goo blog サービス終了のお知らせ 

 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■主の祈り 1 / 大嶋重徳

2015年01月20日 | Weblog
2015/1/20 放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書に、イエスキリストが教えられた「主の祈り」(参照 マタイ6章9~13節、ルカ 11章2~4節)という祈りが記されています。今月からはこの主の祈りから続けて、神を信じるとは一体どういうことなのか、ということを教えられていきたいと願っています。

 主の祈りとはイエス・キリストの弟子たちがイエス様に「祈ることを教えてください」とお願いする所から始まります。この当時、弟子たちもユダヤ人ですから、祈りの習慣や祈りの伝統をそれぞれ持っていました。しかしイエス様と毎日を過ごしながら、イエス様の祈りの生活は自分たちと根本的に違うなあ、と弟子たちは感じたのだと思います。そこで祈りを終えられ後のイエス様に、「 ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。 」(ルカ 福音書 11章1節)と頼んだのです。

 キリスト教信仰とは祈りの信仰です。イエス様は、イエス様ご自身が神の子であるにもかかわらず、父なる神様と祈るための時間を絶えず持っておられました。神であるならば、祈らずともことばを交わさずとも、互いの思いや考えていることは分るはずなのに、イエス様は祈られるのです。それは父なる神という神様はわが子キリストと話したいと願っておられる神様だと言うことです。キリスト教信仰の神は思想でも宇宙概念でもありません。「父よ」と呼びかけると、「わが子よ」と答えてくださる神様なのです。この神様が私たちともコミュニケーションを持つことを今日も願っておられる神様なのです。

 弟子たちは祈り終えられたイエス様の姿から、この父なる神様との話し終えた満足や喜びを見て感じたのではないかと思うのです。そして自分たちの祈りが何か神様理解を根本的に間違っているのでないか、そう思ったのではないかと思います。

 今日の私たちの祈る祈りはいかがでしょうか。イエス様の教えてくださった主の祈りから神様と言う方を知っていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2015.1.20放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大切なことを学ぶとき / 関根弘興

2015年01月19日 | Weblog
2015/1/19放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。人生で大切なことを学ぶ時というのは順風満帆の時ではなく、失敗や困難、試練の中にある時の方が圧倒的に多いように思います。聖書に登場する人物を見てもそう思うんですねえ。例えば旧約聖書に登場するモーセ、彼はイスラエル人でありながら神様の不思議なご計画によってエジプトの王女の養子となり、宮殿で最高の教育を受けて育つんです。しかし40歳になった時、大きな挫折を味わうことになります。

 彼は同胞のイスラエル人がエジプト人に打ち叩かれているのを見て、そのエジプト人を殺してしまったんです。自分の力で同胞を助けようとした訳です。しかしその結果、エジプト政府からは殺人犯として追われるようになり、また何と仲間のイスラエル人たちからさえ冷たい目で見られるようになってしまうんです。モーセは恐れて荒野に逃げて行きました。そしてその後、荒野で40年間、羊を飼いながらひっそりと生活をすることになったんです。

 もう自分の人生はこのまま終わってしまうだろうと思いながら暮らしていたと思うんですね。ところがそのような挫折体験を味わって謙遜になっていたモーセに、しかも既に80歳になっていたモーセに、神様はエジプトからイスラエルの民を導き出すという大きな使命をお与えになったんです。

 また旧約聖書にエゼキエルという預言者が登場します。彼はとても困難な時代を経験しました。バビロニア帝国という大きな帝国がエルサレムを攻撃し、神殿を破壊し、多くの人を捕虜としてバビロニアに連れて行ってしまったんです。その捕虜の中にエゼキエルもいました。彼は祭司でしたので、本来ならエルサレムの神殿で奉仕しているはずでした。しかし自分の国は敵に滅ぼされ、神殿も壊され、敵国の捕虜となっている訳ですから、全く希望を見い出すことができませんでした。自分たちは神様から見放されてしまった、神様に礼拝する場所である神殿も失われたんだから、というそんな絶望感に覆われていたんです。しかしそのような絶望の中で、エゼキエルはまばゆいばかりの幻を見るんですねえ。それは栄光に満ちた神様の姿でした。遠い敵国でここには神様はおられない、と思っていたこの場所にも、天地を創造された神様はいてくださいではないか、そして栄光を表してくださるではないか、という事を知ったのです。

 あなたがもし失意の中に、空しさの中にいるなら、神様は決してあなたから遠く離れてはいません。決してあなたを忘れている訳でありません。大切なことをあなたは今学んでいるということを覚えながら勇気をもって歩み続けてください。

 (PBA制作「世の光」2015.1.19放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■全焼のいけにえと十字架のキリスト / 羽鳥頼和

2015年01月17日 | Weblog
2015/1/17放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。旧約聖書のレビ記の初め1章には全焼のいけにえについての教えがあります。全焼のいけにえとは、そのいけにえを全部焼いてしまうところからこのように呼ばれるのです。神はイスラエルの指導者であったモーセにこのいけにえのことを大切な教えとして丁寧に命じられました。

 まず、いけにえとして下げる動物は傷のないものでなければなりませんでした。そして全焼のいけにえのささげ方はこうでした。いけにえをささげる本人がまずいけにえの動物の上に手を置きます。これはその人の罪がその動物に負わされることを意味していました。こうしてこのいけにえはその人の身代わりとなるのです。次に、捧げる人がいけにえを殺します。その後、祭司がいけにえの血をいけにえを焼く祭壇の周りに注ぎます。そしていけにえの皮を剥ぎ、各部位に切り分け、内臓と足は水で洗い、これらを全部祭壇で焼くのです。

 いけにえの血はその人を贖い救うことができました。いけにえとは神が定められた人を救う方法なのです。しかし一匹の動物のいけにえが有効なのは一つの罪に対してですから、いけにえは毎日ささげなければなりませんでした。このようないけにえの制度は私たちとは関係のないもののように思われます。しかしイエス・キリストについて語られている新約聖書によって、このいけにえの制度が私たちにも救いを与える方法であることが分るのです。

 新約聖書のヘブル人への手紙にはイエス・キリストが完全な全焼のいけにえであると教えています。キリストは罪のない完全ないけにえとして全ての人の罪のためにご自分を十字架にささげられました。キリストは十字架でただ一度ご自分をささげることによって全ての人に救いの道を開いたのです。(ヘブル 7章27節、9章12節、10章10節、10章14節参照)
 十字架刑は残酷なものです。しかし、キリストの十字架の贖いによってしか私たちの罪が赦されることはないのです。救いの道は開かれています。私たちがするべきことはキリストの十字架の贖いを信じることです。神は信じた者の罪を赦し、救う、と約束してくださっています。(ヘブル 10章18-20節参照)

 明日は日曜日です。救いを得るためにぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。
 (PBA制作「世の光」 2015.1.17放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ヤコブの歩み① 神の力強い御手の下に…  / 岩井基雄

2015年01月16日 | Weblog
2015/1/16放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。昨年はアブラハムとイサクの人生を学びましたが、今年はイサクの子のヤコブの人生と彼の信仰の姿勢を学んでいきましょう。

 このヤコブという名前には「かかと」という意味があります。それは彼が双子の兄エサウのかかとを掴んで生まれてきたからです。面白い名前ですよね。「かかと」君・ヤコブは常に兄エサウのことを意識していたようです。誰かと張り合ったりライバル意識を持ったりする心は小さな頃から起こるものですね。

 今日の聖書のことばは、ヤコブよりもずっと後のホセアという預言者が語っていることばですが、ヤコブの人生全体をよく理解することができます。ヤコブについてこう記されています。
彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った。」 旧約聖書ホセア書12章3節

 このヤコブという名前には「押しのける」という意味もあります。ヤコブの人生はまさに他者を押しのける行為の連続でした。双子の兄だけではなく、この後、妻の兄や自分に戦いを挑んだ神の使いとも戦って押しのけようとしたのです。兄弟を押しのけた、彼はその力で神と争った、とある通り、彼は神にさえ負けまいとして自分の力で争い戦ったのです。

 このヤコブと同じように私たちも人との争いや葛藤に悩みやすい存在ですね。でも相手が神であろうと負けたくないという思いの背景には、力を誇示したいという高慢な心があることが多いのです。私たちは神を神として認めず、自らの思いや願いを神に押しつけ、神を自分の思い通り動かそうとしてしまうのです。

 しかしこのヤコブも、神の愛の御手の中で砕かれていきます。そして「イスラエル」という新しい名前が与えられ、神の民を代表するような謙遜な人へと作り変えられていくのです。

 私たちも自分の心の闇に神様の光を当てていただき、神の愛で取り扱われ、砕かれ、豊かな祝福を受け継ぐ人生へと歩み出していきませんか? 

 聖書のことば

 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」 新約聖書ペテロ第一の手紙 5章6節

(PBA制作「世の光」2015.1.16放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■わが愛する者のために / 福井 誠

2015年01月15日 | Weblog
2015/1/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「わが愛する者のために」です。それではイザヤ書5章1節から読んでみましょう。

  「 さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。

 イザヤは神様を熱心な農夫に喩えています。つまり神様はぶどう畑を愛し、労を惜しまず、ぶどうを大事に育て、甘いおいしいぶどうの実がなることを待ち望んでいたというのです。ところが実際にできたぶどうは酸いぶどう、酸っぱいぶどうでした。農夫の苦労は全く水の泡でした。イザヤが言いたいのは、当時のユダヤ人がまさに農夫の期待を裏切ったぶどう畑と同じであるということです。神様は彼らが正しい思いやりのある人になることを期待していました。しかし彼らは見事に神の期待を裏切って貧しい者から搾取したり自分の繁栄だけを考えて金もうけするだけの人、敬虔な人ではなく遊興三昧の人生を送っていたというのです。愛や清さ正しさを愛する神にとってそれは誠に残念な社会の姿であったというわけですねえ。もちろん酒や音楽が悪いわけではありません。人が人生を楽しむことを神は許されています。しかし人生はただ遊興のためだけにあるのではないのです。ただ自分のことだけを考え何もかも自分のために注ぎ込み生きていくのは何かが間違っていますねえ。貧しい人が見捨てられ、正義も踏みにじられていく、そんな社会になっていくのは全く神の期待に反することなのです。

 ですから神は言います。「 万軍の主は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される。 」(イザヤ書 5章16節) つまり神は社会のそのような状況を決してそのままにすることはなく、きっちりと裁かれるのです。こうして神様がおられ神様の正しいことはやがてすべての人に明らかになるのです。大切なのは神様はこの日本の社会も良質のぶどうを生み出す良いぶどう畑になるように期待しておられることです。そして毎日、太陽の光と恵みの雨を与え、貧しい者を思いやり、正義を大事にする人々が育つように心を注いでくださっています。そのような、目に見えない神様がおられることを覚えて、神様の期待に沿って歩んでいきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2015.1.15放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■血の花婿 / 板倉邦雄

2015年01月14日 | Weblog
2015/1/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「血の花婿」という題でお話ししましょう。

 「血の花婿です。」という不思議なことばを言ったのは妻のチッポラです。妻の故郷ミデヤンからエジプトへの旅の途中でした。

 さてモーセは主なる神様から「エジプトに帰って行きなさい。あなたのいのちを求めた人々はみな死んだ。」と聞かされて、妻と子どもたちをロバに乗せてエジプトの地へ向かいました。モーセは手に神の杖を握り締めていました。長年、羊飼いとして羊を保護するために手に馴染んでいた杖です。これからは神の民という羊を導き保護する神の杖となるのです。

 ところで、モーセの家族が旅の途中で休んでいた時です。モーセは急に重い病気になってしまいました。高熱が続き、食事も取れず、呼吸も苦しくなり、死にそうな状態になったのです。聖書はこの状態を次のように書き残しました。

 「主は彼(モーセ)に会って彼を殺そうとされた。」 (出エジプト記 4章24節 口語訳聖書) 

 エジプトへ行って神の民を奴隷から救出しなさい、と言われた神がエジプトへの旅の途中でモーセを殺そうとするのですか。私たちの理解を超えています。死にそうな病床で苦しむ夫モーセに妻は訪ねたでしょう。「お父さん。神様の前に私たちがしなければならないことを忘れて無いかしら。」 苦しい息の中から夫モーセは答えました。「そうだなあ、息子たちに天の神様と結びつき、罪の赦しが与えられ、神の家族となる割礼を施してなかったなあ。自分たちが神様の命令を守らないで神様の民たちに神様の命令を守るようになんて言えない。」 そこで妻のチッポラは小刀を取り、男の子たちの前の皮を切り取る手術をしました。そして血のついた息子たちの皮をモーセの足につけて、妻のチッポラは祈りを込めてこう言ったのです。「お父さん。あなたは私にとって血の花婿です。」 (出エジプト記 4章25節参照) 妻チッポラにとって夫モーセが再び花婿として帰ってきたことを意味していたのです。妻の決断と判断によってモーセは助けられました。主なる神様はモーセを赦され、病を癒され、元気にしてくださいました。持つべきものは知恵と思慮深き助け手ですねえ。

 聖書のことばです。
 「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 創世記2章18節 (口語訳聖書)


 (PBA制作「世の光」2015.1.14放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■おたより紹介-聞くことから / 大嶋重徳

2015年01月13日 | Weblog
 2015/1/13放送

 世の光の時間です。

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。 大嶋重徳です。 
 名古屋市の○○△△△さんとお読みするのでしょうか、番組にお便りをくださいました。ご紹介したいと思います。

 「いつもおはがきに応えてメッセージを添えて送ってくださり感謝です。私は大嶋重徳先生のメッセージが大好きです。ヨハネの福音書9章から盲人が癒されて目が見えるようになり証し人になる所、まさに信仰に目覚めた者のことを言ってらっしゃると思います。どうか私が周りの人に証しを大胆にし、一人でも多くの人に目覚めてもらうように生きていきたいと思います。」

 嬉しい励ましのお便りをありがとうございます。マイクに向かってメッセージを語りながら、皆さんにお伝えしたいことが届いているのかなあ、と不安になることがあります。このようにメッセージのレスポンスをいただけると本当に励みになります。

 昨年の秋に岩手県で世の光リスナーの集いがあり、東日本大震災のあった海岸沿いの宮古と大船渡、救援活動を続けておられる盛岡に行ってきました。仮設住宅からもたくさんの方が教会に来てくださり、涙を流しながら聖書のお話に耳を傾けてくださる方や、「今日は自分のことを言われているようだった。これからできる限り教会に行きたいと思います。」と言ってくださる方がおられました。今日、岩手でお会いしたお一人お一人の顔を思い浮かべながらお話することができることを嬉しく思っています。また「我家はラジオの電波が入りにくく、外に出て聴いているんですよ。」という方もおられました。私の父はラジオのメッセージで信仰を持ちました。「この番組がなかったら今の私の信仰はありません。」ということばにも、とても感激をしました。

 聖書にはローマ書という所にこうあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ 10章17節)とあります。今朝もラジオから語られる青春のことばに真剣に耳を傾けてくださるところに信仰は始まっていくのです。ぜひその信仰が続いていくように、そしてその信仰が成長し完成していくように、これからもご一緒に神のことばを聞いて参りたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2015.1.13放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■謙遜を学ぶ朝 / 関根弘興

2015年01月12日 | Weblog
2015/1/12放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリスト弟子でペテロという人がいます。彼はガリラヤ湖で漁師をし、カペナウムという町でいたって平凡な普通の漁師生活をしていました。ある時イエス様がペテロたちが漁をしている湖のほとりに来られました。多くの群集がイエス様の元に迫ってきたので、イエス様はペテロの持ち舟を借りてそれに乗り、湖に少しだけ漕ぎ出して、そこから岸に向かって説教を始められたのです。ペテロはどんな気持ちで自分の舟を貸したでしょうねえ。

 実は前の晩、夜通し働きましたが、収獲が全くありませんでした。全く魚が取れないわけですから、これは死活問題ですね。そんなペテロは今、空しく網を洗っていた訳です。するとイエス様が来てちょとそれを貸して欲しいという訳ですね。

 人間にとって最もプライドが傷つけられるのは自分の得意としていることがうまくいかなかった時ではないかと思うんです。ペテロはガリラヤ湖の漁に自信をもっていたはずです。しかし今、空しく網を洗い、よりによって商売道具の舟を説教台代わりに使われている訳です。

 私たちの人生にもペテロと同じような経験がありませんか? 労すれど労すれど結果が見えて来ないという経験、一所懸命尽くしたのに理解されなかったとかですね、万全の準備をして取り組んだのに失敗してしまったとか、自分ならきっとできると思っていたのに実際には何もできなかったというような、そんなむなしい経験があるのではないかと思います。

 私は時々、牧師として小田原にやってきた最初の頃のことを思い出します。何と高慢にも自分はできると思って小原にやってきたんです。開拓伝道という形で始まりました。自分が牧師ならすぐに人は集まるだろうと思っていました。しかし何をやってもうまくいかないんですね。でもこの空しい朝の経験こそが大切なことを学ばせる朝となったことを私は実感したんです。

 そしてそれは聖書も教えていることなんですね。イエス様は説教が終わるとペテロに「深みに漕ぎ出して網を下ろして魚を獲りなさい」とお命じになりました。網を洗って片付けが終わってホッとしてるところですから、網を下ろすなんて冗談じゃないと思ったかもしれません。でもペテロはおことば通りに深みに漕ぎ出し網を下ろしたのです。すると大量の魚が獲れたんですねえ。

 神様は時々、私たちに謙遜を学ばせるために得意な分野で失敗させたり、高慢な思いを取り除くために空しい朝を用意されることがあるんですね。しかしそれはあなたをだめにするのではなく、あなたがあなたとしてより良く生きていくための大切なレッスンとなることも知ってくださいね。

 (PBA制作「世の光」2015.1.12放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■強くしてくださる神 / 羽鳥頼和

2015年01月10日 | Weblog
2015/1/10放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日の聖書の話のタイトルは「強くしてくださる神」です。

 誰もが、心が強くなりたい、強い意志を持ちたい、と思うのではないでしょうか。使徒パウロはエペソの教会の人々のためにこのように祈っています。

 「天の父である神様に祈ります。どうか父がその栄光の豊かさに従い、御霊により、力を持ってあなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」 (参照エペソ 3章15節、16節)

  「内なる人を強くする」とはちょっと変わった表現ですね。実はこのことばは、心が強くなるように、という意味とはちょっと違うのです。直訳すると「あの内なる人を目標として強くされますように」と訳すことができます。「あの内なる人」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストを目標として強くされる、と言っているのです。このことの意味はもう少しパウロのことばを見ていくとよく分ります。

 パウロは続けて三つのことを祈っています。

 一つ目。「こうしてキリストが、・・・あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(17節)
 二つ目は 「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(19節)

 三つ目は、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(19節)

 これらのパウロの三つの願いから、神が与えてくださる救いについてこのようなことが分ります。

 イエス・キリストを信じた人にはキリストが住んでくださる。キリストが住んでくださるとキリストの素晴らしい愛を知ることができる。キリストの愛を知ることができると、キリストと同じように愛に満たされたものとなることができる。その人は神を愛し、人を愛することのできる人となり、愛のお方であるキリストに似たものとなるのです。

 強い人とは神を愛し人を愛する人なのです。イエス・キリストは私たちの目標であり、神の救いは私たちをその目標に到達させてくれるのです。強さとは愛することにおいて発揮される力なのです。キリストの愛こそこの世の中で最も強い力なのです。神はあなたを強くしてくださいます。

 明日は日曜日です。キリストの愛を知るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。


 (PBA制作「世の光」 2015.1.10放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■苦難の中でこそ、神の御前で祈る / 岩井基雄

2015年01月09日 | Weblog
2015/1/9放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 新しい年を新たな気持ちで歩む私たちですが、人生には様々な苦悩があり、また苦難がありますねえ。そんな時私たちはどうすることができるのでしょうか。今日は旧約聖書の詩篇の88篇から、神様への心からの祈りを共に味わいたいと思います。まず1節から3節をお読みします。
 「主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。
  私の祈りがあなたの御前に届きますように。
  どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。
  私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。

         旧約聖書 詩篇88篇1節から3節

 この詩の作者は魂が悩みに満ち、命が陰府(よみ:死者の居場所)に触れるような苦難を生きています。どれほどの絶望や苦悩を彼は抱えていたのでしょうか。

 しかし彼は神様に向かって「主、私の救いの神。」と祈る事を知っていました。神に叫び、また神の御前に留まっていたのです。私たちは心の痛みを誰かに話し、理解して欲しいと願いますね。神様はあなたの祈りをすべて聞いていてくださいます。そしてあなたの祈りを受け取り、あなたと共にいて、慰めと平安と力を豊かに与えてくださる、と聖書は語っています。

 先程の祈りはこのように続いています。
 「しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。
           詩篇88篇13節

 この祈りの後も、彼は自分の苦しみや悲しみをまるで心を注ぎ出すようにして祈ります。それは自分の祈りが必ず神様に届くと知っているからです。だからこそ安心してどんな怒りも憤りも苦しみも葛藤も、すべてそのまま神様に届けることができるのです。あなたも神様に信頼し、悩みや思いを存分に祈り、神様から平安と力を心一杯受け取って行きませんか? 

 聖書のことば

  「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 ピリピ 4章6節、7節
 
(PBA制作「世の光」2015.1.9放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする