思いつき禅問答シリーズ。
ある禅師が修行僧を集めて言いました。
「お前たちは皆、酒糟で酔っている連中だな。そんな体たらくであちこち修行に歩き回っても、今日悟りを得ることなどできないぞ。そもそも、この国に禅師などおらんんことを知っているのか」
すると、修行僧の一人が質問しました。
「では、あちこちにいる、修行僧を教え導いている人は、どうなんですか?」
「禅(の悟り)が無いとはいわん。ただ、その師がいないのだ」
この禅問答の中で「酒糟に酔う連中」とは本物の酒を知らない者の喩えで、いい加減な仏法の知識に満足して、正しい仏法を知らないことを言います。
この問答の通常の解説はおおよそ次の通りです。
「禅の教えが無いとは言わず、師がいない」とは、要するに「禅(の悟り)」とは、修行者本人の直接的な体験、心によって内面から体得されるものであって、それを教えられるような「師」はいないのだ。
この解釈は、ただの体験を形而上学的な「真理」のごとく理念化する、一種の「体験至上主義」と言えるでしょう。
私は例によってこの解釈をとりません。なぜなら、修行者本人の「体験」が本当に「悟り」かどうか、当人には原理的にわからないからです(これまで悟ったことがないのに、わかるはずがない)。
だとすれば、誰か「先に」悟った者に「君のその体験が悟りなんだよ」と言ってもらわなければならないでしょう。つまり、体験それ自体は無意味なのです。「禅(の悟り)」があるなら、それを保証する「師」は必要条件です。
にもかかわらず、「師はいない」というのは、その師の「悟り」体験も、体験自体は無意味で、そのまた師に保証されなければならず、ことは際限なく遡及します。
この遡及を遮断するには、大元のゴータマッダご自身による「悟りとは〇〇である」という言明が必要ですが、この言明が経典に一切ないとなると、「体験」の意味を確定する「正しい」方法は無いことになります。
すると、「悟り」確定に必要な師の保証は、所詮「参考意見」か「参照事例」にすぎません。
すなわち、「体験至上主義」で押し通すと、「正しい悟り」を得た「師」などは幻想にすぎないという話になるでしょう。
ある禅師が修行僧を集めて言いました。
「お前たちは皆、酒糟で酔っている連中だな。そんな体たらくであちこち修行に歩き回っても、今日悟りを得ることなどできないぞ。そもそも、この国に禅師などおらんんことを知っているのか」
すると、修行僧の一人が質問しました。
「では、あちこちにいる、修行僧を教え導いている人は、どうなんですか?」
「禅(の悟り)が無いとはいわん。ただ、その師がいないのだ」
この禅問答の中で「酒糟に酔う連中」とは本物の酒を知らない者の喩えで、いい加減な仏法の知識に満足して、正しい仏法を知らないことを言います。
この問答の通常の解説はおおよそ次の通りです。
「禅の教えが無いとは言わず、師がいない」とは、要するに「禅(の悟り)」とは、修行者本人の直接的な体験、心によって内面から体得されるものであって、それを教えられるような「師」はいないのだ。
この解釈は、ただの体験を形而上学的な「真理」のごとく理念化する、一種の「体験至上主義」と言えるでしょう。
私は例によってこの解釈をとりません。なぜなら、修行者本人の「体験」が本当に「悟り」かどうか、当人には原理的にわからないからです(これまで悟ったことがないのに、わかるはずがない)。
だとすれば、誰か「先に」悟った者に「君のその体験が悟りなんだよ」と言ってもらわなければならないでしょう。つまり、体験それ自体は無意味なのです。「禅(の悟り)」があるなら、それを保証する「師」は必要条件です。
にもかかわらず、「師はいない」というのは、その師の「悟り」体験も、体験自体は無意味で、そのまた師に保証されなければならず、ことは際限なく遡及します。
この遡及を遮断するには、大元のゴータマッダご自身による「悟りとは〇〇である」という言明が必要ですが、この言明が経典に一切ないとなると、「体験」の意味を確定する「正しい」方法は無いことになります。
すると、「悟り」確定に必要な師の保証は、所詮「参考意見」か「参照事例」にすぎません。
すなわち、「体験至上主義」で押し通すと、「正しい悟り」を得た「師」などは幻想にすぎないという話になるでしょう。
蓮の上にどう坐るかだよ。
せやろ?
私は南直哉という方のブログや著書を拝読するようになってから、それ以前より幾分か自分の人生に対しての不満が減った?ように感じます。
他人を羨ましく思う瞬間があっても、イライラするようなことが続いても「まあ、こういう人生もあるんだろうな」ぐらいに思えるようになりました。
以前はよく「自分はなんのために存在するんだろうか?」とか「自分はなぜこういう人間なのか?」とか「この経験はなんのためにあるのか?」とかよく考えていました。
自分ではそうしたくないのになぜかそうしてしまったりして深く落ち込んだりしました。
私は、南さんが何をいわれてるかということよりも、南さんご自身が生きるということに全身全霊でもって苦しみ格闘されておられるお姿に、救われています。
他の方がどうか知りませんが。
他人に根拠を求めると依存したり、支配されちゃうのかなー、とか思います。こちらも多少身に覚えがあるので笑
転職活動もしています。
iztさんは、「自己は他者に課されている」「他者の受容が死と自己の受容」「自己に根拠はない」はどう響きます?
南さんの何の言葉が響きますか?
