思いつき禅問答シリーズ。(これで何回目か?)
ある修行僧が趙州従諗禅師に質問しました。
「禅師は何ものなのですか?」
即座に禅師は言いました。
「東門、西門、南門、北門、だよ」
この問答は、普通は次のように解説されます。
冒頭で修行僧は「本来の自己」、あるいは「真実の自己」とは何かを問うている。これに対して、禅師の答えた四つの「門」は、要するに方便として使う言葉のことだ。
つまり、「本来の自己」そのものを言葉で表すことはできないから、様々な方便で「真理」の在り処を比喩的に示すほかはない。それは門構えから中にある屋敷を想像させるようなものなのだ。
私はこの解釈をとりません。禅師が門にしか言及しない以上、中に屋敷があるかどうかなど、わかりません。「門だけしかない家」なのかもしれません。この場合、「家」が「自己」で、「屋敷」が「本来の自己」を意味します。
もし、門以外どうしても見ることができない、ということになると、我々は多くの場合、中に屋敷がある前提でものを考えるでしょう。すると、見えないことに耐えられなくなった誰かが、「見てきたような嘘」で屋敷の様子を語るかもしれません。
仮に多くの人がこの家に非常に興味があり、屋敷を見たいと常々思っていたら、この誰かが語る「屋敷の様子」に感心したり、大いに満足するかもしれません。
この屋敷話が大ウケするとなると、ウケ狙いでまた別の誰かが「見てきたような嘘」を言い出すかもしれません。これもウケたとなると、さらに次々「嘘」が出て来て、それぞれにファンが付き、百花繚乱状態になるでしょう。
我々は屋敷話に乗るべきではありません。禅師が言うように、門だけの家を見て、そこに留まるべきです。一つの門から入っても、屋敷を見ないまま、別の門から抜け出てしまうような家なのかもしれません。
あえて言えば、その家で「暮らす」とは、この門の出入りを際限なく繰り返しながら、見ることのできない屋敷を仮設しては撤去し、建て直し続ける運動なのです。
ある修行僧が趙州従諗禅師に質問しました。
「禅師は何ものなのですか?」
即座に禅師は言いました。
「東門、西門、南門、北門、だよ」
この問答は、普通は次のように解説されます。
冒頭で修行僧は「本来の自己」、あるいは「真実の自己」とは何かを問うている。これに対して、禅師の答えた四つの「門」は、要するに方便として使う言葉のことだ。
つまり、「本来の自己」そのものを言葉で表すことはできないから、様々な方便で「真理」の在り処を比喩的に示すほかはない。それは門構えから中にある屋敷を想像させるようなものなのだ。
私はこの解釈をとりません。禅師が門にしか言及しない以上、中に屋敷があるかどうかなど、わかりません。「門だけしかない家」なのかもしれません。この場合、「家」が「自己」で、「屋敷」が「本来の自己」を意味します。
もし、門以外どうしても見ることができない、ということになると、我々は多くの場合、中に屋敷がある前提でものを考えるでしょう。すると、見えないことに耐えられなくなった誰かが、「見てきたような嘘」で屋敷の様子を語るかもしれません。
仮に多くの人がこの家に非常に興味があり、屋敷を見たいと常々思っていたら、この誰かが語る「屋敷の様子」に感心したり、大いに満足するかもしれません。
この屋敷話が大ウケするとなると、ウケ狙いでまた別の誰かが「見てきたような嘘」を言い出すかもしれません。これもウケたとなると、さらに次々「嘘」が出て来て、それぞれにファンが付き、百花繚乱状態になるでしょう。
我々は屋敷話に乗るべきではありません。禅師が言うように、門だけの家を見て、そこに留まるべきです。一つの門から入っても、屋敷を見ないまま、別の門から抜け出てしまうような家なのかもしれません。
あえて言えば、その家で「暮らす」とは、この門の出入りを際限なく繰り返しながら、見ることのできない屋敷を仮設しては撤去し、建て直し続ける運動なのです。
あとドラえもんのどこでもドア。
何故か、杜子春に出てくる唐の長安の…。と言う話を思い出しました。
移動の多い南さん、何かと気をつけて下さいね。
中の様子は、決して此方からは見れないけどね!
読書も探しやすいでしょうし。
(修行していない)
仏弟子は屋敷話をしない。
(修行している)
僕は私流でこう考えるんだがどうだろか?
四方八方、高い白壁で囲われて、
東西南北には大きな閉じたままの門が有る。
内部の様子は全然分からない。
蟻の穴みたいなスキマを覗いて見ても、
全く内部の様子がよく分からない。
でもその穴から、人は妄想を膨らませて中はどうだったこうだったと勝手に物語をつくって巷に喧噪する・・・。
言わんとする処は、
幾ら瞑想・只管打座しても、得られるのは単なる変性意識だ。
やれ悟りだの、仏に逢ったとか、真理を発見した、なんかというウソぱっちな物語を作り上げるな。
禅定などが普遍の真理であるなどと思うな。
個人的主観にすぎず、妄想・錯覚と区別がつかんじゃないか。
仏教の境地とはそんなもんじゃね~だぜ。
モット理知的・理性的なモノであるべきなのじゃ・・・と。
(立派な、「修証一義」否定派ですな!!)
他人には俺の事が分からない、
おれも自分の事が分からない。
何もかも分からないから
人生とは絶えざる『スクラップ&ビルド!!』
「仏というもの」はない。
「仏という生き方」だけがある。
「東門、西門、南門、北門、だよ」
「どの方向の衆生でも、通して上げる働き、だよ」
「仏教」は「カルマ論」「業論」「行為論」である。
「仏の生き方」をしている間が「仏」である。
「仏の生き方」を止めたら「衆生」である。
自分は「衆生を通す働き」そのものである。
「東門、西門、南門、北門、だよ」
中国の都市は、分厚い城壁に囲まれていて、
東門、西門、南門、北門を、夕には閉じて朝に開け、夜間の襲撃を防いだ。
農民も、夜は城内で暮らし、都市から農地に出勤していた。
つまり、「安全地帯へ通す働き」である。
vs
B.阿修羅撹乱
南和尚の定義によれば、
Aはバーチャルで、Bがリアル。
決め手は他人の頬っぺたをペンチで思いっ切りひねり潰してみる事。
仏という者も無い。
ブッダは仏では無い。
ただあるのは
人間が勝手にこしらえた神という概念、仏という概念、即ち善という概念だ。
人は善という概念、即ち架空・空想の物語りに寄り縋ることによって、
此の世をつつがなく生きて行ける。
(と道元さんが言ってるかな?、
かなかな???)
黄門もいいけど禅門もいいよね。
カッコいいネーミングだね。
カッコよさにおいて
五木寛之氏の『青春の門』にまけないね。
生の門、病の門、老の門、死の門。
誰のもん、仏教者のもん、世俗のもん。
自在へんげのホトケにも
くぐれない門があるのか??
そこに、
実存だとするのか、観念に過ぎない考えるのかの別れ道が有る。
昔の有名な坊さんが、
「阿弥陀如来を《在る》と信ずれば実存(顕現)する」とかとワケワカメの事を言ったんだったよね。
仏も在ると信じれば
「信じる者は救われる!!」
まあよくやるよね
じょうずな考え。
>「深く透徹した眼差しを感じます。」
いいよいいよだけじゃあダメなんだよね。
一旦はひねくれて否定してみる。
そこから真理が見えてくる。
真理なんて無いことが見えて来る。
まず主体より出発しなければならない
実存は本質に先立つ
とはサルトルの言葉だが
ふっと 今回のブログで
禅門の方々にも実存主義が
浸透していたのだろうかと
そこを極めていくと、南さんみたいな振る舞いになるのかな。
そこが、周囲の人から、坊さんらしくない、社会人らしくない、学生らしくない、もう少し穏やかに、と言われてきた所以かな。
しかしながら、他者というものに敬意を抱くのは必須であり、無視できない存在。
意識しながら、囚われてはならない。難儀!
危ないですから!
「十無牛図」としたら、読者は堪り兼ねて、Aランク付けを始め、しまいには焼肉メニューにしてしまうかもしれませんね。
ピンクだらけの自分が好き。
この話は門だけでなくて、屏も含めて、取り囲まれた状態をイメージすることを前提にしてて、情景を拡大してるよ。
屏が朽ち果てた門だけの遺跡の前での会話だったら、どうなるの?
