恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

対話の中で

2017年06月30日 | 日記
▼お医者さんと
「結局、最後は敗北する職業です。大変だと思いますが、そのつもりでやることです」

▼教師と
「親の子育ては試行錯誤の連続ですが、あなた方は失敗せずに試行錯誤するという無理を周囲から要求されるところが、非常に辛いだろうと思います」

▼母親と
「私の母は、口に出して約束したことは必ず守ってくれました。そして、自分に誤りがあるとわかったときは、大人に謝るのと同じように、はっきり子どもに謝りました。これは信用の根本であり、したがって『躾け』と『教育』の土台です。私はいま見習っています」

▼父親と
「母親は時として無意識的に忍耐できますが、父親はそれほど『賢く』ないので、常に努力して忍耐しなければなりません。自戒です」

▼自称「引きこもり」の若者と
「要するに、死ぬまで引きこもれる金があるのかどうか、一人で部屋の中で稼げるスキルがあるのかどうかです。前者は昔『高等遊民』と言いました。後者は完璧な『独立自営業者』でしょう。そのどちらかが可能なら、何の問題もありません。あなたの場合、堂々と引きこもればよいのです。うらやましい」

▼中学生と
「勉強するのは、今より自由になるためだな。しないと生きられないわけでもないし」

▼後輩と
「寺があって、住職がいても、そこに仏教が無い。そうならんようにしないと。お互いに」

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203 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2017-07-28 03:06:56
自我の崩壊は、治せるのでしょうか。
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Unknown (たかはし)
2017-07-10 14:42:49
ニートって、食はどうするんでしょう。親に食わせてもらうということですかね。それじゃあ釈迦の出家とは、ちょっと意味が違うでしょう。

托鉢は、食を得られないことも有る、という不安定なものですし、しかも、一日一食ですから、三度三度親に食わせてもらうのとは雲泥の差でしょうね。腹一杯食べてはならない、ともされています。

更には、歌舞音曲、娯楽禁止ですよ。ゲームも漫画も許されないでしょう。
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魚川祐司さんの『仏教思想のゼロポイント』を読んでみた (Unknown)
2017-07-10 12:38:35
わかりやすく訳してくれている本
例えば、ゴータマ・ブッダの「労働と生殖の放棄」を「異性と目も合わせないニートになれ」と言い換えています。
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Unknown (Unknown)
2017-07-10 00:22:24
勉強って、低コストでより多くの正解なるものを選び出すっていう、いい成績とる用の勉強だけでもないでしょ。
自分の知りたいことややりたいことを彫り出していく手段を手に入れる、みたいなことだってあるでしょ。
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Unknown (月のような者)
2017-07-09 22:18:28
田河水泡の「漫画の缶詰」という本を読んで思ったのは、田河水泡が田河水泡でいられたのは小卒(尋常小学校)だからって部分が大きいことですね。実際には美術学校も卒業しているけど、学のある人ではないんですね。低学歴が偶然良い方向に作用した典型例でしょうね。「漫画の缶詰」ってバカじゃないかってぐらいひねりがない作品群なんだけどやたらと「クオリティの高い漫画」なんですよ。当時の子供漫画では宮尾しげをと田河水泡が別格だったとしても田河氏の方がより気負いが抜けてより普遍の世界に溶け込んでいたんだろうなと思います。宮尾氏をリードできるってすごいですよ。これは田河氏に学があったら理屈が邪魔をしてたぶん実現できなかった、マンガの歴史も変わるところだったことでしょうね。
中学生に勉強するなとか高校も大学も行くなとは言えないけど、学歴で本当の自由が買えるとも言えないでしょうね。詰め込みの勉強をするってことは脳みそを平坦にさせる危険と背中合わせであることは誰でも分かってるんだからとにかく色んな手段で頭をバランスよく活動させるべきということですね。死ぬ時に受験勉強時代の変な脳の使い方が影響してのた打ち回るような事態は回避したい所だと思いますよ。
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Unknown (Unknown)
2017-07-09 15:54:34
コップ一杯の水を差しだし、「がんに効く」と言い、100万円受け取ったとします。
医師のライセンスなかったらすぐに逮捕されます。

医師がやったら、許されます。
罪に問われません。これが日本の現状なのです。
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Unknown (Unknown)
2017-07-09 15:10:01
人間不振に悩んでる友人がいますが、治した方がいいのか、どうやって治すのか、でまた悩んでいます。

逆に、ばか正直で、信用しやすい、騙されやすいで悩んでる友人もいますね。

どうしたものでしょうか。
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連想です。君の名は・・・「徹真・道敬」 (イエスちゃん)
2017-07-09 09:53:42
『祖徹・直哉』

そうでしたか。

因みに、父の名は「徹真・道敬」

戒名の二文字の内、重要なのは、「後ろの一字」です。

だから、道元和尚の場合は、「元」の方です。
ですから、中国では「元子(げんす)」と呼ばれていました。
「孔子」「孟子」「老子」での敬称の「子」です。

父の生前の名が「敬四郎」なので、「敬」、
道元和尚から、「道」を戴き、
「道敬」

道号は「徹真」ですから、
南師の『祖徹』と、意味的に通じるところがあります。

連想です。
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Unknown (Unknown)
2017-07-09 03:13:41
>悟る為に座るのではない・・・ただ坐るのだ・・・

現代解釈では
右脳世界観に触れる為・・・・
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Unknown (たかはし)
2017-07-09 02:59:10
南さんの文章から引用 http://kangaeruhito.jp/articles/-/1892

前略

ところが、それと同時に、「ありのまま」主義の思想風土は本来形而上学を必要としなかった。ならば、超越的理念や実体論的思想と正面から対決した上でそれを解体し、無常・無我・無記・縁起の思想を確保する言説が、「日本」に現れる可能性も必然性もあるはずである。
 その言説こそ、親鸞(一一七三~一二六三)と道元(一二〇〇~一二五三)の思想と実践であり、いわば「日本」における形而「上」学ならぬ形而「外」学であり、ゴータマ・ブッダの根本思想をそれぞれの方法で捉え直したのだと、私は考えている。

中略

 真に「他力」によるというなら、「信じる」「念仏する」行為に澱のように残らざるを得ない「自力」を、「信じる」行為もろともに捨て去らねばならない。このとき、「信じない」行為も同時に無効になる。
「信じる」行為は、「誰か」が「何か」を「信じる」という構造でしか発現しない。すると、その脱落は「信じる」主体を放棄し、「信じられる」対象(阿弥陀如来と極楽)を消去するだろう。このとき、念仏はただの音声、意味を理解する必要のない発音の連続になるのだ。

中略

 だから、続けて親鸞は前代未聞の発言をする。これまで我々が信じてきた阿弥陀如来は、この「自然」という存在の仕方を教えるための手段(「れう」)にすぎない、と。
 かくして、「信じる」主体も「信じられる」対象も消失すれば、念仏も意味を喪失するのは当然の成り行きである。

中略

この文章は、阿弥陀如来の本願が意図する念仏は、人々の修行でも、善行でもなく、ただ仏の名前を唱え続けることであると言う。通常の善を行うという意味の念仏は必要ないのだ。ということは、残るのは「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」の発声行為のみである。
 事ここに至って言えることは、親鸞のアイデアは、かろうじて「仏教」の範疇に留まっていた法然の浄土教思想を突破し、それが内包する超越的理念(阿弥陀如来と極楽)を、悉く「念仏」という行為に落とし込み、消去してしまったのである。
 親鸞に結実した思想は、人間という「無常」の実存を、超越的理念によって根拠付ける形而上学ではなく、「無意味」な念仏、すなわちそれ自体「無常」な行為において自覚的に受容するという、形而「外」学である。そのような彼の登場は、もともと形而上学を持たなかった「日本」の思想風土においてこそ可能だった、と私は考える。

以上、引用終わり。

阿弥陀仏は、存在するのか、救いは真実か。それを気にする自我を滅っしようとする、そういうことなんだろうと思いましたね。

ただ阿弥陀仏の名前を唱える、救いを受けるための修行、善行としてでなく、目的も意味もなく念仏する、そこでは、阿弥陀仏の真実を気にする自我が無い。

経典を学んだ者ならではの仏教者としての帰着、親鸞の教えも仏教である、ということだと思いますね。

それは、悟るために坐るのではない、ただ坐るのだ、という禅と共通のものがあると思います。









 
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 23:23:19
ジョセファット ガジマ。。。。。
成程色々アップされてるね(Tkank you)
大流行みたいだね

キリストのよみがえり??
死者が蘇ったとか、神から権威を授けられたとか??

マジカ??
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 23:12:44
祖徹直哉(・_・?)なに?そんなのがあるの?

南実存もたいへんですね。妻とか子供とか、空の知識から囚われる要因を請け負ったというか、賭けたのか、
南さんって、何によって自己を放たれて保たれているのか。やっぱり座禅なのかな。
実存の大切さと面倒さ、どう取り扱おうかな。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 22:29:53
南さんの道号は祖徹でしたね。
祖徹直哉というお名前はお人柄にぴったりだと思います。
道号って一休宗純さんの一休の部分で宗純は戒名です。
祖師に徹して独身のままでいて欲しかった気もします。
でも、妻帯されたお立場から仏教を発信するのも一つのお考えかとこちらを時々拝見しております。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 15:50:14
おいどんが言ってる「ガジマ」って
ジョセファット・ガジマ って人?

検索するとそれなりに色々出てくる、有名人?なんだね。
2015年に武器・兵器の不法所持で逮捕、とかいう記事があるよ。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 10:59:12
わたしに「良い健康体操ヨガ」を教えてくれる人が(自分では、もっとヨガらしいヨガ?をやってるとして)
クラスの参加者をどんな気持ちで見ているのかな?とか思うときもある。
つまんなくないのかな?とか。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 10:49:39
別にヨガでなくてもいいよね、太極拳も健康にいいんじゃない?俺はさ、白人のなかで流行ると 急にみんな後追いしだすっていう、あの白人コンプレックス丸出しの心理がこそばゆいんだな。気持ち悪いってかさ。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 10:38:26
「嘘くさいんだけど」と思ったわたしが「愛と平和と感謝」に満ちてれば
そのイントラさんを「愛と平和と感謝」に満ちた人だと受け入れられたのかもしれない。
でも、やっぱり、そういうのがやりたいわけじゃないからな。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 10:20:34
きみが「健康体操」の部分だけ読めばよくない?
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 10:16:44
そして、わたしにとっての良い健康体操ヨガを教えてくれる人が、ヨガを「健康体操」として考えているかどうかは別なんだよね。
それこそ「愛と平和と感謝」みたいなことだったりするかもしれない。
もしかしたら、健康体操ヨガを求めているわたしにとって、
教えてくれる人が「(例)愛と平和と感謝」にコミットしているかどうかが、実はすごく重要なことなのかもしれない。

「愛と平和と感謝で禅の教えをシェア」の人に困ってしまったのは、
その人の言葉とその人との間にかなりなギャップを感じたから、みたいなことだったりする。
ぶっちゃけ「嘘くさいんだけど」とか。
まあ、わたしなりに、「ひと目で」とはいかないまでも、何かしら判断したのよね。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 10:13:59
わざわざヨガくっつける必要ないですよ。健康体操で十分だと思いますよ
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 10:04:08
その、ヨガで心の止滅を追求するっていうのも、宗教に見返りを求めることじゃないの?
悟るために修行するとか、救われるために神を信じるとか、同じじゃないの?