私と似ていることが多い、、。
ブログやツイッターやってましたら、URLを表示してほしい。
私は、仏教とは言わなくても、南さんの言葉や解釈を非常に共感し、リアルです。こういうと心酔者のようで嫌なのですが、ほぼ、私の胸に突き刺さるのです。
実践的に「死」と真正面から向きあうこと、つまり逆向きにいえば、「生」とはなにかと問い続けること。
「覚悟」は、「決断」すること、ではないと思う。
だから南さんは「賭ける」と言いはしても、「覚悟」とはいわないんじゃないか?
「出家は問い続ける、故に南である」
「実体」ではないので「雲散霧消は該当しない」
何言ってるのかよくわからない。
この方、雲や霧は「実体」だとでも言いたいのかしら。
雲や霧は現象に名称を付けたものだから、散ったり消えたりするんでしょ?
散ったり消えたりしたらそれは雲でも霧でもなくなったってことでしょ?
雲やら霧やらいう実体が出たり引っ込んだりするって思ってるのかしら?
自分・自己だと思ってたものが 雲散霧消したら自分や自己じゃなくなるんじゃないの?そういう実体はないんでしょ?
でも、「あるんだ」と、自分・自己ってものがあるんだと、思っているつもりはなくても、思わずうっかりそのように考えてるんでしょ。
だから、「新たな自己を仮設する」んでしょ?
ってことは仮設する主体があるみたいだけど?「それ」は、「ああ、また『これが俺だ』とか勘違いしちゃってるから新しくしよっと」とかって把握してるんでしょ?
とか、出家かどうかは「問い続けるかどうか」だと。「南は問い続ける、故に出家である」と。問い続ける主体があるんでしょ?
そして問い「続ける」んだから、その主体は「あり続ける」んでしょ?
そう決意してるなら「手放さない方向で考えてる」んじゃないの?
自分は仕事で悩んだら退職してしまいます。30代後半ですがひとつの会社で3年以上続いたことはありませんし学校も中学生から先の、高校と専門学校は中退です。体が丈夫なのでなんとか自活しつつ、仏教のまわりをウロウロしてます。キリスト教の集会に小学生の頃に従兄弟たちと通った事があったのですが、ヨブ記に拒否反応が起こりダメでした。
百日紅さん
仏教だと思うのですが、あーでもないこーでもないとなってしまい、覚悟の手前でウロウロなにかを探してしまいます。何を探してるのかもハッキリとしないのですが、「これならちょっと大丈夫そう」なもの、こと、に出会うとそっちにふらふら〜と近づいて行って、やっぱダメだと離れていくって事を繰り返してます。
アドバイスありがとうございます。
仏教界の常識を次々と打ち破る南直哉師は
釈迦・道元・アインシュタイン直系の末裔という事になりそうだなァ~(!?!!)
単位時間の長さを緩めたり、
単位距離の長さを縮めてみたりと、
常識を打ち破った思考法をしたアインシュタイン氏の前世は・・・
もしかしたら道元さんだったのかもしれない。
なんか道元さんだったら、その位のことを言いそうだ。
すべての問題を解決してしまったという事なら、
南さんとしては、はなはだ受け入れ難いという事になるのでしょうか。
おれのロールモデルがいなくなっちゃう・・・って。
それ以降は、「それまでの悩みは完全に止んだ」.....
つまりこういう事ですかな?
35歳以降は常に新たな問題・新たな悩みにさいなまれて、
通常ならば自死してしまうところを、
何とか歯を食いしばって、
別に面白くもなく、いいこと一つない此の一切皆苦の現世を
80歳までため息をつきつき、なんとかかんとか生き抜いた。
これは大したロールモデルだ。
さすれば、
これがわたくし北次期災が60歳まで生きつないできた根拠なのである!!
なるほどこれなら符牒が合うかも??
その繰り返し』
「言語認識機能」にこそ、問題の原因がある。
釈尊は、35歳にそれに到達して「解決した」。
それ以降は、「それまでの悩み」は完全に「止んだ」。
道元和尚も、中国の禅宗に留学して、如浄禅師に逢って、「それまでの疑問」は完全に「解決した」。
そして、日本に帰って来て、布教する意欲は盛んだった。
『正法眼蔵』旧草全75巻、新草12巻、身を削って執筆した。
何度も、推敲し、改訂している。
全100巻の目標に達せずに、87巻で病死した。
『「悟り」確定に必要な師の保証は、
所詮「参考意見」か「参照事例」にすぎません。』
秋月老師はいつも仰っていた。
悟る手がかりを得ようとして「禅語録」を読んではならない。
悟った後に「禅語録」を読むべきだ。
悟るために「禅語録」を読むと目が潰れる。
悟った後に「禅語録」を読むと
自分の悟りが正しいという事が解る。
「禅語録」は自分の悟りの「自分に対しての証明書」であると。
しかし、実際は毎週日曜日に、自宅のプレハブの修行道場で、「禅語録」の提唱をなさってくださった。
その『正法眼蔵』の提唱を聞きたくて、毎週通った。
テキストは「古い岩波文庫版」「95巻本 正法眼蔵」だった。
仏教は消しゴムだ!!!🕺
(定速で)動いている物体に設置されてる時計は、
静止している物体に置かれている時計より、
時間(時刻)の進み方が(常に)遅くなるのか?、いなか?
例えば、
静止している場所に二つの時計A,Bがあって、
どちらも全く正確に動き、全く同じ時刻を示し続けている時に、
その時計の一つAを(定速)移動物体Aに乗せたら、Aの時刻はBよりどんどん遅れて行くものなのだろうか?
