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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■大きな喜びを告げ知らせる/福井 誠

2018年12月19日 | Weblog
2018/12/19放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「大きな喜びを告げ知らせる」です。ではルカの福音書2章10節から読んでみましょう。
 「 御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

 皆さん、おはようございます。聖書通読は進んでおられますでしょうか? 継続は力なり。一日一章読みこなす時に不思議にも自然と育っていくものがあるものですね。ぜひ神様と良き時を過ごす時間を続けてくださいね。

 さて今日も先週に引き続いてクリスマス特別番組なので、少し聖書通読と離れたお話をしますが、先週は神様が平凡なものの神、いや弱い者の神、誰も関心を向けない者の神であるとお話をしました。今日、御使いが「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」と語りかけた羊飼いたちは実はまさにその誰にも関心を向けられない者たち、見捨てられた者たちでした。当時のイスラエルにも一種の階級があったのですね。宗教的な伝統儀式をきちんと守るステータスを持っていった人がいる一方、羊飼いのように野宿の生活が続き、宗教的な伝統儀式をしっかり守れず、ある意味で下に見られていた人もいました。日本にカーストのような階級は無いと言いますが、実際には非公式の上下関係はどこにでもありますね。子どもの世界にも勉強のできる子はできない子を下に見る。贅沢のできる子はできない子を下に見る。そんな葛藤を通らされたりします。職場でも老人ホームでもどこにでも、一種の上下関係はあるものです。しかし、神様に人間社会の上下など関係がありません。むしろ下に見られている人に、神様は真っ先に良き訪れを告げ知らせてくれるのです。イエスの母マリヤはそのような神を賛美してこう語りました。

 「主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。」(ルカの福音書1章51、52節 )

 何と私たちにとって大きな希望であり、大きな喜びのお告げでしょうか。引き上げてくださる神様がおられる教会へ行ってみましょう。では良き一週間、ありますように。

 (PBA制作「世の光」2018.12.19放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

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■家族を連れて逃避行/板倉邦雄

2018年12月18日 | Weblog
2018/12/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
「クリスマスって実は」という主題でクリスマスの裏側にある秘話をお話しています。今日は「家族を連れて逃避行」という題でお話ししましょう。二歳ぐらいに成長した幼子イエスを連れて遠いエジプトの国へ逃亡した家族のお話です。

 さて、ベツレヘム村にいたヨセフに神の使いが夢の中に表れて言いました。「立って幼子イエスとその母を連れてエジプトに逃げなさい。ヘロデ大王が幼子を探し出して殺そうとしているからだ。」

 先週、東方の博士たちがエルサレムの都に着いて尋ねて言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。その方を拝みに来ました。」 ヘロデ大王はその情報を聞いて不安に感じましたね。その不安は幼子を殺す殺意へと変わっていったのです。そこで夜の間に幼子イエスとその母とを連れてエジプトへ行きました。逃避行先はユダヤのベツレヘムから約500キロも離れたエジプトでした。幼子を連れての逃避行がどんなに辛く、犠牲であったかをこのクリスマスに考えるのは有益ではないでしょうか。

 実は私と私の家族も、イエス・キリストを信じるという理由で二人の息子と妻を連れて逃避行をしなければならない時がありました。イエス様と共に生きるということはこういうことなんだとしみじみ思いました。

 ところで、ヨセフ一家の逃避行は旧約聖書に預言されていたことが実現するためだったと書いてあることを忘れてはなりません。「これは、主が預言者を通して、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と語られたことが成就するためであった。」とマタイ福音書の2章の15節は書き残しました。

ですから、私たちの人生に起こる一つ一つの出来事も実は、天におられる神様の隠れた深い計画の中にあることをこのクリスマスに思いを馳せたいのです。と同時に、私はイエス様を守るために、神のお心を一生懸命に果たしたヨセフとマリア夫婦に感謝します。

  (PBA制作「世の光」2018.12.18放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■大逆転のクリスマス/岩井基雄