だから、禅問答なんて嫌いだ。話し手の自由度が高すぎて、聞き手からは上から目線に見えてしょうがない。
ナイフとフォークとスプーンが常にないと食事が出来ないようでは困ると思います。
最初からケチが付きまくりのオリンピックのようです。
門は開かれない⁉️
回りくどい、遠回りでいらんわ。
もっと率直な方がいい。
死を目指してるのに、師匠がこんな曖昧で、はぐらかすなんて、現世涅槃するにも時間がかかりますよ。すぐ死ぬのに。
>示して云く、海中に竜門と云ふ処ありて、洪波しきりにたつなり。
諸の魚ども彼の処を過ぬれば、必ず竜となるなり。
故に竜門と云なり。
そっかぁ
南さんも、門の辺りをウロウロされてるんですね。
何回目でも、やっちゃって下さい。
仏教を回りくどいと感じるのは、その後の弟子たちが釈迦の言葉だと偽って、
無数の門を造ってしまったからである。
どの門から入るのが釈迦が住んでいた部屋に通じているかさっぱり分からない。
まあ釈迦自身もブレて、
更に矛盾するような言質を、
待機説法的な「方便」を、
駆使していた様であるから、
しょうがないかもしれないと言う面もある。
しかしそうはいっても
色々な状況を勘案して総合して見て
論理の整合性を確かめて、
釈迦の意図したところが何であったかを、
総合的に論理付ける事は可能であろう。
クラッシック、ロック
インドのチタール
バリのガムラン、モンゴルのホーミー
等々の民族音楽
これらの奏でる調べに
私たちに言葉以外での理解
「魂」が共振「感動」が伝播する。
またここでの共通理解「感情」とは何であろうか。
禅問答 不立文字 意味の外 情報の外
感情を持つ存在としての「ひと」
言葉への理解はその人の背景にあるものに
さて禅問答で共振とは
「人間の門」の出入り(=喜怒哀楽)を
際限なく繰り返しながら、
見る事の出来ない自己を仮設しては撤去し、立て直し続ける運動なのです。
何故ならは人間には現法涅槃(有余涅槃)による(この世での)涅槃寂静などあり得ないからなのです。
阿含経(相応部、サンユッタニカーヤ)などを信じてはいけません。。。
様々な方便で「真理」の在り処を比喩的に示すほかはない。
それは「門構え」から「中にある屋敷」を想像させるようなものなのだ。…』
『我々は「屋敷」話に乗るべきではありません。
禅師が言うように、「門だけの家」を見て、そこに留まるべきです。』
『あえて言えば、その家で「暮らす」とは、
「この門の出入り」を際限なく繰り返しながら、
「見ることのできない屋敷」を「仮設しては撤去し」、「建て直し続ける運動」なのです。』
「真実の自己」を見る。つまり「悟る」。
「見性して、成仏する」。つまり「成仏:修行が完成する」。
「仏と言うものに成る」。
これは『死を目指して生きる』の対極である。
『死を目指して生きる』とは、
「死」まで「完成はない」という「生き方」。
つまり「永久修行論」。
洞山良介禅師が教える『仏向上事』、つまり「仏の「その上」の事」という。
『「仮設しては撤去し」、「建て直し続ける運動」なのです。』
釈尊の「仏教」「仏の教え」とは、
「八正道」という「様式」で「生き続ける」という「道」である。
道元和尚は「仏道」と呼ぶ。
「修証一等」だから、「修」に終りはない。
「証」は「仏の生き方」だから、「修行の姿」そのものである。
それを「只管打坐」とお示しになる。
『「ある修行僧」が「趙州従諗禅師」に質問しました。
「禅師は何ものなのですか?」
即座に禅師は言いました。
「東門、西門、南門、北門、だよ」』
これはその修行僧自身にぴったりの回答であり、
その修行僧には理解でき納得できるものだった。
唐の時代の末期の「趙州従諗禅師」においては、
禅問答は「明確な意味」を持っていた。
宋の時代に変質して「看話禅」に成ってしまい、強引に禅問答に意味を認めなくした。
道元和尚はそれを意味あるものに復帰された。
留学された「中国の禅師たち」に、
「お前たちは愚かにも、禅問答に対して「理解できないもの」と主張している」と批判なされている。
なお「会」とは「できる」という意味である。
禿子がいふ無「理会」話、なんぢのみ無「理会」なり、仏祖はしかあらず。
なんぢに「理会」せられざるはとて、仏祖の「理会」路を参学せざるべからず。 「山水経」巻
「無記」である。
だから、「涅槃ニルバーナ・寂静」は、
生きている間の出来事である。
「死後のこと」は、「生きている人間」には、主張する事はできない。
なぜならば「死後のこと」を決して知る事が出来ないのだから。
原理上、論理上、「死後の涅槃」なんてナンセンスである。
要は、ここで、なぜそれを声高で主張するのか?
「その動機」は何なのか?
そこに「本当の問題」がある!
???
愚かな人は「無余涅槃」などと主張する、
の間違いでは無いですか。
大事な処なので確認します。
???
愚かな人は「無余涅槃」などと主張する、
の間違いでは無いですか。』
どちらでも「同じこと」です。
そもそも「有余涅槃」「無余涅槃」と
区別「しようとする意思」こそが問題なのですから。
現に今起こっていることは、人生において初めての体験であり一回限りの経験というわけですから、慣れることはおろか復習のしようさえないというわけです。
そういう意味では人は皆愚か者と言っても何ら差し支えはないと思うわけです。
愚かな人に愚者と区別されても・・・
たとえ何十年も学んだとしても愚か者には違いないわけです。
わからないヤツは勉強不足、修行不足だという…』
『景徳傳燈録』(けいとくでんとうろく、新字表記:景徳伝灯録、全30巻)
は、中国・北宋代に道原によって編纂された、禅宗を代表する燈史。
過去七仏から天台徳韶門下に至る禅僧その他僧侶の伝記を収録している。
多くの禅僧の伝記を収録しているため、俗に「1,700人の公案」と呼ばれているが、実際に「伝のあるものは965人」。
この全体の中に、「個別の問答」を置いて、多くの問答の記録の「相互関係から」、
意味が明確になります。
あれれ、サンユッタニカーヤ(阿含経)では繰り返し現法涅槃(=有余涅槃)って言ってるよね。
有余涅槃と無余涅槃の背景については
ハッキリさせておかなけれなならない筈でしょうに・・・
(無余涅槃からだけしか「死を目指して生きる」という発想は出て来ない!!)
訳のわからない涅槃に、後世の誰かが、現法やら、有余やら、無余やら、勝手に付け足せば、ますます妄想を掻き立てるばかりだよね。なにか、そこには、いいものがあるような感じがするのでしょう。
イケメンの幽霊に魅せられた感じかも。
そしたら東西南北の門だ、と返ってきた?
そりゃあ、スペースっていうか「場」はあるけどさ、オレとアンタといれば。そっから先はそっから先次第、なんじゃないの?
みたいな?
門だっていうと門を見ちゃうんでしょ。
そうなの?ソコなの?えーーー?
みたいな。
そんな門
犬になって小便かけたるわ(´ー`)
そうそう、そんな感じ。私とアンタがいれば、アンタ達と私がいれば、門や中は分からないけど、いい妄想を甘美な妄想を一緒に死ぬまで作り上げていく。
釈尊や南さん、仏教の法を教えて下さる下敷きがないと出来なかったので色々感謝です
ーーーーーーー
仏陀にとって涅槃とは自分の【死】の事だと言ったのは南和尚の言。
「吹き消す事」を意味したニルヴァーナの擬音語漢字として涅槃という熟語が出来上がった。
意味を誇張して、最大限に広げて見せて、拡張+拡大解釈の結果、サル境地とした。
【煩悩の火を消して智慧の完成した悟りの境地。一切の悩みや束縛から脱した円満、安楽の境地。仏教で理想とするホトケの悟りを得た境地】・・・がその定義で在りますね。
ど~です??魅力たっぷりでしょうが・・・
しかし「全ての境地は無意味」と排除するのが南流。
個人的な主観や妄想・想い込みには
価値を認めないのが南流。
永遠の漂泊者としてこの世を漂流・流浪するのが南和尚の本性・・・
しょうがないじゃん!!
そんな風に生まれ付いちゃったんだから・・・。
で、南和尚が言いたいのは
そんな自分でも自死せずに、還暦すぎるまで何となく生きて来れたんだから・・・
君だってきっとダイジョブだよ・・・
って言う、
若い人たちへのエールなので在りますね。
追。仏教の涅槃解釈を素直に読み取れば
【今でしょ!!】(=死んだ後じゃない)=は明白な事実である。
それが仏教の境地。
境地を無意味化したいのが南和尚!!
こんな関係だね。
論理の整合性から言えば南さんにぶがあるね。
南さんは「門」と言われて「門を見る」人だと思うけどね。
オレとアンタがいれば、というよりは「『私』というありよう」の問題らしいし。
私は、「門」というのも仮にそう言っただけで、四隅に杭を打つことで境界を設定するような、「とある設定」だと思う。
それが「オレとアンタがいりゃあ、そりゃそれなりの『場』ってもんはあるだろうけども」ってことです。
天元と言われるホシはあるけど、ただそこに石を置いても何でもないんだよね。
過去世のこだわり、来世のこだわりこそ煩悩であり苦しみということだろう。
現在の欲望や貪りを取り除くことを「涅槃」と言っているだけである。
だからこそ「現法涅槃」(1087・1095)を説き、
「現世において全く煩いを離れた・人々」として、
(『スッタ・ニパータ』参照)
涅槃の境地を「現在において」体得し、「世間にいながら」執着を乗り越えると強調される。
その「文脈」を「ぜひ」教えて下さい。
無余涅槃(むよねはん)は、生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに
全ての束縛を「誰が?」離れた状態。
ナンセンスでしょう!
