今、私は住職している福井の寺にいます。10年前、まだ修行僧だった私を住職として迎え入れてくれたのが、この寺です。大勢の信者さんで成り立つ恐山とは違い、この寺は30軒ほどの檀家さんが支えてくれる、曹洞宗としては一般的な寺院です。
私は月に一度、下北と福井を8時間半くらいかけて往復しています。一週間ほど滞在し、檀家さんをまわって「月参り」のお経を読み、法事をしたりします。また、突然どなたか亡くなって葬儀ということになれば、飛行機でも電車でも、そのとき乗れる物に飛び乗って、帰ってきます。
恐山にずっといるならともかく、ほかにも、会議だ、講演だと出張する仕事が時々あるので、いまや私は「住所不定住職」などど言われています。ですから、普段この寺の面倒をみてくれる事実上の「住職」は、両親です。私はいまだに親だのみで何とか毎日やりくりしているわけで、まったく申し訳ない話です。両親とも元教員で、お寺の世界とは縁もゆかりもなかったものですから、最初は大丈夫かと思いましたが、今や堂々たるお寺の顔役で、住職は頭が上がりません。
檀家が30軒というと、やはり寺としては小さいほうですが、これくらいの規模だと、まず3年で家族の顔は全部わかるようになり、10年で親戚もわかるようになります。記憶のよい住職なら、もっと早いでしょう。そうなれば、「準身内」のような感じになり、お互いかなり立ち入った話もできるようになってきます。
いわゆる「檀家」、この寺と檀家の関係は、江戸時代に幕府によって、必ずしも信仰とは関係なく、政治的に制度化されたものです。明治以後は、法的制度ではなくなりましたが、慣習として存続してきました。したがって、檀家さんたちは、自ら仏教や宗派の教義を学んでいる、自覚的な信心を持つ「仏教者」とは限りません。
しかし、「檀家」という長い慣習が培ってきた確かな信仰があることも本当です。私は以前、80歳をすぎたお婆さんから、なるほど信心とはこれか、と教えられたことがあります。
ある日、月参りで一軒の檀家さんを訪ねたときのことです。いつものように、その家のお婆さんと奥さんが出てきて、私と一緒にお経を挙げてくれました。挙げ終わって、お茶を出してくれながら、奥さんが「最近妙なことがあった」と言うのです。
「いえね、この前、近所に見かけないお坊さんが来てね、お経を挙げさせてくれって、回って歩いてたんですよ。そしたら、お婆ちゃんが、うちで挙げてもらえって言っちゃってね。しょうがないから、挙げてもらって、お婆ちゃんがお布施もしたの。でも、なんだか変なお経なの。般若心経だと思うんだけど、節もおかしいし、つかえるし。インチキみたいで」
それを聞いて、私も笑いながら、
「いやあ、最近、都会じゃ坊さんの恰好をして妙な金儲けする連中がいるみたいですよ。いよいよ福井でも出ましたか」
と言ったら、黙って聞いていたお婆さんが突然、低い声でつぶやきました。
「誰が挙げてもお経さまは有難いもんだ。わしはお経さまにお布施したんで、坊さんにしたんじゃねえ」
それを聞いたとたん、夏の暑い日でしたが、私は背筋に冷たいものが走るような気がしました。それは、信心が結晶した、実に水晶の刃のような思想でした。それは書物から組み立てた思想とはまったく別の、しかし思想としか言いようのない強靭な言葉でした。
帰り道で私は、踊念仏で有名な一遍上人の逸話をまざまざと思い出しました。
弟子を引き連れての遊行の途中、上人はある侍の屋敷に立ち寄り、念仏を唱え布教しようとしました。おりしも、その屋敷では主の侍が仲間とともに酒盛りの最中でした。家来が上人の来訪を告げると、主はにわかに衣服を改めて出迎え、上人の前に正座し、合掌して念仏を受けたのです。念仏終わって、上人一行が立ち去ると、主は再び宴会に戻り、坐ったとたん、「あいつはとんでもないインチキ坊主だ」と言い放ったのです。それを聞いた仲間は笑って、「では、なぜ念仏を受けたのだと」と訊くと、侍は一言、「念仏に嘘はないからだ」。後でそれを聞いた一遍上人は、「彼こそ本当の念仏者だ」と言ったと伝えられます。
この日以後、私は書物から学問として、あるいは思想として仏教を学ぶ限界を、明確に意識するようになりました。それが無意味だとか、無駄だと言うのではありません。ただ、宗教と宗教学は、別なものなのです。それを自覚した上で、宗教の言葉に向き合わないと、お婆さんの言葉の力を、私たち僧侶は持つことが出来ない、痛切にそう思ったのです。