「国家の品格」批判その3


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 藤原氏は「国家の品格」で芭蕉の俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」は日本人なら誰でも知っていると言います。なぜ誰でも知っているかというと学校で教えたからです。学校で教えなければこの俳句を知らない日本人も多いでしょう。。
 教える時にはかわずはかえるであることを教えます。最近はかわずがかえるであることを知らない子供も多いし、地方によってはかわずという言葉を使わないところもあります。かわずをかえると教えないと分からない人もいます。

 「古池や 蛙飛び込む 水の音」の内容も教えます。俳句のような短い詩は一読しただけで解釈させれば色々な解釈が可能です。俳句の解釈はその道の専門家が解釈してそれが広まります。
 つまりは俳句は俳句の解釈・内容を教えるからわかるのです。藤原氏は日本人なら誰でも知っていると言いますが、正確に言うなら日本人なら誰でも学校や俳句好きの老人から習うから知っているということです。
 もし解釈を習わなかったら「多くの外国人」のようにかえるがドバドバッと池に飛び込む情景を思い浮かべる日本人もいるだろう。なぜならかえる一匹が飛び込むくらいで「水の音」は聞こえないからです。多くのかえるがどんどん飛び込まないと飛び込む音が聞こえるはずかないと思う人はけっこういると思います。だから次々とかえるが飛び込むのをイメージする人がいてもおかしくはありません。
 藤原氏は「古池や 蛙飛び込む 水の音」の解釈はこうこうでなければならないと思い込んでいます。しかし、俳句はひとつの解釈が絶対であるという決まりはありません。
 
 藤原氏は「境内の古池に一匹ポチョンと飛び込む光景を想像できる。その静けさを感じ取ることができる。」と解釈していますが、藤原氏の解釈は妥当だろうか。
 芭蕉は江戸時代の俳人であり、貴族でもなければ武士でもありません。芭蕉は貴族的な自然美の感覚はもっていません。「のざらしを心に風のしむ身かな」は芭蕉俳句の出発点です。この俳句は自然の美しさを表現していないのは一目瞭然です。

 旅をして、旅で見たまま感じたままを俳句にするというのが芭蕉の俳句精神です。芭蕉の俳句は決して自然の美しさを俳句にするという貴族的な美の表現ではありません。
 
「古池や 蛙飛び込む 水の音」の古池を藤原氏は境内の古池と解釈しています。境内の池は古池と言えるだろうか。境内の池は毎日掃除をしてきれいです。古池というのは手入れもされずに草がはえ、ちりあくたがたまっているから古池と言えるのです。古池は花鳥風月的な美しさではないのです。しかし、美はあります。
 芭蕉の俳句に「のみしらみ 馬の尿する 枕もと」という臭くて汚い情景の俳句もあるのです。芭蕉が見た目の美しさを俳句にしたのではないことを知るべきです。

 回りが静かであればかえるの音の飛び込む音は聞こえるだろうか。犬の耳なら聞こえますが人間の耳で聞くのは不可能です。芭蕉の耳は並外れた聴力があったのかも知れません。
 かえるの飛び込む音が聞こえるということは非常に静かであるということです。「かえるの飛び込む音が聞こえるくらいに静かである」という解釈もできます。この俳句は視覚的な情景ではなくて音的な情景の俳句と解釈することができます。
 深夜、芭蕉は寝ている。古池の方からかえるの鳴き声が聞こえてくる。そして、かえるの泣き声が止み、回りがとても静かなので小さな水音さえ聞こえた。ああ、かえるが古池に飛び込んだな。
 というように、古池は見えるのではなく、闇の中でかえるの飛び込む音が聞こえる。情景は闇であり古池ではないというような理解もできます。
 かえるの飛び込みは一回ではなく断続的に聞こえてくるというのも風情があります。深夜の静けさを表現した俳句と解釈することもできます。
 「古池や 蛙飛び込む 水の音」はこのような解釈もできるしそのように解釈する専門家もいます。
 藤原氏は外国人がかえるがどばどばと池に飛び込む想像するのを非難していますが、俳句を勉強したことがない外国人なら仕方のない話です。
 日本人でも俳句の勉強をしていなければ外国人と同じ解釈をする人は居るとおもいます。
 藤原氏は貴族の和歌と芭蕉の俳句の違いを理解しているかどうか疑問です。日本の自然の美しさを貴族時代は表現されましたが、江戸時代の町人文化では浄瑠璃や歌舞伎で心中ものや人情ものが表現されています。文学表現は発展し自然や神の表現から人間の表現になっていきます。
 