苦を滅する道がある。其れは「死ぬことだ」と釈迦が言った筈はない。
其れだったら生きて居る時「八正道」を行う意味がなくなるし・・・
超越否定の釈迦という前提ならば、
死んでしまえば涅槃絶無を知っている筈。
有余涅槃の寂静しか釈迦の頭には無い筈である。
釈迦が涅槃関係の言葉を直言しなくても、諸転法輪話で事実は明白である。
「死を目指して生きる」言に
同調しているのか反対しているのかよく分からない。
その時その時のコメの進行によって
右往左往しているとしか思えない。
蝙蝠外交かって言いたい感じがある。
イエス様にあまりにも失礼なご老人故に
Bat ちゃん! と今後は
釈尊の「無記」の姿勢から、そんなことは有り得ないのです!
「労働の禁止」と「乞食こつじき」は表裏一体なのですよ。
これが重要です。
当時のインド社会の状況から、この労働は具体的には「農業」なのです。
つまり、自分の「食い扶持」を自分で耕して、自給自足をすることです。
これを禁止した。
これは何故なのか?
その答えは、お経に記録され残っている。
ある時、釈尊が「托鉢」「乞食」に行ったが、何も食物を貰えなかった。
もう一度、別の村に行って「托鉢」しようかと思ったが、止めた。
その日は、「食事抜きで、水だけで」生きた。
「次の日に、食事があるかどうか」判らない「生き方」を「自分の意思で」「選び取り」行うのです。
ここには「生き残る」「いのちが絶対」という価値観は存在しない。
つまり「ヒューマニズムではない世界」である。
他方
「農業をする」ということは「生きるための食物」を「確実に確保し」「いのちを維持する」ということなのです。
つまり「生き残る」という「目的の行為」なのです。
中国において、「この戒」を初めて破った。
それが禅宗なのです。
山奥で「大勢が」修行するから、「乞食」「托鉢」では「食料が絶対的に不足する」事態が出現した。
ここで「普請」や自給自足の生活をおくることを決断した。
元に戻って、
釈尊の場合は、「食事がない日が続いてもいい、仕方がない」という「生き方」を選んでいるのです。
その先に「死」が存在するのです。
この「死を目指して生きる」は、
決して「死を目的・完成・成就として生きる」ではないのです。
だから、
「有余」涅槃と「無余」涅槃と分けたりしない。
ましてや
「無余」涅槃の方が「有余」涅槃よりも素晴らしい
などの価値判断が出てくるのが間違っているのです。
だから釈迦が有余・無余を対比する必要は無いし対比して語る必要も無い・・・
此の世で悟ることしか頭にないのだから。
で、自ら35歳でその道を見つけて仕舞ったのだから・・・
それが何か???
釈迦は弟子達が悟る前に餓死したら
キャツらは犬死にしちゃうなあ~、そうなったら困るよなァ~・・・
とぐらいは思っていたんじゃないでしょうかね。
でも実際に禅宗さんたちみたいな環境に嵌って仕舞ったら、
釈迦はただ単に即決でThe【戒律】を変えればいいだけの話ですね。
全く「ノー プロブレン」ですね。
xx君の取り越し苦労に過ぎません。
時間が足りなくて、思うように坐禅に励めないなんて状況があったみたいですよね。
自分の意思で生き残ろう、としていない。
生きる事が目的ではない「生き方」を生き続ける。
その先に「死」が存在するのです。
「このような死」を「目指して生きる」ということは、
決して「死を、目的・目標・完成・成就として生きる」ではないのです。
「諸行無常」
「諸法無我」
の「生き方」なのです。
釈迦は35歳で悟っちゃったから
自分自身はもういつ死んでもいい訳ですよ。
しかし未だ悟ってない修行中の弟子に対して、
戒律で強要して餓死でもしょうがないぜ・・・なんて言える筈がないでしょうが・・・
今朝初めて坐禅(瞑想)始めた初心者弟子に向かって、
「そうじゃそうじゃや、修証一等じゃよ。
お前はもう今晩死んでもいいぜよ!!」って言ったとか?????
「この人は家に門しか必要ない」という表現は、「家は門を入って出る」ぐらいに仕事に熱心な人をさしたりします。
切実な思いから出家を決意し、今でも日本国中を忙しく飛び回る方丈様も、このような問いに接したら、即座に「東門、西門、南門、北門」と答えても問題なさそうです(笑)
『あえて言えば、その家で「暮らす」とは、この門の出入りを際限なく繰り返しながら、見ることのできない屋敷を仮設しては撤去し、建て直し続ける運動なのです。』
まったくおっしゃる通りと思われます。
「建て直し続ける」ことが何よりも大切と思われます。
釈迦が住んでる部屋が有っても、
「建て直し続ける」のですか?
自灯明でスクラップ&ビルドし続けるが、
頼るべき「法灯明」の家が分からない人の習癖と言う処かと・・・
真理を分かっちゃったとする仏教者は、
まあ家を建て直し続ける必要性を感じないでしょうね。
日々の懺悔はあるかも知れないが、
自分の頼るべき、土台の固まったどっしりとした家が既に在る・・・
つまり何が悟りかを知っている仏教者。
煩悩を全て滅尽した人って、見たことも、聞いたこともないよ。
死ぬと「仏になった」って、昔からよく言われてるけど、いい得て妙だと思うけどね。
迷信に惑わされずに、己の現実を直視してみようではありませんか。
仏教が2500年続いたという面があるね。
仏教新ルネッサンス時代に際して
南さんが現れて
皆さ~ん「死を目指して生きましょう‼」っていうスローガンを掲げた。
「悟りを目指して生きましょう‼」じゃなくてね。
「死を目指して生きる」という事と
「悟りを目指して生きる」とは同じ事である・・・って。
○○○を悟るの「○○○」とは、具体的になに?
具体的に何を目指してるの?
それがわからないので、違うかどうかもわからない。
「戒」は強制ではありません。
「自分から進んで守ります」ということです。
だから、いつでも止めて、在家に戻る事ができます。
だから、「何日も続けて、托鉢で食物を得られず」に餓死したとしても、
完全に本人の意思です。
強制ではありませんから。
他方、「律」は、「集団生活のための規則」です。
これは強制です。
もしも守れないときは、集団「サンガ」から追放されます。
この門の出入りを際限なく繰り返しながら、
「見ることのできない屋敷」を、「仮設し」ては「撤去し」て、
「建て直し続ける運動」なのです。』
自転車と同じで、「足でこぎ続ける運動」が必要です。
「こぐ」のを止めると、自転車は倒れます。
つまり、永久修行論です。
「見性成仏」はない。
「見性」、つまり「さとり」もない。
只管打坐です。
そして「死」に到達して、そこでようやく止みます。
見性がこの意味なら見性は正しかろう。
その人の主観的観念論であるが、
それが何か?
妄想であろうと錯覚であろうとそれが何か?
他者に迷惑を掛けない限り主観・妄想。錯覚一向構わない、
「いいえ違います!!」は一切不要。
余計なおせっかい。
「いいえ違います、
それは正しくない・・・
正しいのは~~だァ!!」って、
自分だけは正しいと思い込んでいる人は、
また押し付けて来るんだろうね、きっと。
いつでもどこでもちょっとでも・・・
だが他者に見性したなどと吹聴しようものならアウト、門前払い!
だから、お経には記述されていない。
これは、南師が、再三指摘していらっしゃること。
道元和尚も同じ。
『正法眼蔵』全87巻も執筆しているのに、
「見性成仏」の体験も、
「見性成仏」の内容も、一言も話さない。
ということは…
「見性成仏」は、「仏教」と別の宗教である。
この「悟りの内容」が「屋敷の様子の話」なのです。
お解りですか?
