goo blog サービス終了のお知らせ 

 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■ルカの福音書 127 - イエスに選ばれたから / 大嶋重徳

2023年08月19日 | Weblog

2023/6/3放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
 今週の箇所ルカ6章には、イエス・キリストがご自分の弟子を12人選ばれたところが記されています。
 イエス様の選ばれた弟子はあまりにも多様な人たちでした。選考基準が全く見えない人たちが選ばれました。

 このイエス様の12弟子の選びからわかることは、イエス様がそばに置きたいと願われる人にはいろんな人がいるということですし、いて良いということです。そして、その人生で何をしたかが記されることも重要なことではないということです。

 名前だけしか記されていないバルトロマイや小ヤコブという人は、きっと特別な目立つことよりも当たり前のことを当たり前のように奉仕した人たちなのだと思います。弟子たちの食事の準備をしたり、集会の準備をしたのではないかと言われています。彼らは自分にスポットライトが当てられるよりもイエス様に光が当てられたら良いと考えて奉仕をする人たちであったのだと思います。自分の功績が書き記されることに無関心なそんな彼らのカッコよさがそこにはあります。

 クリスチャンになる、イエス様の弟子になるというのは、自分の意思で手を挙げて信仰を持ったというよりも、イエス様の夜を徹しての祈りの結果私たちには信仰が与えられイエス様の弟子となるのです。そしてイエス様はご自分が選んだ弟子のために、「信仰が無くならないように」と祈られました。この祈りは信仰がなくなりやすいものたちを選ばれたイエス様の判断、決断がすでにそこにあります。イスカリオテのユダのように、ペテロのように、私たちもまたいつイエス様を裏切るかなど分かりません。しかしイエス様が諦めずに、今朝もしっかりと手を握って私たちを「世の終わりまで、あなたと一緒にいるから」と支えてくださるのです。いつぐらつくかわからない信仰ですが、私たちは自分の力でやっていくのではありません。イエス様に選ばれたからという一点で信仰が続けられるのです。

 イエス様は今日も、「大嶋重徳はどうかなあ。峠を越せるかなあ。」と心配して夜を徹して看病するかのように私たちを見守ってくださっています。祈ってくださっているこのイエス様のそばにいて、じっくりイエス様の弟子として育てられていきたいと思います。少しずつでも、確かにイエス様のように変えられていきたい。そしてイエス様のことを伝えていく、そのような私たちでありたい、なりたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2023.6.3放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 126 - ベストメンバー / 大嶋重徳

2023年08月18日 | Weblog

2023/6/2放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
今週の箇所には、イエス・キリストがご自分の弟子を12人選ばれたところが記されています。

 70人ほどいたと言われる弟子たちの中で独特な12人の人たちが選出されました。弟子としては一言もコメントが残っておらず何をしたかも記されていない人もいます。優秀な選抜を勝ち抜いてきた人たちとは到底思えない性格の持ち主が選ばれました。

 この選ばれなかった他の弟子からは、「なぜ私じゃないのですか?」と思う弟子もいたでしょう。それほど選ぶ基準が分からない人たちが選ばれたのです。選ばれた12使徒たちも互いに「なんであの人なんですか?」と言いあったんじゃないかと思います。何より自分で、「なんで自分なんだろうか。」と考えこんだはずです。

 しかしここで彼らが選ばれた根拠はただ一点だけです。それはイエス様が選ばれたということです。彼らも、「なぜあなたが選ばれたんですか?」と、選ばれた理由を聞いてくる人たちに対して、「いやいや選んだのはイエス様だから。イエス様に聞いてください。」と言うしかなかったでしょう。