 芭蕉の俳句は自然美だけの俳句ではありません。むしろ自然美を超越した「美」を表現しているとおもいます。

 蚤しらみ 馬の尿する 枕元

 猿を聞く人 捨て子に 秋の風いかに

 野ざらしを 心に風の 沁む身かな

 旅に病んで 夢は枯れ野を 駆け巡り



 閑けさや 岩にしみ入る せみの声

この俳句は貴族的な自然美を超越しています。せみの声が岩にしみ入るという表現は芭蕉の研ぎ澄まされた感性がなしえた表現です。見えないものが見える、聞こえないものが聞こえるまでに骨身を削って研いだ感性から作られたのが芭蕉の俳句です。

 芭蕉の俳句を日本の美を知らない外国人をあざ笑うために利用した藤原氏は芭蕉を尊敬し芭蕉の俳句を愛しているのでしょうか。
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「国家の品格」批判その2

「風が吹けば桶屋が儲ける」のことわざを論理として見て、その理論を一刀両断する藤原正彦氏がいる。藤原氏によれば「風が吹けば桶屋が儲ける」確立は一兆分の一以下だそうである。この藤原氏が導き出した確立をなるほどと関心する人の確率はどのくらいだろうか。一兆分の一以下とまではいかないだろうがかなり低いはずである。

 「サルも木から落ちる」「犬もあるけば棒に当たる」「油断大敵」等のように「風が吹けば桶屋が儲ける」は昔から伝わることわざである。ことわざは論理と見るよりいましめと見るものである。サルが木から落ちる確率とか犬が棒にあたる確立というのはことわざに関係のない話である。
 「サルも木から落ちる」はどんなに上手であっても失敗はするもであり、気の緩みを戒めている。「犬もあるけば棒に当たる」は災難はいつなんどきやってくるかわからないといういましめである。

 「風が吹けば桶屋が儲ける」ということわざの意味は関係のないものと思われるものもめぐりめぐって影響してしまうことが世間にはあることを教えているのである。それを大真面目に正当な論理として考え「風が吹けば桶屋が儲ける」確立を出すというのは大人げないように思われます。

 「風が吹けば桶屋が儲ける」ということわざのような現象が最近起こりました。「石油の値段が上がれば菓子屋が倒産する。」です。
 最近はバイオエタノールが注目されています。バイオエタノールは石油の代わりの燃料になり、環境にもいいと言われています。石油が一バーレル七十ドルまで上昇しました。
 ここまで値があがるとバイオエタノールの方が安くなります。それでサトウキビが燃料用に売られ品薄になりサトウキビの値段が上がります。サトウキビの値段が上がると砂糖の値段が上がります。砂糖の高騰は砂糖を大量に使う菓子屋の経営を圧迫します。砂糖が高騰すれば菓子の値段をあげなければなりません。すると菓子が売れなくなる。菓子屋が倒産するという結果になる。

 菓子屋が倒産するというのは大げさであり、確立もぐんと低いです。しかし、石油が高騰するとめぐりめぐって菓子屋の経営を圧迫するというのは事実です。菓子屋が砂糖の高騰に悲鳴を上げたのは事実であり倒産しなのは企業努力で砂糖高騰のリスクをカバーしたからです。

 「風が吹けば桶屋が儲ける」は関係ないように見えるものがめぐりめぐって関係しているということを教えることわざなのです。「風が吹けば桶屋が儲ける」を確立の問題にして一兆分の一以下の確立であると言い放って、このことわざのテーマを軽視する藤原氏にはあきれます。

 「風が吹けば桶屋が儲ける」を批判して、だから論理はだめだと藤原氏は言います。しかし、「風が吹けば桶屋が儲ける」を論理と見るほうがおかしい。
 もっとましな論理、世間が論理としてみとめている論理を例に出して、その論理の矛盾をついて、だから論理はだめだと筋の通った説明をしなければ論理はだめだといったことにはならない。
 