わたしの「健康体操ヨガ」の始まりは腰痛体操なんだよね。
医者に「緩和対策・予防としてこういうのも」って、腰痛体操の小冊子を渡されて、
この動きって、ほぼヨガに出てくる動きじゃん?って思ってヨガに流れた。

わたしにとっては「腰がラクで気分がすっきりする」のが「良い健康体操ヨガ」。
ヨガが宗教なのかどうなのかはさておき(っていうか、知らない)、
わたしはヨガを宗教として活用したいとは思わないという意味で
「(ヨガという)宗教に見返りを求めることはない」ってことになるかも。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 09:13:53
巷のヨガは健康体操……確かにヨガって本来は心の止滅を追求するものですよね。ヨガやって身体の内側から綺麗になりましょうとか、宗教に見返りを求めるのは基本的に間違ってるよね。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 08:33:29
ちなみに その牧師は70代の人でごわした。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 08:31:38
おいどんが通っていた教会の牧師は「顔をみれば、その人の信仰がどの程度のものかひと目で分かる!」と豪語してたじょ。 その誇らしげな顔はとっても頭悪そうだったど。
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Unknown (たかはし)
2017-07-08 06:09:40
以前も引用しましたけど、こんなこと言ってる方もいますし。

http://joen-ji.jp/jo7ofbwb2-136/


道元禅師と言えば、一般的に、宋代の中国に渡って純禅を日本に伝え、実践を重視し、とりわけ坐禅の修行を第一とした厳格な仏者として知られている。その坐禅は、只管打坐であり、悟りを得るための坐禅ではなく、坐禅の修行の中に悟りが円満に現れているとするものであることも知られていよう。

このようなイメージは、往々に、道元禅師においては、現世の、〝いま〟〝ここ〟という「而今(にこん)」の弁道修行のみが問題とされ、前世や来世には何の関心も示されていなかったかのように受け取られているかもしれないが、実はそうではない。

以上、引用終わり。
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Unknown (たかはし)
2017-07-08 05:58:11
>「即心是仏」は、字義通りとれば、今の自分の心がそのまま「仏」なのだ、という「天台本覚思想」的概念である。
 ところが、道元はこれを真っ向から否定して、発心し、修行し、無上の悟りを得、ニルヴァーナに入るという、一連の具体的行為において現成(げんじょう)する実存だと言うのである。
 

道元禅師は、 涅槃、後戻りしない悟りは、この世では無理だったとしても、来世以降も修行を継続することで、いつかは可能だとも考えていたんじゃないでしょうか。
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Unknown (たかはし)
2017-07-08 05:50:07
南さんの文章から http://kangaeruhito.jp/articles/-/1919

「即心是仏」は、字義通りとれば、今の自分の心がそのまま「仏」なのだ、という「天台本覚思想」的概念である。
 ところが、道元はこれを真っ向から否定して、発心し、修行し、無上の悟りを得、ニルヴァーナに入るという、一連の具体的行為において現成(げんじょう)する実存だと言うのである。
 しかし、「悟り」そのものは、錯覚でなければ修行者には理解不可能であり(ブッダの悟りはわからないから)、「涅槃」は原理的に経験不可能である。とすると、「即心是仏」の核心は発心と修行であろう。

中略

 するとここまでの言い分からして、「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。すなわち、「仏」は「仏となろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。
 したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われるからである。それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。
 そうなると、成り行きは「成仏」「悟り」が無限遠に後退し、現実的に無効になり、修行や坐禅は事実上、ただ坐禅する、ただ修行する、ということになる。「成仏」と「悟り」は坐禅・修行という行為そのものへと脱落されるのだ。

以上、引用終わり。

南さん流が、ここに現れてますよね。

修行によって、輪廻から解脱した(輪廻という概念、想いからの解脱という意味だとしても)と知るということは、実現不可能だということですかね。あるいは、そう実感したとしても、その実感は不変ではなく、また輪廻を気にする、死後を気にする想いに後戻りする、なぜなら諸行無常だから、ということですかね。

そうなると、輪廻思想は仏教に必要ないとする、その割り切りも不変ではあり得ない、ということになってしまうのでは。

それは必要ないと、輪廻を気にする想いから解脱しようとするその営みが、為すべき修行である、それは実現不可能なのだが、ということだろうか。

後戻りしない悟りということは実現不可能だと覚悟しつつも生涯かけて修行を継続する、それが仏なのだ、ということですかね。それは道元禅師も同様だと。

スマ長老は、後戻りしない悟りは可能だと説きます。初期経典にそう書いてますからね。それがテーラワーダとの違いかな、と思いました。

ただ、そんなスマ長老に対して私は、自分が悟っていないだろうに、簡単に悟りの実現を語るよなあ、と感じることがありますが。
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安息日は、当然、人間が創り出した (イエスちゃん)
2017-07-08 05:30:44
他の民族と差別化する為に、民族のアイデンティティのために、安息日を作った。

当初の「イスラエルの12部族」が、バビロン帝国に敗けて、上流階級だけがごっそりとバビロニアに捕囚されたが、その時期に創作した。

民族の戦争は、民族の神の戦争であり、ユダヤの神「ヤハウェ」がバビロン帝国の神に敗けた訳である。

そこで「敗けるような弱い神」を捨てて「バビロニアの神々」を信仰すべきかの絶壁に立たされた。

ここで、「旧約聖書」の「創世記」を創作して、「ヤハウェ」神の再定義を行う作業を完成。

そこで、同時に「安息日」を創作して、ユダヤ民族の結束を図った。

「安息日」は「人間が創作」した。
そして、それは「有効な道具」であった。

まあ、全体を「そうしむけた」のが、「総監督である神」では、あるが…
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Unknown (月のような者)
2017-07-08 04:16:43
マンガ日本の古典シリーズの小島剛夕先生による「信長公記」が非常に良かったです。いや結構ラジカルな表現手法なので人によって好き嫌いは別れるかもしれませんが…私としてはここに仏教があるなとすら思いましたね。
しかしありがちなきれいごとの仏教ではなく世界の真の姿、人間の脳がどうしても紡ぎ出してしまう歴史というあばら屋を残酷なほど突き放して見ているようなこれぞ歴史絵巻という感触ですね。
晩年に至ってこういう境地に達したということで、芸術家の枯れ方にも多分に仏教的な要素が顔を見せることが日本人の深淵の特徴という感を強くしました。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 00:23:34
新情報ありがとごわす。おいどん 感謝感激雨あられ。今日も桜島はまっこて雄大でごわんどー。
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Unknown (Unknown)
2017-07-08 00:13:10
「人間性」の普遍的な定義がない以上……



そうでもないよ。定義とかいらないよ、きっと。人間が人間であることの苦しみ、人間であるからこその苦しみ、生きて老いて病んで死ぬこと、それから自分が逃れられない運命にあることの苦しみ、それらの意味が理解できないことの苦しみ、それら全てが人間って言葉の含むものだとおもうな。

人としての道ってのは、定義の話じゃないよ、きっと。人としての道ってのは、あらゆる人間が同じ苦しみを背負っている存在として理解するっていうか、人間がなぜ存在するのかっていうのが分からないからこそ、同じ苦しみをもつものとして、共にとまどい、共にオロオロして、共にこの人間であることの苦しみを味わい尽くそうじゃないかって程度のことじゃないかな。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 23:58:37
あー。ねー。

日曜日に自分たちはお買い物して外食してるけど、そのお店を開いている(働いている)人達は地獄行き、って、正直っちゃあ正直だよね。
突っ込まれて、たぶん都合悪くて、わからないことにしちゃうっていうのも含めて正直な感じ。
だって、最後の審判ってのがあって、天国行きと地獄行きがあるっていう設定になっているからには、
だれか地獄に行く人がいないと、天国の意味がないっていう。
返信する
おいどん君への新情報 (Unknown)
2017-07-07 23:56:13
本当の安息日は土曜日が正解だね。
キリスト教の基を成して何千年も続いているユダヤ教では、安息日は金曜の日没から始まって、土曜の日没までと規定してるね。

キリスト教が日曜日に礼拝する元々の由縁は
ローマ帝国がキリスト教を国教と定めて、民衆を操縦するの便利な様に、
御当地で当時の習慣であった太陽神(太陽=日)を拝む習慣、つまり日曜日を祭日・休日とする習慣を、そのままキリスト教に持ち込んだという事だね。

ローマのカトリック教会を認めないプロテスタント(新教)ではキリストの磔後、蘇ったのが日曜日だから、
それを【主の日】として日曜日礼拝をするという理屈を付けて、そのまま日曜礼拝を続けた、と言う事情があるね。

生前中のキリスト自体は土曜日安息日を守っていた訳だし・・・。

日曜日礼拝は、既に十戒の第四条だかで『天地創造完成の記念日である【安息日】を守りなさい』という神の命令を堂々と破っている事に成るね。

そんなもんだよ世の中は・・・とてつもない錯覚・誤解・言訳からこの世は出来ている・・・
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根性がお客様 (ranran)
2017-07-07 23:45:59
何度でも言うけど、「(倫理的な)人間性」の普遍的な定義がどこにもない以上、「人として~」みたいな要求は「私が快く感じるように振る舞え」と言っているのと実質的に変わらない
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 23:40:26
どこかで(ここで?)南さん、今どきのヨガを「健康体操」って言ってたと思うけど、
わたしはまさに健康体操としてヨガを始めたので
「愛と平和に満ちて感謝します」みたいなフレーズに満ちたクラスは「きゃーー、やーめーてー」って思っちゃう。
「禅の教えをシェアする」クラスは「そのタイプ」で、「禅の教えをシェアする」って言い出す前から結構困ってて。

たぶん私のヨガは、南さん的には「ヨガがない」ってことになりそうだけど
「愛と平和に満ちて感謝する」クラスは、わたし的には「ヨガがなかった」し
イントラさんの意に反して、わたしはそのクラスで、禅の教えをシェアしそこなったし
それはそうと南さん的なヨガがどういうものかわからないのはさておき、
愛と平和に満ちて感謝して禅の教えをシェアするクラスにヨガがある(あった)のかどうか、となると
それなりに長い期間通っている人もいたみたいだから「ヨガがあった」と言えるのかもしれない。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 23:27:27
実存転調っていう言葉、面白い!。
変調、短調、長調とか、人間そのものですね。
中調って言葉はあるのかな。

中道って難しいけど、なるべく、そこに留まりたいな。
けど、中道にこだわると、それはまた執着になるのかな。
難しく考えたくないから、
「自分は中道に価値を置く!」と、決断しようか。それで上手く縁起が回ればよいのですが…決断、賭ける。

何に賭けるのでしたっけ?
根拠は無いがとにかくそれに賭ける、でしたか。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 23:00:20
おいどん 突っ込んだら 「分からない」っていわれたじょ。それいわれたら おいどん なんもいえないぞなもし。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 22:57:13
おいどんが通っていた教会は「聖書は一字一句が全て正しい。一字たりとも足したり引いたりしてはいけない、解釈してはいけない、そのまま真理として受け取るべきだ!」といってたんだど。

信仰者は最後の審判で天に引き上げられるけど、もしくは携挙(卑怯技)で引き上げられるけど、不信心者は地獄行きなんだど。ほいで、髪が天地創造で7日目に休まれたから信仰者は安息日(日曜日)にはやすまなければならないんだと。


んだども、おいどんが通っていた教会のクリスチャンはふつーに日曜日に礼拝の後に買い物行ったり外食したりしてたんだど。あの人たちの屁理屈でいったら自分たちは日曜日に買い物したり外食したりするけど信仰者だから救われるんだども、日曜日に頑張って働いてる人たちは安息日(日曜日)に働いてる不信心者だから地獄行きなんだど。とんでもねーこった。おいどんびっくらこいて、ついでに屁もこいちまっただ。

これはおいどん個人の昔話だど。クリスチャンは優しい人多いじょ。クリスチャンもいろいろいるじょ。南さんもクリスチャンと対談されてたど。おいどんみたいなぽんぽこりんの下手くそマンキンタンだけじゃなくて、真剣な人はクリスチャンにもたくさんいるじょ。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 21:03:41
2,3年前?ぐらいに、ヨガ教室行ってたとき、そこの先生?が、なんか、比叡山?でやってた何か、講習?セミナー?なんかそんなのに出たらしくって
「禅の教えを皆さんとシェアしたい」とかってしゃべり始めて
内容的に(もうおぼえてないんだけど)「それ、禅の教え なのか?」と思いながら聞いていてさっぱりわからず
そのヨガ教室に行かなくなった。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 20:47:22
道元が「箸の上げ下ろしから厠の使い方まで」みたいな人だったとして
それってわりと南さんと対照的じゃない?って思う。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 20:40:35
おいどん 浄土真宗のお寺のやってる保育園に通園してたじょー。毎月 お経を正座で読まされてたじょ。釈尊のアニメを観せられてたんだじょー。あと山姥の人形劇のビデオ。なぜかしら、なぜ山姥?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 20:31:41
ところで、
「坐禅しさえすれば、そこに仏性が現れて、現実はそのまま仏の世界になる」
これって、曹洞宗でそういうふうに言ってるってこと?
臨済宗は「公案を最終ステージまでクリアして仏になる」でしょ?
うち、曹洞宗の寺の檀家だけど、坊さんからそういうふうに聞いた気がしないんだけど。
(まあ、わたしあたりに「坐禅とはかようなるもので」とか言わないってだけかもだけど)
南さんの知ってる「鎌倉以降の日本」て、どこ?
しかるべき文献(のそういうふうに読めるところ)を総合的に考えたときに存在する「日本」?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 20:19:07
たぶん、神のゆるし?とかなんかそんな感じのものに
支えられていた、というか
支えられているんだよね?というか
信じれば救われる?
救い、が 必要 な気がしていたんだろうなぁ。
やつはそういう気がしていたんだろうなあ、とか言ってるわたしには
救いなんて縁のないものだったのか、といえば、別にそういうわけでもなく
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 20:00:38
わたしがキリスト教を信じないのは、
人間が登場する前にすでに他の生き物がいた、と信じているからで
しょっぱなの世界観で「ムリ」と思うからだ。
真理の出来映えにたどり着く前に「ムリ」

友人は、そのへんをどうクリアしていたものやら。
あまり気にしていなかったような…?
環境的に「気がついたらクリスチャン」的な。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 18:43:26
その子(クリスチャン)は結婚するまではとりあえずほぼ毎週教会に行っていた。
結婚してしばらくしたころ「行ってるの?」みたいな話になったら
「わけないじゃん」で終わった。
なんとなく、現実が忙しいことで何かが相殺されている感じかな?と思った。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 18:35:45
なるほどのぉ。
日曜日に買い物したり外食したり、かあ。
それは突っ込まなかったの?