 私もまたよく思います。「なんで自分なんだろうか。」 私が神だったら私を選びません。私は結構ネガティブで物事を暗い方暗い方に考えるタイプです。ま、ぎっくり腰にもなりがちで大切なときに体調を崩しがちです。プレッシャーにも弱いです。何より問題は何度悔い改めても何度も何度も罪を犯すことです。クリスチャンの模範というところからは程遠い自分がいます。しかしそれでも牧師でいるのはなぜか。「イエス様が選んでくださった」としか言いようがありません。ですから、この12使徒の選びを思うときにホッとするんです。自分も居て良いんだなと思います。
 そしてこのイエス様の12使徒を選ばれたときのことを思うと、こんな自分のためにもイエス様は夜を徹して祈ってくださって、なぜだかわからないけれどもイエス様は自分と一緒にやりたいと言ってくださったのかと思うと、ありがたい気持ちになってきます。そして間違いないことは、イエス様の選びはイエス様のベストセレクションだということです。 イエス様がベストメンバーだと選ばれたのです。

 今日ラジオをお聴きのあなたも、すでにイエス様のベストセレクションにあるからこそこのラジオを聴いておられると私は信じています。
 
 あなたを選ぶイエス様の思いにぜひ応えていただきたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2023.6.2放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 125 - なぜこの顔ぶれ? / 大嶋重徳

2023年08月17日 | Weblog

2023/6/1放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
 今週の箇所には、イエス・キリストがご自分の弟子を12人選ばれたところが記されています。

 今日は、どんな12人であったかを見ていきましょう。
 1人目は元漁師のペテロです。頭で考えるというよりも筋肉で考えるタイプです。漁で鍛え上げた腕っ節でイエス様を捕らえに来た兵隊たちに剣を抜いて戦おうとする喧嘩っ早い男。「あなたは生きる神の子キリストです。」と良(い)いことも言いますが、イエス様のことを「あんな人は知らない。」と3回も裏切る男がペテロでした。

 次にペテロの弟アンデレ。彼はもともとバプテスマのヨハネの弟子でしたが、イエス様に出会った時に、「ああ、こっちが本物だ。」とわかり、すぐにヨハネから離れていく直感の男アンデレ。ヨハネの弟子にどう思われるかなどは考えない潔さがありました。

 続いてヤコブとヨハネの兄弟。彼らはイエス様に「栄光をお受けになるときは、あなたの右と左に座らせてください。」とあつかましく出世欲丸出し。兄のヤコブは「雷の子」と言われるほどの短気。ヨハネはやがてヨハネ福音書を書きますが、ほかの3つの福音書とは全く違う書き方をし、俺は俺のやり方でやるという自分のことが大好きな芸術家タイプです。

 さらにピリポ。彼はイエス様から「こんなに長くあなたがたと一緒に居るのに私のことが分かっていないのか!」と叱られる。どちらかというとボーっとしているタイプです。

 そしてトマスは寡黙な男。非常に慎重で疑いながら斜に構えている感じです。

 そしてバルトロマイ。名前だけです。何をしたかは全く出てきません。

 そしてもう一人のヤコブも名前だけ。同じくヤコブがいるので、背が低かった理由で小ヤコブと言われる。もうちょっと他の言い方があっても良いんじゃないかと思います。

 さらに取税人だったマタイ。

 そしてイスラエルを愛する極右過激派集団の熱心党員シモンです。ローマの手先になっていた取税人のマタイとは合うはずがない人物。二人で遣わされる時には、一緒にすると一番まずい二人でした。

 そしてイスカリオテのユダです。イスカリオテというのは、イスが「人」。カリオテとは「大都会」。「大都会の男ユダ」という意味です。彼は弟子集団のお財布を預かり、弟子集団の財政をまわした男です。できる男というならば彼が一番できる男でした。

 イエス様が選ばれたのはこの12人でした。どうしてこんな12人が選ばれたんでしょうか。 続きは明日の朝にお話します。

 

 ( PBA制作「世の光」 2023.6.1放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 124 - イエスの選び 2 / 大嶋重徳

2023年08月16日 | Weblog

2023/5/31放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 新約聖書ルカ6章にはイエス・キリストがご自分の弟子を12人選ばれたところが記されています。

