いまや「日本のヒーロー」ばかりか、「アメリカのヒーロー」にもなった感のあるイチロー選手。今年も、シーズン200本安打の連続記録を、実に1世紀ぶりに更新しました。その抜群の技量のみならず、若いころからの彼のユニークな言動に注目してきた私にも、大変うれしい活躍です。
以下は、2004年(だったと思いますが)、シーズン最多安打の世界記録を樹立したとき、剣道の専門誌にエッセーを頼まれ、書いたものです。ささやかな祝意のしるしとして、転載させていただきます。
▼イチローの「作法」
十個の台風、大地震。おまけに熊の出没。国の外ではテロ・戦争、内に連日の殺人事件。昨年はお世辞にもよい年とは言えなかった。
その中で、日本中の耳目を集めた数少ない明るい話題はスポーツ、金メダルラッシュのオリンピックと、あの大リーガー、イチロー選手の歴史的大記録であろう。
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いまや神業の域に達した彼の活躍は、今更素人の私が言挙げするまでもない。が、彼の勇姿を目にするたびにいつも気になるのは、例の打席に入って打つ構えを整えるまでの、一連の動作である。私にはあの独特の動作が、いつも何かの礼儀作法のように思われる。
それにあの構えは、打ち気満々、一発かっ飛ばしてやろう、という風にはとても見えない。両膝が着かんばかりの内股で、バットを肩にかつぐように倒して構える姿は、打ちに行くと言うには、あまりに静かだ。
この構えから彼が芸術的と言えるヒットを量産する様を見ていたら、なんだかボールを打つというより、来たボールをバットで出迎えに行っているような感じがしてきた。
昨秋、テレビでイチロー選手のインタビュー番組が放送されたが、その中で彼は自分の構えに言及して、最後に気をつけるのは背筋である、という意味のことを言った。やはり!と私は思った。体の軸が決まらなければ、どこへでも即座にお迎えにいくわけにはいかないだろう。
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私には剣道五段の弟子がいるが、以前彼と話していたら面白いことを言っていた。
「試合をしている最中、何かの拍子に坐禅しているときと同じ意識状態になることがあります。そのときは必ず一本取れます。打ち込むと言うより、当たる。もっといえば相手の方から当たってくる感じさえします」
少なくとも坐禅は相手に何かを仕掛けていく体勢ではない。なのに、それと同じ意識状態が鋭い攻めを可能にしている。そういえば別の有段者が「強い人は見ればわかります。前に踏み込んでいる足ではなく後ろに引いている足、その足の先まで頭から強い軸線が貫いているのです」と言っていた。まるでイチロー選手の構えであり、坐禅で言う「正身端坐」である。
けだし、これらの姿勢に共通するのは「待ち」とか「受け」と呼ばれる態度だろう。それは他者を迎え入れる態度なのであり、その迎え入れによって自己を立ち上げようとするのである。剣術が「敵」を打倒する技術だとすれば、剣道は「相手」の存在を根拠に「自己」を鍛え高める修行だと言えるのではないか。もしそうなら、「相手」の到来を「待ち」、それを十分に「受け」容れる姿勢と態度が必要に違いない。
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東京の禅道場で坐禅指導などしていると、色々な人がやってくる。もちろん坐禅に関心があるのだろうが、ある種の不安や屈託を抱えてやってくる人もいる。中でも若い人に多いのは、「自分のしたいことがわからない」「本当の自分が知りたい」という悩みである。 こういう話を聞くと私はよく思う。発想を変えろ、と。案外「自分は他人の役に立つ何ができるのか」を考えた方が、早く「自分のしたいこと」がわかるのではないか。「本当の自分を知る」ことができるのは、目の前の他人が自分にとってどういう存在なのか知ることによってではないか、と。
彼らは相手を見ないまま、急いで自分を前に出し過ぎている。人生の構えに「待ち」と「受け」が足りないのだ。だから焦る。焦れば、たとえイチロー選手でも、ヒットは打てないだろう。(了)
よく弓道などで、「百発百中の極意は、無心だ」などと言うようですが、私はこういう意味ではないかと思ったりします。
最初は的に当てようと必死に練習する。すると当たるようになる。それは的に向かって立つ自分の構えや姿勢から発射される矢の軌道が体感され、記憶されるからだろう。
ただし、そのまま体感にまかせて、ひたすら当てようとしても、「すぐれた選手」になれても、「百発百中の名人」にはなれまい。
そうではなく、むしろ、的に向かう軌道にあわせて構えや姿勢を作り直したとき、「名人」の域に入るのではないか。
軌道にあわせた構え・姿勢が確立すれば、構えたとたんに筋肉や骨格は自動調節され、そのバランスの維持以外に余計な一切の力を必要としないだろう。
すると、意識は特定の対象を狙うよりも、的から自身の体の全体をつつむ絶妙なバランスの維持に集中することになり、これを称して「無心」と言うのではないか。
以上、ついでに考えたことです。
塩田剛三
(しおだ ごうぞう、1915年9月9日 - 1994年7月17日)は、東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道(合気道)家である。身長154cm、体重46kgと非常に小柄な体格ながら「不世出の達人」と高く評価され、「現代に生きる達人」とも謳われた。(Wikipediaより)
http://www.youtube.com/watch?v=7LZQfTSN8yQ&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=haN1jQumCLM&feature=player_embedded
(2/2)で心打つ事を仰っています。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと、それを体現されているわけですね。
そんなに南さんのおっしゃること、気に障りますかあ?