この世に【真実(Truth)】などはない。すべては相対的に過ぎないと、はなはだ南流仏教的なことを言ったアインスタイン氏の言葉を、
道元さんはどう解釈するだろうか。
全てが相対的だというなら、
時計Aを乗せた物体Aと、
時計Bを乗せた物体Bは
実体として、
どちらが止まっていて、
どちらが動いていると断定できないことになる。(南さん曰く、「断定すればいつも間違う!!」)。
事の真相は、
アインシュタイン氏曰くでは、
自分が静止していると【仮定】(仮設)すると、
(相対的に)相手が動いていると言う事になるから(=相対主義)、
移動系にいると見做される(=仮定される)相手の時計は、
静止系にいると仮定される自分の時計より遅く進んでいる様に見える…と言っているわけで、
立場が変われば、相手の方も全く同じに考えているわけで、
どちらが真実なのか、
何が真実なのか、全く分からない訳である。
要はお互いがお互いを錯覚(錯誤)しているに過ぎないという事なのかもしれない。
もし両方の時計を瞬間的(瞬時的、而今的)に見通せる、(物体A,Bの外部に)神が存在していたら、
時計AとBは、
「いつでもどこでもちょっとでも」、
常に同じ時(同じ時刻、同じ時の流れ)を刻んでいることを、
神は再確認するのかもしれない。
真実は神のみが知っていて、
すべてが相対的(自分勝手、乃至、自分中心)にした認識しか出来ない人間には、
時間の問題にも正解を与えることはできないようだ。
なぜならこの宇宙において
自分が動いているのか、相手が動いているのか、両方が動いているのかについての、
絶対的判断など出来ないからだ。
さあ道元さん、ど~する??
その繰り返し
「自己」は「手放さない」方向で考えてると思う。』
「自己」は「現象に対して言語が名付けたものであり、
「実体」ではないので「雲散霧消は該当しない」。
「自己」を「手で掴む」こともできない。
だから「手放すという概念」とは別の世界である。
『南さんは、「自己」という決まったもの?固有のもの?はないってのが仏教』
まさにこれこそが仏教である。
>語弊があるかもしれませんが、「死者との対話」ってすごく面白いテーマです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190908-00010003-huffpost-soci
死者との対話の「仕方」も変わりつつあるようです。これも「悲しみの過程」なんですかね?
前倒しの「過程」に、リアルはあるのか?疑問ですが。
南さん自身の自己が雲散霧消?してしまうなんてことは考えてないというか、自己は手放さない方向で考えてると思う。
80歳ヤラマティさん、双子の子作りに成功!!
曰く、
「これまでの自分の人生でなかったような自信に溢れている」・・・と。
悟りを開いた35歳の釈迦も、
その後下り坂まっしぐらで、
面白いことは一つもなく、いいことも一つもなく、苦しく生き抜いた80年間(per 南流解釈)・・・、
きっと自信をなくしてただろうか??
じゃあ、お釈迦様も、
80歳にして、新たに発心して、
81歳まで生き延びて、
そこで、三つ子の「一姫二太郎」でも
もうけていたら...、
あらたな自信に溢れた
人生再起となったのかもなァ~???
この件に関しては
「お釈迦様でもご存じあるめい」か???
う~む、60歳なんて未だガキのうちじゃな!!
釈迦のいた国にて。
妻73歳女性が双子を出産
夫は80歳男性
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6335792
181頁
(南師言)
僕がどうして出家して生きる方にチップをはったかというと、
あれほど苦しんであそこまでのことを言ったブッダが自殺をしないで生きている、という事が理由です。~~、ブッダのさまざまな言葉を読んで思ったのは、「尋常なら死ぬだろうな」ということですよ。
(ブッダが)あんなことをずーっと言い続けて、「苦しかったろうな、生きてること自体が。80年、いいことなかっただろうな」と思います。
初転法輪でアニヤー・コンダンニャが「分かった!」と言った時が(釈迦の)生涯の頂点で)、そこから先は面白いときはひとつもなかったと思います。(引用終わり)。
釈迦に関する衝撃的な新イメージだった。
スッタニパータに描かれる、覚者で聖者の釈迦イメージの正反対に見える。
釈迦は晩年「この世は美しく、人生は甘美だ」って言ったのだと思っていたんだが・・・
釈迦に関する南さんの言及は、
南さん自身の心の反映なのだろうか?
というか、自己がある(と思っている)から否定できる(と思っている)んで、
自己ってないんだな、ってなったら否定も肯定もできなくない?
ーヒンドゥー教徒は音と呼吸を同一の、総称であるスーラという言葉でよびます。この二つは結局は同じものなので、一方が他方に溶け込むのです。おそらく物の呼吸作用を音とよび、耳で聴き取れる呼吸を声とよぶのでしょう。ですから、呼吸と声は決して別のものではありません。ー
ー呼吸は本質的に言葉です。というのは、言葉というのは、口や舌で作った、よりはっきりと発音された呼吸にすぎないからです。口の調整で呼吸は声に変わります。だから、言葉の本来の状態は呼吸なのです。ー
ー音の神秘ーハズラトイナーヤトハーン著ー平河出版社ー
南さん式仏教は非常に共感しますよ。ただ、それは、モノの考え方を取り入れた、自己の型に採用した、程度です。
今、事務や受付の仕事してるのですが、やはり身体的な業務がないと、現実感というのがないので、まさに酔ってる感じだと思います。職種を変えたらいいだけの話かもしれませんね。
ずっと前から、もっと遠くから (2010年01月30日)
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/1779017ba1c3e166f6da8fdfe9f3fc7b
『私にとってブッダとは、この不安と恐怖を「はっきり見ろ!」と言った人です。それは事の「解決」ではなくても、やりすごすのに必要な「方法」でした。』
酒粕で酔ったままでいられるのなら、それはそれで幸せだと思います。
でも何らかの事情があって「はっきり見る」ことを選択するなら、覚めないと、覚悟しないといけないのかもしれません。
つまり、自己肯定はしてると思うんです(ねじれた形で)。本当に自己否定になると、拒食症やリストカットに陥ってしまう。
悟りは開けない、は究極、涅槃やニルバーナだとしています私(しかし、涅槃がよくわからない)。
そして、南さんが講釈していますが、「悟り」は名詞です。~を悟る、の、~がポイントであり、動詞に変換するとわかりやすい(他者が自己に重要な存在と悟る、とか)。
話は変わりますが、皆さんには上司や師はいますか?