わたしは、「叔母さんがシスター」っていう友人がいて、
その子が「シスターやってるっていっても、職場の人間関係とか、同じだよ普通の会社とかと。」って言ってた。
その子もクリスチャン。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-07 18:27:37
もちろんクリスチャンにも素晴らしい素敵な人はいるよ。もちろんね。あくまでおいどんの昔話だからよー。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 18:25:42
安息日(日曜日)に働いてはいけないって信仰も理解はできるけど、自分たちはふつーに日曜日に買い物したり外食したりするじゃんって思った。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 18:11:28
ちなみに 牧師がイエスキリストと釈尊は比べ物にならないようなことをいうんで、どうー違うんですか?と尋ねたら「釈尊は人間的真理だがイエスキリストは宇宙的真理だ!」といわれたなー。説明になってないよなー。懐かしいなー。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 18:03:46
おいどんが「そんなこと言うのやめてくでー」といったら、その牧師に鼻で笑われたんでムカついたから行かなくなりました。そんなこんなでおいどんはすっかりクリスチャンが嫌いになりました。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 17:59:40
ちなみにおいどんが通っていた教会では仏教と仏教者のことをサタンとサタンの働きと強烈な言葉でひなんしておりましたなーいやはや。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 17:52:34
おいどんが昔 一時期通っていたプロテスタントの教会ではなんと死人をイエスキリストの力で蘇らせるという黒人の牧師が時々来てましたわ。ガジマって牧師だけど。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 17:39:14
空海ってのも空の海だもんね。空海ってどんな感じの人だったんだろ。エネルギーの塊って感じするけど。まあ、空海にしても道元にしても南さんにしても自分にも他人にもすげー厳しそうな感じするなあ。会ったことないけど。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 17:33:34
道元って道の元なんだね〜。南さんの直哉ってのもストレートな感じ?直球って感じ?名は体を表すっていうのかにゃ。そう思ったよ。
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Unknown (たかはし)
2017-07-07 13:33:01
引用先は、ここです。

http://kangaeruhito.jp/articles/-/1919
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Unknown (たかはし)
2017-07-07 13:30:36
ネットで南さんの文章を発見。

引用します。

 親鸞は「成無常(無常になる)」によって、仏教を突破した。道元は「観無常(無常を認識する)」によって釈尊に帰還した。いずれにしろ、実存を根拠づけるものとしての超越的理念を排除しながら、実存を受容する方法を提案したのである。この思想的挑戦は、世界思想史上、稀有の実績だと私は思う。
 しかし、その実績は、その後の「日本」には引き継がれなかった。極度の思想的緊張を伴う彼らのアイデアは、多くの人間には耐えられないからである。
「日本」は、鎌倉時代以後、南北朝時代にかけて、経済構造の変動に合わせ、地縁・血縁共同体を再編成することに成功する。その結果、イデオロギーも「ありのまま主義」が復活する。
 念仏しさえすれば往生は確定し、その確定において現実はありのままに肯定される。
 坐禅しさえすれば、そこに仏性が現れて、現実はそのまま仏の世界になる。「天台本覚思想」と空海が、再び「日本」思想を底から規定していったのだ。
 そしていま、鎌倉時代の変動に匹敵する「日本」の転換期を迎え、あの頃の祖師たちと同じ思想的挑戦が、我々のリアルな課題として、要請されているのである。

私が注目した箇所は、

>しかし、その実績は、その後の「日本」には引き継がれなかった。

>「天台本覚思想」と空海が、再び「日本」思想を底から規定していったのだ。

>そしていま、鎌倉時代の変動に匹敵する「日本」の転換期を迎え、あの頃の祖師たちと同じ思想的挑戦が、我々のリアルな課題として、要請されているのである。

です。

それが意味するところを、まだ私は理解していませんが、興味津々です。









引用終わり。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 09:08:01
年金制度の崩壊ってもう確実なの?
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Unknown (たかはし)
2017-07-07 09:02:03
参考になったら幸いです。

読みにくいのは、私もそうです。

インドの昔の言葉で、同じ言葉にも意味が複数あって、さらに文法の違い、論理の違いというか、訳すのは大変なんだろうと思いますね。読んでいて、なんでこんな言い回しするのかな、これで質問の答えになってるのか、と思うことが多いです。
返信する
医学的知識 (tail)
2017-07-07 08:45:32
病理から標準的な健康状態を啓蒙するTV番組が、
人類学や生物学ではなく医学を基盤とするようになったのは21世紀からである。
年金制度の崩壊から医学的知識への理解が医療費を劇的に削減できることが分かった結果である。
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Unknown (Unknown)
2017-07-07 08:41:53
たかはしさん 心にしみる原始仏典教えてくれてありがとう。けど、読んでて分かるには分かるんだけど いまいち読みにくいというか……こういうのって好みの問題かなぁ。でもありがとうね。
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Unknown (Unknown)
2017-07-06 22:44:04
実存転調
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Unknown (Unknown)
2017-07-06 17:43:01
なだらかに 平安に 粛々と

していられるときばっかりってわけでもなく。

さて、そこで。

どーしよーもなくくっだらねえバカども に
さっさと消えてね と言う口で
何を言うのか っていう 
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 17:39:27
言いたいですね、っていうか

やってなんぼ だよね
返信する
Unknown (たかはし)
2017-07-06 15:16:17
ハン氏に関する記事を読んで見ましたが、不滅の我への執着を問題にしている、そう思いました。

大切な誰かが死んだとしても、もともと不滅の我を伴って生まれて来たわけじゃないから(不生)、条件によって人として生じただけだから、条件によって死ぬが、死んだ人は自然界の他のものに縁起している、滅していない、だから悲しむ必要はない、そして、自分が死ぬのも同様だと、そういうことを言いたいのだなと思いました。これって、広い意味で不滅の実体なき輪廻じゃないか、なんて思いました。

それから、次のような発言が。

「私は 私の両親や先祖の
〝継続〟(いのちの変容した存在)です
私は〝私〟という
自我を持ってはいません
私の中を見つめると 父が見えます
母も 細胞ひとつひとつの中に見えます
細胞の中に すべての先祖が
私の国が 人々が見えます
〝私でないもの〟が集まって
〝私〟を形成しています
ですから〝私〟という孤立した存在
自我はありません
それが正見(ありのままに見ること)です
気づけば もう寂しい思いはしません
あなたは宇宙です
この体とともに
法界身(ほつかいしん)(宇宙全体のひとつの体)があります
宇宙全体があなたの中にあります
法界身が いまここにあります
あなたの中の宇宙とも
父・母・先祖とも話すことができます
〝あなた〟という
孤立した存在はありません」

いいお話だと思いました。

そこに私は、

あなたの命には、前世を生きた人との繋がりがあります。それは、来世を生きる人に繋がります。だから、今あなたは、為すべきことを為す必要があります。

と言いたいですね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-06 13:23:17
輪廻が有るとするのは執着。

輪廻が無いとするのも執着。

悟っていない者が、そこに決着つけようとするのは、間違ってますよね。

私には必要だ。私には必要ない。言えるのは、そこまででしょうね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-06 13:07:25
また人間に生まれ変わりたい、より良い生まれ変わりをしたい、と執着するだけでは、その通りには行かない。

良い結果を得たいなら、良い原因を作らなければならない、それが初期経典の縁起でしょう。

さて、そのための良い原因とは何か。

そこまで考慮せずに、死後への執着だけを問題にして輪廻思想を語るのは、片手落ちだと思いますね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-06 12:50:45
釈一行(ティック・ナットハン)という方は、悟った、解脱した、と自ら宣言したのでしょうか。

そう宣言されているなら、その方の悟りを、自らの理性で検討して、なるほどそれは真実だろうと思えたなら、それはそれでいいと思います。

ただ、それが唯一の真理で他は間違いだと言えるかどうか、なぜそう言い切れるか、ということは慎重に吟味する必要があると思いますね。

だって、他を究極まで修行したわけではないのでしょうから。
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Unknown (たかはし)
2017-07-06 12:35:32
>条件があれば縁起(発火点温度と燃料の遭遇)」しているだけである。

消えたロウソクに火をつけると、また炎が現れます。

死んで終わりではないのです、条件により縁起するのです。

前世の我が今世に、今世の我が来世に移行するのではないのです。

生まれてくることには不滅の本質が無く、前世から縁起したものだから、不生なのです。

死んで滅することにも不滅の本質が無く、来世に縁起するから、不滅なのです。

非科学的、馬鹿馬鹿しいという想いに執着が潜んでいることに気づけない人は、輪廻思想を理解できないのです。

ね、何とでも言えてしまうんです。
返信する
ヴェトナム僧・釈一行(ティック・ナットハン)のNHK・TV放送 (イエスちゃん)
2017-07-06 11:51:46
ヴェトナム僧・釈一行(ティック・ナットハン)のNHK・TV放送

先の日曜日の朝5時からありました。(シリーズの2回目)

中国では、仏教は、最後は「禅宗の臨済正宗」と「浄土教」しか残らず、それも「念仏禅」となりました。

ヴェトナム巡礼したのですが、寺院の奥には高僧のお墓があり「臨済正宗xx世」と刻んでありました。

だから、釈一行氏の教えは、臨済宗・白隠禅師の「正念持続」の実践そのものです。ルーツは同じなのです。

TVの話ですが、
釈一行師は、お話の最初に、目の前で蝋燭に火を点けて、燃える「炎」を示して、

過去世の「炎」が、今世で「炎」として「生まれて来た」のではない。

と言ってから、その「炎」をフッと吹き消して、

同じく、今世の「炎」が「消滅して行き」、来世に「炎」として生まれるのでもない。

「炎」は「現象」であり、「実体」でなく、
「条件があれば縁起(発火点温度と燃料の遭遇)」しているだけである。

別世界から「生れて来る」のでないから「不生」という。
別世界に「消滅して行く」のではないから「不滅」という。

しかし人間は、「自己の死」「自己の消滅」を恐怖して、
「輪廻転生して、いつまでも生き続けたい」という人間の欲望、人間の執着をあらわにする、と示していました。

他方、スマナサーラ長老には、「輪廻転生」が必要なのです。
だから、スマナサーラ長老には、「大乗仏教」は決して理解できないのです。
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Unknown (Unknown)
2017-07-06 11:49:57
結婚するんだったら 子供つくるんだったら 僧侶になる必要なくね? ただの職業だよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 11:12:02
ゴータマ・ブッダの仏教は無明・渇愛の滅尽を志向する解脱ルート

大乗の禅僧藤田一照師は普通に妻子あり
返信する
Unknown (たかはし)
2017-07-06 07:37:18
>それは「言語を批判的に観る」という視点がある。

これもスマ長老も似たようなこと言ってると私には思えます。

感覚器官に情報が触れる(受)、そこから想が生じる、それを言語化、概念化する、そこに問題がある、というようなことを最近の講義で言っていたと記憶しています。

それから、南さんにも、こだわりがありますよね。輪廻思想は仏教に必要ない、とかね。

その執着は、スマ長老が、輪廻を執拗に説くことと似てるなあ、と私には思えますね。
返信する
Unknown (たかはし)
2017-07-06 07:20:05
ところで、道元禅師のやったことは、大乗仏教に分類されるんでしょうか。

そうだとしたら、それはなぜでしょう。大乗の定義が問題になりますね。

道元禅師は、出家で、妻帯もしてないですよね。戒律も守ってたんですよね。弟子に教えを説き、民衆にも教えを説いたんですよね。そして膨大な言葉を発し、著書も残したんですよね。

他の宗派の批判もしたんじゃないでしょうか。

そうなると、スマ長老との違いは、何でしょう。説いてる中身が違うということでしょうか。

でも、私には、結局同じことを言っていると思えるんですけどね。
返信する
Unknown (たかはし)
2017-07-06 07:07:27
スマ長老の講義から引用