 では、なぜ12人だったのでしょうか。これは旧約聖書のイスラエル12部族の12からきています。イエス様のことばに従う新しい共同体を形成するためでした。この12人をご自分の身近に置き、イエス様と生きるライフ・スタイルを学ばせ、全世界に使徒たちを遣わすためにイエス様は12人を選ばれました。

 さらに、イエス様が使徒たちを遣わされるときは二人ずつチームで遣わされました。決して一人で行くことはありませんでした。神様の恵みによって生かされていく新チームの名前がやがて「キリストの教会」と言う名前になっていきます。イエス様の新チームは今12使徒を経てキリスト教会となって繋がっています。

 しかし、問題はなぜこの12人が選ばれたかということです。イエス様のそばにはこの時すでに、いつも70人ぐらいの弟子たちが一緒にいました。イエス様の周りにたくさんの弟子たちがすでに集まっていたのです。

 しかし、このとき選ばれた12人は、まあ変わった人たちの寄せ集め集団としか思えない人たちばかりでした。しかも、ここにはあのイエス様を裏切った「イスカリオテのユダ」が含まれています。通常誰かを選ぶという場合、優秀な人を選ぶものです。しかしこの12人を見ると誰も選ばれたエリートはいません。

 やがてイエス様の弟子に加わってきた人たちを見ますと、夜にイエス様を訪ねてきたニコデモという人は宗教的エリートでした。またローマ帝国の軍人の百人隊長もイエス様のそばに現れ、イエス様のことばに従う者となっていきました。イエス様は彼の信仰を「このような立派な信仰はイスラエルの中にも見たことがない。」と言われました。イエス様は後から加わってきた優秀な人たちを見たときに「まずいなあ。12人選ぶの早まったなあ。」と思われなかったのかなあと思います。また、周囲の弟子たちの中にも、「12使徒の入れ替え戦をやりましょう。」という他の弟子もいなかったかなあと思います。

 しかし、これらの人々が神に委ねられた後の教会の柱になるべくして選ばれた人たちでした。

 明日はどんな12人であったかを見ていきたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2023.5.31放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 123 - イエスの選び / 大嶋重徳

2023年08月15日 | Weblog

2023/5/30放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 今週の箇所、新約聖書ルカ6章には、イエス・キリストが「使徒」とも呼ばれるご自分の弟子を12人選ばれたところが記されています。

 イエス様が「使徒」を選び出されたのには目的があります。それはイエス様の身近に置くためでした。イエス様のそばでイエス様と寝食をともにし、神とともに生きるとはどういうことなのかということを生活を一緒にしながら教えようとされたのです。

 「弟子」ということばは「倣う者」という意味があります。信仰の歩みというものも自分勝手なスタイルでやるわけにはいきません。私たちにはこれまでの生きてきた自分の価値観、生活習慣、また人生で傷ついてきたそんな傷、その傷からくる歪みもあります。

 娘が産まれてすぐの頃です。明日にはいよいよ説教しないといけないにも関わらず、説教準備が充分に出来ていない。私には焦りがあって、少しだけ眠って早く起きて説教を作ろう。しかし生まれたばかりの娘が夜中に泣き続けました。思わず「うるさい」と大声を出してしまった自分がいました。その自分を見て娘が怯えたような顔で見てくる。クリスチャンになって、牧師にもなって、聖書を語りながら自分はいつまでも変えられていない。娘を抱きしめながら「ごめんね」と謝ったことを思い出します。変わらないといけない自分に気が付かされました。

 イエス様は私たちを身近に置くということを通して、イエス様ならばこういうときにどうされたのかということを経験させてくださいます。イエス様と時間を過ごしながら自分の生き方の欠けのあるところに気づき、自分の人生の傷のついたところが癒されていく。そして自分の語ることばが新しくされていくのです。生活の丸ごとをイエス様のそばで生きるという修練をしていくのです。