『仮に多くの人がこの家に非常に興味があり、屋敷を見たいと常々思っていたら、この誰かが語る「屋敷の様子」に感心したり、大いに満足するかもしれません。
この屋敷話が大ウケするとなると、ウケ狙いでまた別の誰かが「見てきたような嘘」を言い出すかもしれません。これもウケたとなると、さらに次々「嘘」が出て来て、それぞれにファンが付き、百花繚乱状態になるでしょう。』
南さんが現れて
皆さ~ん「死を目指して生き「ましょ」「う」‼」っていうスローガンを掲げた。
「死を目指して生き「ましょ」「う」(意志の表明)
ではなく、
「死を目指して生きる」
つまり、
現に生きている事実そのものに、気付かせているのです。
全ての人は「死」に達する。
逆らっても無駄である。
だから、「正面から向き合う」必要があるのです。
それを、文学的表現で、
「逃げる」のではなく、あえて「目指す」と表現したまでです。
正論なのか不明だが、
しつこくてしつこくて
聞くのが全く疲れる人っているよね。
だから最後には、
いっさい聞かないでスルーする。
その家で「暮らす」とは、この門の出入りを際限なく繰り返しながら、見ることのできない「屋敷」を「仮設しては撤去し」、「建て直し続ける」運動なのです。』
馬祖禅師は、
それまでの華麗な「屋敷」を撤去し、
「即心是仏」と、新しい「屋敷」を仮設した。
人々がそれに熱狂すると、
その「屋敷」を撤去し、
「非心非仏」と、新しい「屋敷」を仮設した。
或る「即心是仏」で「得心し」深山に籠った禅師に、
現在は、「非心非仏」という新しい「屋敷」だ、と教えたところ、
その「非心非仏」という新しい「屋敷」を撤去して、
「即心是仏」という「屋敷」を仮設した。
つまり、
「非心非仏」を知った上での「即心是仏」という「屋敷」を
仮設したのである。
つまりは、
「即心是仏」も「非心非仏」も仮設であり、
そして、建てなければならない。
「悟った」だけでは駄目であり、「言葉で表現しなければ」ならない。
だから、膨大な禅問答が記録されている。
私こそがそれを正しく理解出来る唯一の人間だとばかりに思いつめて、
実は自分流に合う様に解釈しなおして、
それを絶対正しいとして他者に強制する。
そんな人にワタシはナッチャッタ!!
シッカリした土台は作らないので
微震でガタガタの家になるから
しょっちゅう壊し、
建て直しし続けねばならないけれど、
どう転んで、逆立ちして考えても、
釈迦が南流遣ってたなんて到底考えられない。
シャカさんは
どっしり安定した土台を据えて、
地震でビクともしない家を建てた!!
・・・と考えない限り
仏教祖師に何てなれる筈がないでは無いですか。。。。。
どうぞ、誤魔化さないで下さい。
対機説法、方便は智慧あるモノの常套手段です。
「君子豹変す」といいます。
柔軟的に臨機応変になのです。
柳は地面にシッカリ根を張っており、
地震では問題なく耐える柔構造なのです。アタフタしないのです。
問題はしっかりした土台、即ちしっかりした仏教に根を張れているかどうかなのです
(仮説)
「禅師は「何もの」なのですか?」
「東門、西門、南門、北門、だよ」
同様に、
「即心是佛」は、人々が信じている「何か」を否定する「働き」である。
「自分の外」に「仏」「仏陀」「覚者」を求めている「その間違い」を「正す働き」をしているのである。
だから「即心是佛」そのものを主張したいのではない。
しかし、今度は、「即心是佛」を信じて「凡夫である自己」を「仏」であると信じてしまう結果となる。
だから、それを否定するために、
「即心是佛」を「否定する、正す働き」として「非心非佛」と教える。
すると、またまた、人々は「非心非佛」を信じるようになる。
「学道を学ぶ人達よ、
自己の心が是れ仏であることを信ぜよ。
この心は即ち是れ仏心である」。
ある僧が更に問うた。
「和尚はなにゆえに即心即仏と説く?」
馬祖曰わく「小児の啼くのを止めんがためなり」
僧曰わく「啼き止むときは如何」
馬祖曰わく「非心非仏」。
ここに、
馬祖道一禅師の「即心即仏」の教えにより開悟した弟子、
大梅法常禅師(752-839)の話
ある僧が「このごろ馬祖は非心非仏といっているそうだ」と告げた時、
大梅法常禅師は「馬祖は非心非仏でよいのだ、
私はただ即心即仏である」と答えた。
そのことをその僧は馬祖に告げたら
「大梅、熟せり」とたたえた。
その「非心非仏」を否定する「働き」として、大梅禅師は「即心即仏」を用いる。
だから「即心即仏」そのものを主張したいのではない。
今、私の拙宅の小さな庭先で、小さな「紅梅」が咲いている。
この頃、暖冬が続いているせいだろうか。
この「大梅、熟せり」を思う。
道元和尚は、梅の花が好きだった。
「梅華の巻」がある。
盛岡の源勝寺には、
大きな「梅華の巻」の双連がかかっている。
秦慧玉禅師の運筆である。好きである。
道元和尚は『正法眼蔵』で「正す働き」として、次のようにお示しになる。
「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、「即心是仏」のみなり。・・」
「即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の「諸仏」なり。・・」
「いはゆる「諸仏」とは、釈迦牟尼仏なり。
釈迦牟尼仏、これ「即心是仏」なり。
過去、現在、未来の「諸仏」ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。
これ「即心是仏」なり。」
つまり、
『その家で「暮らす」とは、
この門の出入りを際限なく繰り返しながら、
「見ることのできない屋敷」を
仮設しては撤去し、建て直し続ける運動なのです。』
「右の連」
槎槎牙牙たり老梅樹、
「左の連」
忽ちに開華す一華両華、三四五華無数華
「諸行無常」とは「変わらない何か」「永久に確実な土台」など存在しない、
という事実を、正視することです。
「自己」は修行の方便として「仮設」されるものです。
「真実の自己」「本当の自己」…などは存在しないのです。
それを受容できないから「苦」となるのです。
「人間の生物本能」が「死」を拒否しているのです。
「仏教」は「生物を止める事」です。
「食欲」も「性欲」も、関心をなくするのだから。
普通の人には耐えられないことです。
普通の人は「日本教」が相応しいのです。
「仏教」は不要なのです。
想像すると日常は寂しい環境で独居かも、ネツト、TV、週刊誌、図書館で時間を掛けてブログのネタ探し、だが勉強不足で浅い知識で自己中に解釈し捏造する毎日、貧しい心根、散歩をお勧めします。コメントはスルーします。
スクラップ&ビルド!!
オイオイ、出家は「家」に暮らさないからこそ、出家じゃないのかえ。
出家は「>屋敷話に乗って」はいけなかったんじゃあ、ないのかな。
無我とは無家の事じゃろが・・・
出家に、それが実践出来たなら
自我という家を建てたり壊したり必要ないじゃん。
要するに自己を断捨離出来ない
修行者失格って事じゃん。
出家としては、
スクラップ&ビルドを肯定してはいかんのじゃあ無いかね。
いつでもどこでもちゅっとでも、
無我、むが、ムガ…が出家の根性。
在家の泣き言ばかり言っててもせん無き事。
出家なら出家らしく
モット毅然としていて下さいませ!!
在家は出家の悟った姿を見たいのです。
其の為にお布施をするのです(喝!!)
それが釈迦の辿った道なのですから・・・
迷いに迷ってとっかえひっかえ
家を建てては壊し
壊しては建てる・・・という心弱き在家を、
しっかり支える出家であって欲しいよね。
出家自らが在家に率先して
壊して建てて、建てて壊してをやってて、
出家が務まるとでもお思いか??
諸行無常理論を当てはめれば、
答えは、
涅槃寂静とは全くの嘘っぱちだ
と言う事に成る。
ブッキョウ理論が根本的に崩れる。
教師は教師としての立場からモノを言う。
師匠は師匠としての立場からモノを言う。
自らの有言不履行を日々懺悔しながらも、志はあくまでも高く、高く・・・
常に、
在家衆とは一線を画して
凛として清々の姿を見せねばならぬ。
そうでなければ
在家衆に対して示しがつかない。
偽善者でも仕方が無い。
そうやってこの世の秩序が保たれる。
おやおや、十牛図第9,10図は何処へいった??
35歳で涅槃寂静を果たした釈迦はその後45間も生きた。
もし毒キノコにあたらなかったら100歳以上生きたであろうか・・・なんと涅槃寂静後65年間!!・・・
どこに釈迦が生物を止めようとした証拠が在るのかな。
もし性欲の事を言ってるのなら、
釈迦は出家前、もうさんざん味わい尽くしたから
もはやイランと思っただけじゃないかえ。
「この世は美しく人生は甘美~るダ」っていったんだろう?
十牛図第9、第10ソックリ其のままじゃ無いか。
その言葉の何処に
釈迦という仏教が「生物を止めた」と言う君の言葉の正当性があるんだ??
毎日嫌な、苦しい苦悩ばかり探し出して来て、
「死を目指して生きる」しか能の無い奴らだっとことだな。。。
「自己・保存本能」:食欲
「種・保存本能」:性欲
「自己・保存本能」と「種・保存本能」と、
この両方を無くした「状態」から、
そのまま「死」の方向に向かったのが、
「ジャイナ教」の「大雄」である。
しかし、「生」の方向に戻ったのが、
「仏教」の「釈尊」「ゴータマ」である。
「仏教」の「サンガ」は、「釈尊」の経験に従って生きる「集団」である。
だから「社会」から出る「出家」である。
だから「社会」を変えようとはしていない。
「カースト制度」を廃止して「平等な社会」を造ろうとしていない。
これが「仏教」なのである。
これに「どのように反応するか」は各人の自由である。
道元和尚の
「只管打坐」は、
所謂「人間社会」とは、別の世界である。
現在の曹洞宗は、ダブルスタンダードである。
だから、発展してきた。
飢えを満たすことと、美味しいものが食べたいということは同じではないわけです。
そこを間違えると益々割りに合わない話しになるわけです。
永平寺・総持寺なども、一旦、門を入れば、
建物に付随して、其処に漂う霊性に
人はひざまずき、厳かな儀式を執り行う。
何か超越なるモノに祈願を奉ずる。
それが宗教というもので、
人の心は超越性に導かれて、善化して行く。
やはり宗教には超越なる概念が介在せねばならない様だ。
あの門も立派だが、霊性が付いて回る建物を
壊しては又建て、また壊すを繰り返す事は意味がない。
諸行無常・諸法無我の真逆を行くのが
宗教的行事である。
永遠への人の希求がそこに宿る。
うんうん、何が悪いかね??