■智慧に執着しないこと■
 「もし私が智慧(vijjâ)によって人は悟ることができると言えば、執着があっても『悟った』というふうに解釈したことになります」…「智慧がある」つまり、「ものごとが見えている」ということ自体が、自分にとって何か意味あるものが『ある』ということにとなってしまう。つまり「そこに、智慧のある自分がいる」状態なのです。自分がいて、その自分に、「智慧」があるのです。この場合は、智慧といっても単なる知識ではなくて、「無常」に対する智慧なの で、大変超越した智慧 のことです。しかし、 それでも「智慧がある」という場合、智慧に執着しているのです。「智慧がひらめいた」ということ自体は悟りではないのだということを、尊者は言っておられるのです。智慧があっても、「私には、智慧があるのだ」という状態でいると、そこには、とらわれがある、執着があるのです。悟りというのは、無執着の状態であって、私もいないし、私のものもない状態なんですね。

中略

■悟りには主語がない■
 そして、尊者はこう説明するのです。智慧ある人、サマディを持ち徹底的な集中力を持つ人はありのまま、現象を観ています。自分の解釈も論理も一切ありません。すべての現象がどのように生まれて消えるかということを観られるのは、この超越した智慧と超越した集中力がある人だけなのです。そのような人が超越した智慧と超越した集中力をもって、ありのままにものごとを観ていると「最終解脱は起こるのです」…それが答えでした。

 言葉を超えた智慧が生まれても、それは解脱じゃない。すべての現象が無常であり苦であること、無我であることを感じ続けていて、精神的に落ち着いていても、それ自体は悟りということにはならない。しかし、このようにものごとを観ていくと、心は何ものにもとらわれない状態を作るようになる。

 そもそも、心とは「取る」「とらえる」ものです。「心」という何かがあるのではなく、対象をとらえるのが心であり、瞬間瞬間の作用が心なのです。だから、何ものにもとらわれない心というのは、あり得ない話なんです。ですから、仏教では、この状態に、「主語」がないのです。主語なしに『解脱』『涅槃』と呼びます。

 そこには心もないし、とらえるものもないということですから、言葉では、何も言えないんですね。

以上、引用終わり。詳しくは、テーラワーダのサイトの「根本仏教講義、13.もうひとつの生き方 I(1)智慧もサマディも悟りではありません」にあります。


それにしても、とんでもないですね。でもそれは、初期経典の釈迦に共感して全て捨てて出家して修行する人が目指すものですから、そんな出家などできない私には、それをヒントにどう生きるか自分で考える、ということになりますね。
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『なにが仏教でその線引きはなにか?となるわけ。』 (イエスちゃん)
2017-07-06 05:56:00
『イエスチャンがいうように
(注:正しくは、イエスちゃんです)
密教が梵我一如に後退して非仏教というなら
なにが仏教でその線引きはなにか?となるわけ。』

南師は、「生きるに有効な道具」として採用:
「釈尊の仏教」「龍樹菩薩の仏教」「道元和尚の仏教」

他方、「密教」の「空海の仏教」は、完全に、捨てている。

一連の「我流仏教」の講義で、この理由を詳細に説明していた。

同様に、スリランカの部派仏教の「スマナサーラ長老の仏教」も、捨てている。

ここには、「一線が」引かれている。

それは「言語を批判的に観る」という視点がある。

要は、「人間は、自らが生み出した言語によって縛られていて、それによって苦しんでいる」という「言語的実存」の状態に、「目覚めるかどうか」に、かかっている。

そして、そこには、肉体を持った人間だから、「禅定」「只管打坐」が、必要になってくる。

つまり、現実のスマナサーラ長老は「部派仏教の言語」に縛られているのです。

「頭がいいからと、僧侶にスカウトされた」そして、部派仏教を必死に勉強して全部を暗記した。
まあ、「プラトン哲学」の学究者です。

だから、それを打ち破るために、大乗仏教が興った訳。
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Unknown (たかはし)
2017-07-06 04:59:32
これはどうでしょう。

子の肉。

http://manikana.la.coocan.jp/canon/puttamamsa.html

面白くはないかもしれないですが。
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Unknown (たかはし)
2017-07-06 04:53:50
50 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

51 これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

以上、スッタニパータ。
返信する
Unknown (たかはし)
2017-07-06 04:48:46
>たかはしさん 欲望について 仏教のなにか面白い話ありませんか?

う〜む‥。

初期経典じゃないかもしれないですが、人間は、崖から落ちそうになって細いロープに捕まって、ぶら下がっているだけで、いつそのロープが切れてもおかしくないのに、そんなことも忘れて、崖の上から一滴一滴と垂らされている甘い蜜を口で受けて喜んでいるような存在、というような例え話があったような。
返信する
Unknown (たかはし)
2017-07-06 03:39:05
>「~ではない」によってのみいいうる。
これは言い換えれば最後に否定できない肯定が存在する。
私はなにものでもないということだ。
よって真我はこれこれだといい得ない。
私はこれではなくあれでもない。という形でしか表せないということです。


真我は、有る。でもそれは、〜である、とは言葉で表現できない。それをあえて言語化するなら、〜でない、と羅列するしかない。

それは、釈迦が、涅槃は言葉で表現できない、と言っていることと同じだから、釈迦もバラモン教も同じだ、釈迦が言っているのは、真我のことだ、と言いたいのでしょうか。

それがまさに、バラモン教、現在のヒンズー教が釈迦を取り込めた理由だと思えますね。

さてそこで、「意識の最も深い内側にある個の根源を意味する」もので、〜でない、としか表現できないものが、不滅の実体として人間存在には有る、という根拠は何か、ということが問題になります。

それが有るという根拠は何ですか。そこが大問題でしょう。

次に、

>だからあなたがwikiで引用した「意識の最も深い内側にある個の根源を意味する」これも説明している時点で「~ではない」と矛盾する表現です。

これは、真我が有ると主張するバラモン教が抱える矛盾でしょう。

まあ、概略として、〜である、とは言えるが、そのものを示す固有名詞としては、〜であると言えずに、〜(固有名詞)でない、としか言えない、と説明することは可能だとは思いますが。

なお、涅槃は言葉にできないと言うのは、想いから解脱した状態が涅槃だから、想いとは言葉だから、というのが私の理解です。スマ長老は、言語を超越した世界、世界という言葉も妥当しないが、あえて言葉にするならそういうことであると言います。

だから、涅槃が真我なのか、そこに真我は有るのか、それについて何をどう言おうと、どれも違う、ということになってしまうでしょう。南さん流に言えば、言葉は真実からズレる、ということになるでしょう。

だから、その真実は、自ら体得して、ああ、こういうことか、と実感するしかないのでしょうね。

とんでもない教えですね。

不滅の実体たる真実の我は、有る、汝はそれである、と言ってくれる宗教の方が民衆は安心できるでしょうね。ヒンズー教が釈迦を取り込んだのも、安心したいからじゃないか、なんて思っています。日本人にもそういう気質がありますよね、神様仏様、とお願いしますから。神様にもいろいろにあるとされてますし。
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Unknown (Unknown)
2017-07-06 01:34:26
言語は虚構っていってしまったらそりゃ説明拒絶してるようなもんだからね。
解説しようにも手段を否定してしまうと「言葉にならない真理」がもてはやされると。
いい損じも正当化されるメリットもあるが差異化できないデメリットのほうがおおいんでないかい?

返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 01:24:21

尋ねるべきではないのはあなたの勝手な価値判断。
そんな価値判断に従う義務もありません。
残念でした。
ああいえばこういいますから。

説明できないんだ~
そんなんだから吸収されて消滅しちゃったんじゃない?
まずは調べろですねわかります。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 01:22:12
ならば、いちいち人に尋ねるべきではない。
あなたの都合に合わせて答える義務などこちらにはない。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 01:08:02
「まずは調べろ」とか「まずは中論よめ」とかほんと解説できない人間がよく使う常套手段ですよね。
「あなたの理解力がたらない」
そんなことは承知の上でいっております。
で結局なにひとつろくなこといってないのはお互い様ですよ。
そういう無駄な横槍面倒なんですけど。

返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:51:29
インドじゃ仏教はもうすでに吸収されて消滅している。
つまり真我実現者としてブッダは認識されている。
仏教徒からすりゃそれはけしからんのだろ?
じゃそのけしからん理由いってみて。
差異化、差別化できる根拠いってみて。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:43:19
>真我と空は全く違うでしょう。

いあだからさ。それを比較検討したくてマハラジ自分が持ち出してきたのよ。
たたき台にして仏教ではどう解釈?説明するのかって。
そしたらわかりやすいでしょ?
イエスチャンがいうように密教が梵我一如に後退して非仏教というならなにが仏教でその線引きはなにか?となるわけ。
マハラジを信じようが信じまいがどうでもいい。
要はブッダがいった「優れた宝は目覚めた人(仏)のうちに存する」
これはなんにあたるのか?
曖昧な概念ばかりでわからない。
真我とどう違うのか。
が追求するテーマなわけ
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:42:31
たかはしさん 欲望について 仏教のなにか面白い話ありませんか?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:41:12
>私の信念としては真理は誰にとっても開かれているもので仏教だ非仏教とかいう線引きはナンセンスと思ってます。

私から見ると、あなたの信念は過大適用ともいうべき誤りに思える。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:22:50
17/07/06 00:16
人違いだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:20:33
誰が誰かわかんねーや
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:19:40
マハラジについて説明してくれてたんだね。気づかなかった。ありがとう。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:16:28
比類がないものどうやって説明すんだよ。

書きながら突っ込みどころあるよなと思ってたところ……………負け惜しみでしょ?


自分で調べて理解してはどうなのか…………分からないこと 納得がいかないことは自分の理解が至らないのであるから……………あなたがマハラジ持ち出したんでしょ?マハラジは仏教者ではないでしょ。説明しなさいよ。真我と空は全く違うでしょう。あなたの方でないの?理解してないのは。混ぜこぜになってるよ。

空っていいながら、私が求めるのはこの空だ。なんていってるし。空なんだから求める私なんてはじめからないでしょ。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:15:00
マハラジさんは私が個人的に心にひっかかりを感じた人で仏教とは関係がない人です。
非二元主義者といえばそうかもしれませんが~主義で括れるような人とは思ってません。
私の信念としては真理は誰にとっても開かれているもので仏教だ非仏教とかいう線引きはナンセンスと思ってます。

>マハラジが「空」という言葉をいつ使ったんですか?教えてもらえますか。
その引用した部分がそれです

引用の続き
その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。それはただ開かれたるものなのだ。
質問者 その開かれたるものこそ、空、不在なのですね。
マハラジ そのとおりだ。マインドの観点からすれば、それは気づきの光が精神的空間に入っていくために開かれたものだ。光そのものとしては、個体の、岩石のように濃密な、均質で不変であり、名前や形といった精神的パターンから自由な、純粋な気づきの塊(かたまり)とでも言うほかないだろう。

13至高なるもの
アセンション通信かなんかで読めますよ。
返信する
仏教の本質?? (Unknown)
2017-07-06 00:08:24
問・・・・・「仏教」とは何か?
答え・・それは「名言集!!」と言う事だ。

或る人には役に立ち
他の人には全く役に立たない

仏教僧侶としては、一人でも役に立つ
と思って呉れている人がいる限り
自己流名言を吐き続けるのが正解だ。

たとえ有言不実行でも構わない
多重人格者であっても構わない
みずからの事を棚に上げても構わない
自分自身が悩みの真っ最中でも構わない
自分自身が救われて無くても構わない

只、我(われ)が此処に実存し
我が自我を表明し続けて
それによって他者の誰かに
有益な(=心を救える)名言が言えるなら・・・
それだけで充分だ!!

私(=僧侶)は私であり、
名言は名言であり、
金言は金言だ!!
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:05:30
人に教えてもらうのではなく、自分で調べて理解してはどうなのか?
私は自分で調べて理解している。
分からないこと、納得できないことは自分の理解が至らないのであるから、人にあれこれ言う前に、先ず自分で理解できていないことを調べてみることだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-06 00:03:05

そういう突っ込みうれしかったりする。
書きながら突っ込みどころあるよなと思ってたとこ。
「~のようになりたい、~を求める」これはすでにアウトですねー。

アウトとはいえ正直きにならんかい?なんだろなと

クリシュナムルティも似たような表現してるんだ。
死のように硬く濃密で生命力にあふれ。
そのくせ名状できないソレとか意味深な言葉をつかう。

いったいどういう世界なんだろうな。
もう仏教だろうがなんだろうが知ったこっちゃない。
ブッダがいった比類なき宝がソレなんだろうかと
ここに説明できる人がいないようだね。

返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 23:59:59
マハラジが「空」という言葉をいつ使ったんですか?教えてもらえますか。

「真我」はよく使ってましたけどね。真我と空はだいぶ違うと思うんですけれどね。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 23:53:44
マハラジは仏教者じゃないでしょう
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 23:50:46
私が求めるのはこの空だ。



自分で否定した轍を自分で踏んでるじゃないの。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 23:46:52
不空論者って意味わからないんですけど教えてもらえます?
それ蔑称ですかね?
まあ関係がないと切って捨てるのは簡単ですが。
あなたが考える仏教の空ってなんですかね?
言葉にならないだとか。
一切の概念拒絶だとかお定まりのアレな感じ?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 23:43:38
私が求めるのはこの空だ といったのはあなたですよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 23:31:47
私が求める空・・・?
不空論者の物言いである。
仏教とは全く関係ない。
返信する
Unknown (蓮の花)
2017-07-05 23:22:45
ちょっとまたコメ流れとはズレたことになりますが...