2018年12月17日 | Weblog
yono2018_1217大逆転のクリスマス/岩井基雄

2018/12/17放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 クリスマス・スペシャル第二週の月曜日はヨハネの福音書1章の2回目、「大逆転のクリスマス」です。

 クリスマスと言えばローソクの温かな炎を思い出しますね。それはアルコールランプなどの炎と違って昼間でもよく見えます。それは蝋(ろう)の中にある不純物、いわば煤(すす)の原因となるものが炎の温度を下げ、よく見える赤い炎としているのだそうです。すなわち真っ黒の原因が燃やされて、あの暖かな炎、昼も夜も輝く炎になっているのです。煤が炎になるような、闇が光になる逆転の喜び、逆転の輝きを世界の人々にそしてあなたに与えるものがクリスマスなのです。またそれは死が勝利のいのちに飲まれるほどの大逆転なのです。

 今日の聖書をお読みします。
 「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。・・・ すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」 新約聖書 ヨハネの福音書1章4節、5節、9節

 すべてのものを造られた創造主である神の御子キリストにはいのちがあり、そのいのちは人に光を与えるのです。そしてその光は闇に輝き、闇はキリストに打ち勝つことができないのです。この世界にも私たちの心の中にも、様々な闇、汚れや罪がありますね。しかしまことの光であるキリストは私たちの心を照らし、その闇を光に変え、その心にいのちを与えてくださるために、この地上に来て、そして十字架にかかってくださったのです。イエス・キリストはご自分のいのちと愛によって、ローソクの蝋よりも不純物に満ちた私たちの心を光に変え、そして罪を赦し、私たちを光の子としてくださるのです。

 このクリスマスは、人の心の闇が光に変えられるために神の御子イエス・キリストがこの地上に来られたことを祝う時です。闇から光、死からいのちへの逆転の人生があるのです。

 聖書のことば
 「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。・・・すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。
   新約聖書エペソ人への手紙5章8節、13節、14節

  (PBA制作「世の光」 2018.12.17放送でのお話より )
 
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■クリスマスって実は「畏れ多い出来事」です/羽鳥頼和

2018年12月15日 | Weblog
2018/12/15放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
世の光では今週からクリスマス・スペシャルをお送りしています。今日は「クリスマスって実は畏れ多い出来事です」というテーマでお話しようと思います。

 新約聖書のルカの福音書はクリスマスの時、恐れた人がいたことを語っています。最初のクリスマスとはもちろんイエス・キリストの誕生の時のことです。恐れたのはイエスの母となるマリヤです。マリヤは何をどのように恐れたのでしょう。マリヤは天使ガブリエルからこのように言われました。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子は・・・、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」(ルカ 1章31、32節 新改訳第三版)
有名な受胎告知のメッセージです。マリヤはこのことばを聞いて恐ろしくなり、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ 1章34節 新改訳第三版)と答えました。マリヤは自分の身に起ころうとしている神のなさることを聞いて恐れました。マリヤはもともと神を恐れる者でした。この恐れるというのは神を信じて恐れることです。つまりマリヤは神を恐れる敬う人だったのです。マリヤは神を恐れ敬いながら神のなさることを畏れ多いこととして受け入れようとしました。

 実はクリスマスはすべての人にとっても畏れ多い出来事です。それは神であるキリストが私たちを救うために人となってくださったからです。キリストは人を救うために十字架にかかって死んでくださいました。神が人となること、それも身代わりとなって死んでくださるために人として生まれてくださったことこそ畏れ多い出来事です。箴言28章14節はこのように語っています。「幸いなことよ、いつも恐れる心を持つ人は。」(新改訳2017) 神は私たちを救うために畏れ多いことをしてくださいました。クリスマスを迎えるこの時、畏れ多いキリストによる神の救いを信じましょう。

 明日は日曜日です。神を畏れ敬う心を持って、お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.12.15放送でのお話より )
 
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■キリストを礼拝する/関根弘興

2018年12月14日 | Weblog
2018/12/14放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