 「使徒」ということばは「アポストロス」。 「使命を与えられて派遣される者」という意味があります。イエス様はご自分のそばに生きているものをこの世界に送り届けようとされます。律法学者など自分に怒りを向けてくる人たちのそばにも神の愛を伝える人を送り込もうと計画されたのです。イエス様の弟子とは、神とともに生きる生き方の証をするために選ばれているのです。そして、あなたもその選びの中にあることを今週知っていただきたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2023.30放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 122 - イエスは祈りつつ / 大嶋重徳

2023年08月14日 | Weblog

2023/5/29放送

 「世の光」の時間です。 いかがお過ごしでしょうか、鳩ヶ谷福音自由教会牧師の大嶋重徳です。少し間があきましたが、引き続きルカ福音書を順番に読んでいこうと思います。

 今週は6章です。ここで、イエス・キリストがご自分の弟子を12人選ばれたところが出てきます。イエス様はご自分の弟子を選ぶために山に行き、神様に祈りながら夜を明かされました。

 ラジオをお聴きの皆さんは徹夜でお祈りしたということがあるでしょうか。かつて私は教会で、友達と大晦日の夜11時ごろから徹夜祈祷会というものをしました。教会で祈られている祈祷課題を順番にお祈りしたことがあります。そこで経験したことは、祈り続けることは決して簡単なことではなく相当な体力がいるということでした。

 ここまでルカ福音書では、イエス様に対するパリサイ派の人や律法学者たちのむき出しの悪意や殺意まで抱く感情との対決がありました。そこでイエス様が選ばれたのは、彼らとの全面対決ではなく、イエス様がなさったのは祈りに行くということでした。私たちは時折、喧嘩早くなることがあります。かっとなります。そして一歩も引いてはならないと思い、怒鳴り散らすことも起こり得ます。

 しかしこの朝、イエス様のこの選択を覚えておきたいと思います。よく祈ってから自分はことばを発しているのか? イエス様は大切な時、いつも祈りに向かうということをなさいました。夜を明かすということばは、「リアニュクテリュオウ」ということばが使用されています。医療で用いることばです。特に夜通し看病するという場合に用いることばです。親が、子どもが病気の時に明け方まで付き合う。高熱が出たならばなんとかして熱が引くように、どれだけ自分の体力が奪われることがあったとしても夜を徹して寄り添うわけです。そのようにしてイエス様の夜通しの熱心な祈りの結果生まれたのが12人の弟子たちでした。

 今週はこの12人の弟子たちの選びについてご一緒に聖書に聴いていきたいと思います。何のために弟子たちが選ばれたのか。そしてイエス様はあなたの人生を神の計画のために選び出したいと願っておられ、あなたのためにも今も夜を徹して祈ってくださるお方です。このイエス様の選びを、今日自分にも向けられていると思いながら今日の一日をお過ごしいただきたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2023.5.29放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■あなたは休めていますか? 6 / 豊田信行

2023年08月12日 | Weblog

2023/5/25放送

 「世の光」の時間です。 いかがお過ごしでしょうか、ニューライフキリスト教会牧師の豊田信行です。安息の学びも最後となりました。

 聖書の中でイエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)と招いておられます 「疲れた人、重荷を負っている人」とは自分が自分の人生の最終責任者という担いきれない重荷に押し潰されそうになってる人を指しています。また、 「疲れた人、重荷を負っている人」とはとは罪責感に押し潰されそうになってる人も指しています。

 罪責感は赦されない苦しみとも言えます。傷つけてしまった人、裏切ってしまった人に心から謝っても赦してもらえない。その苦しみに加えて、自分のことが赦せない苦しみもあります。

 ある時、イエスのもとに中風の人、今で言うと脳血管障害等で半身不随になった人が板の上に乗せられて運ばれてきました。イエスはその人を運んできた人々の信仰をご覧になられ、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(マタイの福音書9:2) と宣言されました。