今朝は早起きだったので
全ての読者ブログを6か月前に更新分まで
読み終えました。
それで思ったことをちょっと。

南師がNHK番組(YouTubeでアップされていた)で個性について
お坊さんの同じ環境でのそれぞれ異なる取り組み(的確な定義は今思い出せないので、私の解釈)が個性だと表現したことを思い出しました。

何故にこんなズレコメを書くのかというと
南師の書き方それ自体が
正に『個性』だと、突然(必然的かな)思ったからです。

タイトルで人の注意をゲットし
始めに興味の入り口を開け
中間で話したい中身を深め
終わりに次への扉を開く

正にこのパターンこそが『個性』だと思いました。
人が決して真似できない
コピコさえできない文を書くことによって
他のブロガーが真似しようとする悪心さえ塞いでいる、この徹底ぶり
無常ですね。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 23:22:05
空を求めるのは「私」なの?
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 23:04:07
なぜあなたに説明しなければならんのか意味がわからんのだが
君のよく使うwikiでもなんでもいいよ。
それに書いてるでしょ。
「~ではない」によってのみいいうる。
これは言い換えれば最後に否定できない肯定が存在する。
私はなにものでもないということだ。
よって真我はこれこれだといい得ない。
私はこれではなくあれでもない。という形でしか表せないということです。

だからあなたがwikiで引用した「意識の最も深い内側にある個の根源を意味する」
これも説明している時点で「~ではない」と矛盾する表現です。

マハラジはこんな言葉を残している。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
それは名前も形も与えることのできないものだ。
なぜなら、それは何の特質ももたず、意識を超えたものだからだ。
意識のなかにありながら、意識を超えた点とも言える。
紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながらしかも紙に属さないように、
至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越している。
それはマインドのなかの開かれた穴から光が氾濫しているようなものだ。
その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。
それはただ開かれたるものなのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

それが空、不在。

私が求めるのはこの空だ。
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Unknown (月のような者)
2017-07-05 22:15:18
人に迷惑をかけてもこちらに適切なタイミングで謝罪もしなければ誠意のある態度も見せてくれなかった人達もいます。それどころか相変わらず変なことをやるんです。私は都合のいい存在ではありません。
人間を育てるとは?人格形成のための初期教育のあり方に完璧な答えがもたらされることはないでしょう。しかし仏教徒としては自分をただ壊れ物と見続けることが社会への適切な奉仕になるのではないでしょうか。壊れ物とは穏やかでないにしても、そういった「冷静でまともな視点」から波及したものにかつて私も救われたのではなかったかと思います。子供が育つ環境にはまともなバランスが必要です。辛気臭さや泥臭さや不自然な明るさと無縁な仏教の透明性が理解されれば日本人からストレスが減るのではないか、とは思っているのですが。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 18:17:13
そうでしたか、すいません。

いずれにしても、具体的に引用して下さい。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 18:06:49
たかはしさん 別の人ですよー
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 17:23:38
こんなのもありました。

364 かれが、生存を構成する要素のうちに堅固な実体を見出さず、諸々の執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に誘(ひ)かれないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

スッタニパータです。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 15:26:03
>ヤージュナバルキアの論法なんて検索したらでてきますよ。
ググれば分かった気になりますよ。
言ってること同じでしょ?
私の考えなんてコピペとそう変わりませんのでおすすめです。


具体的に引用してくれないと、あなたが何を言いたいのか分からない。

あなたは、以前にも議論した方ですかね。もしそうであるなら、なおさら、あなたの言いたいことを明示してもらわないと、あなたとはちゃんとした議論にならないと私は思っています。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 15:21:45
ウィキから引用

アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 13:54:45
>大乗の空は、不滅の実体が無い、存在しないという存在論

これ逆では?


ヤージュナバルキアの論法なんて検索したらでてきますよ。
ググれば分かった気になりますよ。
言ってること同じでしょ?
私の考えなんてコピペとそう変わりませんのでおすすめです。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 13:45:24

自我の奥底に真実の我、真我が有る。

こんなこと誰もいってませんよ。

自我は想念の束。
これはヒュームの思想と近似していると思われる。
想念は私ではないといっている端から自我(想念の中)に奥底になにかあるとはいえないでしょうに。
探し回りうろつきまわるのが自我といわれます。
だから探さないこと。
求めないこと。
もともと持っているものだから。

悟りという言葉にしても。
誰が何を悟るのか明示しない。
主体を否定するわけだから書けないわけだ。
主体を否定すれば行為者も否定されるはずだけども。
でですよ。
結局、否定するのは誰なのか?
いないフリをして確実にいるのも自我の特徴と説明する方もいまね。
仏教でその点説明できますか?

>自分が真我そのものになる
私たちは仏の子だとかいう人ベトナム人いませんでしたっけ?
真我と仏と言い換えてるだけじゃないですか?
この身このままで完全であるとかそういう類は焼き直しですね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 13:32:57
ヤージュナバルキアの論法で説明してみてください。

ちょっと出かけます。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 13:30:23
>あと初期経典の空と大乗の空は根本的に違うとかききましたがどうなんでしょうか?
初期のそれは幻影のようにみよ。
これマーヤーで説明可能なんですよね。

スマ長老によれば、初期経典の空は、認識を無にするという認識論。その代表が、小空性経。
大乗の空は、不滅の実体が無い、存在しないという存在論、ということのようです。

私もそう思っていたのですが、最近、初期経典にも存在論の空が説かれているものがあることを知りました。それは、世界が空だという意味は、そこに我と我がものが無い、ということであると説いているもので、サンユッタニカーヤにあるようです。ただ、その全文を探してますがまだ見つけられていません。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 13:22:26
>あとヴェーダンダ思想も同じく自我はないといってます。
これじゃ仏教と非仏教の違いが明確化できませんね。

自我の奥底に真実の我、真我が有る。それは本来清浄で歓喜なるもの。汝はそれである。自分が真我を認識する、自分が真我そのものになる、それが悟り。それがヴェーダの思想。

釈迦は、 真我に依拠しない。真我の有無に依拠することなく悟りを実現する。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 13:17:25
〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

これもほぼ同じことをインドの聖者とされる方々はいってますよ。
あらゆる想念を拒絶せよ。
「私はこれではなくあれでもない」と否定せよと。
焼き直しじゃないんですかね。
問題は制止する行為者は誰かとなります。
誰なんでしょうか?

>これも違う、あれも違う。どこに有ると言うのだ。認識したものは、どれも違うじゃないか。それが無我。

これヤージュニャヴァルキヤの論法で代替説明可能ですよ。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 13:16:08
>あるともないともいえない自を灯火に拠り所にせよ?
自灯明の自はそう解釈するべきなんですかね。
幻影のようなものとみなすのは誰なんでしょうか。
まさか幻影が自分が幻影だといっても始まらないと考えますが?

そういう思考が、言葉に踊らされて釈迦の説いた真理が理解できないでいる状態、とされるのでしょう。

それを幻影のようなものと思考することと、私はそれを幻影のようなものだと思考したと思うことは、同時でしたか。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 13:04:17
あるともないともいえない自を灯火に拠り所にせよ?
自灯明の自はそう解釈するべきなんですかね。
幻影のようなものとみなすのは誰なんでしょうか。
まさか幻影が自分が幻影だといっても始まらないと考えますが?

あとヴェーダンダ思想も同じく自我はないといってます。
これじゃ仏教と非仏教の違いが明確化できませんね。

あと初期経典の空と大乗の空は根本的に違うとかききましたがどうなんでしょうか?
初期のそれは幻影のようにみよ。
これマーヤーで説明可能なんですよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2017-07-05 12:59:47
こんなのも。

916 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 12:57:18
>それが無いという見解を持つなというなら無我ということも無いわけでもない??
あるともないともいってないと?
まあ皮肉のように書くけれどあるのかないのかはっきりしませんね。


これも違う、あれも違う。どこに有ると言うのだ。認識したものは、どれも違うじゃないか。それが無我。

じゃあ、人の認識範囲を超えたところには有るのか、それとも存在しないのか。そんなことは分かるはずがない。人の認識範囲外のことだから。だから、そんなところに有るという見解を持つな。そして、分からないのに、無いという見解も持つな。認識範囲外のことに執着するな。

とまあ、そういうことでしょう。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 12:45:18
477 自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

1119 (ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」

>スッタニパータで明確に不滅の実体否定の文言は私にはみつけられません。

明確に否定していないなら、明確に否定していない、とだけ受け止めるべきでしょうね。

もし、明確に否定していないから、有る可能性がある、と考えるとしたら、それは釈迦の教えから離れると思いますね。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 12:31:26
>バラモン教が有ると主張する、存在の本質たる不滅の実体、真実の我について、釈迦は、それは真実として把握できない、そのようなものに依拠した教えは愚かではないか、と言っています。

スッタニパータでの話しなんで引用はスッタニパータでしてください。

スッタニパータで明確に不滅の実体否定の文言は私にはみつけられません。


>それが有るという見解を持つなと言うだけでなく、それが無いという見解も持つな

誰がいったのですか?
それが無いという見解を持つなというなら無我ということも無いわけでもない??
あるともないともいってないと?
まあ皮肉のように書くけれどあるのかないのかはっきりしませんね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 11:40:36
こんなのがあるようです。

『比丘のみなさん。みなさんに涅槃を説明します。みなさん、これをお聞きなさい。比丘のみなさん。涅槃とは何でしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりを、比丘のみなさん、これを私は涅槃と言います。』相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁741項

引用終わり。

真我が有るのか無いのかの答えは、涅槃に必要ない、ということではないでしょうか。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 11:29:15
<その有無の想いからの離れよ>は、その有無の想いから離れよ、の誤り。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 11:24:23
バラモン教が有ると主張する、存在の本質たる不滅の実体、真実の我について、釈迦は、それは真実として把握できない、そのようなものに依拠した教えは愚かではないか、と言っています。

そして、それが有るという見解を持つなと言うだけでなく、それが無いという見解も持つなと言います。

その有無の想いからの離れよ、相手にするな、その執着がある限り悟れない、ということだと思っています。
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対策は…やりがい等を訴えていくこと ()
2017-07-05 11:23:40
NHK見てたら、深刻な教員不足が発生中、理由は子供が減っていくので正規採用を減らして非正規雇用でまかなおうとしてるけどなり手がいないから、国の対策は教師のやりがい等を訴えていくこと、とか言ってて絶望しかなかった。
官も民も日本全国この調子。
ほんと救いようがない。

ーーーーー

日本の学校教育で、みんなが最後まであるひとつの「正解」に収束しないで、最終的に色々な意見を持ったまま授業を終えるってことなかなかない。
本当に、「この世には実はこれといった正解がない」ことを日本では自然に学びにくい。

だから、バブル最盛期の日本の人は、海外の様子見て、こんなに意思統一できんやつらに負けるはずがないと、誇ってたんよ。
それが正解のない時代になって、みんなが同じように考えて賛成したことが、状況の変化で全滅ってことが増えて、負けが込みだした。

ーーーーー
自分で権利を手に入れるのは大変だけど、他人のを取り上げるのはずっと簡単だし、払う方だってそっちの方が大歓迎だ。財務省にうまいように洗脳されてるんだよ。

ーーーーー
「人はなぜ被害者を責めるのか?」
日本心理学会のサイト

http://psychmuseum.jp/just_world/

「悪いことは悪い人に起きる」
「頑張らなかった人は痛い目にあう」
そういう秩序を信じることは心の安定につながる

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Unknown (たかはし)
2017-07-05 11:17:13
>優れた宝、全き人、如来、理法とあるがこれら曖昧な概念ばかりでわからない。
これはヴェーダンタ思想でいう真我などといかように違うのか。
大乗では一無位の真人、真実の自己、仏性などそれに類似するであろう表現が多数ある。
それらはいったいなにか?
実体はないと主張するのは構わないがあたかも実体視してしまうような概念が氾濫しているのはなぜか?