私は、非正規雇用(派遣)で、上司もいません(担当者程度)。親戚のおじさんなどの交流もないですし、師の必要性を最近、肌身で感じてるんです(だから臨床心理士とは対話してるのかもしれません)。
例に漏れず仕事で、色々と悩んだりしますが、皆さんはどうやって対処していますか。
また、師のような存在はいますか。
現世があって、現世に(人間として)生きているゆえに修行が出来るという認識においては現世肯定ということにもなるのだろうか?
一切皆苦の現世でも、
修行によって悟って、
解脱と涅槃に入れるのは
まさにこの現世でしかない。
悟りを得るために修行することこそ、
人が生きている根拠であり、価値であり、意味なのだ・・・釈迦はそう思ったに違いない。
悟る為に修行を続けるには、
他者から課せられたこの命を粗末には出来んわい!!
それは、君だってそうに違いない・・・
そこから必然的に倫理観が芽生え、善の根拠が生み出される。
「悟り」を悟る!!、その為に生きている・・・がキーワードなのである。
まあ悟れなくても、努力賞はもらえそうだね、道元さんあたりから・・・
んな訳ないだろうと、中二病者的には思うのだがね。
善の根拠も方便に過ぎないってことだろうね。
釈迦は否定世界と悟った。
だが、その中でも生きていくなら、何かしら善なるものに向かって生きて生きるベキだと、そうして生きることにキメタ、のだのだ。
非常に面白そうな本だ。
目次を見て、まず第5章「仏教は生命讃美の教えにあらず」を読んでみた。
仏教は基本的には現世否定の宗教だ・・・に納得。
そりゃそうだよね!!
釈迦が目指したのは
修行で『悟り』を得ることによって、
輪廻サイクルに入らずに、
もはや不生不滅の(燃え尽きて跡形もない)涅槃(永遠の消滅)に入ることで、
一切皆苦の世界(過去世、今世、来世)からキッパリ、いさぎよく抜け出そうとしたって事なわけだから、
現世否定はしごく当然ですよね。
そうなると
南さんの言う、
「悟りは開けない」と分かっているにもかかわらず、
他者から課せられた生を、
生きると決めた、と賭けることが
「善の根拠」だって言う理論がよくわからなくなりますね。
「善の根拠」なんて言っちゃうと、
結局の処、なんか遠回しに、人生肯定論を言ってる様にも聞こえますね。
どなたか分かった人は説明してください。
光速のときは年を取らない?
地上速度から光速に近づいていくときは?
光速から地球速度に近づいていくときは?
でも地球も公転自転で動いてるんですよね?
そこに乗っかってる人と、光速ロケットに乗っかってる人とはどう違うのか・・・
うーん、なんだったんだろう、聞いたとき「はー、ナルホドー」と思ったんだけど・・・
非常にぼんやりした記憶しかないのですが、確か、地球から出ていくときと地球に帰ってくるときは光速ってわけにはいかない、ってのが話のポイントだった気がするんです。
全ては相対的だから、
地上が不動でロケットが動いているのか、
又はその逆なのかは相対的な問題に過ぎなくなるので、
自分は動いていないとして、相手の方だけが動いていると見做しても良いという事になる。
だから、自分(固定)の方が早く齢とって、動いている相手の方が若いと、
お互いがお互いを幻想しあっている、
という言い方しかできない。
但し、地球の動きと、ロケットの動きの決定的な違いは、
地球はずっと等速度で動いているが、
ロケットは地球を離れまた地球に戻るときに、加速と減速現象が余分に必要となるので、その時にだけ時間の緩みが発生し、
浦島太郎が若くなる・・・とされている。
アインシュタイン氏は玉手箱は開けるなと
浦島太郎さんに命じたのに、
浦島太郎さんはアインシュタイン師匠の戒律を破ってしまった。
これで浦島太郎さんは自業自得の「業」を背負い込んだのでありまする。
浦島太郎は老、キサー・ゴータミーは死、幼き南直哉は病、それぞれに老病死という悲しみの過程を経て、無常を知ることになったんだね。
それは、光速=30万㎞/秒を成り立たせるためにいろいろ理屈を作ってみた、ってことですか?
光速ロケットで旅する浦島理論みたいなのもあったように思うのですが、結局、地球に帰ってきたときには現地(地球)の人間と同じ歳だ、って話だった気がするのですが、そんなのありますか?
そうは言ってないんじゃないかな。
むしろ、釈迦や道元にヒントを得た「自分理論を展開している」んじゃないの?
