恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

困ったな

2006年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 いま、毎月のお参りに、福井の自坊(自分が住職するお寺のこと)に来ています。お参りはいつものことなのですが、今回びっくりしたのは、檀家の人から「方丈(ほうじょう・主に禅宗で使う住職の敬称)さんの書がほしい」と言われたことです。

 なんでも、新築した家の床の間に飾る掛け軸にするんだそうで、「お願いしますよ、方丈さん。ねっ、ちょこちょこっと、すぐでしょ」。

 言うほうは簡単でしょうが、書くほうはそうはいきません。その家にお参りにいくたびに、床の間に飾られた自分の拙劣極まりない字を見なければならないと思うと、とても引き受けられません。しかし、相手は、そもそも私の書の腕前を知らないのですから、いくら勘弁してくれと言っても、謙遜しているとしか思わないのです。困りました。

 実は、白状しますと、私は30代の半ば頃に1回、40代になって1回、どうしても言われて半切(はんせつ・ごく普通の掛け軸に収まる大きさの縦長の紙)を書いたことがあります。そのたびに、もう2度とすまいと思ったのですが、どうしてもと言われると、住職は弱い。

 俗に禅僧の書は墨蹟(ぼくせき)と言い、これは書の上手い下手ではない、さとりの境地がいかに表れているかを見るのだ、とされるのですが、さとりの境地にほど遠く、しかも下手とあっては、立つ瀬がありません。

 では、どうしましょうか? 答えは一つ、書くだけです。書いた本人も恥ずかしく、もらった相手も始末に困るでしょうが、ここはもう、仕方がありません。これで、檀家中に住職の書のレベルは知れ渡るでしょうから、もう2度とこんなことは言ってこないでしょう。それでも言ってくるなら、今度は遠慮せず書けばいいのです。ここで言を左右にして曖昧にごまかせば、いつまでたっても住職の書に対する「幻想」は覚めません。

 私は思うのですが、悟ったとか、神の啓示を受けたとか言う人は、自分の信者や取り巻きのみならず、誰にもそれが明らかにわかるように、自らの具体的な行動おいて証明すべきではないでしょうか。書の腕前は、書いて見せれば、檀家だろうとなかろうと、一発でわかります。リアルな悟りや啓示も同じです。それらが、本人の行動をどう変えるのか、自らを充実させ、周囲の人を幸せにするのか、どうなのか、はっきり見えるようにしたらよいのです。

 私は「正しい宗教」「間違った宗教」を判断する基準を持ちません。しかし「善い信心」「悪い信心」を判断することはできます。「善い信心」は最後にかならず、その人に接する周りの人を感動させ、幸福にするものです。とりわけ、同じ信仰を持たない人に強い印象をあたえるものなのです。

 私の書がよい出来なら、また頼まれるでしょう。実に単純明快なことです。悟りも神の啓示も、それがリアルなものなら、単純です。リアルなものは、そもそも単純なのです。


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