唐突なのは戦争話だけではありません。香奈子の家を訪ねる父の場面も、登場人物の名前の出し方も、もっと前から計画的に書いた方が説得力があるように思います。
中でも、担任の岩永先生の描写に疑問が残ります。タイムは「岩永先生はさ、少したよりないところもあるけれど、でも、ぼくらの味を見ようとしてくれる。ぼくは、けっこう、先生の薄味、好きだけどな」というんですが、その前に出てきた様子からみると、トオルにいたずらをされて授業中に悲鳴をあげた勇人に声をかけたあと、「なんでも……、ありません」と言われて、何事もなかったように教科書を読み続けるという場面しか記憶にないのですが。
あ、かぜをひいたとか言って、「たのむから、きょうは静かにしてくれよな」なんていってるシーンもありますよ。
どのへんで「ぼくらの味」を見ようとしてくれるのか、せめてにおわせてほしいよ。気弱ながら芯が通った人らしい見せ場を作ってください、たのむから。
和也が、
「まるで欠食児童だなあ」という場面があります。タイムが意味を聞くと、香奈子は「食べ物がなくて、食事を抜くことだ」と教えたらしいのですが、えーと、「食事を抜くこと」は「児童」とはつながらないですよね。それともこのせりふの次にある「戦争中に体験したひもじさが、ふとよみがえった」という文にかかるのでしょうか。(でも、これも意味の説明にはあたりませんよね)
そういう緻密ではないディテールに、なんともいえずいらだつものを感じてしまうのです。
このシリーズは、「心の処方箋」と呼ばれているそうです。うーん、なんだかなー。ところで、「ハッピーバースデー」って、文芸書版と児童書版では違う部分があるのですか?(漢字が増えているくらい?)
吉富さんはアニメ版に関わった人なのかな。でも、児童書版もいつからか共著になっているので、そうするきっかけのようなものが何かあったのではないかと推察するのです。共著の分担も気になる。
年輩の男性にしては、このネーミングセンスには常々舌を巻いていましたが(だって「麗音」だよ……)実作者が吉富さんだとすると納得がいきます。
とにかく、もう少し構成を考えて書いてはどうか、と思わされます。ねらいはいいと思うんだけど。でも、物語は構築するものなのです。枝葉を刈ってすっきりさせてはどうでしょうか。
中でも、担任の岩永先生の描写に疑問が残ります。タイムは「岩永先生はさ、少したよりないところもあるけれど、でも、ぼくらの味を見ようとしてくれる。ぼくは、けっこう、先生の薄味、好きだけどな」というんですが、その前に出てきた様子からみると、トオルにいたずらをされて授業中に悲鳴をあげた勇人に声をかけたあと、「なんでも……、ありません」と言われて、何事もなかったように教科書を読み続けるという場面しか記憶にないのですが。
あ、かぜをひいたとか言って、「たのむから、きょうは静かにしてくれよな」なんていってるシーンもありますよ。
どのへんで「ぼくらの味」を見ようとしてくれるのか、せめてにおわせてほしいよ。気弱ながら芯が通った人らしい見せ場を作ってください、たのむから。
和也が、
「まるで欠食児童だなあ」という場面があります。タイムが意味を聞くと、香奈子は「食べ物がなくて、食事を抜くことだ」と教えたらしいのですが、えーと、「食事を抜くこと」は「児童」とはつながらないですよね。それともこのせりふの次にある「戦争中に体験したひもじさが、ふとよみがえった」という文にかかるのでしょうか。(でも、これも意味の説明にはあたりませんよね)
そういう緻密ではないディテールに、なんともいえずいらだつものを感じてしまうのです。
このシリーズは、「心の処方箋」と呼ばれているそうです。うーん、なんだかなー。ところで、「ハッピーバースデー」って、文芸書版と児童書版では違う部分があるのですか?(漢字が増えているくらい?)
吉富さんはアニメ版に関わった人なのかな。でも、児童書版もいつからか共著になっているので、そうするきっかけのようなものが何かあったのではないかと推察するのです。共著の分担も気になる。
年輩の男性にしては、このネーミングセンスには常々舌を巻いていましたが(だって「麗音」だよ……)実作者が吉富さんだとすると納得がいきます。
とにかく、もう少し構成を考えて書いてはどうか、と思わされます。ねらいはいいと思うんだけど。でも、物語は構築するものなのです。枝葉を刈ってすっきりさせてはどうでしょうか。