クリスマス。クリスマスとはキリストということばと、マスということば--これは礼拝するという意味があることばですが--、この二つが合わせられたことばです。つまりクリスマスとはキリストを礼拝するという意味なんですねえ。聖書を開くと、イエス・キリストの誕生の経緯のことが記されています。

 イエス・キリストはベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。救い主の誕生を最初に知らされたのは、野宿で夜番をしながら羊の世話をしていた羊飼いたちでした。真夜中のことでした。御使いが現れ、「 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2章11節 )と告げられたのです。彼らは急いでダビデの町ベツレヘムに向かってきました。彼らは何軒も何軒も訪ねたのでしょう、ついに飼い葉桶に寝かされているイエス様を見つけ、救い主の誕生を喜びながら帰っていったんです。
 それからしばらくたった時、長い道のりを旅をしながらやってきた人たちがいました。彼らは長い間星の研究をしていた学者たちでした。彼らが星を観察していると、不思議な星を発見しました。そしてこの星の出現は、世界の救い主がお生まれになったしるしに違いないと考え、はるばる遠い遠い東の方からやってきたのです。
 彼らは最初にエルサレムの王宮を尋ねました。しかしそこにはイエス・キリストはおられませんでした。そこにいたのは猜疑心に満ちたヘロデという王様でした。王は救い主が生まれるという話を聞くと、自分の地位が脅かされてしまうと考え、救い主がどこで生まれるかを早速調べさせたのです。聖書には、救い主はベツレヘムで生まれると記されています。そこで、東方の博士たちをベツレヘムに送り、あとで救い主を始末してしまおうと考えたんですねえ。東方の博士たちは長い長い時間かかりましたが、ついに幼子イエス・キリストのもとにたどり着きました。そしてイエス・キリストを礼拝してそのまま帰っていったんです。そこには特別な音楽も飾りもありませんでした。しかし救い主がお生まれになったという事実こそ、誰にとっても最も大きな喜びであるはずです。なぜならこの方によって永遠の救いがもたらされるのですから。

 この時、まずイエス様を心から喜び礼拝するクリスマスをご一緒に過ごして行きましょう。

     (PBA制作「世の光」2018.12.14放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■主よ、来てください/大嶋重徳

2018年12月13日 | Weblog
2018/12/13放送

世の光の時間です。大嶋重徳です。アドベント、クリスマスを待ち望む時となりました。クリスマス・ソングが町へ流れ始めると、ああクリスマスが近づいてきたんだなあと思わされます。私の友達が、クリスマスの歌が聞こえて来るとイエス様の足音が聞こえて来るような気がする、と言ってくれた事があります。クリスマスソングのトントントントンというリズムと歌詞の内容が一つになってイエス様がまるで近づいて来られるその足音が聞こえるような気がすると言ったのです。ああ素敵な解釈だな、なるほどなと思いました。

 神の御子イエス・キリストは事実このクリスマスにこの世界に来てくださいました。私たちの所に幼子として生まれてくださいました。更に聖書は実はもう一度こられると約束しているのです。

 クリスマスに来られたキリストが必ずもう一度来られる。キリスト教会がクリスマスの前のアドベントの季節に伝統的に大切にしてきたことは、主イエスが目に見える形で再び来てくださる、終わりの日にキリストが再び来られる再臨の日を待つお祈りをすることでした。主イエスよ来てください、というこのお祈りを聖書で記されていることばで言うとマラナタと言います。主よ来てください、という意味です。クリスマスは喜びの雰囲気が町の中で溢れる中、一方でやりきれない一年を思い起こし、心が暗くなる季節でもあります。出口の見えない現実を前にしてうずくまるような思いになっていきます。イエス様、私の側に来てくださいとしか祈れないような現実があるのです。しかし私たちがイエス様来てくださいと願う祈りをするときに、その祈りにイエス・キリストが私たちのそばに近づいてこられるのです。聖書の黙示録にこういうことばがあります。

 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節、新改訳第三版)

