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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■悲しみの道 / 関根弘興

2021年07月27日 | Weblog

2021.2.9放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今週は、イエス様の十字架への道、ということでお話をしています。

 イエス様は当時の宗教家たちの妬みによって、総督ピラトのもとで裁判を受けることになりました。再三、ピラトは「イエス様には罪は見当たらない」と宣告していたのですが、群衆は納得しませんでした。そしてピラトは、ヘブル語でガバタ「敷石」と呼ばれる場所で裁判の席に着いたのです。
 
 群衆は「イエスを十字架につけよ」と口々に叫び始めました。

 そしてついにピラトは、イエス様を十字架につけるために引き渡したのです。

 イエス様は自分が磔けになる十字架を背負い、処刑場まで歩いて行かれました。その道はその後、「悲しみの道」ヴィア・ドロローサと呼ばれるようになりました。約1キロほどの道です。

 十字架は約4.5メートルの縦の棒と2メートルぐらいの横棒を別々に運び、処刑場で組み合わせることになっていました。囚人が担ぐのは横棒だけであったと言われていますが、横棒だけでも4、50 キロはあったのではないかと思います。

 考えてみてください。イエス様は前日の夜逮捕され、合計で6回もの審問を受けられました。一睡もされていなかったでしょう。そして残酷な鞭打ちによって背中はザクロのように割れ、血だらけです。その背に重い十字架を背負って歩いて行かなければならないのです。荊棘(いばら)の冠を被せられた頭からは血が流れていたことでしょう。どんなに屈強な男でも肉体的にはもう限界を超えている状態だったでしょう。

 私が高校生の頃、ドロローサという歌を教会でよく歌いました。こんな詞です。

 私の罪のために 重い十字架 負わされ
  嘲る人の中を 耐えて行かれたイエスよ
      ドロローサ ドロローサ
  私の胸の中に 刻まれた主の十字架 
  いばらの冠つけて 祈られる主の姿
      ドロローサ ドロローサ 登って行く道

 イエス・キリストが歩まれたこの悲しみの道は一体何の為だったのでしょう。

 聖書はこう教えています。 第2コリント5章21節

 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」

 私たちのために歩まれた悲しみの道ドロローサだったのですね


      (PBA制作「世の光」2021.2.9放送でのお話しより)
 ***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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