「論理的に考えて斯様なものであらざるを得ない」みたいな。
展開している理論が、ご本人にどのように関わっているのかがわからないんだけどね。
光(師匠)は弟子(観測者)の前を
常に1秒間に30万km先を歩む(進む)。
動いている弟子の君が
いくら、ほぼ光速で
光(師匠)を追いかけてみても、
光師匠は常に光速30万km/1sec(秒)で
君の前を通りすぎて行くのだ・・・と。
つまり弟子の君が
1秒かけて29.999万km進んでも、
君が見る光師匠は更に30万km先に到達しているのである。
だから、この場合、
光(師匠)は1秒間に59万999km進んだ事になる筈なんだが・・・、
その現象時には
1秒という単位量が実際には2秒になった(時間の緩み、Time dilationが起きた)筈であり、
さもなければ1kmという単位長さが0.5KM(=半分)に短縮した(距離の縮み、Distance contraction)という真理が起きると言う事を
弟子は悟らなければいけないのじゃよ!!
左様に理屈ずければ、
光は常に速度不変になるのじゃな!!
・・・という事の様である。
だから、その現象発生時には
60万km/1secが
①.「時間の緩み」現象からなら、
60万km/(1sec X 2倍)≅30万km/1SEC
②.又は「距離の縮み」現象からなら、
60万(km X 0.5)/1sec=30万KM/1sec ・・・であるのである。
ほらね、ほらほら、
これで「常」で「不変絶対」の
【30万】という数字が保証された!!(のじゃのじゃ・・・)。
物は言いよう、幻想も方便で、
繰り返して唱えれば、すべてが真理として定着する。
両者共に、ソコのところを踏まえておけないと、両者共に幻想を抱きかねない、ボンクラ頭という話でもあるね。
絶対的な真理や、絶対的な悟りなど無くても、
ただふわっと生きているだけでも
けっこう生きていけるものだ‼
寝るけっちみたいに
他者からしごかれて
やっと得た「悟り」だって、
単なる相対的なものにすぎない。
ゲシュタポの寝るケチも
ダースベーダーの南たんも、
そうやって還暦を迎えたわけだ・・・、
「生きていさえいれば何とかなるぜ」・・・と。
「生きること自体が悟りなんだぜ」・・・と。
一切皆苦のなかで、
無駄飯喰い人生を全うする!!
・・・も、
おおいに結構、毛だらけ、苦素だらけ!!
「この世に(絶対的な)真実などはない。
すべては相対的だ!!」・・・と。
そのくせ・・・、
「おひかり様だけは絶対だ!!
おひかり様の速度は〈絶対真空の中では〉常に【常】なのだ!!」って言ってるけどね。)
ここの南さんは曰く、
「この世には(絶対的に)正しく悟った師などはいない、すべては幻想だ!!」・・・と。
???、
そのくせ、お釈迦様だけは絶対だ。絶対的な真実だ。
もし、お釈迦様がいなければ、俺はトウに昔にこの世にいなかったゼ!!・・・
って言ってるような、言ってないような???
彼が若い時に安泰寺や臨済宗寺で受けた、軍隊よりも地獄よりも(122頁)ひどい、理不尽で過酷なスパルタ教育(
ゲシュタポ或いはダースベイダー)が、堂々と成り立っている(いた?)仏教修行道場風景に恐れを抱いた。
兄弟子、師匠連から受ける無茶苦茶なしごき、人を人と思わない取り扱いを受けて、
それを最後まで耐え忍んだ者のみが体得出来るらしい『無我』という感覚。強制されて出来上がった身心虚脱感(=身心脱落)。
まさに苦行そのものの仏教修行道、まっこと恐れ入りやした!!
どうやら人は他者から現場訓練で
強制的に強いられなければ、
「無我」という自分を体感出来ないようだ。
只管打座すれば、「無我」を、
自分で自然と体得出来るなどと思うのは甘いという事なのかもしれない。
思い出すのは
昔の北・南米大陸での奴隷制度での、
奴隷達が受けた(人間否定、自己否定の)洗脳教育との比較であった。
奴隷たちは、人間である事を否定され、自己の尊厳性などを根こそぎ奪われて、
勿論、「問う」ことなど一切許されず、はむかう牙を抜かれて、わが身の無我を押し付けられていったわけだ。
仏教修行道では志願者自身がそれを求め、
奴隷制度では奴隷たちは他者から強制的に押し付けられた、という違いはあるが、
その場所で、やられている事は両者に大きな違いは無い(なかった?)ようだ。
げに恐ろしき(原理主義的)世界であることか・・・
まあ仏教には「方便」というものがあって、
息抜き場としての抜け道が用意されてるのはせめてもの救いではあるのだが・・・
そろそろ、「私流サンガ」などが出てきてもよいかと思うのですがね。NGですかね。
やるな~
<松本人志(55)の兄でシンガー・ソングライターの松本隆博(58)が1日、涙活に特化した団体「松本興業」を立ち上げる。弟が所属する吉本興業は「笑いの総合商社」と呼ばれるのに対し、こちらは「涙の総合商社」を標榜(ひょうぼう)。
吉本の闇営業騒動では弟の人志が、ルールを破った後輩芸人を救済するため「松本興業」構想をぶち上げていた。まだ具体化はしておらず、隆博側が先んじた形。隆博は「松本興業」と名付けることについて人志にはまだ伝えていないという。
同団体には「泣語(なくご)家」「涙の紙芝居師」などタレント8人が所属。泣ける名曲「会いたい」を歌う沢田知可子(56)が顧問を務める。隆博は「笑いより泣きの方が向いていると感じている芸人さんにはぜひうちに来てほしい。涙は最高のエンターテインメント」とアピール。年内には「M―1グランプリ」ならぬ「N(泣き)―1ぐらんぷり」の開催も予定している。>
画期的!
お笑いブームの昨今だけど、
無理して笑う必要もないんだしね。
鳥は、翼が無い又は片方でも、飛ぶことができないだろうし、苦難のままだろう。仏教に暗い人は、この翼の存在すら知らないだろう。
「仏法は人の知るべきにあらず
このゆえに昔より凡夫として仏法を悟るなし
二乗として仏法を究むるなし
ひとり仏に悟らるるゆえに唯仏与仏 乃能究尽といふ」
ただ仏と仏のみが、諸法実相を悟り究めることができる。すなわち、師匠は仏師にはなれないといふこと。
悟りは鳥や
サを取ってみ
生まれるもんや🐣
待つもんでもない
悟りは砂上の楼閣や
大事なんは妄想せんことや
悟りは得るもんやない。
待つもんや。
https://m.youtube.com/watch?v=MVcxwLsln4k
待って待って待ち続ける。
ただ待つのみ。
「際限なく遡及すること」も、無我ということなんだよね。
ここでの悟り問題も、無我で解消できる筈なんだけど、「そんなことはない」と、幻想に駆られてしまう連中が「まだいる」ということだよね。
その幻想も「苦」ということを知らないで。
それ無しには(この世において)苦を解除できないという確信に裏付けられている。
死によって存在しなくなるという恐れは、
そもそも(生きている)現在も存在しない(=無我)という真実を悟ることで、(死の恐怖が)消える。
そして自分が実在しないのならば(=無我ならば)、次々と事物の実在が消えてしまい、自動的に多くの「苦」も消えていく・・・
と考えるのが仏教の基本である。
そして(それを前提として)自分に都合の良い(=自分に似合った)世界(観)・(処世術)を生み出している(のです)。
---------
コメ者の読後感想
そういう仏教者が寄り集まって、寄り添いあって、生きていけるサンガ(=僧)が
現代日本にもあればとても心強い事ですよね。
ブッダのいう「苦」(=ドゥッカ)とは何か?
楽・快・安楽を意味するスッカの対義語であるが、日本語の【苦】よりも意味が広い。
家族生活の幸せや、隠遁生活の幸せ、感覚的喜びによる幸せや、その放棄による幸せ、執着による幸せや、無執着による幸せと言った、さまざまな肉体的・精神的幸せの全てをふくめて「苦」(ドゥッカ)と呼んでいる。さらには、高度な瞑想によって得られる、普通の意味での苦しみの片りんすらさえない、非常に純粋な精神的次元も、
又、まぎれもない幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、純粋に沈静した意識の次元も、
すべて苦(ドゥッカ)に含まれる。
つまり、無常ゆえに、変化するすべてをドゥッカだと釈迦はいうのである。
一切皆苦の本質は私たちが生命体であるという処にあるのだ。
(コメ者の感想・・・じゃあ四諦でいう
【道】とは何なのか?生きること自体が苦なら、
死体になることが苦でなくなるという事なのか??)。
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仏教は「一切皆苦」という世界観を持ち、
キリスト教は「一切皆楽」という世界観を持つ。
キリスト教に於いては、
今、自分が苦しんでいるのは、神にいろいろ試されているだけであって、すべてを神に委ねれば、最後には救済されることが確定している。自分が帰る場所が用意されている。
しかるに(超越を否定した)仏教においては戻る場所がない。我々は完全に放り出されているわけです。これは非常に厳しい世界観ですよね。まさに「一切皆苦」なわけです(佐々木言)。
(宮崎)でも大乗仏教になると、釈迦の言うこのポイントも変わってしまって、
「常楽我浄」なんて言い出す。
原始仏教が否定したものを、ぜんぶ肯定項に反転させてしまうのですよね。(如来蔵思想の真受心法・浄楽常我=心の塵を脱落させて、真我・仏性の輝きを顕現させる、ありのままの清い自分が出てくるという信仰)。
「待つわ」流行っていたよね。
まあ、恐れ山に婿入りというのも、普通の男には出来ない諸行だろけどね。
宮崎さんは輪廻肯定派というよりも、
(釈迦時代では)【三宝】である仏・法・僧の内の、
僧(=サンガ)をつつがなく機能させる為には世俗の輪廻意識を利用する方法しかなかった・・・という考え方のようですね。
佐々木さんは、
釈迦が身内の出家仲間内では輪廻を否定しておきながら、
外部の世俗には、良き輪廻を、お布施を得る目的で説いたとしたら
あまりに釈迦は二枚舌でウソツキという事になってしまうので、
釈迦自身も、それなりに輪廻観を受け入れていたのだろう…という見解ですね。
佐々木さんは釈迦がどうであろうとも
現代人の我々にとっては輪廻観は無意味だという立場なようですね。
蝉は鳴いてるけど夏の背中って感じだ
奥さんは「待っていた」らしいよ。
ブラザー、シスター…どっかで言ってるな。
私度僧不可、とか、その辺から?
これもヘンテコシステムだよね。
今回の記事で見ても、サンガがあれば、正しい悟りを得られない師に、わざわざ引き受けてもらう必要もなくなる訳だしね。
そうなると、「師匠」という言葉も不要となるかな。もともと釈尊も、弟子から「師匠」なんて呼ばれていない感じだし、サンガに師は不要だったということだよね。
どっちみち、正しい師が不在ということならペテン師?、と呼ぶ訳にもいかないので、「兄さん、姉さん」くらいにすれば、「正しい悟りの困難」からも抜け出せるよね。
でも現場は常に、何が起きるかわからないからね。平常だろうが非常だろうが、常に仏教の問題はある訳で。
花が満開でも枯れても無常。
「お山」と「娑婆」は違う
現場は教科書通りじゃない
っていうのがすでに仏教的じゃな…げふんげふん…
お釈迦さんにとって、キサー・ゴータミーの事態は、特殊なっていうか、「現場」と「それ以外」とか、「平時」と「非常時」とか、そういう区別のつく事態だったのかな。
わたしはそうじゃないような気がするんだけど。
正師はこの世におらんわい。みんな仏弟子わいね。師匠は先達なだけわい。
せやろ?
でもホント、日本仏教ってヘンだよね。
出家したにも拘わらず結婚って、釈尊や道元さんに知れたら大変だー!!
じゃあ、サンガを作る気もなく、結構いい歳だっただろうに、只グズグズと奥さんを待たせていたの?
まあ、「事情」はあったにしても、結局結婚したなら、奥さんから一生文句を言われても仕方ないよね。
結婚してからも不定住職みたいなんだし、さっさと結婚しておいても、大して変わりなかったでしょうからね。と、勝手な意見をすみません。
酒糟で酔っている現場の人とは、訳が違うってことだよね。
「現場の人」なんだと思う。
「現場で使える」ってことは、現場じゃないところにもいるってことでしょ。
自分から何かやろうとせず、誰かにやってもらうタイプというか。
だって20年も永平寺で寄生、いや修行されていたなら、出た時はそれを活かそうとか、何か作ろうとか、何かしら改善したくなるもんじゃない?
たぶん、釈尊みたいに王子のDNAによる経営体質や、道元さんみたいに親を早く亡くした経験がないことも、影響している気がするよね。
だから何故それで、アウトサイダーなどと大袈裟に言われているのか、それは只の考え方の違いなだけかなと思うんだけどね。
現場で使えるかどうかだからね。
これ大事。
他人事だから簡単に言うけど、山にこもって一生を修行僧として生きるって、「我が身一つのこと」なら何とかなりそうだし、何ともならなくなったらそこで終わり、のすっかり修行僧。
でもそういうことじゃないわけでしょ。
「コレコレが大切だよ」「こうするべきだよ」って言う人、ってことかな、って思う。
これもだけど、住職になるための単位の認定(?)も、もっとちゃんとしてほしいわ。お寺の子だろうがそうじゃないとこ出身だろうが。
脳から血を流すほど思考する必要は、ある人にはあるんだろうけども、とりあえず最低線をちゃんとしてほしい。名前書ければOK(例えとして)みたいなのはやめてね。
…でも、たぶん本山での修行って点では超劣等生だっただろうなって人だけど、ある意味とてもお坊さんらしいと思う人もいるしなぁ。
大乗が生まれた経緯には、釈尊不在では、「修行の完成」を誰も確定できないことに、自覚的だったからではないでしょうか。
また例えば、悟ったからどうなんだ?とすると、その後が肝心な訳で、いずれにしても布教をしなければ、僧侶としても仏教としても意味をなさないということは、釈尊が悟った後にどうしたか?を考えれば、説明するまでもないことでしょう。
ただここで、釈尊は菩薩行を承認したであろうか?という疑問を残しながら。。
>日本人は「サンガ」を必要としていない
必要としているから、オームのようなサンガも出来たのでしょう。
彼らの多くは、現在の教団を必要としていなかった、それは、「頼りにならなかったから」というような側面もある訳です。
いずれまたオカシナ教団が現れる前にも、世間から承認を得られるようなサンガも必要なことでしょう。
これを早急に無くすベキ、というか仏教とは別枠にスベキかなと。
住職なんかサラリーマンみたいなものなんだし、祖師方が求めていたことでも、僧侶が求めることでもないかなと。
葬儀住職なら、「葬儀枠」として僧侶とは区別すればよいかなと。
僧侶の意味するところが「サンガ」なら、僧侶と「僧侶以外」も考え直さないと。
日本仏教は、肝心なところが抜け落ちて矛盾しているかと。ただでさえ矛盾や困難を抱えた存在なんだから、大元が、ややこしくしないでほしい。
これは、サンガを知らない「酒糟で酔っている連中」が、占めているような修行形態しかないからであって、必要とする人はいただろうし、現在もいるんじゃないかな。
>「仏教」は最初から必要とされてこなかった。
それは、キリスト教でも同じようなことが言える訳で、布教師が日本に来なければ「知られていない」ということで、必要かどうかとは別の話だよね。
必要かどうかは、教えを聴いてから個人が決めることだよね。
酒漕(=そんな感じの仏教寺)で酔っている修行者(=道を求める人)がいる。
あちこちの酒漕を歩き回って【正師】を探しているが、
肝心かなめの(悟った)師などはどこにもいない。
じゃあどうするべきか??
また次回記事までのお楽しみ・・・
自分を引き受けてくれる師匠がいなければ、
修行の機会も与えて貰えないらしいよね。
すべて方丈さんの個人的好みによるらしいね。単なる「相性」の問題らしいよね。
まあ、お寺の息子ならフリーパスだけどね。
私の師匠は道元様で
私の正師はお釈迦様です。
生きてる凡人【師匠】などいりません。
わたしが生きてる僧侶(あるいは住職・方丈さん)に求めることは、
自分の権威付けにこだわることなく、
悩める人を受け入れてくれるサンガの仲介者としての先達なのです。
自分が(仏教界の)師匠であることに困難を感じるようだ。
他と自分を比較してみると、
自分自身が取り立てて悟った気がしないし、いまだに貪瞋痴のままだし、他者の批判・誹謗中傷に心を傷つけられっぱなしで、
まあ他の仏教専門家も大同小異のごとくだし、
今やハッキリ、自分が凡人そのものであると分かってしまっている。
だから自分自身、師匠失格の虚無感に襲われる。
自分には、麻原みたいなはったりも咬ませられないし・・・
極楽浄土を夢見る僧侶ならまだましだ。
超越へ向かって
修行内容がはっきりしているからだ。
超越像を引きずりおろして、
自らの行いの正しさを表明しなければならない僧侶(禅僧)にとっては、
なんとか宗門の格式に乗っかって、
宗派の権威を振りかざしてのみ師匠となれるということか?