建物に付随して、「其処に漂う霊性」に
人はひざまずき、厳かな儀式を執り行う。
何か超越なるモノに「祈願を奉ずる」。』
当時、永平寺では、毎年「眼蔵会」が開かれていて、
(会社から、長期休暇を貰って)
その提唱を聞きに行ったが、
早朝から「坐禅」や、法堂での「朝課」や、「作務」など、こなし乍ら、8日間お世話になった。
食事は、勿論、作法通りで「坐禅」のままである。
しかし「其処に漂う霊性」など、まったくなかった。
なお、老師による有難い「眼蔵会」の提唱では、
多くの修行僧は眠っていて、何も「聞いて、学んで」いなかった。
その提唱が「つまらなかった」からである。
老師に真剣みがなかったのである。
(僧は免許証を貰うための修行だったのである)
「道元和尚の仏教」は「霊性」とは無縁である。
人は独り街里離れた場所で夜、満天の星を眺めて神秘を感じるものである。
人は独りガランとした寺院で仏像と対峙して霊感を感じるものである。
宗教の家に於いて、組織は、孤独な人の宗教心を育て上げる為に、
家の内装を厳かにし、うやうやしく儀式を執り行い、
何かに対して祈願する・・・誰に祈願するのか?
そうやって宗教は、
孤独の人間を宗教に従わせ
順化させていく。
もともと人には霊性(仏教的には仏性)が備わっているからだ。
がしかし、xx君によると、
道元さん、南さん、XX君にはもともと仏性が欠如しているらしい。
で、何故、宗教やってるの??
宗教抜きの、
哲学道場へ行ったほうがマシじゃあないかな。
荒波に押し流されて、
荒れ狂う大海に漂っている藁をも掴む。
藁が、
仏教の家であり、儀式で在り、仏像であり、御本尊なのであり、仏壇なのであり、法事であり、
凡そ全ての宗教行事なのである。
それに対する帰属意識で
人は辛うじて孤独から遁れる。
仏性、即ち霊性に触れて心が安らぐ。
あそこで修行している雲水さん達の立ち振る舞いもさることながら、顔つきが違うのですよ。
日常の立ち振る舞いが、ほぼ作法によって制限された非日常的な特殊な環境は、霊性を感じる暇など与えはしません。
にもかかわらず、そこで生活する雲水さん達の眼の輝きはあまりにも異常です。
高村薫さんとの対談本で、そのわけが分かりました。
修行の途中で縊死した人の霊さえおそらく憑りつきはしないと思います。
むしろ生身の人間に感じる底知れなさの方が印象的です。
御神体が「お山」「巨木」「大きな岩」「那智の滝」…
それに向かって、拝む。
「日本教」の「曹洞宗派」にも大勢の信者が存在しており、
勝手に「永平寺」を御神体にして拝んでいる。
「永平寺」は「坐禅」をしないと「意味がない」。
「禅宗」では「悟っただけ」では駄目であり、
そのままでは「妄想」と区別がつかない。
「言葉」にしなければならない。
しかし「言葉」にした傍から、劣化していく。
それを否定する必要が生じてくる。
南師は、それを
『その家で「暮らす」とは、
この門の出入りを際限なく繰り返しながら、
「見ることのできない屋敷」を
「仮設しては撤去し」、「建て直し続ける運動」なのです。』
だから、その後には、
膨大な数の「禅問答」が蓄積されていくことになった。
「お経」全体よりも多くの量になってしまった。
他方、「日本教」には「言葉」は不要である。
「お山」があればよいから。
修行僧の「裏の顔」を知っているから、
「額面」通りには受け止めない。
所詮、多くは「観光客」向けである。
「観光客」は、それを求めているから。
だから、修行から帰ってくれば、その「本音」が現れる。
そして、それが、現在の曹洞宗の「本音」でもあるのです。
以後の45年の人生は全て自由自在の遊びの境地、その三昧なのである。
その様な遊びの境地では
家を壊しては建て、建てては壊す運動など一切不要である。
出家の片割れなら釈迦に見倣ってどっしりと構えていればよいのである。
永遠の流浪人は出家にはに似合わない。
スクラップ&ビルドとは、
迷い悩めさすらう、衆生という俗人・凡夫のしがない本性である。
釈迦の人生と一緒にするな!!
35歳で自我のくびきから解放されて、
その後は、
自由自在の遊びの境地で三昧人生を
送った釈迦なら、
釈迦に向かって誰かが
「君は死を目指して生きてるね・・・」なんていったら
釈迦から大笑いされるよなあ。
即ち、
この世は美しく人生は甘美~る!!
即ち、
楽しく生きる・・・死を目指す必要サラサラなし。
スベカラク全ての修行者たるものよ、
釈迦の境地を目指すべし・・・
35歳が花の盛りで
以後はズッと下り坂一方で、
楽しみなど何一つなく、
何とか生きるに賭けてみたが、
結局、死を目指して生きるしかなかった訳だ。
俺(=南和尚)だったら、とっくに自死していたろうに、
病死になる80歳まで生き延びたんだから
「とにかく奴は偉いよ!!」
・・・とまあそんな感じ。
まあ、せめて、自己顕示欲の人ではなかっただろうとは思いたい。
それだったら自由自在で居らなくなるし・・・
釈迦はただ覚者(聖者)として他者から担ぎ上げられただけだよ。
大勢の弟子が釈迦に倣いたいと集まって来て、
釈迦としては、彼等が悟り修行に最大限に専念できるようにサンガを組んで
組織の効率上、戒律を制定した・・・
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪これも釈迦の遊び心だね。
楽しきかな我が運動‼
ZIP君もxx君も
永平寺に霊性(仏性)が無いのが
楽しくてしょうがないようだな。
私なんぞは、
明け方し~んとしてたたずむ建物からして霊性(仏性)が漂っている雰囲気に、
我が魂の交流の場とばかりに、
自然と心が安らぐと言うのに・・・
すべて
人それぞれの主観に過ぎないんだから、
私の勝手だぜ。
他人の君がどう思うべきかみたいに
ガタガタ言わんといて~な!!
私の勝手だぜ。
他人の君がどう思うべきかみたいに
ガタガタ言わんといて~な!!』
「永平寺」については、道元和尚に従うべき…
これがわかるかな~。
無理だろ~な。
「縁」無き「衆生」は、「度し」難き!
つまり、
「仏縁」が無いから、救いから漏れてしまうよ。
それが嫌なら
建物・門・仏像・ご本尊・仏壇・そして宗教的お墓・・・とか全てを、
壊し・壊し・壊し・壊し・壊しつくしてて・・・
で、
跡地を哲学堂にでもしたらよかろうて!!
共産党国中国みたいに徹底的にやりなはれ。。。
死を目指せば救いが訪れるのかいな。。。
親鸞会みたいな物言いをするよねェ~。
・「すべてのもの」はやがて「滅びるもの」である。
「諸行無常」
・だから、汝等は「怠らず」「努めなさい」。
なぜなら「ブッダの生き方」を止めたら、
「ブッダでなくなる」から。
…「カルマ論者」「業論者」「行為論者」
どうせ「死」んでしまうのに、
一生涯、
「怠らず」「努めなさい」
である。
「只管打坐」
これが「仏教」である。
「日本教」の人には、これが理解できないだけ。
そ~かそ~か。
仏縁あって、生物である事を止めれば救われるって事だな。
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪
なっとく、ナットク。
xx君は「仏縁あって自分は救われてる」って思ってる訳ね。
そう言う根拠と理由を述べて呉れたまえ。
そして君が救われていると証言して呉れている証人3名の証言を公開して呉れたまえ。
つまり人間の100人中93人は
愚かな度し難き衆生で、
死んだ後に
死者を迎え受けて呉れる釈迦牟尼仏に
おめ通りできない哀れなヤカラなり。
仏縁なくて奴らには救いがない
・・・とな。
>「すべてのものは」やがて「滅びるもの」である。
>「ブッダの生き方」を止めたら「ブッダでなくなる」
意味不明。
ブッダも死後、滅びたんで無いかえ。
滅びたブッダに倣って、
「ブッダの生き方を止める」と
なんか不都合があるのかな??
それとも
ブッダの生き方を続ければ、
永劫不変のブラフマンになる、
とでも君は考えているのかな??