 もう私たちはいろんな大変なことがあったとしても、もう神様がどこにおられるか分からない、そんな思いになる必要はないのです。私たちのいる部屋の扉の前に、イエス様の気配がするのです。戸口に立って、トントントントンと叩いておられるイエス様の音がすぐそばで聞こえて来るのです。そして叩く音と共に、イエス様の声がもうすぐ聞こえて来るその時、私たちの心は、早く入ってきてくださいとイエス様を迎え入れる喜びで満ち溢れのです。そんなクリスマスをぜひ過ごしていただけたらと願います。

    ( PBA制作「世の光」2018.12.13放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■男子の初子を産んだ/福井 誠

2018年12月12日 | Weblog
2018/12/12放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「男子の初子を産んだ」です。ではルカの福音書2章6節、7節から読んでみましょう。
 「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 皆さんおはようございます。聖書の通読は進んでおられるでしょうか。継続は力なり。一日一章を読みこなす時に、不思議にも自然と育っていくものがあるものですねえ。ぜひ神様と良き時を過ごす時間を続けてくださいね。

 さて今日はクリスマス特別番組ということで、少し聖書通読を離れたお話をしますが、先日私が講師をしている学校のある事業で、生徒さんとお話をしていて面白い事を考えました。ある生徒さんが言うのです。「マリアさんは特別な女性のように見られているけれど、実は余りにもありきたりの女性であったのではないだろうか。だから誰もイエス・キリストの誕生に気づかなかったのではないか。」と。確かに考えてみればそうかもしれませんね。もしマリアさんが神様に選ばれたというので、それはそれは美貌も気質も能力も標準をはるかに超えた誰もが素晴らしいと認める特別な女性であったら、その一挙手一投足にも注目されたことでしょう。まして子どもが生まれるとなれば、皆がその初子の誕生に注目したことでしょうねえ。しかし実はそうではなかった訳です。神様がお選びになったマリアさんはどこにでもいるような普通の女性。ありきたりな人であったからこそイエス様の誕生は誰にも注目されず誰にも知られなかったと言えます。そして宿屋が満杯の時に特別室を開けてくれるような配慮もなされなかったのですねえ。イエス様が飼い葉おけに寝かせられた事情はそういうことだったのでしょうね。しかしこれは大切なことを教えてくれています。私たちの神様は力ある者の神ではありません。むしろありきたりの人間の神、いや弱い者の神、誰も関心を向けない者の神です。ぜひ今週は教会へ行って平凡すぎる自分に関心と祝福を注いでくださっている神様を知っていただきたいと思いますね。
 (PBA制作「世の光」2018.12.12放送でのお話より )

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■不安を感じたクリスマス/板倉邦雄

2018年12月11日 | Weblog
2018/12/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「不安を感じたクリスマス」という題でお話ししましょう。クリスマスとはクリスト・マスの合成語です。クリストはキリスト、マスは祭りという意味です。ですからキリスト誕生の祭りをクリスマスと言っています。祭りは本来楽しいし嬉しいものですね。しかしある人にとってはキリストの誕生は不安の時でした。

 さてイエスがヘロデ大王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。その時、東から来た博士たちが人々に尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになったお方はどこにおられますか? 星を見たので、その方を拝みに参りました。」 ユダヤ人の王様の誕生の噂を聞いたヘロデ大王は不安に感じたのです。いつか王様の地位と名誉そして権力が脅かさされるからです。

 しかし、実はエルサレムの人々も不安を感じました。ユダヤ人にとって異邦人、外国人のヘロデ大王から解放されるチャンスではなかったでしょうか。人々にとって歓喜に喜ぶべきではありませんか。しかし私たちは自分自身の魂にもまた日々の営みにも、社会生活の中にも、波風を立てたくないという思いがあります。新しいユダヤ人の王様の登場はやがてヘロデ王家やローマ政府との対立を引き起こすことを人々は想像できたからでしょう。武力による自由はないからです。しかし東の国から来た博士たちは東方で見た星が幼子イエスのいる所まで行き、その上にとどまるのを見ました。博士たちは星を見て非常な喜びに溢れたのです。そして家に入って幼子に会い、ひれ伏して拝み、贈り物を捧げました。このユダヤ人の王イエスは世界の王となり愛によって自由を私たちに与えてくださる王様だと彼らは信じたからです。

 さて、翻ってクリスマスは私たちにとって不安ををもたらす時でしょうか、それとも信仰による喜びの中で迎えることでしょうか。

  (PBA制作「世の光」2018.12.11放送でのお話より )

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■壮大な愛に基づくクリスマス/岩井基雄

2018年12月10日 | Weblog
2018/12/10放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 クリスマス・スペシャルの第一週を迎えています。この月曜日の放送ではヨハネの福音書の1章から3回にわたってメッセージをお届けします。クリスマスは全世界で祝われていますが、世界で最初のクリスマスは誰にも知られない小さな村の外れの出来事でした。しかしこのクリスマスは実は宇宙大のスケールの意味を持っていたのです。聖書はこう語っています。

 「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」 新約聖書 ヨハネの福音書1章1節から4節

 この箇所はキリストの十二弟子の一人ヨハネがキリストと共に歩んだ歩み、また教えられた教えから聖霊なる神によって導かれた真理を記している箇所です。旧約聖書の冒頭、創世記の最初には「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節、新改訳第三版) ということがありますね。「初めに」ということばの次には当然神が来る。その位置にヨハネはギリシャ語でロゴスということばを置き、イエス・キリストを表したのです。すなわち、ロゴスであるキリストこそ神ご自身であり、全てのものはこの方によって造られたということを記したのですね。

 この、神であり創造主であるイエス・キリストが肉体を取って人となって、この世界に来てくださったのがクリスマスなのです。すなわち、この大宇宙をも創造された方が小さな村ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったのです。それは私たちの考えや創造をはるかに超えるスケールの出来事でした。この壮大なストーリーにこそ全世界で祝われるクリスマスの喜びの源があります。

 すなわちあなたが今どんなことで悩んでおられようと、それをはるかに超えるスケールで神様はあなたを愛しておられるからです。そして小さく弱い存在である私たち、そしてあなたのために神はその壮大な愛を示し、神の御子イエス・キリストをこの地上に送ってくださったのです。あなたもこの壮大な愛で愛されています。この愛に生かされ続ける歩みをあなたも始めて行きませんか? あなたも愛されているのです。
 
  (PBA制作「世の光」 2018.12.10放送でのお話より )
 
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■主を恐れること / 羽鳥頼和

2018年12月08日 | Weblog
2018/11/3放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は旧約聖書箴言14章から、主なる神を恐れることについて教えられましょう。

 まず箴言14章の26節、27節をお読みします。
 「力ある拠り所は主を恐れることにあり、それは主の子らの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。

 最初に出てくる「力ある拠り所」の「拠り所」とは元の言語では「信頼」という意味のことばです。ですから最初の部分を直訳すると、「主を恐れることに強い信頼がある」というふうになります。もう少し分りやすく言うと、「主を恐れることはその人のうちで神への強い信頼となる。」ということだと思います。

 この「信頼」という言葉をわざわざ「拠り所」と訳しているのには理由があります。この26節の後半で、「避け所」という言葉が出てきます。主を恐れることが避け所・避難所である、と言われています。

 箴言は詩文です。詩的表現の工夫として、「避け所」に対して「拠り所」と訳しているのだと思います。主を恐れることは力ある拠り所でありまた避け所です。

 続く27節は、「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」と語っています。主を恐れることはその人を死の罠から遠ざけて永遠の命を与えます。

 前の26節もこの27節も、主を恐れることがテーマです。この二つの節を、主を恐れることに注目して言い換えるとこうなるのではないでしょうか。「主を恐れることは力ある拠り所であり、そこにはいのちの泉がある。そして主を恐れることは避け所であり、そこに行けば死の罠から離れることができる。」

 主を恐れることは怖がって神から離れることではありません。主を恐れるとは主を信頼し、主に従うことです。主を信頼し、主からいのちをいただきましょう。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.11.3放送でのお話より )
 
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