言葉にしないと伝えられないから、いろいろに表現されますが、その言葉に執着して、全き人、真実の自己とは何か、その正体は?と考えても、それを考えている限り、答えから遠ざかる。それへの執着を捨てる修行を行った果てに、それは分かる。でも、その分かったことを言葉にしたら、その言葉による表現は、答えそのものではない。南さんの表現によれば真実からズレるということになるかと。

そういうことだと私は理解しています。

経典には、自己が自分の主とか、自己に頼れ、という言葉があります。その一方で諸法無我とも言われます。

仏教学者の中村氏は、釈迦は我への執着を否定したのであり、倫理的行為の主体たる自己の存在までは否定していない、ただ、その正体については無記だった、と解釈するようです。私としては、倫理的行為の主体たる自己を認めていた、と言葉にすることも間違いだと思っています。

ネットでこんなの見つけました。

>「無位」とは空間、時間、階級などをいっさい固定化しないという意味。(「臨済録」)。

まあ、真人とは何かと考えても把握できない、無位だから、ということじゃないでしょうか。

でも、ということは真人は、有るんでしょ、と考えたら、それは無位ではない、そう思います。

なんとも消化不良に思えるかもしれませんが、そこに納得できるかどうか、それが釈迦を理解できるかどうかの分かれ目だと思っています。

スマ長老が、最初の内は経典を読めば読むほど不満が増した、というようなことを言ったと記憶しています。それは、肝心なことに答えていないと感じるからだと私は思っています。

でも、だんだんと、それは肝心なことではなかったと分かる、ということだと思っています。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 09:18:14
人の役に立つか立たないかで価値判断する傾向から自由になる。そういう意味の自由だったらどうするね?



そうですね。すべての価値判断から離れることを自由というのでしょうね。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 09:10:32
224さんとたかはしさんの対話は見ものだぞ
たかはしさん どうこたえる?
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 09:06:53
個人的にはテクニカルなことが聞きたいならお坊さんでなくていい。お坊さんは宮沢賢治の雨ニモ負ケズのような、人の道を 愚直に説き続けて欲しい。これ私の欲望です。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 08:59:01
南さんを訪ねて来る人は 全部わかってるんだ。

お坊さんに また南さんに 人の生きる道として当たり前のことを当たり前に言って欲しい、そういう人もいると思うんだ。それで自信が持てるんだ。確信が持てるんだ。みんな確信が持てないだけなんだ。それを後押しして欲しいんだ。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 08:38:38
224
この世また来世におけるいかなる富であろうとも、天界における優れた宝であろうともわれらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この優れた宝は目覚めた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

心を統一したサキヤムニは(煩悩の)消滅、離欲、不死、優れたものに到達されたーーその理法と等しいものは何も存在しない。この優れた宝は理法のうちに存する。

スッタニパータより。
スッタニパータ詳しいたかはしさんに質問。
優れた宝、全き人、如来、理法とあるがこれら曖昧な概念ばかりでわからない。
これはヴェーダンタ思想でいう真我などといかように違うのか。
大乗では一無位の真人、真実の自己、仏性などそれに類似するであろう表現が多数ある。
それらはいったいなにか?
実体はないと主張するのは構わないがあたかも実体視してしまうような概念が氾濫しているのはなぜか?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 08:33:21
>いろんな仕事があるが 人の役に立つどんな仕事も尊い。何事も一所懸命にやりなさい

人の役に立つか立たないかで価値判断をする傾向から自由になる。
そういう意味の自由だったらどうするね?
返信する
Unknown (たかはし)
2017-07-05 08:25:47
>ネットでは上級国民とか下級国民とかいうふざけた言葉が普通に使われてるしね。勉強が得意でない、できない子は奴隷として生きて生きなさい、とあくまで極端だけど受け取られる可能性がある。

釈迦の言葉を覚えられないと馬鹿にされ、自分でもそのことを悩んでいた人が、釈迦のシンプルな指導により悟った話が経典にありますね。

生まれ持った才能に違いがあるのは仕方ないが、誰にでも悟りの道は開けている、自由になれる、それを教えるのも仏教なのでしょうね。他の宗教でも似たようなことを言ってるかもしれないですが。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 08:17:34
ー寺があって 住職がいても仏教がないー



これはイエスちゃんに向けてのことばですね。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 08:12:30
勉強するのは自由になるためだ。しないと生きられないわけじゃない。



南さんまでそんなこというのか。そんなことはわざわざお坊さんがいうまでもなく、そこら辺の人が言ってることだ。個人的には せめて「いろんな仕事があるが 人の役に立つどんな仕事も尊い。何事も一所懸命にやりなさい」ぐらい言って欲しかった。
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Unknown (Unknown)
2017-07-05 07:46:34
中学生との対話は 受け取る人によっては酷く侮辱的に聞こえるだろうな。

ネットでは上級国民とか下級国民とかいうふざけた言葉が普通に使われてるしね。勉強が得意でない、できない子は奴隷として生きて生きなさい、とあくまで極端だけど受け取られる可能性がある。

特に南さんのように早稲田出身の高学歴の人が言う場合には。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 02:43:31
インドで仏教は、バラモン教から発展したヒンズー教に取り込まれたようです。ヒンズー教徒は、釈迦の教えはヒンズー教と違わないと解釈し、釈迦はヒンズー教の神の化身の一人にされているそうです。

釈迦の説いた無我を、我でないものを指して無我と言ったに過ぎず、それは我の不存在を言ったものではない、と解釈するようです。

不滅の我が有るという宗教の魅力は、絶大ですね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-05 01:33:37
ジャイナ教は、霊魂の存在を認めるようです。そこが釈迦との最大の違いで、インドの民衆に根強く受け入れられる理由ではないでしょうか。それから、ジャイナ教がインドに現在も存続しているといっても、人口の1パーセント未満らしいです。

スリランカや東南アジアに伝わった部派仏教たるテーラワーダは、歴史上の釈迦そのままとは、学者は考えていないようです。テーラワーダが伝えた初期経典にも後世の加増があるというのが通説になっているようです。

スリランカのテーラワーダの寺院には、神様も祀ってあるそうです。現世利益は神にお願いし、でも、人生の最大の目的は解脱だと考えられているそうです。

仏教は、その土地で既存宗教と微妙に融合することで存続してきたと言えると思っています。

その流れの中で、本当の仏教とは、歴史上の釈迦の真実とは、と問題意識を持つ者が少数ながらも必ず現れる、それも仏教の歴史だと思いますね。

曹洞宗のお葬式で、陀羅尼が使われますね。陀羅尼って呪文ですよね。密教の影響だと思います。それから般若心経も使われますが、そこにも呪文が登場しますね。民衆は、そういうものを好みますよね。そういうものから仏教に入り、道元禅師を学び、そしてやがて歴史上の道元禅師の真実に興味を持つ、ということに繋がると思っています。

そして、道元禅師も、歴史上の釈迦の真実を求めたということを知ることになるのではないでしょうか。

歴史上の釈迦の教えは、とんでもないものですから、そのままでは民衆に浸透するのが難しいですが、民衆に受け入れられやすいように改良された仏教から入っても、少数ながらも、必ずそこに興味を持つ者が現れる、というものでもあると思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 00:43:31
だとしたら
なにをもって「仏教がある」というんだろう?っていう

胃酸によれば仏教じゃないものがいっぱいあるみたいだし
南さんによれば輪廻とかは仏教的にNGみたいだし
でもそういうのを仏教として真面目に真剣にやってるところじゃやってたりして
それこそ「受け手次第」なわけで

だけど南さんと後輩さんの間では、うんうん、と頷きあって、いたのかどうかわからないんだって、この記事だと。

南さん、たぶんここのブログに書いてたでしょ。
お師匠さんに「お前(南さん)と俺ではめざすところが違うんだ」と言われた、みたいな。
お師匠さんの仏教と南さんの仏教はどのように違いどのように同じなんだろう?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 00:31:50
しらないや。
今知ってるのは、釈迦直々のお言葉は残ってないってことになってるってことだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 00:29:02
ふーむ。
だから?釈迦は書き物をしなかったの?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 00:12:20
あらたな自己を仮設する、って。

わたしなんかは、今回の記事の対話?みたいなときに、例えば南さんのあらたな自己が仮設されるんじゃないの?って思うんだけど。

でも、南さんの言葉が残ってる。
「消えてませんよ」さんは、たぶん、南さんの言葉の根拠?南さんが何をどう考えそれを言っているのかは消えてない、と言ってるんだろうと思うんだけど、
 (わたしは、対話の相手が消えているって言ってるつもりなんだけどね)
なら、あらたな自己の仮設って、どんなことなんだろう?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-05 00:00:20
消えてるでしょ。

お医者さん とか、教師 とか、中学生 とかって個人はいないでしょ?

例えばそこで会話をした、とある中学生が
「なんで勉強しなくちゃいけないのかわからない」というようなことを言ったとして、
それに対する南さんの今回の記事のお言葉がかみ合っていたのかいないのかは
その時のその子がどうだったのか、にかかってるでしょ?

「消えてませんよ」と言うあなたは、その言葉に似合う自分の状況を後から紡ぎ出すんでしょ?
それが南さんを理解することだって言ってるんでしょ?受け手次第だって。
南さんは、「それ」を紡ぎ出す要素を持っている自分の理解者である、と。
南さんは、南さんの言葉を補完する状況を設定するあなたの理解者である、と。
不思議な話だなって気がする。
でもなんとなくありがちな話なんだろうなって。
返信する
瑩山禅師が「密教」を導入したから、「現在の曹洞宗」が残っている? (イエスちゃん)
2017-07-04 23:51:08
要は「道元和尚の仏教」と「密教」と、両立できるのか?

「密教の権威・空海」は、「三教(儒教・道教・仏教)」を宥和的に取り込むが、

道元和尚は、中国の宋で流行していた「三教一致」を痛烈に批判した。

ここでも、「どちらをとるのか」の決断が起こる。
返信する
「ジャイナ教」は仏教と同時期に興り、教義も非常に似ているが、現在もインドに残っている。 (イエスちゃん)
2017-07-04 23:38:37
「ジャイナ教」は仏教と同時期に興り、
教義も非常に似ているが、
「現在も」インドに残り、多くの信者がいる。

それは「密教」に退行しなかったから、インド社会において「存在価値があった」。

「釈尊の仏教」は、貨幣経済の大都市で、広まっていった。(農村は伝道の外)
大金持ちが広大な土地を寄進して、多くの「サンガ・修行道場」が造られた。

釈尊の弟子たちは、悟った後、次々と独立して出て行って、同じようにサンガを作って、インド中に広まった。

要は、大都市には、釈尊の仏教を必要としていた、同じような精神構造の、人々が存在していた。

バラバラの、独立した、上下関係のない、「サンガ」だから、
釈尊の死後に、正しい教えを固定化する為に、何度も「結集」を行った。

そして、後には文書として、部派ごとに「三蔵」がまとめられた。

当然、部派仏教は、密教に退行はしていない。タイやビルマやスリランカで「生きた宗教」として、社会から必要とされている。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-04 23:00:51
ふーん、そうなんだ、不思議

口癖。執着。さよなら。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-04 22:49:50
>そのお言葉がどのように来てどのように行ったのか、とかは消えて

消えてませんよ。南さんの本なり
このブログなり、動画で、
意思、知恵(考えの元となるもの)を知っています。気づいたらあった自己を放ち、分散し、
これがこうであるという頑固な執着や根拠はどこにもない、という知恵、からの会話文。奥深いです。
受取人次第。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-04 19:56:02
別に
寺じゃなくても坊さん(仏教者?)じゃなくても、いいけど。

寺があっても坊さん(仏教者?)がいても仏教があっても
「ふーん、そうなんだー」ってこともあるし。

今回のって、誰かとお話しをした時の「南さんのお言葉」集なんでしょ?
そのお言葉がどのように来てどのように行ったのか、とかは消えて
南さんのお言葉が残ってるのね。
不思議っちゃあ不思議よね。
よくあることといえばそうなんだけど。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-04 15:10:54
仏の体はもともと無為であるが 迷う衆生がやたらに分別する

佛光如満禅師
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-04 01:15:56
イエスちゃん流に言うならば、

釈迦は死苦の恐怖で鬱病に成って仕舞って・・・それを修行で克服したので、

釈迦と同じ悩みを抱える人なら
仏教者と呼ばれる資格がある・・・、
と定義しているようだ(たぶん??)

これが仏教(者)の定義なの??
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Unknown (Unknown)
2017-07-04 01:02:07
以前の記事で和尚さんが書いていたよね~。

「これからの(仏教)僧侶は、釈尊を自分の主人(意訳)として受け入れるかどうか、自分で決めねばいけない・・・・」とかなんとか・・・・

つまり釈迦を受け入れない仏教者も🐜ってこと??
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Unknown (Unknown)
2017-07-04 00:55:42
で、
「仏教」の定義を一言で言うとどうなるの??

あの人は仏教者(仏教徒)だと他者が承認する定義(評価法)とはナニ??

「先ず自分で考えよ」とか言う人は正しい仏教者??
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Unknown (Unknown)
2017-07-03 21:38:46
結局 世の中 「力」よね

人間が「力」を物事の原理とする限り 憎しみは無くならないわ。

あらゆる暴力は個人が疎外されていることへの反抗だわさ。

「力」の原理では無く「愛」の原理を!あるいは「空」の原理を!
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神様 リセットボタン押して,, (pom)
2017-07-03 08:30:27
人間の耐用年数は50年くらいで、その後はメンテナンスと大規模修繕で30年延命できるかってとこだと思うんだけど、今は50になっても60になってもスキルアップのために勉強するか、長時間労働に耐えないといけないんだよな。
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Unknown (たかはし)
2017-07-03 07:51:29
人間が存在する限り、宗教も存在する。そう思いますね。

歴史上の釈迦の教えそのままだけが仏教であるとは言えない、と言っている仏教学者がいますが、私もそう思いますね。そもそも、歴史上の釈迦そのままということにも諸説あり、どれも確証がありませんから。

では、それを仏教と言う限りは、何が必要なんだろうか。

それがテーマだと思いますね。

南さんも、仏教ー私流、と言ってますね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-03 07:39:26
釈迦の時代、釈迦の教えは、マイナーなものだったでしょうね。王族や都市商人に帰依者がいたとしても、民衆には、なかなか浸透しなかった。あまりに、とんでもないものだったから。民衆には、神への帰依、神の恩寵を求め祭祀を行う、不滅の魂が有る、汝はそれである、という宗教が人気がある。

釈迦滅後に、統一王がインドに現れて、既成の抵抗勢力たるバラモン階級に対抗するために政策により仏教を国教にして、仏教僧侶が飛躍的に増えたかもしれないが、それでも民衆は、仏教をバラモン教的に解釈して受容した。

やがて、イスラムの支配によって仏教僧侶が壊滅させられ、その後に独立を回復した時に、インドがバラモン教の方を復興したのは、自然な流れだと思います。

日本においては、最初は、仏教を国家鎮護に利用したようですね。仏を救い主のように解釈した。だから、そもそもの出発点が歴史上の釈迦の教えと違っていて、それはバラモン教的だった。

そんな流れの中に道元禅師が現れて、間違いを正そうとしたのでしょうね。しかし、残念ながらマイナーだったのではないでしょうか。

でも、その後継者の代になると、布教目的から密教の要素が取り入れられるようになったようですね。逆に言うと、密教の要素を取り入れることによって民衆に浸透し、それによって道元禅師の教えもメジャーになり得たと言えそうです。

だから、表面的な違いに着目して、それは間違い、としてしまうことは、仏教の自殺行為であるとも思います。

表面的に違いがあっても、その奥底に仏教があるのではないか、という目を持つことが大事だと思いますね。

理性的に検討していくと、それが見えてくると思います。

でも、自分が共感したもののみが正しくて、他は間違い、この正しい法を布教すべき、という感情が自らの信仰の原動力となって、それが宗派成立の動機になっているものさえあるのが現状で、なんとも厄介なことだなあと思っています。
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インドでは「仏教」は「密教」に退行して、社会から不要なものとなり自滅した (イエスちゃん)
2017-07-03 06:14:59
『寺があって、住職がいても、そこに仏教が無い。』

インドでは「仏教」は「密教」に変質し・退行して、「社会から不要なもの」となり自滅した。

中国では「儒教」と「道教」とが、お互いに強烈な批判を行い、競い合い、「中国人の精神世界で存在意義」があり、最後まで残っている。
(習近平は、共産主義を捨てて、「儒教」を再興して、精神原理として中国をまとめることを着々と進めている。
中国に行ってみると、孔子の故郷は大々的に復権し、大都市の孔子廟も新しくされている。)

インドでは、仏教が「ヒンドゥー教」を取り入れて「密教」に変質してしまい、「ヒンドゥー教」の対抗原理にならなくなり、「インド社会から必要とされなく」なり「自滅」した。

このインドで、「ヒンドゥー教」の対抗・精神原理は「イスラム教」となり、お互いに競い合って、今日まで発展している。

日本でも「仏教」が、「社会から必要とされなく」なれば、単に「消滅する」だけ。他の消滅した文化と同じで、自然現象である。

「諸行は無常」
「縁起の思想」

「ひろさちや」氏が、日本でもてはやされていることは、仏教の自滅行為である。
「仏教」と「にせ仏教」との区別がつかなくなっている証拠である。
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Unknown (たかはし)
2017-07-03 05:59:34
>結局、最後は敗北する職業です。大変だと思いますが、そのつもりでやることです。

医師で僧侶でもある方が末期癌になって、痛みに対処しながら最後まで診察を続け、他の癌患者との対話の機会も設けて、自身の修行も継続していたというドキュメンタリー番組をテレビで観たことがあります。

番組の最後にインタビュアーが、その医師で僧侶の方に、瞑想修行によって死への恐れは無くなりましたか、というような質問をしました。その方は、ちょっと間があって、そのように思います、と答えられましたが、その表情は、晴れ晴れというより、そう自分に言い聞かせているという様子に私には感じられました。

そのときのインタビュアーの声に悪意のようなものを感じましたね。茶化しているような。そのインタビュアーは、番組のディレクターで若者という感じでした。仏教を自分の問題として真剣に向き合っているのではなく、面白い番組になればいい、というようなスタンスなんだな、なんて思いました。

それが一番に気になることで、私もその場にいたら同じ質問をしたとは思うのですが。
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Unknown (蓮の花)
2017-07-02 23:09:10
>work(ワーク) 体や頭を使ってする「作業」
job(ジョブ) 収入を得るための「職」
task(タスク)課せられた「任務」 
labor(骨の折れる)「肉体労働」<

上記のコメ事典に続けて
do(する)ワーク、タスクをジョブにする「働き」
comment(書き込み)隠れて自己を開示する「負の働き」
blog(ブログ)ウイッキさんとグーグルさん、ヤフーさんなどの「ハイブリッド掲示板」

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Unknown (Unknown)
2017-07-02 23:01:37
会話や表情の行き交いに察することの違いを感じた時でも幾重の記憶やその深みを想像するようでもあり、また子供の時視線の先を見ながら意思や方法を傍らで説いてくれた暖かさが何をみていくかを問いかけそして確認するようでもあります。


南京ハゼさん、有り難い。

無我、非我を前提に、よくぞ、実存の優しさの深さに価値をつけ、または賭けて、
なんとか、恐らく、なんとか、
そこに留まるには並大抵ではない試行錯誤や、
自己や他者とか、他己のようなものが混ざり合うなかで、言葉にして下さって、言語は無明だけれども私は本当に有難い。
実存でしか生きていけませんから…
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「仏教」は好き、「仏教しぐさ」嫌い (net)
2017-07-02 17:00:45
「なぜ無我に『なろう』とする必要があるのか。最初から無我でやればいい話じゃないか」

「それは理屈としては正しいし、口で言っても美しい話ですが、実際問題として、たいていの人はそれをやろうとすると、我で『無我しぐさ』をはじめますよね」

---
「こうすればこうなる」式の認知というのは(仏教系の人はそういうことを言いがちだが)実は「幻想」では全くなくて、私たちにとっての「現実」を構成する基本原則

それから距離をとりたいと思うのであれば、別の種類の「こうすればこうなる」をインストールするしかない。
「現実」を複数化することだ。

もちろん、仏教の場合はその先に「こうすればこうなる」の最終的な超克を考えるわけだけど、それを最初から「実現されたもの」と主観が思いなしてしまうのは、むしろ無自覚のままに「こうすればこうなる」の奴隷になる危険性のほうが大きいだろう
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Unknown (Unknown)
2017-07-02 09:53:46
人の増え方は等比級数的
食料は等差級数的
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働くとは (Unknown)
2017-07-02 09:45:23
work(ワーク) 体や頭を使ってする「作業」
job(ジョブ) 収入を得るための「職」
task(タスク)課せられた「任務」 
labor(骨の折れる)「肉体労働」
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Unknown (たかはし)
2017-07-02 09:40:03
日本は、なかなか良いと私も思いますね。

今回の被災にしたって、日本だからこその対応だと思っています。ありがたいことです。
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Unknown (Unknown)
2017-07-02 09:37:24
自我暴走さん、そうじゃないよ。
人が多すぎるからだよ。
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Unknown (月のような者)
2017-07-02 09:34:58
だいたい禅寺を前提にした話ですが、お寺とお坊さんのあり方ということに関しては、一に悟りを開いているか、二に仏教についてまじめに考えているかですね。いわゆる預流果レベルの悟りにでも達したお坊さんが住職をやっていればこれは日本においては価値のある話になるでしょうね。でもほとんどのお坊さんはそうではないでしょう。悟りはなくても内的必然性によって仏教を考えなければ気が済まないという人が次に価値のある人でしょうね。
お寺に来たぞという気負いも、なんだこんなものかという侮りも起こらない空間が理想ではないでしょうか。仏教ではお寺の絵に描いたような静謐な空気もあくまで腐りゆくイマジネーションであることを了解した上で本当の落ち着きが開かれるものではないでしょうか。論理的倫理的結論として仏教が人間にとっての最後の保険であることを理解した上で僧侶の職分が全うされるべきなのです。
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人類って、まだまだ未開やね (自我暴走)
2017-07-02 09:29:11
知れば知るほど、政府も役人も、各種の既得権益団体も、好き勝手に保身と自己利益だけで動いているとわかる。
それでも、日本は、かなりマシなのである。
世界基準で見れば。
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Unknown (Unknown)
2017-07-02 09:22:58
たかはしさんなら分かると思うよ。
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Unknown (たかはし)
2017-07-02 08:52:59
>借金もなく、金に困らない、にもかかわらず、働かなくてはならない人は?

働かなくてはならないなら、働くことになりますよね。働かなくてはならないのですから。

問題は、なぜ働かなくてはならないのか、ということですよね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-02 08:45:30
私は、病でリタイヤした独身で年老いた母親と二人暮らし。貯金生活者で、豪遊、酒池肉林は無理ですけど、まあ、食うに困ることはないです。

途方に暮れた時に、心の拠り所を探して初期経典に出会い共感、ということですね。最後は野垂れ死にでも何も問題ない、と考えるようにしています。

あなたは、どうですか。
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Unknown (Unknown)
2017-07-02 08:31:29
借金がない、金に困らない、であれば、働かない人もいて当然。

借金もなく、金に困らない、にもかかわらず、働かなくてはならない人は?
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Unknown (Unknown)
2017-07-02 08:14:16
たかはしさん自身はどうよ。
曜日も時間も関係なくコメント出来る身分みたいだけど。
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Unknown (たかはし)
2017-07-02 07:21:46
ウィキで調べたら、永井荷風は、結婚、離婚を繰り返してますし、養子をもらったりしてるようですね。でも、どれもうまく行かない、世俗的なことが苦手な人のようですね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-02 07:08:04
親の財産が有るからと働かずに、外国旅行や女遊びばかりして、それを題材に小説書いて生きた人がいましたね。永井荷風。やはり映画で知ったのですが。

生涯独身だったとか。自分のような、ろくでなしが子供を持ったら、その子供は不良に育って社会に迷惑をかけるからと子供を持たず、女遊びが激しいから妻も持たない。

どんな晩年だったのかなあ、なんて思います。

小説の功績により文化勲章までもらったようですから、名誉欲は満たされたでしょうね。

釈迦は、快楽主義も否定しましたけど、永井荷風は、それを生きた人だと思えますね。
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Unknown (たかはし)
2017-07-02 06:26:07
>高等遊民

夏目漱石の小説で、「それから」と「こころ」の登場人物が、高等遊民とされる人のようですね。私は、映画を観ただけで原作を読んではいないのですが。

それはどちらも、ややこしい恋愛をして悲劇で終わってますね。夏目漱石の実体験の影響なのかなあ、なんて思ったものでした。

高等遊民でハッピーエンドでは、小説にならないですかね。

引きこもりに真に満足する、ということがあり得るだろうか、なんて思います。他者と繋がっていたい、承認されたいという欲が無いという人はいるだろうかと。私には無理です。

でも、他人と一切関わりたくない、という人もいるかも知れない、という気もします。

生涯生活に困らない財産が有って、妻子を持って、でも、自分だけは家族以外の一切と関係を絶って、引きこもりで生きる、それに真に満足している、というケースがあるかも、極めて稀だけど。

財産が有って、家族を持たず、独り身で引きこもり、それに真に満足している、ということは、あり得るだろうか。それは更に稀なケースかも。

問題とされる引きこもりは、不満ながらも仕方なく引きこもってる、というものですよね。そしてその不満を外部に爆発させる。

その不満にどう対処するか。仏教は、そのヒントになるでしょうね。

35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況(いわん)や朋友をや。犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め。(スッタニパータ)