もっとしっかりした君の論理を
展開して呉れたまえよ、xx君。
度し難いヤカラで
仏縁にいたらないから
彼等は全く救いがない絶望的な奴らだ・・・
そうxx君は言いたい訳ね。。。。
初転法輪で「ブッダ」が「6人」に成った。
「ブッダ」「仏陀」「目覚めた者」「覚者」
・・・みな同じです。
更に、「釈迦」も「部族」名です。
まあ「大和民族」というようなものです。
だから、個人を特定するためには、
「釈迦」ではなくて、
「釈・尊」と呼ばなければならない。
「釈迦・牟尼」でも同じ。
死だけを目指して生きた、さる敬虔な仏教者が、
独居老人になると悲惨な結果が待ってるよね。
兎角、寡黙で内向的な男仏教者になっちゃって、
1~2か月外に姿が見えなくなったと思ったら、
何やら死臭が漂って来るのを隣家の人が嗅ぎ付けた。
警察に通報して玄関を開けてみると、
ゴミと一緒に
9000本の空きペットボトルがうずたかく積み上がって、
部屋の隅には小さいブッダの仏像が一人静かに鎮座していた。
念処経にある如く、死体にはすでにウジが湧き、逞しい生命力の循環が見て取れた・・・。
ああ、ここで、
この人は仏縁あって救われたのである。
そんなストーリーをxx君なら語れるかな??
「『その』教えを学び、修行し、語り続けること」
の、『その』について、「ナイーブだ」とか「いいえ違います」だとか「縁なき衆生」だとか「有害」だとかいう話になるわけでしょう。
なにが仏陀の生き方をならうことになるのか。
南さんは仏陀や道元の生き方にならっているといえるのか否か。
結果お喋りに明け暮れてるんじゃあしょうがないっつー話じゃん?
が、仏教を生かし続けることとなる。
最後の行は消し忘れでございまする。
諸「仏」かならず「威儀を行足」す、これ「行仏」なり。
・・・
しるべし、諸仏の仏道にある、「覚をまたざる(悟りを期待しない)」なり。
「仏向上の道(悟りの更にその上、永久修行)」に「行履を通達せる(実行する)」こと、唯「行仏」のみなり。
自性仏等、夢也未見在なるところなり。この「行仏」は、
「頭頭に」威儀現成するゆえに、
「身前に」威儀現成す、
「道前に」化機漏泄すること、
亙「時」なり、亙「方」なり、亙「仏」なり亙「行」なり。
「行仏」にあらざれば、仏縛法縛いまだ解脱せず、仏魔法魔に黨類せらるるなり。
中国の禅宗僧を巡った道元さんは、
自分の思想をメンメンと語ったが、
果たして、釈迦は同じ事を言ったのか?
道元さんの過去世が釈迦だっとでもいうのか??
総論同意、各論異質ではないのか??
其れについても検証すべきであろう。
釈迦・道元の思考方式は
自分(=南さん)の抱え込んでいる生涯テーマの答えに
何がしかのヒントを与えて呉れる感じがする・・・というだけの事で、
彼等の言質を真理として受諾している訳ではない。
xx君はおおきな考え違いをしているのではないか??
眼蔵解説者(引用者)は、眼蔵の中に真理があると思い込んで、自分なら其の真理を理解出来ると自負するが、
結局の処、自分の主観からモノを言ってるだけで在り、
それは自分の妄想・錯覚なのかも知れない
・・・みたいな感じの事。
なんかxx君が遣ってる事を指しているみたいな感じだね。
然しこの法門も門だけの家かも知れないのだ。
中身は空っぽなのに、人々は中に
眼蔵という屋敷が有って
其処に真理が存在してると思い込んで
噂話に花が咲き、尾ひれがつく。
出家ならばその辺をわきまえて、
眼蔵という真理の屋敷があるなどという
屋敷話をするべきではないのです???
ただ変性意識があるのみである。
その変性意識に一杯物語を詰め込んで、
なんか訳が分からないが、
それなりに立派で厳かな屋敷を建ててしまう!!
「愚の骨頂なり‼」(per南ジキサイム)
さあ其処にどんな屋敷を建てようか?
わたし流の家を建てたい。
そこで遊べる三昧の場としたい。
夢が膨らむ私の家だ。
楽しい家にワタシの夢は
膨らむ、膨らむ、どこまでも。
生物を止めるなんて笑止千万。
死を目指すなど片腹痛い。
我は自由自在な釈迦様の子。
?????
それって煩悩?、拘り?、執着?
断捨離出来ないで苦しんでいるの?
無になれない自分を憐れんでいるとか?
少なくとも35歳にして既に到達した
釈尊の「自由自在の境地」とはえらく異なる感じだね。
何の為修行なんだろ??
前世からのさだめだったのかも??
これを認知バイアス(認識バイアス)と呼ぶ。
「諸行は無常」
「諸法は無我」
「涅槃は寂静」
これが「三法印」です。
そして、
「超越」の議論には「無記」です。
涅槃の主体は誰、生者or死者??
涅槃の為に死を目指さないといかんのかな??
『超越と実存』本は無記なのか??
それは×××ちゃんの思い込み、妄想でしょう。南さんの書籍にそんなでたらめは書かれていません。何の根拠があるのですか
根本的な疑問がおきた。
南さんやxx君は
仏教は「死を目指して生きる事だ」とか、
「死を受容する事だ」とか、
「死ぬ練習をする事だ」とか
「生物を止める事だ」とのたまうが、
それが釈尊の考え方なのであろうか?
釈尊は無条件でそんな言い方をするだろうか?
私にはどうしてもそうとは思えない。
釈尊は悟りを開いてからの死なら良しとするだろう。
すなわち有余涅槃をのみ良しとしている筈であろう。
それならば肉体の死によってニルヴァーナに入れるからである。
なぜなら悟りを開く前に死ぬと、
永遠に輪廻の苦に巻き込まれてしまって、苦から解脱出来ない。
即ち、釈尊思考の「永遠永劫完璧な苦の滅失」が達成出来ない訳で、
それだったらニルバーナ(=永遠に消え去る)する事も出来ないし、
現世で全てを諦めての断捨離しての、
厳しい修行も全く無意味な行動(運動)となってしまうからである。。。。。
釈尊曰く、
「一旦、悟った暁には、
死も良し、生物を止めるもよい。
だが悟る前は
死ぬな、生物でいろ‼」
と、いう前提を付けていた筈であると考えられる・・・論理の整合性から言えば。
「三法印」これでなきゃ「非仏教」です。
「諸行は、無常」
「諸法は、無我」
「涅槃・ニルヴァーナは、寂静」
ここのブログで、当然、南師は仰っています。
探してください
釈尊は,ウパニシャッド的なアートマンは認めませんでしたが、〈真実の自己〉としてのアートマンは、仏道修行のゴールとして追及されるべきものとして積極的に肯定しているのです。~~。
凡夫は無明を因とする悪しきサンスカーラによって〈偽りの自分〉を形成し、それを〈真実の自己〉(=アートマン)だと誤解し、執着しています。
それを正す為に、「お前が、此れが自己だ、と認識しているモノ(=諸法)は、本当のお前(アートマン)ではない(無我、非我)だと説いたのです。
これが『諸法無我』の意味です。
仏教は「真実の自己」としてのアートマンを否定するどころか、
積極的に肯定している事をぜひとも明記しておいてください。
この「真実の自己」としてのアートマンは、後に「大乗涅槃経」に於いて「仏性」と解釈され日本仏教の大きな礎の一つとなりました。
これが如浄禅師が『如浄録』で言っている「心塵脱落」の事であり、
心の塵を落とせば真我(アートマン)が現れる。此れを仏性と呼ぶのである…と繋がるわけですね。
道元さんは発音が同じなので、道元流に「身心脱落」と解釈し直して
只管打座を発明した・・・仏性の所在が行方不明となった????
禅 第19話
「道元禅師の座禅論」
心塵脱落から身心脱落へ。
www,haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-zen19.htm
常に警戒や緊張があるような。
認められたいことに執着し、たが、他者や社会の中へ入っていかないような心象がある。
客観的に物事を見てしまうが、やはり、自己を生きるということは、中へ入っていく、つまり自己を他者へ投げ出すことだと思いますが、恐怖や遠慮があるんでしょうね未だ。
そこですよね…
自己に植え付けられた根深いものを、空にして新たに他者と縁起したいです。
他者を信じる他力本願の迷い、自己を課しての自力本願、を混ぜて試行錯誤してますが、
物事を思い通りにしたいという実存の欲望がつねに現れます。
座禅による自己解体と信じるという主題から解体された自然法にを糧に頑張ってます。
自己を消滅する方法、滅っすることは出来ないけど、その法を仏教から学んでます。
「超越と実存」何回も読んでます
「諸行無常」
は素粒子レベルで言うと真であるか偽であるか微妙。形而上学まで含めているのかどうか、言葉の定義が曖昧であるかも??
