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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■イエス様がなさったことの意味 / 関根弘興

2017年11月03日 | Weblog
2017/9/29放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
  番組にこんな質問が寄せられました。「キリストがしたことは人々に向けどんな意味を持っているのか詳しく知りたいです。」こんな質問です。

 イエス・キリストの生涯は新約聖書の福音書に書かれています。イエス・キリストはたくさんの力ある奇跡を行い、たくさんのことを人々に教えられました。たとえば、「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マルコ 8章36節、参照マタイ16章26節、参照ルカ 9章25節)と言われ、人は愛されるべき存在であり、いのちの価値は全世界を天秤に懸けても重いのだよ、と語られたんですね。しかしイエス・キリストが来てくださったことの最大の目的は、人がどうしても解決することもできない二つのことにすべてを賭けて取り組まれたのです。それは人間の罪と死という事の問題なんです。

 どうでしょうねえ、自分の心を除くなら、罪があると感じことがありませんか? 悪いものが、汚れたものが、正しくないものが、利己的なものを、人は心を見たら感じるものですよね。聖書は「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6章23節)と書いてあるんです。罪というものは死をもたらすのだと教えているんですねえ。イエス様は、私たちのこの二つの問題の解決のために来られたんです。つまり罪に対しては赦しを、死に対しては尽きることのないいのちを与えるという事のために来てくださいました。

 私の目の前には今マイクがあります。このマイクを私が壊したとしましょう。「ごめん、ごめん、壊しちゃった。」 誤ったなら自動的にこのマイクは元通りになるでしょうか。決してなりませんね。あとで修理をしたり交換したりする訳です。幾らかの代価が払われなければ元通りにはなりません。

 私たちの罪が許されるということは私たちの罪を代りに引き受け、その罪がもたらす死をも引き受ける存在がいなければ本当の赦しは成立しないんです。聖書には、「神は、罪を知らない方を、---つまりイエス・キリストを---- 私たちの代わりに罪とされました。」(2コリント5章21節)と書かれています。イエス様は私たちの罪を背負ってその罪の罰を引き受けて、身代わりとなって死んでくださいました。イエス様は私たちが神様の御前で罪が赦される道をご自分のいのちを懸けて十字架で完成してくださったんです。そしてイエス・キリストは三日目に復活され、死を打ち破り、この肉体が死んでも尽きることのない永遠のいのちがあることを教え、信じる一人ひとりに与える、と約束なさいました。これこそがイエス様の来られた目的なんですねえ。

 (PBA制作「世の光」2017.9.29放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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