世俗の価値観と合わず、いき絶え絶えな、
救いを求める流浪の(世俗の)民を、
引き受け入れてくれる、
そんなサンガを与えようとする、
気丈夫な気骨ある師匠などは、
もはや現代では望むべきもないのか?
片方だけでは成り立たないからね。
子が母親を作るのだ。
母親は子を育てるうちに
母親となっていくのだ。
これを称して「じみとくどせんどた」という。
お師匠様、
あなたが悟っていなくても結構です。
後進が育つように、育てる場所を用意するのがご師匠様の生きてきた根拠であり価値であり意味というものでしょう。
ご師匠様ほどの有名人であれば、知己の人達に声をかければ、サンガだって造れることでしょう。
必要を感じている人は確実にいるのです・・・この世の価値観と合わず、それでもあるべき姿のサンガに入って
自分を見つめなおしたいという人たちが・・・。
ああでもないこうでもないと理屈をこねてるだけでなく、
こうあるべきだと講釈をこねるなら、おん自ら実践してくださいませ、師匠様。
あなたが悟りを開いていなくても、
あなたがいくら凡人でも構いません。
弟子となった私があなたを師匠にしてさしあげまする。
「自未得度先度他!!」
そもそも「日本の仏教」は、最初から「非仏教」であり、
「異国の超能力の神さま」であった。
だから、最初の出家者は、男子ではなく「尼」であった。
だから、修行にと、朝鮮半島に留学に行った。
その理由は、日本では、
「神さま」に仕えるのは「未婚の女性」「巫女」が常識だったから。
「金色に輝く仏像」は「超能力者」であった。
「仏教」は最初から必要とされてこなかった。
「密教」「日本天台本覚思想」に飲み込まれてしまった。
だから、明治維新政府の下で、僧侶が結婚して「家庭」を造った。
これが「日本の仏教」の完成体である。
つまり「出家仏教」は消えてしまいました。
みな「在家仏教」になってしまった。
上座部に目を向ける人が多いのもオカシクナイ。
もう永和ですよ!還暦過ぎたんですよ!グズグズしている間に死んじゃいますよ!
奥さんも8年でしたか、結婚を待たされたんですよね?待たされる身にもなってもらわないと。
今度は更なる大事業。グズグズしている間に、仏教はなくなり、仏教以外のものばかりになりそう。
巷では、「歎異抄」などが関心を集めていますし。。
もう師事したい方がいなくなった師匠は大変でしよね。
なんだか霧の山道を先頭で走るみたいで…。
ヨガの先生には、体の動きを教えるだけでなく、
愛を与えてあなた(困ってる人と勝手に認定してる)を救済できる、
私の言う通りにすれば必ず幸せになる、
と説いてしまう人がいるし、
若いヨガティーチャーには、そういう存在を目指している人もいます。
それにモヤモヤしていた気持ちが、南先生の説明で腑に落ちます。
理解の難しいことなので、違う例で繰り返し説明してくださるのが、ありがたいです。
このことが重要である。
道元和尚の教えは、
「只管打坐」「坐禅は安楽の法門」であり、
そのガイドブックは、
主著『正法眼蔵』旧草全75巻、新草全12巻である。
「正師」に逢う努力が大切である。
師匠が呆けたのか袈裟を「左右逆に」召した。
弟子は「とっさに師匠に合わせて袈裟を逆に」した。
弟子は、逆であったことを知っていた。
如浄禅師の「心塵・脱落」も、
道元和尚は、知っていて、
「身心・脱落」と、正したのであろう。
「正師」は、弟子の方が「正師」とする。
諸行無常・諸法無我の本質は...
常が無い、我が無いと断定することではありません。断定すればいつも間違う。
あるかもしれぬし、ないかもしれぬと
無記して関わらないことなのです・・・との南さんの名回答がある。
迷回答??、無師迷悟??
『宗門の正伝にいわく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。
参見知識のはじめより、
さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、
祇管に打坐して、身心脱落することを得よ』
如浄禅師は「心塵・脱落」と教え、それを、
道元和尚は「身心・脱落」と学んだ。
釈尊が、止んだ地点!到達した地点!
「諸行無常」
「諸法無我」
佐々木ちゃんと宮崎ちゃんは、あれだけの考察をしたり、苦悩も抱えてるみたいだけど、なぜ出家しないのかといえば、日本には現在、サンガが無いからだろうか?
そうなると釈尊も、「本当の悟り」かは、修行仲間に話したところで、「本当の正しさ」を確認しようがないことになりません?
これ以上否定しようがないことを、「悟りと決めた」という話ような。
師匠は、「酒糟に酔う師匠」から、師匠に認定されている、ということ?
これじゃあ誰がシラフか、わかりっこないじゃん。
いいなぁ。
つまり悟りは、「ザンネン賞」という訳です。
実に、ザンネンだ( ´△`)