「諸法無我」
は鈴木隆康氏が『本当の仏教』本で言うのが正しければ、
XX君的解釈(推測)は同位概念の一つに過ぎず、別の解釈法がある事を示している。
「涅槃寂静」
は有余涅槃(現法涅槃)でのみプラグマティックな意味を持つ。
超越を認めない時節では死んだ後は「無」になるだけだから、
「無」という現象を「心の安寧」と呼び変える事のバカげた思考が際立つ事と成る。
道元和尚には「身心脱落」と聞こえた。
そして、それこそ道元和尚が「求めていた教え」だった。
南師は連続講義で、
日本にいる間に、「身心脱落」という答えを知っていた。
中国に留学に行ったのは、
日本で布教するためには、中国での権威付けする必要があるから、
と仰っていた。
だから、日本での師・明全禅師を一人残して、自分だけで、答えにぴったりの「正師」を求め、遍歴した。
そして「400年も古い仏教思想」の天台宗の「止観」レベルである如浄禅師に出会い、
お墨付き「印可状」を貰って、日本に帰国した。
それで、日本で新しく「宗」を建てようとしたが、天皇に「小乗仏教・二乗」と評価され、「新しい宗派」としての布教は出来なくなった。
逆に、比叡山から迫害を受け、43歳頃に北陸に逃げて行った。それが永平寺となる。
①.諸行無常
②.諸法無我
③.涅槃寂静
④.死を目指して生物を止める
釈尊は「生を求めなくなった」
「死を厭わなくなった」。
これは「生物を止めた」のである。
しかし
「死を求め」「生を厭う」のではない。
「生死」を超えたのである。
つまり「生物」を超えたのである。
「諸行無常」に逆らうのを止めたのである。
中村元氏は、仏教もインドの主流のウパニシャドと同じとするために「非我」を主張した。
中村元氏の専門は「仏教」ではない。
「インド思想」である。
そこから見ているから「非我」となってしまうのは当然の結果である。
要は「梵我一如」に帰結してしまう事となる。
しかしこれは「人間ゆえの病」である。
世俗の領域 経済活動、科学、etc...
「神と呼ぶもの」若しくは超越する何かに対して、
僧侶 ≒ 儀式を執り行う者と言うことが出来るであろう。
儀式での呪文 ≒ お経?
「本来の自己」??
文明 ≒ 進歩を目指し自由を
専制君主あるいは独裁から民主へ
宗教から世俗へ、
倫理と道徳の揺らぎ
「神と呼ぶもの」への拒否
論理思考への移行
素の自分 情報 データ 記録装置
死は平等に訪れる
死 ≒ 未知
意味の付与 ≒ 生に意味を与える機能 ≒ 宗教
神話 ≒ 物語 ≒ 言葉による世界
宗教は考えきれないことを
さらに考えようとしてきた。
禅問答とは
信じることによる連帯のなかで
共同社会を形成し
信仰に支えられている対話のように
哲学的な問答なのだろうか
宗教としての問答なのだろうか
宿題
「それ」に対して「個別に禅問答」が存在する。
まあ『正法眼蔵』全87巻が、道元和尚の説法であり、
「それに」追加して、「個別に禅問答」をしていた。
(だから、「両方を」知り、学ぶ必要がある)
如浄禅師の場合は、その個別の禅問答を、公開していたから、みんなも一緒に聞いていた。
現在の臨済宗のように「看話禅」として、密室で「独参」するのと異なっている。
この全体から、「個別の禅問答」を理解し、
同時に、
「個別の禅問答」の理解から、「全体の理解」が解ってくる。
という「ダイナミックな関係」である。
中国の修行僧の場合、多くの禅師の間を巡りあうのだから、
「個性あふれる・多種多様な・膨大な・説教」を聞きながら、
個別の禅問答を、積み上げて行ったのである。
臨済禅師の場合もお経を学んでいた基礎がある。
DNAが自主的に死を定めたのである。
生物は決して死を厭うなんて事は無い。
DNAが死を厭うのであれば
みずから死なない設計に
DNAがDNA自身を発展させさえすればよかっただけである。
死を厭っているのは人間の煩悩だけなのだから、
xx君の論理はオカシイ!!
さらにxx君は
「不生不滅」論者でななかったのか。
日頃の論理と矛盾するじゃあないか??
妄想していたのか?
全て煩悩の結果なんだとしたら(??)
単に素直に
「仏教は煩悩を止める事」です・・・
ってそのまま言えばいいのに、
何かしら奇をてらって
「仏教は生物を止めることです」って・・・
絶句するよね!!
好奇心に駆られて門を少しだけこじ開けて、中をかいま見してみると・・・
ちゃちなおもちゃのブロックを
まさに徒労・無益・無駄骨かけて、
積み立てては壊し、
壊しては積み立てて
屋敷みたいなモノを作る作業に明け暮れていた。
彼らは一様に叫び声を上げていた。
「俺っちゃ、死を目指して生きるんだ!!」
「俺は生物を止めるんだ!!」
表紙・帯の宣伝文句は・・・
鈴木隆康、日本インド学会賞受賞者。
此処にしかない原典最新研究による『本当の仏教』
仏典を原語で読む学者にして住職だからこそ解明できた仏教の真髄。サンスカーラが解ればみんな仏弟子。
此処にこそ本当の仏教がある!
これほど平易、具体的に釈尊覚りの真実を説く本は希有。
本書により日本の各宗派仏教も釈尊の教えであることが明確になる画期的内容。
読めば誰でもすぐ、これこそ本当の仏教だと納得できる。
インドの原典に基ずいた詳細な解明である。
既に仏教を知っていると思っている者も、その固定観念が打ち破られる内容に驚くだろう。
「日本の各宗派の仏教はお釈迦様の仏教ではない」という従来の批判は、誤解だと分る。
これまでにない本書で本当の仏教を自分の人生に活かして下さい!!
鈴木隆康さんは日蓮宗住職。
多分自己を正当化するために
原典を探りに探りまくって
釈迦の説く仏教はコレコレだから、
日本の仏教各宗派は
釈迦の教え(言説)と矛盾していない、・・・という事を発見した。
ーーーーーーー
「いいえ違います」と反論するには
自分も原典まで辿って、
しっかり勉強(比較研究)しないとね。。。
私見…まあ兎に角、釈尊もブレがあったり、方便つかったり、かなりのクセモノぶりを発揮したらしいからね。
その「悟り」という変性意識は
イロイロ風に解釈出来ちゃうんじゃあないかな??
要は我々個人個人の嗜好性によって、
自分が信じたいモノを信じるのみなのである!!
これこそ唯一の「絶対的真理だ」って言うのはちょっとまずいよね。
南直哉さんの本と比べます
門の中身なんてたかが知れてそう
知ってますよ、そんなことっていう、たぶんそんな感じだろうけど、読んでみよう
浅野さん?が言ってたことが、今も気になります
南さんが、全ては相対的だ、とおっしゃってた、ってこと。空を知りながら、実存でしか生きれない私たちは、相対的でしかいられないのかな
全ては相対的。
自分の考えを絶対化しなければ、
人は柔軟的になり臨機応変に生きられる。
誰だとは言わないけれど、
「いいえ違います!!」と叫んで、
自分の主張を絶対化して他者に押し付けてくるのは、
ちょっと「勘弁してくてよ!!」って言いたくなるよね。
しかも自分の主張って言っても
何百年前の誰それさんの故事を
単に誇示して見せる陳腐なモノだしね。
ホント飽き飽きして、完全スルーだよね。
仏教の多様性をぶっ壊してる気色悪さを感じちゃう・・・
釈迦が遣ってた、
「君がそう思うんだったらそうだろよ!!」という、
包容力の大きさが全然感じられない。
①、仏教ではサンスカーラを問題視した。
サンスカーラとは
人はありのままの物事(世界)を、
自分専用の色眼鏡で見るから、
真実のありのままの世界が見れなくて、自分の脳内では妄想・虚構の世界しか見れないものだ、という事(これ即ち無明!!)。
南さん流「諸行無常」は、中二病中の直哉君が、平家物語的な物悲しく、哀れっぽく、やるせない、お涙的な無情の世界を、
釈迦が意図した「諸行無常」だと錯覚して、自分流にのめり込んでしまった事・・・とか。
(比較用)参考文献、
鈴木隆康『諸行無常再考』
如浄禅師曰くの「心塵脱落」を目指せは
諸行無常のトラウマから抜け出せるかもね。
『ああ無情(レ ミゼラブル)‼』 は
本人の本性・本質で在って、
それが或る言葉(諸行無常)に出逢って触発され、個人の本質が顕現化・顕在化したと言うに過ぎない。
原典好きの知見豊かな、或る仏教僧侶が
「釈迦の教えは《いい気分》(ウッフン‼)」と読み取る様に、
南系流儀では個人の本性が現れた、
「死を目指すのみ」とか
「生物止めたい」とかいう
自虐思考が嗜好的に選ばれる事となる。
もうこればかりは
「しょうがない、しょうがない!!」
原典研究者の鈴木隆康氏が、
一般流通の「諸法無我」を批判して、
それは脳でサンスカーラしたままで、
色眼鏡で見たものを、
アートマン(真我)と見做すのは、
何が何でも「間違いだぜ、勘違いだぜ」・・・
と、
釈迦が知らしめる為の意図を持って、
君が思っている「諸法」は「無我」(=アートマンではないの)だよ・・・と
釈迦はそう説いているという事が
原典をみたら分る
…という事ならば、
幾らXX君が「三宝」を持ち出して
自説の正当性を主張しようとしても、
全く、通じない議論でしかない訳である。
xx君よ、
心塵脱落したまえや。。。
正当性・適用範囲は
既にここのコメ欄でも俎上に乗った。
xx君はそれに適切な対応をする事が一切無く、
ただただ、三法を
呪文の如く繰り返すだけで、
まったく、般若心経の最後に添えてある「ぎゃうていぎゃうてい」とか言う
マントラみたいな
無内容の掛け声にしか聞こえない。
当初は、日蓮大聖人迄、ご講義するような「口ぶり」だったが、
最後は、必要ないとして、カットなされた。
(創価学会が怖かったのかも)
…「空海」「天台本覚思想」「法然」「親鸞」「道元」で、
もう十分である、とした。
つまり「天台本覚思想」よりも、取り上げる必要性はなかったということである。
それは「日蓮」は「空海もどき」であるから。
鈴木隆康さんは日蓮宗の思想回路である。
耶蘇っちのやってることって、なんなんだろう。
「南師は〇〇した」「それはこういう意味だ」
自分の言いたいことを、自分が言ったってんじゃあありがたみがないことはわかってて、だからちっとでも有名な誰かに言わせた態でやってるっての?