たまさか似たような部分があっても、安易に結びつけることはスポーツ選手にとって失礼にも当たるでしょう。
イチロー選手本人がどう思われているかはわかりませんが、大リーグでさまざまなプレッシャーの中で活躍され、生活の糧を得ておられていることと、所詮は閉じられた狭い世界で座っているだけとの禅の修行とやらは比較になりません。
イチロー選手などの活躍は、はっきりとわかるものです。しかし、お寺さんで座って「自分は修行した」と言われても、そう言うだけの人は幾人もいるでしょうね。
新書で読みたいです。
すごく勉強になりました。そう言えば、イチローの愛犬も一弓ですし、、、、
「射ハ自己ナリ。弓ヲ習ウトイウコトハ自己ヲ習ウノデアル。 自己ヲ習ウトイウコトハ自己オ忘ルルナリ。自己ヲ忘ルルトキ万法宇宙来ッテ吾レヲ証スルナリ。天地元ヨリ全自己ニシテ始メナク終リナシノイイデアル」
これは、「正法眼蔵」のパロディではなく、「弓禅一如」を唱え、弓聖と呼ばれた阿波研造氏の言葉です。阿波氏は、暗闇の中で2射し、1射目を的の中央に当て、2射目を的の中央に突き刺さったままの第一の矢に当てるという、まさに神業をなした人物としても知られています。(このエピソードの詳細に関しては、以下を参照してください。 http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-142.html)
弓道以外では、究極の「待ち/受け」の武道である合気道があります。合気道の創始者である植芝盛平氏は、大本教の修行を通して合気道を作り上げたと考えられており、実際、合気道という名称は出口王仁三郎によってつけられています。(出口王仁三郎は、日本近代宗教における巨人(良くも悪くも)であり、戦後の新興宗教の半数以上は彼の思想を原点としています) 神秘的なまでの強さを誇った植芝氏は、弟子から「合気」の極意を訊かれると、大本教を教義を語りだすのが常であったらしく、弟子たちは途方にくれていたようです。仕方なく、弟子たちは自分で「合気」を理論化するようになり、その弟子の中から、内田樹氏の師匠である多田宏氏とか、王貞治の一本足打法開眼を手助けしたといわれる藤平光一氏といった人材が輩出することとなります。
やっと、宗教から野球の話に繋げることができたようですので、この無駄話をおわりといたします。
そうですね。
前回の記事へコメントされた方たちに、ぜひ読んで頂きたいなぁと思う内容ですよね。
ついでに(笑)
何人斬りか分かりませんが、あぁ、縦列に並んだイタズラッ子和尚達の「膝カックンウェーブ」が目に浮かぶようです(笑)
思わず爆笑しました。
本当の「出家」はどうのこうのと、ご高邁なお話を展開される方にも、ぜひ、イチローの打撃の真髄を語って頂きたいと思うのは、私でけではありますまい。
さて、南さんのお話を伺って、私は、確か川上哲治さんの「来た球を打つ」という、字面にすれば当り前な言葉を思い出しました。
たぷん、打者として、なにかつかんだときの境地ななんだと思います。私には、集中力を極限まで持っていったときに感じる清々しさと言ったありきたり言葉で納得するしかありません。