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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■地上に下ろされた七つの階段 / 板倉邦雄

2011年12月21日 | Weblog
2011/12/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日はクリスマスの主人公であるイエス・キリストを紹介したいのです。

 始めに新約聖書のピリピ人への手紙2章6節から8節までをお読みします。

 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 」(口語訳聖書)

 この聖書のことばには天国からこの地上に下ろされた七つの階段をイエス・キリストが一段一段降りて来られる様子が描かれていましたね。

 まず第一の階段は、キリストは神のかたちであられた、すなわち神様であられたお方でした。

 次に第二の階段は、神と等しくあることを固守しようとは思わなかったということです。

 そして第三の階段は、自分の空しくして自分を無にして僕の形をとられたと言うことです。

 そして第四の階段は、人間の姿になられたということです。これが2000年前のイエス・キリストの誕生です。

 そして第五の階段は、そのありさまは人と異ならず、自分を低くされ、すなわち謙遜と謙りの地上の生涯だったのです。

 そして第六の階段は、死に至るまででした。人としてイエス様は死の苦しみ・死の悲しみ・死の恐怖を味わってくださいました。

 そして最後の七つの階段は、十字架の死に至るまで父なる神様のお心に従順であられたということです。十字架の死とは通常の死ではありません。犯罪を繰り返した極悪非道の人の刑罰でした。ではなぜ神様であられたキリストがこれほどまでに御自分を無にして低くなり、卑しくなって人間となられたのか。またなぜ罪を犯していないのに十字架の死に至るまで父なる神様の心に徹底して従順であられたのか。この質問を自問自答するとき、今年のクリスマスはあなたにとって色彩の変わったものとなるでしょう。ヒントの聖書のことばを一つ紹介しましょう。

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかた(キリスト)を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
 第二コリント人への手紙5章21節 (口語訳聖書)

 ( PBA制作「世の光」2011.12.21放送でのお話より )

 

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書
通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくは
PBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっ
そり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大
抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なし
でもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹
介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。







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