そもそもの話、ここに個人が特定できない形でコメントしてる自体せこいのよ。
もうそれは前提なんだから、その上さらにせこくてくさいことしなくていいと思うけどね。
「無常」「無我」「無記」。
「日本教」の「日蓮宗派」の「創価学会支部」の壮年のリーダーに
「英会話」を教えて下さい、と頼まれた。
その目的は「欧州、海外の創価学会員」と連帯するためだった。
(実際、旧ユーゴスラヴィアに飛び込んだ)
このため、会話テキストを「池田大作・海外創価学会・会長」の「法華経の座談会」の「寿量品」の部分の「英語訳」を用いた。
勿論、原本の「日本語での座談会」の会話文を読んだ上で、「その英語訳をなぞる」方式にした。
また、しばしば、毎月の定例「勤行」の、青年が集まる「家庭集会」にも参加した、参加を誘われたので。
それで、創価学会が、じっくりと解った。
「台密・天台宗の密教」「日本天台本覚思想」「日蓮宗」…「池田会長教」なのである。
『「比叡山で」日蓮は、妙法蓮華経(法華経)を中心とする文献的な学問と、
いわゆる「天台本覚思想」を学んでいる。…
「十数年に及んだ遊学」の結果、…32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。』
つまり「天台密教」から「日本教」に変質してしまっているのである。
道元和尚も日蓮大聖人も『法華経』を最高としている。
しかし、
道元和尚は、「宋代の禅思想」から、400年も前の「天台宗」に「遡り」、
そこから更に「遡り」西暦100年前後の『法華経』著者自身の思想に到達した。
他方、
日蓮大聖人は、逆に、『法華経』を「天台宗の密教思想」「日本教」の思想で解釈する方向に向かった。
世は、正に、「末法」時代だった。
そして、日蓮、曰く、
真言・亡国(しんごんぼうこく)、
禅・天魔(ぜんてんま)、
念仏・無間(ねんぶつむけん)…無間地獄に墜ちるということ、
律・国賊(りつこくぞく)
・・・『諌暁八幡抄』『御義口伝上』
そしてxx君が崇拝する南和尚のお太鼓持ちしても、
例えば日蓮宗系原典学者の鈴木隆泰さんが
原語経典を色々研究しまくって、
日本仏教は釈迦の教えと矛盾していないと主張しているのだから、
xx君はいちいち事を荒立てないで
Let it goさせてLet it beを認めればいいだけだ。
全く余計なおせっかい反論は不要である。
絶対的真理を司る南教‼
此の世には真理も無く、悟りも無く、
ただあるのは死を目指して生きる人生だけで、
南和尚はと言えば、
自分の良しとするやり方で
なんとか辛うじて実存してるだけなのだから、
お太鼓持ちのxx君が
なんだかんだグダグダと陳腐するのは
あまりにしつこい。
『世の中で自分の事を「ちゃん付け」で呼ぶ行為が「幼稚である事を自覚し」…』
これは、他人からの「蔑称」です。
「クリスチャン」ではない。
「イエスちゃん」であると、批判しているのです。
なお、
「クリスト」とは「キリスト」であり「救世主」「油塗られ聖別された人」という「尊称」です。
他方、
「イエス」は「固有名詞」です。
「古代ユダヤ史」には500人以上の「イエス」が出てきます。
ありふれた名前で、日本で言えば、いわば「太郎」「一郎」の様なものです。
その意味は「神は救い」となります。
歴史上の「実際のイエス」を重視するので、
あなたは「クリスチャン」ではない、
「イエスちゃんである」と
「実際に」面と向かって、批判されたのである。
だから、「自戒の名前」なのです。
なお「マルコ福音書」は「イエス」を「言と行との録」記録しています。
だから、30歳頃の洗礼から、34歳の十字架刑で「殺される」ところまで、を記録している。
死後の「キリスト」の復活は記述しません。知っていて記述しない。
直弟子たちは、死後の「キリスト」だけを伝道しているにもかかわらず。
自称使徒の「パウロ」も、生前の「イエス」を何も語りません。一言も。
死後の「キリスト」のみ、伝道します。
キリスト教は、「パウロ教」なのです。
イスラム教を、「マホメット教」と呼ぶように。
観客(他者)が見る目で己をみよ、
という教えで在った。
「イエスちゃん」という呼称は他人から嫌われる。
其れだけxx点(ペケ点)が付く。
正論言っても嫌悪されてしまう。
君の場合、
離見の見にもっと注意をすべきなのではないか?
道元さん辺りも「自他不二」とか言ってたでは無いか。
〇・・・其れだけでxx点(ペケ点)が付く。
アドラー御推奨の
「嫌われる勇気」だけは意気高しなりと、
お見受けいたしました。
どの時点から、「仏教」から「非仏教」へと変質したのか?
そもそも、最初から「仏教」が理解できなくて、
誤解で「非仏教」として解釈して、受容したのではないか?
異国の神様を拝んでいたのではないか?
「神仏習合」
「本地垂迹」
「明治維新」「革命政府」が、強引に、
「神仏分離」令という法律で、仏教を弾圧した。
それ以降、天皇陛下は、仏教徒には成れなくなった。
それまでは、天皇も仏教信者であった。
奈良の東大寺の大仏の建立も、天皇が行ったのに。
天皇も、譲位して、「出家して」「仏門に入って」、院政を布いたのに。
と釈迦の悟りの類似点は
坐禅・瞑想による変性意識に
自分流物語を乗っけた処、
根は同根であるようだ。
親戚関係の感性であるのかも。。。
右脳の世界観という形で在る。
昔「空海もどき」を天皇家は比護してきた事を忘れてはいまいか、イエスちゃんよ君の歴史認識はやはり自己中ですか
「移動しているもの」と「回転だけしているもの」とを、能は区別する。
「ビュンビュン」回転するのと、
「ぐるりぐるり」回転するのとを、能は区別する。
(その「区別」を「言葉」を用いて表現する)
これは頭脳の中の「情報処理の構造」から起こってくる。
また、認識と判断における「言語認識機能の構造」でもある。
人類の進化の問題であり、遺伝子DNAから、どの人間も「同じ構造の肉体」を持つから、「動き」の認識は同じだが、「言語を用いて」の認識のレベルに達すると、「文明・文化」によって相違を生じる。
「動いているもの」と「動かないもの」とを区別して、
そこから「不変なもの」が創造されてくる。
「不変なもの」「永遠なもの」「如来蔵思想」「仏性」「霊魂」「こころ」「清浄心」・・・
これこそが「非仏教」である。
「諸行無常」
「諸法無我」
南師は、『正法眼蔵』の講義を開始した。
「言葉」と『正法眼蔵』全87巻との関係を、知りたいと思う。
旧の「奈良」仏教勢力を、抑制するために、
「京都」に遷都して、
新の「平安」仏教を利用した
「最澄の天台宗」と「空海の真言密教」とで。
「天皇」が「庇護」した、
と言っても、天皇は愚かであり、仏教を判定できない。
へえー悟った風のイエスちゃんさんでも、まだ知りたいことがあるんだ。
イエスちゃんさんとか私が死ぬまでに、南さん、書いて出版して欲しいです!
私は言語問題が、まだしっくりこないので、『正法眼蔵』全87巻に取り組めない。けど、そこのこだわりに私も行きたいな。