るか・支持するかだけの問題です。

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185 コメント

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Unknown (牡丹)
2018-03-20 00:30:33
和尚さんは、クールなロマンチストですね😌

和尚さんの語られていることは、大体どれも気に入っていますし、支持しています😊

度々ありがとうございます☺
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Unknown (桂蓮)
2018-03-20 00:37:48
私のアメリカ人のフェイスブック友達が
『ニルヴァーナについて聞いたのは私っだけ?』かと書いた内容を投稿したことがありました。
彼らにとってニルヴァーナは
支持するかしないかの問題でなく
それが『何を指している』かさえ分からない、ただの宗教の教えの一つであるでしょう。
私にとっても横文字(サンスクリット語)にすぎず、ウィキペディアを引用しないと意味さえ分からない名詞です。

ですが、
『ある永訣、またはニルヴァーナ断想
2016年07月20日 | 日記』

上記の院代の記事は詩的ではありますが、イメージがわきますよね。


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Unknown (Unknown)
2018-03-20 00:43:45
小春日和のうたた寝、ですか⁉

中には、涅槃の日を゙1日中寝る日゙と冗談のような解釈をしている方もいますが、通常は余程関心がない限り考えることもないでしょうから、致し方ないこととはいえ、御説明も面倒なことでしょうね。
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Unknown (Unknown)
2018-03-20 02:18:25
「ロマンティックなストーリーの仏教や仏教型宗教」

人によっては皮肉と嫌味に感じるでしょうね。しかし痛快です。すごいなぁ。

本心では、「何を信じようが勝手だが、まともな仏教としては他の解釈などありえないだろ」ってとこですかね。

私は南直哉はロマンチストではないと思います。反対にそういうの一番嫌いなんじゃないですかね。あしからず。
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Unknown (Unknown)
2018-03-20 02:23:17
実際に仏典を書いたのは、仏滅後口述伝承を聞き取った誰か。伝言ゲームの末の記載。ロマンチックな御伽話とも思えます。

しかし、現実とは関係性で出来ていくもの。それにはキーとなるイメージが必要です。出来るだけ多くの有情無情に利益するよう、現実を組み立てるには、この位緩やかであるべきかもしれません。
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Unknown (Unknown)
2018-03-20 02:52:58
南さんには大変失礼ですが、思ったことを一言。

今の世の中において「宗教」は表向きは不信の対象ですが、「宗教」ほど求められていることもないような気がします。

しかし「宗教」(宗教的な雰囲気の啓発本やスピリチュアル本も含めて)が自己の欲望や、欲望を産み出しかきたてるような政治や経済の体制に対して、吟味されることなくそのままそれらに賛成するような、あるいは吟味されることなく放置するような、また宗教がそのために利用されてしまうような心理的な甘えに危機感を感じておられるのじゃないでしょうかね。

南さんは生きておられる限り、それらに対してのアンチテーゼを投げかけずにはいられないのではないかなあ、と。

もちろん仏教僧のお立場ですから、なんでかんでもも発言するわけには、なかなかいかないでしょうが。

それで南さんが亡くなられた時には、そのお役目がある意味終わったと理解するなら、その時は多くの人の宗教に対する認識もある意味成熟したと考えられるんじゃないかなあ、と。

すいません、妄想です。
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Unknown (Unknown)
2018-03-20 04:55:37
仏教型宗教って、面白い言い方ですね。「仏教」と「仏教型宗教」のライン引きも、人によって異なりそうですね。

南さんのラインは、理解してますよ!私のラインと大体一緒ですが、少しズレます。(笑)
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Unknown (木蓮)
2018-03-20 05:53:32
『このとき、「わからないこと」を受け容れるのに一番「ラク」な方法は、それを考えることを止めることでしょうから、だったら考える主体を解体してしまえという発想は、ラジカルであると同時に、実に利口なやり方でしょう。』

その有効なやり方としては、やはり坐禅になるのでしょう。
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自己選択 (榮久)
2018-03-20 06:07:07
「死」は存在しなくても「死体」は存在していまう。
現象と論理を思考において峻別することにより「死」は「死」であって、そこに「原因」などはないのだが
一神教を信じるもの、つまり「超越」人間には手の届かない領域、God と人の関係人の創造主、支配権が及び所有物でもある。基本的に他者と比較せず自分が神の意思に従って生きていけばいい、ある意味寛容だ他者に対し無関心なのだから
「悪」 と「神」は同じ論理で作られた神を絶対化したから絶対悪を必要とした。
月曜から土曜まで悪に染まり日曜日に懺悔すれば救われ購入できる免罪符も用意してある。
信仰とは何だろう何をもって何を見るのか今一度考えてみよう。
明治以降続く進歩思想に染まり過ぎて、より便利なもの、より儲かるものをひたすら求めていくことだけに生きてきた結果として
配慮や節度に欠けた今日が自分の利益と既得権に固執する政治家や官僚、庶民の暮らしなど無視し言葉だけの「誠実で丁寧な説明」
私たち皆がこの暮らしを壊そうとしているのだろうか。選択 結果 責任 考えてみよう。
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Unknown (Unknown)
2018-03-20 18:22:34
自分が居ることで、世界に影響を与える。実は、責任重大。
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