♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■人の力の限界 / 関根弘興

2018年01月19日 | Weblog
2017/11/24放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

私たちはいろんな心配や不安、恐れを持ちますね。イエス・キリストはそんな私たちに「恐れるな」と励ましてくださるお方です。

 イエス様はこう語りました。新約聖書 マタイの福音書10章28節
 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 これは人の力を恐れてはいけないということなんですね。私たちは時々、いろいろなものを持つと自分は何でもできる(と)、錯覚してしまうことがあります。そしてまるで自分が神様にでもなったかのように高慢になることがあるんですねえ。イエス様は、そんな人の力を恐れてはいけない、とお語りになりました。それは私たちが決して高慢になってはいけないというメッセージがあるんですね。

 新約聖書の使徒の働きの12章というところを読みますと、ヘロデ王が登場します。彼は民衆に向かって演説をし始めました。きらびやかな王服を身にまとい演説を始めたんです。すると人々は、「神が来られた。神の声だ。これは人間の声ではない!」と叫び続けたんです。ヘロデ王は民衆の声を聞くと、有頂天になっていきました。きっと心の中で、うーん、神様になるのも悪くないなあ、などと考えたのではないでしょうか。

 ところが聖書にはこう書かれています。
 「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」(使徒12章23節)

 神の再来だ、と言われたヘロデは何と小さな虫にかまれて息が絶えたって言うんですねえ。ユダヤの歴史家ヨセフスと言う人は、「ヘロデは演説している最中に激しい腹痛に襲われ、五日後に死んだ。」と記録しています。人間の力ははかないものです。人はどんなに人々から賞賛を浴び、まるで神様のようだと言われても、決して神様になることはできません。人の力には限界があるんです。本当に恐れ敬うべきお方は、私たちの永遠を握っておられる神様です。私たちはこの神様を愛し、心から崇め、礼拝することが人としてのあるべき姿なのですね。

 聖書にはこう記されています。箴言18章12節
  「 人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。

  (PBA制作「世の光」2017.11.24放送でのお話しより)



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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 - 自由への励まし 38 / 大嶋重徳

2018年01月18日 | Weblog
2017/11/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒の第四戒の「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト記 20章8節)と語られた神様は休まれた神様でもありました。

 第四戒は、神様が休みをとられた神であって、私たち人間も安息日を守り、きちんと休みを取るように、と語ります。

 では安息日を私たちはどのように守ればよいのでしょうか。十戒第四戒はこう語ります。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。

 ここには安息日を「あなたはどんな仕事もしてはならない。」と語り、聖なる日として過ごすようにと語ります。安息日を覚えて休むことは何もしないことではなく、「聖とする」という行為を取るということです。この「聖とする」とは、「分離する」「取り分ける」という意味があります。

 では「聖なる日とする」とはどういう過ごし方のことなのでしょうか。神様は「七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」(創世記 2章2節)とあるこの「休む」ということばは「止める」「離れる」という意味があります。後に安息日を意味するようになったシャバットということばです。詩篇の作者は、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇 46篇10節)と語り、神であることを知れ、と神様との交わりの中で過ごすためには「やめる」べきものがある、と語ります。

 安息日を守り聖なる日とするということは、自分の中で取り分けた場所や時間を持つということです。すなわち神様のことばが聞こえて来る場所を私たちの時間の中で取り分けるのです。私たちは何かで一杯埋められている所に、もうこれ以上何も入れることはできません。本当に必要な何かを入れるためには何かを捨てるないといけないのです。

 あなたが神様に「やめよ」と言われている何かとは一体何でしょうか。スマホをずうっと触ってる時間でしょうか。気になるメールやラインの返信でしょうか。私たちは今日中にやらなければならないと思い込んでいることが多すぎるのではないかと思います。そして神様を自分の大切な場所から追い出してしまっている。そしていつの間にか、もっと息苦しくもっと追い詰められ、そして身体を壊してしまうということもあるように思います。十戒第四戒の、「あなたはどんな仕事もしてはならない。」という行為を通じて、あなたの中に聖なる日が生まれます。そこには本当の安息、平安が生まれて来るのです。

   ( PBA制作「世の光」2017.11.23放送でのお話しより )

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■正確な事実である / 福井 誠

2018年01月17日 | Weblog
2017/11/22放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「正確な事実である」です。ルカの福音書1章4節を読んでみましょう。
 「それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

 ルカの福音書の書き出しは面白いですねえ。ルカは、「すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。」(3節)と書いています。つまりルカは、イエスの語ったこと、行なった事のまとめである福音書を書くに当たって、よく調べた過去の言い伝えや文書記録、更には聞き取り調査も含めていろいろと調べ上げて書いた、というのです。ルカは医者であったと言われますから、彼の書くことには自然科学者としての理性や判断の面もあったことでしょうねえ。ですからルカは、この書を書いた目的を次のように語っています。「すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたい」と。そう言う意味で、このラジオ放送ももう70年近い歴史を持つのだと思いますが、世の光が目指しているものもラジオを聴いてくださっている皆さん一人ひとりに、すでに教えを受けられた事柄が正確な事実であることをよく分かっていただきたい、ということに尽きるように思います。聖書のお話は作り話ではない、正確な事実であり信じるに値すべきことです。

 ともあれルカはこの福音書において、救い主がどのように地上に誕生し、そして何を語り、どんな事をなされたのかを他の福音書と同じようにまとめていきます。しかしルカ独自の視点や記録もありますね。

 一つは、イエスの人間性に焦点を当てていることです。ルカの福音書を読むと、イエスの細やかな人間としての心遣いや感情が理解されます。また更にルカは、このイエスの働きが神様の力によって導かれ、神様に計画された全人類の救いのための働きであることを訴えていきます。ですからルカの福音書には、絶えず祈り神の力を受けて行動するイエスが描かれています。

 ぜひ聖書を読み続けて、正確な事実であるイエスの救いの計画と祝福をあなたにも知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2017.11.22放送でのお話より )

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■麦のようにふるいにかける / 板倉邦雄

2018年01月16日 | Weblog
2017/11/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「麦のようにふるいにかける」という題でお話ししましょう。
 良いものと悪いものとを選び分けることをふるいにかけると言います。

 さて最後の晩餐も終わりに近づいた時でした。イエス様は突然、シモン・ペテロに向かって言われました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを神に願って許されました。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。(ルカの福音書22章32節 口語訳参照)

 ここでイエス様は三つのことをシモン・ペテロに言っています。
 まず一つは、サタン・悪魔が神の許可のもとであなたがたを麦のようにふるいにかけるということです。悪魔からしますと、誘惑してふるいにかけて信仰から落とすことです。他方、神様から見たら試練の時となります。悪魔は神様の許しがなくては何もできないということですね。

 二つ目は、シモン・ペテロの信仰がなくならないようにイエス様が祈ってくださったことです。イエス様は、ペテロが悪魔の誘惑にあったとき誘惑に負けてしまうであろうことを知っていました。このイエス様のことばの後で、シモンは次のように即答します。「主よ。他の人はともかく、私は牢獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です。」(ルカの福音書22章33節 口語訳参照)
 するとイエス様が優しく言われました。「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。(ルカの福音書22章34節 口語訳聖書)
 イエス様のペテロのためのとりなしの祈りがなかったらペテロは信仰から落ちてしまったのです。

 三番目は、ペテロに対する期待のことばですね。「それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。(ルカの福音書22章32節 口語訳聖書)
 私たちはイエス様を信じていても転んだり失望したり失敗することがあります。しかしそこには目的と意味があります。それは立ち直って多くの人々を力ずけ励まし、慰めるためなのです。ですから麦のようにふるいにかけられても、そこに神様の御手を感じることができますように、祈っています。すべてのことを神様と切り離すことがありませんように願っています。

 聖書のことばです。
 「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
      箴言 3章6節

   (PBA制作「世の光」2017.11.21放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
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■なぜ取り乱して、泣くのですか / 岩井基雄

2018年01月15日 | Weblog
2017/11/20放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。

 先月は12年間、長血という女性特有の病で悩まされ、財産を使い尽くした一人の女性をキリストが癒され、家族のもとへと戻されたというところから学びました。

 今日はその前後の話です。実は先の出来事は、会堂管理者ヤイロの12才の娘が死にかけていることが知らされ、キリストが急いで少女の所に行く途中のことでした。ですからキリストが立ちどまって自分の衣に触った人を捜された時、ヤイロは気が気でなかったことでしょう。しかし、一人の人を心から愛されるキリストはその女性の告白を待ち、家族や社会に戻されたのです。ところがその間に、ヤイロの娘が亡くなったことが伝えられます。父親の失望はどれほどだったでしょうか。もっと急いでくだされば・・・、あの女性とかかわらなければ間に合って娘は癒さかも知らないのに・・・。様々な思いが彼の心を駆け巡ったことでしょう。私たちにも、あの時にこうしていれば、あのことさえなければ、との後悔や失望が心を占め、時に絶望に支配される時がありますねえ。

 しかし娘の死という絶望の中にいた父ヤイロにキリストはこう語られました。
 「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」 
     新約聖書 マルコの福音書5章39節

 娘の死は明らかでした。しかしキリストにとって死は眠りと同様だと言うのです。人間にとっての失望や絶望もキリストには大いなる希望へと変えられる機会なのです。この後キリストは十字架にかけられ死に渡されます。しかし、絶望のようなその事が全ての人への罪の赦しの道であり、死に打ち勝ちよみがえられた勝利は大いなる希望になるのです。人生の最終的な敵である死をもキリストの勝利によって神はいのちに変えてくださるからです。

 キリストはあなたにも語られます。
 「なぜ取り乱して、泣くのですか。
  
 「わたしはここにいます。あなたと共にいるわたしにあってあなたの失望は大いなる希望に変わり、勝利へと導かれるのです。」と。あなたも神様の愛を受け、新しい人生を始めていきませんか?

 PBA制作「世の光」2017.11.20放送でのお話しより)

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■牢獄の祈り / 羽鳥頼和

2018年01月13日 | Weblog
2017/11/18放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

以前イスラエルに旅行に行ったことがあります。エルサレムに行った時、イエスの時代の大祭司の家に行きました。そこは捕えられたイエスが裁判を受けられた所だと言われています。そしてその邸宅の地下には牢獄がありました。イエスを裁判を受けた後、この牢獄に入れられたのではないかと考えられています。

 イエスは次の日、十字架につけられて殺されたのです。処刑される直前にイエスが投獄されていたであろうその牢獄は岩を削って作られていました。そこには窓はありません。日が暮れれば真っ暗になってしまうような所でした。現在、その場所には旧約聖書の詩篇143篇のことばが掲げられています。イエスがここでこの詩篇を祈ったのではないか、と言うのです。それほど143篇の内容は、ユダヤ人たちの敵意によって十字架につけられるイエスの状況と重なるところがあるのです。

 例えば、この詩篇はこのように語っています。
 「敵は私のたましいを追いつめ、・・・、私を暗い所に住まわせた」(詩篇 143篇3節)

 そして更に詩篇はこのようにも神に語っています。
 「どうか、御顔を私に隠さないでください。私が穴に下る者と等しくならないため。」(詩篇 143篇7節)
  暗い所、穴に下る、という表現は地下の牢獄を思わされると共に、苦しみと死を暗示しています。

 更に詩篇は、不安の中でこのように神に祈っています。
 「朝に・・・私に行くべき道を知らせてください。・・・ あなたのみこころを行なうことを教えてください。」(詩篇 143篇8、10節)
 ここで語られている「私の行くべき道」「あなたのみこころを行う」とはイエスにとってはすべての人の罪を負って十字架にかかって死ぬことでした。

 続けて詩篇は主なる神にこのように祈っています。
 「主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、・・・、私のたましいを苦しみから連れ出してください。」(詩篇 143篇11節)
 神は十字架で死んだイエスを三日目によみがえらされました。こうしてイエス・キリストは神の御心を行い、私たちに救いを与えてくださったのです。

 明日は日曜日です。神の救いを受けるために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」 2017.11.18放送でのお話より )
 
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■神様のまなざし / 関根弘興

2018年01月12日 | Weblog
2017/11/17放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 私たちはいろんな心配や不安、恐れを持ちます。イエス様はそんな私たちに、「恐れるな」と励ましてくださるお方です。イエス様はこう語りました。新約聖書マタイの福音書10章25節から。
  「 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません。

 イエス様は、人の評価を恐れるな、と言われたんですね。当時の宗教指導者たちはイエス様に対して、イエスが救い主だなんて冗談じゃない、あいつは出るベルゼブルだ、とこう言っていたというんですね。ベルゼブルとは「蝿の親分」というような意味で、転じて「悪霊の親分」というような意味なんです。当時の一流の宗教指導者たちがイエス様に対して下した評価は、蝿の親分なんですねえ。驚きではありませんか。

 そこでイエス様は弟子たちに対して、彼らは私をベルゼブルと呼ぶくらいですからましてその仲間のことを何と呼ぶでしょう。だから彼らを恐れちゃいけないよ、と言われたんです。つまり彼らの評価は全くあてにならないのだから、どんなにとんでもない評価をされても恐れることはない、ということなんですねえ。

 もちろん私たちは人からの意見や評価を無視して聞く耳を持たないということがあってはいけません。しかし、人の評価は時々、神様の評価と全く違うことがあるので、その評価を恐れるなよ、と聖書は教えています。

 どうでしょう、時々、自分で自分を評価して、私なんかだめな人間だ、神様に愛される価値が無い、などと思っているそんなことがありませんか? 聖書は、私たち一人ひとりは弱さがあるし、罪人に過ぎないことを教えています。しかし、そんな一人ひとりのために独り子なるイエス・キリストがいのちを懸けて救いの道を与えてくださるほど神様はあなたは愛してるんですよ、と教えているんですね。

 私たちは失敗したり挫折したり、自分の不甲斐なさに失望したりすることもあります。しかし神様は、わたしの大切な子よ、とあなたに語りかけてくださるのです。ですから必要以上に人の評価に振り回されるのではなく、神様があなたに向けておられる眼差しを思いながら歩んで行きましょう。

  (PBA制作「世の光」2017.11.17放送でのお話しより)



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■十戒 -自由への励まし 37 / 大嶋重徳

2018年01月11日 | Weblog
2017/11/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒第四戒の「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト記 20章8節)と語られた神様は休みをとられる前に働かれた神様でもありました。

 そして旧約聖書の創世記には神様の労働の終わり方が記されています。それは「非常に良かった」と世界を見つめておられたということです。

 私たちがこの神様に倣って六日目の終わり方を生きるのであれば、「非常に良かった」と感謝をもって仕事を終えるのが私たちの休み方の出発点です。ここには、感謝をもって世界を見つめる生き方があります。もちろん私たちは感謝ばかりができる仕事を日々している訳ではありません。むしろ多くの場合、やり残した事が今日もたくさんあったなあ、と明日しなければならないことを思うと気が重くなってしまうことが多いでしょう。また、何とか今日終わらせないと、と体に無理をして眠る時間や家族と過ごす時間を割いて自分を追い込むことも多々あるのではないかと思います。

 しかし終わり切れないと思える仕事も、六日間を振り返る神様が「非常に良かった」と言って七日目にわざを止められるのであれば、私たちも神様の大きな御手に委ねつつ仕事の手を止めて家に帰る事を選びたいと思います。そして足りない所に主が働いてくださると信じて、日曜日は礼拝を捧げることを選ぶのです。

 神様が世界の最後に人を造られて、七日目には最初の人アダムと一緒に「非常に良かった」と喜びと感動を分かち合いたかった神様であることを私たちは大切にしたいのです。神様は今も、一週間を終えた時、私たちと「今週も非常に良かったねえ」と喜びたいと願っておられるのです。その神様の喜びを思う時、私たちの不十分な仕事をも感謝の思いで見つめ直す眼差しが与えられるのです。そして私たちも六日目を神と共に感謝をもって終えることができるのです。

 神が働かれるからこそ私たちも働き、神が休まれるからこそ私たちも休む。ここに創造された世界と共に生きるリズムが生まれてきます。安息日を守ることは、神が造られた世界管理のリズムの中に身を置くことであり、神様の計画に立ち帰りながら神の国の建設をなしていくのです。

 第四戒の意味は安息日が働かなくても良い日ではなく、むしろ何のために働くのか、私たちの毎日の仕事の意味を取り戻す日、生きる目的を取り戻す日となるのです。

   ( PBA制作「世の光」2017.11.16放送でのお話しより )

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■何を求めているのか / 福井 誠

2018年01月10日 | Weblog
2017/11/15放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「何を求めているのか」です。マルコの福音書10章38節を読んでみましょう。

 先週もお話をしましたが、マルコの福音書の後半は、イエスが自分の正体について、キリストというのは多くの人々の罪の赦しと救いのために嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられ、遂に殺される。しかし三日目によみがえる救い主である、と弟子たちに繰り返し教えられる内容があることをお話ししました。今日の箇所もその一つと言えます。

 マルコの福音書の中では三度目となるイエスの受難の予告です。この後イエスの二人の弟子ヤコブとヨハネがイエスの元にやってきて、イエスが栄光の座につく時には二人をその栄光の座の右と左に着かせて欲しい、と願うのです。イエスと共に栄光にあやかりたいと言うわけですが、イエスは率直に、あなたがたは何も分っていない、と答えていますね。確かにイエスはご自分が歩もうとしている道は栄光に至るものであっても、苦しみの道であり、それはあなたがたも同じだ、と言っているのに、彼らは苦しみを軽く考え、栄光のことばかりを考えていました。

 そこでイエスはもう一度彼らに尋ねられます。「あなたがたはわたしと苦しみを共にすることができるのか。」と。イエスの復活の道に至るには苦難の道を通らなければならないと。

 信仰の歩みを進めながら、神を信じたって何もならない、そんな迷いを感じることはありませんか? 信じてみたはいいものの、人生は全く良い方向に向いていかない。人生の逆回転は止まらない。ますます複雑になっていくようだ。そんな思いを抱いていることはありませんか? 

 マルコは、イエスが辿(たど)られた栄光への道は苦難の道である、と語ります。もちろん苦難の時は一時です。永遠に続くものではありません。ぜひ苦難の中にあっても、教会に通い続け、兄弟姉妹と共に励まし合いながら、本当の主の栄光へと導かれたいものですね。

(PBA制作「世の光」2017.11.15放送でのお話より )

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■キリストの国で / 板倉邦雄

2018年01月09日 | Weblog
2017/11/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「キリストの国で」という題でお話ししますが、まずルカの福音書22章をお読みします。
 「あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。」(口語訳聖書)
 
 さて今日の箇所はまことに不思議なイエス様のことばです。父なる神様がイエス・キリストにご自分の国の支配をお任せになると言っているのです。ですからイエス様はこの国を「わたしの国」と言い切りました。すなわちキリストの王国です。このキリストの王国をイエス様と一緒に試練を耐え忍んで参りました弟子たちに委ねてくださる、と言うのです。すなわち、イエス様を信じる者たちと共に王国を治めると言うことですね。

 待ってました!、と弟子たちは心の中で叫んだことでしょう。そうです。キリストがエルサレムの都で王国を樹立してくださるそのためにこそ、この3年間弟子たちは忍び耐えてきたのです。イエス様が王座に着き弟子たちが右大臣、左大臣の位に就くのです。先週の、誰が一番偉いのかという議論も分りますねえ。

 ではこのキリストの王国の樹立はいつのことでしょうか。イエス様が語ったすぐ後ではないようです。この後イエス様は逮捕され十字架で処刑されるという悲惨と敗北の歴史をたどるのです。弟子たちは絶望して田舎に帰ってしまいます。ですからこのキリストの王国は未来に来ることになります。それはイエス・キリストの再臨の後なのです。そのキリストの王国は聖書の最後の書物ヨハネの黙示録にこのように約束されています。
 「彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。・・・彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
      ヨハネの黙示録 20章の4節、6節

 このキリストと共に支配するキリストの王国は、まさにこの地上に於いてなのです。決して天国に於いてではありません。エデンの園の回復です。これこそキリストの王国なのです。

   (PBA制作「世の光」2017.11.14放送でのお話より )

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