仏教は、そんなこと言ってますから。
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Unknown (Unknown)
2017-07-02 01:45:05
その前に神社を何とかして欲しいね。
町内会通じて金ばっかりせびりにきやがる。
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「お寺業界=仏教」ではない (Unknown)
2017-07-02 00:10:34
「寺院消滅時代をどう乗り越えるか」とか「寺はどうしたら変われるか」とか、もう「何かをしたら危機を乗り越えられる段階」はとうに過ぎてる。「お寺業界」というのは、もうあとは滅びを待つだけの段階

「お寺業界=仏教」ではない。
つまり「お寺業界の崩壊=仏教の崩壊」でも決してない。

ある田舎の山寺から
「今後の運営をどうしたらいいか、相談に乗ってほしい」と
「行き詰まりつつある過疎の山寺」としか言いようのないところで、亡父から住職を継いだばかりの独身の若者は、特に優秀でもない「普通の人」だった。

住職を外し,
「外部からの知恵者を呼びたい」との言いだしっぺであったという総代さんらと話した。

「腹を割って話しましょう。寺に何を求めてる? ○○宗の教義を本気で学びたいのか。それとも家の墓所としてしか見ていませんか?」
「…墓所です」
「寺と住職、どちらが大事?」
「…お寺です」
「話は簡単だ。何かの理由をつけて、住職に単立寺院になるよう求めなさい。住職を説得できれば手続きは簡単だ。その後、役員会で住職を代表役員から解任しなさい。そのあと、総代さんが寺のトップに」
「僧侶でないのに?」
「それは宗門の規則に過ぎません。だから単立してそうするんだ」
「それからどう?」
「総代さん、あなたが村の顔役で地域のリーダーであることは明白だ。あなたが寺をまとめ、地域の共同管理において、地域の墓地を皆さんで守っていきなさい」
「住職は?」
「“法務員”とかの名目で、一従業員の“お経読み”として、給料払って置いておくんです」
「嫌がったら?」
「バッサリと解雇して、その後、お経読む人が必要なら、お坊さんを派遣してくれる会社なんてのがありますから、そこと定期契約なんぞすればいいんじゃないですかね」
「そんなことしていいんでしょうか」
「じゃあ悪いが、あの住職に任せ続けてどうなります」

返信する
ネットの中 (Unknown)
2017-07-01 15:53:09
「白身魚フライ」ってのもすごいホラー要素が入りそうな食品。
白身の魚という分類学的には全く絞り込めない形質だけで定義される謎。
我々は生物ではなくフォーマットを食べているのかもしれない。
「情報を食べている」とはよく言ったもんだなぁと。

「今日のご飯は生物のフライです」
「具体的には」
「真核生物のフライです」
「もっと詳細に」
「細かい人ですね、多細胞生物のフライですよ」

「……もっと細かく」
「2017年3月に岐阜県で生まれ、同年5月に愛知県名古屋市でされた鶏のフライです。性別は雄。婚姻歴なし、家族なし。兄弟はいましたがすでに同様の唐揚げになっています」
「そこまで聞いてない」

ーーーーー
昔は世の矛盾を若者は怒り、左翼になり、社会に出て現実を知って保守になるのが普通だった。今、再びリタイアした全共闘世代に左翼に戻る人が多いのは、幼児退行みたいなものだろう。

左翼戻り爺さんは社会で挫折というかうまくいかなかった人達では?
(悪いのは世の中や政治・体制が原因と思えれば救われるもの
まぁ広義の宗教)

人生が本当にうまくいかないと、60過ぎると国会前デモに参加する金も意欲も失われているので、毎週官邸デモをするような老人は、生活の安定した人たちでしょう。

ーーーーー
TV,ザノンフィクションを観た人達の感想で「ニート達の肌が汚いから駄目」と「銅蟲さんは歳の割に肌が綺麗すぎて人生経験が伴ってないから駄目」の両方が有ったのでもう皮膚を持つことが許されない感じ

ーーーーー
今時の若い人は、サッサと高校課程修了試験(大検)をクリアして、高校に行かず、難関大学への入試勉強に集中するそうである。
マイペース型なら、その方がいい。
賢いね。

返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-01 12:10:34
南さんに相談にいきたい。
返信する
ビジネスは知識より知恵 (仏門)
2017-07-01 11:44:54
教育ママとか教育産業の人たちやそこに毒された学生たちが思っているいい学歴と、実際にビジネスの現場で採用の決定権を持っているような人たちが思ういい学歴とでは、だいぶ隔たりがある。

---
公開していいの?DMM会長との対談の一部始終を完全公開します
https://www.youtube.com/watch?v=KuQfi9vNGsQ&feature=youtu.be
DMM亀山会長とヒカルの対談。
ビジネスとして成功して定着すれば、学歴を事情により作れない優秀な若者や勉学でない才能を大企業が低リスクで拾えるようになるかも。
----
連勝新記録樹立の藤井聡太四段「学校行きたくない」で母困惑
http://news.livedoor.com/article/detail/13270994/

もう道を見つけた以上、それは仕方ないんじゃないよなあ。
周りが子供のところにいるのは、周囲によくないと思う。


返信する
我々の首を絞めている縄 (労働者階級)
2017-07-01 10:54:16
縄の一端は横暴な資本家が握り、もう一端は横暴な消費者が握っている。
返信する
ジェネリック自民党 (Unknown)
2017-07-01 09:56:46
世界保健機関(WHO)は、独り身の人を障害者と同一視する。新しいスタンダードによれば、性的なパートナーを見つける能力のない人は、子供を作れない人、不妊者とみなされる。新聞The Telegraphが伝えた。
https://jp.sputniknews.com/life/201610222931817/
性的パートナーを見つけることができない人は障害者扱いに

------
「フリーダイヤルコールセンター」が「フリーダイヤル」やめたらみんな定時で帰れるようになった。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-01 00:38:07
ははは、ハスちゃん、やるねェ~!!

このサイトは思いっきり
我思う故に我在りやってるけど(B面)、
表向き(A面)は無我ってみせないとね・・・
返信する
Unknown (蓮の花)
2017-06-30 22:29:22
▼ある「無我」と

存我:あなたはいるのに何故に無我の名がついたのですか?
無我:あるようで実際は無いからです。
存我:在ったり無かったりするということですか?
無我:いや、常にいます。
存我:どこにですか?
無我:あるあれこれコメ山でしょうかね。
存我:ああ~無を語る無名(Unknown)のあの人のことですか?
無我:いえ、煩わしい名など無いです。
   名無しの世間知らずだと言われますけどね。
存我:では、無我としての感想を聞かせてください。
無我:無想が無なので
   無体が有体になり
   有体が無体に帰化し
   無の完無になるのです。
存我:(頭の毛をむしりながらキャーと叫び消えてしまった)

   結局、無問無答になったとの昔話
   

返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 21:41:38
私は警察官ですが、和尚さんなら警察官の人にどのような声をかけられるのでしょうか。とても気になります。
返信する
観測点からの眺め (Z)
2017-06-30 20:18:59
▼ある小売店経営者
「なあ、俺と交わってくれないか!」
私:「嫌です!」
返信する
Unknown (たかはし)
2017-06-30 19:37:59
悟っていない人が語ることは、仏教を解釈したに過ぎないものでしょうから、それを鵜呑みにするのではなく、経典に照らして自らの理性で検討する、ということが不可欠になるでしょうね。

その相手を信じるんじゃなく、その解釈を自分で検討して、その自分の判断を信じる、ということになるでしょう。

ちなみに、ひろさちや氏は、タンス預金していた現金、数千万円を空き巣に盗まれたことがあります。それ以前に税務署の申告調査で寄付金の計上について架空計上を疑われて酷い目に遭ったことがきっかけになって、現金で匿名で寄付するつもりで貯めていたと釈明してましたが、果たして‥。

相手の人格はさておき、解釈の妥当性について検討して参考にする、というのがいいと思いますね。

完全には悟っていない人の人格を問題にしたら、必ず欠点があるでしょうからね。悟っていないのですから。
返信する
Unknown (たかはし)
2017-06-30 19:23:23
363 好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

373 過去及び未来のものに関して(妄りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

以上、スッタニパータ。

サイコロ振って決めるという発想は、そんなところから来たんだと思いますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 17:57:18
偏見ですけど 何を語ろうが 世間の評判が良かろうが、肥えた宗教家は信用なりませんな
返信する
「ひろさちや氏の」は、「仏教ではない」から! (イエスちゃん)
2017-06-30 17:47:08
『仏教って、ある意味、極端ですね。』

その原因は、「ひろさちや氏の」は「仏教ではない」から!

「世間の人は、その区別ができない」だけ。

現在の出版社は「本が売れればよい」、それだけ。
「正法」か「非法」か、その区別ができない。更に「しない」。

だからこそ「正師」を求める必要がある。
道元和尚は、中国に「正師」を求めて行った。
そして中国に「正師」がいないと断念して、日本に帰ろうとしていたが、
とうとう「如浄禅師」に出逢った。

求めなければ「正師」に出逢えない。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 16:03:45
教師・・・
一番なりたくないけど、なってみたい。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 15:17:03
和尚さんから見て、死は敗北ですか?
返信する
国家民営化論 (たかはし名人)
2017-06-30 08:36:17
国家民営化論―ラディカルな自由社会を構想する
笠井 潔 (著)

内容
社会主義崩壊後、多くの人が無批判に受け容れている現在の社会システム。その限界と欠陥を、“ラディカルな自由主義者”笠井潔が鋭く指摘、理想の社会構想を提示する。たとえば、遺産相続や税金の撤廃。警察、刑務所、厚生省や文部省の民営化。安楽死や自殺を基本的人権にすること…。過激に、論理的に、21世紀自由社会は本書から始まる。

発売日: 2000/12
返信する
Unknown (南京ハゼ)
2017-06-30 08:12:56
法事などで集まった時、各々の思い出に面影が浮かびそのそれぞれに向けられた笑顔は喜びのようなものが大きな輪郭で広がるようでした。会話や表情の行き交いに察することの違いを感じた時でも幾重の記憶やその深みを想像するようでもあり、また子供の時視線の先を見ながら意思や方法を傍らで説いてくれた暖かさが何をみていくかを問いかけそして確認するようでもあります。拙い歩を経ながら暖かさの在り様の深さを知っていくようです。緑は映えますが湿度の高い折、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 02:55:51
仏教って、人にヤサシク無いよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 02:20:11
勉強したら、より自由になる?

勉強によっては、より病気になりそう。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 02:19:00
引きこもりは「引きこもりという立場を無意識が選択した人、逃げを無意識が選択した人」でしかないので、自分が選択したのでないので悪く言っちゃあかわいそうだと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 02:16:22
「勉強するのは今より自由になるため」というよりは
「勉強するのは人から良く見られたいから、人より少しでも上に行きたいから。」
が100人中100人ですよね、人間であれば。
ただの雑な細胞の塊ですからねえ、我々は、はっきり書くといっしゅん死にたくなります^_^
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-30 02:08:58
あれ?
和尚さん。

「▼政治家と」

??(゜Д゜≡゜Д゜)??


見当たりませんが
書き落としでしょうか?
返信する
Unknown (たかはし)
2017-06-30 02:07:58
仏教学者の、ひろさちや氏は、選択に迷うというのは、そのどちらでもいいから迷うのであって、そういうときにはサイコロ振って決めろ、どちらでもいいんだから、と書いてました。

何のために生きるのかという問いには、釈迦なら、悟るためだ、そのために世間も何もかも捨てて出家するのだ、と言うのでしょうね。

仏教って、ある意味、極端ですね。
返信する
Unknown (たかはし)
2017-06-30 01:59:21
>自分に誤りがあるとわかったときは、大人に謝るのと同じように、はっきり子どもに謝りました。これは信用の根本であり、したがって『躾け』と『教育』の土台です。

まさにそうだろうなあ、でも、なかなか出来ないんだろうなあ、と思いました。親に謝られたこと記憶にないです。あ、私が親に謝った記憶もないか。ただ、何となく雰囲気では伝わっていた気がします。今は、間違ったと思ったら謝るというのは、他人に対しては概ね出来てる気がしますが、でも、親に対しては、依然として駄目ですね。ややこしいですね、親子って。子供がいないので、子に謝る難しさは経験無いですが。


>勉強するのは、今より自由になるためだな。しないと生きられないわけでもないし

寅さんの映画で、何のために勉強するのかと甥っ子から質問された寅さんが、勉強していないと、何か問題があったときに自分のようにサイコロ振って出た目で決める、なんてことしかできないが、勉強していると、ちゃんと筋道立てて考えて答えを出せるようになる、というようなことを言ったのを思い出しました。

何のために生きるのか、と質問されたときには、生きてて良かったと感じるためだ、というようなことを言っていました。

うまいこと言うなあ、と思いました。そういうところも私が寅さんシリーズがお気に入りの理由です。
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Unknown (Unknown)
2017-06-30 01:55:34
>寺があって、住職がいても、そこに仏教が無い。


コレです。モンダイは。
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