 中風を患っている人も、その人を運んできた人たちも、病が癒されることを願っていましたが、なぜイエスは半身不随になり自分では歩くことができなくなった人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われたのでしょうか。

 中風という病が彼の犯した罪への刑罰だったのでしょうか? そうではありません。イエスは彼の心を四六時中苦しめていた罪責感の苦しみをご覧になられたからです。聖書は彼がどのような人生を歩んできたのか、どのような過ちを犯したのかについては何も語りません。しかし、「子よ、しっかりしなさい。」とのイエスのことばから、その人が生きる意欲を失いかけていたことが分かります。病の苦しみは人から生きる意欲を奪いますが、罪責感は生きる意欲だけではなく生きる意味さえも奪います。

 イエスが「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われた休息・安息とは、私たちが抱えている罪責感という重荷を神の御子であるイエスが引き受けて下さり、十字架の上で御自分の命をもって罪を償い、赦しを与えてくださるためです。イエスが「あなたの罪は赦された」と宣言されたのは、赦しこそがその人に生きる意欲と生きる意味を回復させるからです。神の御子イエスは「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と招いておられます。

 明日は日曜日です。お近くの教会にぜひ足を運んでください。神様はあなたを待っていてくださいます。


 ( PBA制作「世の光」 2023.5.25放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■あなたは休めていますか? 5 / 豊田信行

2023年08月11日 | Weblog

2023/5/26放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? ニューライフキリスト教会牧師の豊田信行です。 今日もご一緒に安息について学びたいと思います。

 安息日は金曜日の日没から始まります。ユダヤの時間概念では一日は日没から始まるのです。エッ?っと思われる方もおられるでしょう。 一日の始まりは朝と決まってる。別に誰かが決めたわけでありませんが、自然とそうなっています。

 聖書の創世記には神様が天地万物を六日間で創造されたことが記されています。神様がその日その日の創造の働きを終えられたとき、「夕があり、朝があった」と一日の終わりが告げられています。最初この聖書の箇所を読んだ時、「朝があり、夕があった」の間違いじゃないかと思いました。でも間違いではないのです。

 一日の始まりが朝なら活動から始まります。日没なら休息から始まります。普通に考えると、活動して疲れたから休むのであって、疲れていなければそもそも休む必要がありません。なぜ疲れてもいないのに休息から始めなければならないのでしょうか。聖書が約束する安息とは疲れたから休むものではないのです。

 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。自分にできること全てを出し尽くしたら、あとは天命・宿命に身を任せるとの意味です。しかし望ましくない結果が出たとき、その結果を天命・宿命として受け入れることができるでしょうか。自分の努力が足りなかった、もっと頑張ればよかったと悔やみ、自分を責めたりしないでしょうか。

 旧約聖書の預言者エレミヤは、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29:11)と神様からのメッセージを語りました。

 聖書が日没を一日の始まりとするのは、神様は一人ひとりに将来と希望を与える計画をしっかりと立ててくださっていることにまず心をとめるためです。私たちは偶然の産物ではないのです。そしてたとえ望ましくない結果が出たとしても、それでも神様の計画が変わらず将来と希望を与えてくださることを覚えるとき、約束された安息をいただけるのです。

 ぜひあなたの人生にも素晴らしい計画を立ててくださってる神様を心にお迎えしていただきたいと思います。あなたの人生には将来と希望があるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2023.5.26送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■あなたは休めていますか? 4 / 豊田信行

2023年08月10日 | Weblog

2023/5/25放送

 「世の光」の時間です。 いかがお過ごしでしょうか、ニューライフキリスト教会牧師の豊田信行です。今週、聖書が約束する安息について学んでいます。

 十戒の第四番目の戒めは「安息日を覚えて これを聖なるものとせよ」です。一週間のうちの一日を安息の日として覚えることを命じています。

 現代のイスラエルでは金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日に定められています。金曜日、日没を迎えると公共の交通機関はストップしますし殆どの店は閉まります。熱心なユダヤ教徒の家庭では太陽が沈む前に、二本のろうそくに火を灯し、大晦日の夜カウントダウンをしながら新年を迎えるように、毎週毎週安息日を喜び迎えます。

 休日は待ち遠しいものですが、安息地は休日とは何が違うのでしょうか。安息日のヘブル語はシャバット「止める」との意味があります。金曜日の日没を迎えると仕事が途中でも手を止めるのです。大学入試の試験会場で試験時間が終わり試験官が大きな声で「はいそこまで。筆記用具を置いてください」と言うと、解答を書いている途中でも手を止めなければなりません 金曜日の日没は神様が全ての人に向かって「はいそこまで。手を止めて」という号令のようです。その号令には「後は私が引き受けるからゆっくり休みなさい」とのメッセージが込められています。

 「心配が尽きない」 「心配の種が尽きない」ということばがありますが、人は心配することをやめようとしてもなかなかやめることができません。「心配しなくても良い」と自分にどれだけ言い聞かせても、すぐに心配で心が一杯になります。なぜなら、「心配しなくても良い」と自分に言い聞かせても心配には行き場がないからです。」

 聖書の中でイエスは、「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイの福音書6:34)と言われました。神様は、「もう十分に心配しました。後はわたしにあなたの心配を預けなさい。」と言ってくださるのです。

 金曜日の日没が訪れるたびに「シャバット。手を止めなさい。」との号令に聞き続けるのは、尽きない心配を神様に預け、心配という労苦で心をすり減らさないように心を休ませるためなのです。イエスはいつでもどんなときでも、「あなたの心配をわたしに預けなさい。」と招いてくださっています。あなたの心配には神様という行き場があるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2023.5.25放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■あなたは休めていますか? 3 / 豊田信行

2023年08月09日 | Weblog

2023/5/24放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? ニューライフキリスト教会牧師の豊田信行です。 今週は聖書が約束する安息について学んでいます。

 神様が安息日を守ることを命じられた時、「あなた方はいかなる仕事もしてはならない」と言われました。なぜ安息日にいかなる仕事もしてはならないのでしょうか。

 エジプトの奴隷であったイスラエルの先祖たちは自分たちの命の価値を生産性という物差しで測られてきました。一日どれだけのレンガを作ったのか、それが自分の命の価値でした。それ以上でもそれ以下でもありませんでした。奴隷とは鎖につながれている人のことではなく、生産性という物差しだけで命の価値を測られている人のことです。もし病気や怪我で働けなくなると命の価値は失われてしまいます。生きる価値なしと見なされたのです。

 安息日に一切の仕事が禁じられた理由の一つは生産性という物差しでは測ることのできない自分の命の価値を見つめるためでした。聖書は人の命の価値とはその人が生産したもの・産み出したものではなく、その人のために捧げられた愛の犠牲だと教えています。
 一人の人が誕生し成人するまでの期間、そして成人し死を迎えるまでの期間、どれだけ多くの時間と労力、経済、愛の犠牲が注がれるでしょうか。安息日とは、どれだけ多くの愛の犠牲が私たちに注がれているのかを覚える日なのです。

 聖書には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)と書いてあります。
 神様は実にひとり子を与えるほどに私たち一人ひとりを愛してくださいました。 そして今も愛してくださっています。神の愛にこそ人の命の価値があります。

 また聖書にはこのようにも書いてあります。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(ローマ人への手紙8章32節)
 神様は私たち一人ひとりのためにご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡されたのです。神様は私たち一人ひとりのためにご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡されたのです。神様はご自分のひとり子イエスを惜しまないはずがありません。そのひとり子イエスを私たちの罪を赦すために十字架の死に明け渡された神の心はどれほど痛みを覚えられたことでしょうか。この痛み、この大きな愛の犠牲こそ私たち一人ひとりの価値なのです。この神の愛を知っていただきたいと思います。


 ( PBA制作「世の光」 2023.5.24放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする