♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■人を汚すもの / 福井 誠

2012年04月26日 | Weblog
2012/4/26放送
 
 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「人を汚すもの」です。それではマタイ15章の11節から読んでみましょう。

 「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。

 宗教を信じたために人生が狂ってしまう、そんな嘆きを聞いた事があります。宗教的に熱心であるというのは素晴らしいように思われることもありますが、一歩間違えれば狂信の世界に入ってしまうこともあるものでしょう。信仰を持つということは常識的であってはできませんが非常識になることでもありません。しかし信仰のゆえにしばしば常識感覚が失われてしまうことがあったりするものです。そういう意味ではイエスの時代にもおかしな信仰の持ち方をしていた人々がいました。イエスはその具体例を挙げます。

 たとえば当時のユダヤ人の中には、お金が手元にあっても困っている両親の面倒を見るのではなく神様に捧げてしまうという人がいました。信仰に熱心であるのは良いとしても、実際に困っている両親を助けることもしない信仰というのはどういうものなのでしょうか。それは神様に対する熱心さを隠れ蓑とする都合の良い自己中心な信仰ではないでしょうか。

 イエスはそのような信仰の矛盾をついて信仰というのはそういうものではないと明言するのです。そもそも何が問題なのか。イエスは核心的な部分に触れていきます。口に入る物というのはお腹に入っても結局は排泄されて人を汚すことはない。けれども口から出て来るものすでに心にあって心から出て来るものは人を汚すのであると。悪い考え、殺意、いまいましさ。すでに心にそういうものがあるのなら、どんなに宗教的に熱心で良い人を装ってもいずれそのメッキは剥がれ、いずれその内側のいまいましさが表れて隠し通せなくなってしまうということです。

 ですからその内側において本当のきよさ、正しさ、優しさを保っている人はいよいよその宗教的な熱心さによって誠に魅力のある生き方を示すようになるのです。真に内側からきよめられた信仰の熱心さを保ちたいものですね。

  ( PBA制作「世の光」2012.4.26放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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