 論理はだめだと論理的に説明しなければならないいうのも変な話だ。
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関税撤廃阻止求め県民大会

 関税を撤廃しようとする国の動きに沖縄の農民は危機感がつのっている。「食と農と暮らしを守る6・16県民大会を開いた。
 
 県は関税撤廃の損失を七百八十一億円と試算した。サトウキビやパインが消滅すると仮定しているそうだ。よくもでたらめな試算をするものだ。
 関税撤廃をやれば農業が消滅するというがそれは間違いである。農業人口は減るが農業が消滅するということはあり得ない。
 現在の農業は小作農であり、商業を知らない農民がばらばらに農業をしている。農業は企業家されない限り発展しない。苗を開発する会社が農業をしてはいけない規則があったりして農業は企業経営ができない仕組みになっている。日本の農業は発展しない仕組みになっているのだ。

 昔は鍛冶屋とかブリキ屋とか日用品を手作りで作る職人の店があった。交通が発達して大量生産した商品が出回り個人職人は消えていった。このように産業は新しい生産手段に古い生産手は消されていくのが法則である。

 農業も工業のように会社式にしていれば小作農民は消えていったはずであり、会社式の農業生産は現在より高い生産をしていたはずである。
 農業を守るのなら、能力の高い人間が農業生産に参加できるシステムにしなければならない。現在のように血縁関係の者が農業を引き継ぐ制度をやめて、畑を株式化して企業経営としての農業に転換しなければ日本の農業を守ることはできない。

 高齢化した小作農民を守る運動の果ては農業の低下である。昨日と同じことをやる農民と農民に物を売ったり仲買いをして農民から利益をむさぼるJAでは日本の農業を発展させることはできない。

 生産から販売までを一貫してやる会社方式でなければ農業再生はできない。種苗の開発、生産のアップ、市場の開拓をひとつの線で結んで、利益追求する会社方式こそが農業の生き残る道である。

 関税撤廃は遅かれはやかれやってくる。それは世界経済の流れであるし、それこそが国家と国家の垣根をなくして、政治・経済の運命共同体を構築するはじまりである。その大きな流れを農民の都合だけで阻止できるものではない。

 農業は頭の変革が急務である。
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「国家の品格」批判その1



英国政府の機密文書に「天皇は『日中事変で日英関係が急速に悪化していることに、私は深い懸念を持っている』『かつての良好な日英関係に戻すのを心から願っている』などと明かしたうえで、『どうか、大使も力を貸してほしい』と要請。大使が『良好な日英関係を築く唯一の基盤は、中国を敵ではなく友人とすることです」と応えると、天皇は「その方向に、すべての努力を傾けなければならない』と語った。」ことが記されている。



 この機密文書から分かることは、中国侵略は天皇の意思ではなかったということである。天皇はイギリスとは友好関係になるのを願っていた。中国を敵ではなく友人とすることを天皇は願っていたのだ。
 ところが日本は天皇の願いとは逆に中国征服を狙って中国を侵略した。いったい誰が天皇の願いを踏みにじったのか。言うまでもなくそれは日本軍隊である。日本軍は中国を侵略し、イギリスとは敵対していった。

 「天皇崇拝教育」は誰のための教育だったのか。貴族である天皇は平和主義であり戦争を好んではいなかった。しかし、国民は天皇陛下の名の下に戦争に狩り出されていき、「天皇陛下ばんざい」と叫んで戦場に散っていった。国民と天皇の間に存在する軍部が天皇崇拝の仕掛け人である。




 37年9月24日の英国外務省報告文書では、日本の政治システムを「天皇を取り巻くアドバイザーが(略)日本の政策を決定していく」と分析。そのうえで、天皇の性格を「周囲の人間の操り人形とならないためには強い個性が求められるが、今の天皇はそれを持ち合わせていない」「弟の秩父宮のように自由を与えられず、自分の意見を形成する機会を持てなかった」と記している。


 国民は天皇を崇拝し、天皇のために戦争をしたが、昭和天皇は戦争を望んでいなかった。戦争を望んだのは軍部であったのだ。国民が天皇のために戦っている思ったのは間違いであり、国民が天皇陛下のために戦い死んでいったのは、武士思想の政治家や軍部の策略であったのである。天皇は国民を戦場に狩り出すために利用されたのである。

 武士は領土を支配することによって富を得る。武士の本能とは領土を拡大することである。朝鮮、満州、中国と植民地を拡大していったのは軍部でありそれは武士思想の行動であった。
 「天皇崇拝」「皇民化教育」は国民が尊く思っている天皇を軍部の野望を実現するために利用したのである。明治から戦前までの政治は軍部つまり武士の政治であり、天皇制政治でも貴族政治でもなかった。
 
 それが事実であったことが英国の報告文書にはっきりと出ている。

 安倍首相の「美しい国」の思想は武士思想である。靖国神社は武士思想によって明治に建立されたものであり安倍首相が参拝するのは武士思想の神社を参拝するということである。

 永久戦犯が奉納されたことをきっかけに昭和天皇は参拝しなくなった。現天皇も参拝していない。これは武士思想と貴族思想の違いを明確にしているものである。

 



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インターネットは中国を民主化する



 中国山西省のれんが焼き窯に千人以上の子供がたまされて連衡され、強制労働をさせられていると中国の夕刊紙に載った。

 自分の子供を救出した父親らがインターネットで児童労働の悲惨な実態を告発したのがきっかけで、地元当局の対応への反発が広がっているという。

 民主化の始まりは情報の公開です。インターネットがない時代の中国は政府系マスコミだけであり、政府や地方官僚に都合が悪い情報は公開されなかった。
 しかし、インターネットが全土に広がっている現在は個人が情報を全国的に公開できる。政府の監視は厳しい。民主運動家の活動は今でも封じられている。民主化というのは政治運動だけで実現するものではない。そして、民主運動家だけが民主化実現の活動をするのでもない。
 
 自分の子供を救出した父親の活動も民主化運動である。今まではこのような地方の活動は地方官僚やボスによって握りつぶされていた。インターネットの登場で情報を全国に公開することができるようになった。公開されてしまうと不正はどこにあるかはっきりするから政府や地方の権力も傍若無人な弾圧はやりにくくなる。
 
 民衆のインターネットを利用した権力者の不正告発の積み重ねは中国の民主化を促進するエネルギーとなる。
 経済の発展、自由競争、私有財産の許可が市民を開放し、社会主義政治がじょじょに弱体化していく一方、インターネットによる権力不正の公開が民主化をじょじょに実現していく。

 中国は経済発展だけではなく、実質的な民主化も進んでいる。
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集団自決は二重の悲劇

 集団自決の記述から軍命を削除・修正した検定問題に対する抗議署名が7万人を超えた。これは実行委員会の予想を超えたものであり抗議署名はまだまだ増えるという。
 
 集団自決は悲劇である。教科書検定に対して抗議の反応が高いのは集団自決の持つこの上ない残酷な惨劇であるからだろう。親が子を殺し、夫が妻を、兄弟が殺しあうのである。手榴弾で死ねなかった時は鎌や棒で殺したという。
 あまりにも悲惨である。私が高校の頃は慶良間で集団自決というのがあったらしいという噂は聞いたことがあったが、今日のように体験談が新聞に掲載され、世間の話題になることはなかった。
 生き残った人は口を閉じて話さなかったと聞いたことがある。余りにも残忍であり、しかも親兄弟が死んだのに自分だけが生き残ったという自責の念も強かった。
 

 集団自決は根本的には軍命である。皇民化教育が徹底され、天皇ために死ぬことが名誉である教えられた沖縄の人たちにとって軍の命令は天皇の命令であった。

 渡嘉敷村の集団自殺の時は「天皇陛下ばんざい」と叫んでから自殺している。渡嘉敷という離れ島で戦争と関係のない生活を送っていた貧しい人々が日本の軍国主義が勝ち目がないと知りながら仕掛けたアメリカとの戦争に巻き込まれて集団自決に追い込まれた。残酷な運命である。

 なぜ、彼らは自決することができたのだろうか。そこにメスを入れないと沖縄の問題の底が見えてこない。

 米田光子さんの証言で、光子さんたちが集団自殺の現場から逃げる時に「あんたたちは日本人じゃないのか。逃げるのか。」と言われている。集団自決をした人々の最後のプライドは日本人として死ぬことであった。それは沖縄人としては悲痛なことではあるが認識しなければならない。
 沖縄は懸命にいや命がけで日本になろうとした。沖縄が豊かになるには日本になることであると信じていたのだ。
 皇民化教育は日本政府が沖縄に押し付けた面もあるが、沖縄の知識人や政治家は積極的に皇民化教育を受け入れている。沖縄が日本の一員として認められるには戦争で活躍することであると知識人や政治家そして教育者は啓蒙していたのだ。
 
 沖縄人は日本にあこがれ日本人になることを望み、日本の中央政府や軍部に認められる努力をした。原因は沖縄の貧困である。日本政府を信じ、軍部を信じ、天皇崇拝の沖縄になった根本には沖縄の貧困がある。
 
 戦後、すぐに高揚した大衆運動は祖国復帰運動である。集団自決、10万人近い民間人が死んだ沖縄戦は日本軍部がアメリカに仕掛けた性であると分かっていても戦後沖縄は祖国日本に帰ることを望んだ。
 
 集団自決と祖国復帰運動は沖縄人の根底で通じるものがある。それは日本に身も心もあずけるという姿勢である。沖縄の根底にはだから自立の思想がない。
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もっと文民統制の主張を

 表現の自由侵害 違憲か
  「戦力」の矛先われわれに

         高良鉄美(1954年生、琉球大学法科大学院教授

       に対する私的批判

 高良氏は辺野古の事前調査に自衛艦を派遣したことが言論の自由、集会の自由に対する無言の圧力であり憲法違反と主張している。
 自衛艦派遣が自由への圧力ということに対しては疑問である。海上での基地建設反対派の抗議行動は国が決めたことに対する実力を伴う反対運動であり、国が事前調査を成功させるために自衛艦を派遣するのは表現の自由への圧力にはならないと思う。

 「海自投入を問う」のシリーズに投稿している知識人の意見はほとんど共通していて海自の投入を言論の自由、集会の自由への圧力と主張している。しかし、国の調査を邪魔する目的の行動への国の対処は自由の圧力にはならない。
 こじつけのひどい主張である。

 
 自衛隊がアメリカ軍の飛行場建設の事前調査をやっていいかどうか。このことは法的に自衛隊活動を定義づける重要な問題である。
 高良氏は自衛隊が事前調査するのは自衛隊の任務外としている。

事前調査は

 侵略に対する防衛任務ではない。
 公共の秩序、安全の維持は警察の任務である。
 災害派遣に該当しない。
 人命、財産保護、治安維持の対象ではない。
 緊急性、非代替にも当たらない。

として、自衛隊の事前調査は自衛隊任務を逸脱していると主張している。

 自衛隊は国家機関であり法によって行動する。特に自衛隊は武器を使用する殺人集団であるのだから特に法を遵守した行動をしなければならない。
 高良氏は「今回の安易な派遣は、国民に、シビリアンコントロールの基盤の弱さに対する不安を感じさせるだけでなく、戦力の矛先が自分の側に向けられる懸念を強めるものである。」としめくくっている。

 問題は政治家の中にシビリアンコントロールをいい加減に考えている者がかなりいるということである。久間防衛省大臣がそうである。
 マスコミが情報収集しているのに自衛隊が情報収集してなにが悪いのかと公の場で発言している。その発言は非常に深刻ん゛問題を含んでいる発言である。
 マスコミと自衛隊はそのあり方が全然違う。マスコミは情報を集めて国民に知らせるのを業としている。しかし、自衛隊は武力を持ち、外国からの侵略を防衛するのが任務である。国内の特定の市民を調査するのは自衛隊には法的に許されないことである。

 自衛隊の事前調査を自由への圧力であるという主張は遠慮した方がいいと思う。その代わり自衛隊のシビリアンコントロール、法の遵守については徹底的に追求するべきである。
 民主主義国家をつくるために。
 

 
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国家権力の差別的行使

沖縄タイムス2007年6月13日

国家権力の差別的行使
    調査の正当性確保に疑問
           吉川 秀樹(大学・大学院非常勤講師、ジュゴン保護キャンペーンセンターメンバー)

 吉川氏は海自を投入して辺野古海岸を調査したことを「武力行使をもいとわない国家権力の威圧以外のなにものでもなかった。」と言い、「沖縄には国家の権力をもって対処し、本土ではその差別的権力の行使を隠蔽する」という日本政府の態度が最悪の形であらわれたと述べている。

 吉川氏は国家を権力の権化のように見ている。吉川氏はジュゴン保護を正としていて国家は悪という風にみている。
 吉川氏は国の行為を批判しているが、国の行為を批判する前に吉川氏は辺野古海岸に飛行場をつくることに賛成か否かをはっきりさせなければ、吉川氏の国に対する批判の根拠が単なる正義の味方が国の不正を正す批判となるだけである。
 
 吉川氏は飛行場建設について賛成か否かを明確にしていない。もし、吉川氏がジュゴン保護の立場から辺野古海岸の飛行場建設に反対であるなら、辺野古海岸調査そのものに反対ではないだろうか。もしそうであるなら「調査の正当性確保に疑問」という批判をやる意味があるのか疑問である。もし、そのような理由で調査に反対であるなら「正当な調査」なら認めるということになり、飛行場建設反対の理由がなくなってしまう。

「沖縄ジュゴンは存在し、辺野古・大浦湾を重要な生息地とする。」
「しかし、早急な絶滅危機に瀕しており、早急な保護が必要とされている。」

という理由で吉川氏は辺野古に飛行場を作ることに反対している。政府はそのことを考慮して陸上V字型案にした。ジュゴン保護の立場なら政府案に賛成するのが妥当である。
 政府は陸側を主張し、名護市や県の方は海側を主張している。ジュゴン保護の立場なら政府より名護や県に抗議するべきである。しかし、吉川氏は政府批判だけである。このような国家憎しの批判のやり方でいいのだろうか。

吉川氏は「事前調査が唯一行うべきことは、政府が基地建設のために破壊しようとしている辺野古・大浦湾のかけがえのない自然破壊の真の姿を、私たちに、そして私たちの子どもたちに伝えることなのだと。それができない事前調査なら即中止されるべくである。」と国を批判している。

 吉川氏は辺野古に飛行場を作ることに反対しているということがこの文章ではっきりと現れている。飛行場を作らないためり事前調査なら正当であるが、飛行場を作るための事前調査なら不正であると言っているのだ。

 政府は飛行場建設をするのを前提として事前調査をしているのである。つまりは自然破壊を前提にしているのだ。自然保護の立場から事前調査を調査を主張している吉川氏とは反対の立場である。自衛隊が調査に参加するとか正当な調査をするとかという問題は本当は吉川氏にとって関係ないということが分かる。吉川氏の本心は飛行場建設に反対であり、国の事前調査はすべて否定しているのだ。

 そうであるなら、ジュゴン保護のために辺野古に飛行場建設を反対する理由を中心に主張するべきではないだろうか。国家権力の差別的行使と感じるのは吉川氏の被害妄想である。
 吉川氏のように国家を敵視するのは今までの大衆運動である。このような運動は国の作業に抵抗したり邪魔したりして国の目的を断念させようとする。
 そのような運動に欠落しているのは日本が民主主義国家であることへの認識である。国は国民選挙で選ばれた議員によって運営されている。大衆運動は国会に影響与える運動を工夫し、議員拡大に連動させていくことである。

 大衆運動は反国家では駄目だ。国家への権力幻想をなくすことだ。「国家権力の威圧」「政府の持つ権力をまざまざと見せつけ」などと見ると国家はまるで国民から離れた独立した生き物のように見えてくる。

 しかし、国家とはそういうものではない。日本は議会制民主主義の国家である。国民が選んだ議員で国家は運営されているのだから過半数論理が基本にはある。
 それに日本は法治国家であり、もっと法治国家を強めていくべきであるし、民主社会に変革していかなければならない。だから自衛隊の事前調査を国家の威圧として見るのではなく、自衛隊の事前調査は法を遵守しているかどうかを問題にし弁護士を交えて研究し、法に違反しているのなら厳重に抗議し裁判闘争に持ちこむべきである。
 違反していなくても自衛隊の行為は民主主義社会で容認できるかどうか研究するべきである。

 このような地道な闘いを基礎にして大衆闘争はやらなければならないと私は思う。大衆運動は民主主義国つくりを常に年頭に置き、思想の広がりを課題にし、理解する議員を増やしていく行動が必要である。ただ昔のように上に改善を訴えるという考えはだめである。

 自民党の長期政権をなさしめている原因はいろいろある。私は日本の大衆運動のあり方もそのひとつだと思う。
 社会党や共産党だけが参加し応援する大衆運動ではなく自民党も巻き込むような大衆運動がない。理由は国家イコール国民を弾圧する権力と見て大衆運動は反国家、反体制の態度が強かった。
 しかし、日本は民主主義国家である。大衆運動は反国家や反体制でやるものではない。要求を国家に反映させる目的でやるべきである。民主主義としての国家、法、権力に対する理解を深めることが大事である。
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うつのままに




こころを  慰めて  おくれ

こころを  歌って  おくれ
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ひとりの 部屋で

けだるい 時間




とまる  時間

歩かない  時間








たわむれる   たわむれる   たわむれる   たわむれる





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部屋のひかりの中で

わたしの夢が たわむれる







どこに 行こうか

どこに 行こうか

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ひかりの中の   こころの   闇

闇の中の    やすらぎの   希望

    あれば   いいね



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国家は品格より民主2鬼畜米英式である櫻井さんの恐怖論


「 米中の力のバランスが中国に傾けば? 台湾問題はドミノ倒しの最初の1枚 」
『週刊ダイヤモンド』    2007年5月26日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 691

     に対する批評

 日本軍はアメリカ軍が沖縄上陸をする前にアメリカ軍を鬼畜米英と呼び、アメリカ軍に捕まったら女は犯されて殺され、男は車で八つ裂きにされると宣伝した。
 それが集団自決という悲劇を生んだ原因にもなった。櫻井さんは情報の一部を利用することによって「鬼畜米英」のようにありもしない中国脅威論を展開し、日本は軍備を強化しなければならないと主張しいる。

「中国軍が米空母攻撃能力を高めるため、射程1,500~2,500キロメートルの準中距離弾道ミサイル「東風21」の改良に着手したこと、核弾頭搭載が可能な東風21はすでに100基近く配備されていること、これらに赤外線探知装置を取り付けることで、米空母の攻撃が可能になることなどが報じられている。」

「台湾が中国の支配下に入った場合、米国の影響力の低下と日本の孤立は避けられない。」
「台湾制圧のためには、米軍の介入を許さないことが大前提となる。」

「衛星の破壊によって米軍の通信能力を一瞬にして奪い去ることも可能なのだと見せつけた。」

「中国共産党政権は、国家の基本は軍事力にあると考えてやまない。」

「中国が全力で米海軍の動きを抑え、米軍の楽観主義、親中姿勢の間隙を突いて、台湾を制圧することは十分考えられる。」

「ドミノ倒しを防ぐために日本が今すべきことは、日本もまた、軍事力の意味を見据えてその整備に力を入れることだ。」と中国が台湾を攻撃して支配する可能性を示唆して日本の軍備強化をした方がいいと結論づけている。
 
 櫻井さんは軍事についてのみ分析して中国が台湾を支配する可能性を示唆している。しかし、中国が台湾支配するかどうかの問題は軍事だけではなく政治・経済のことからも検討しなければならない。
 中国の経済成長はアメリカとの貿易なしには実現しなかった。現在も莫大な輸出をアメリカにしているし、IBMなどアメリカの企業買収もどんどんやっている。中国が台湾を武力で支配するとアメリカと国交断絶をすることになる。アメリカだけではなく日本、ヨーロッパの国々も国交を断絶するだろう。中国が台湾を武力支配したら中国経済は壊滅状態になる。

 数年前に中国は反日運動をやった。すると国際批判を浴び、中国の観光はがた落ちした。日本に圧力をかけるつもりが自国の企業に悪影響を及ぼしたのだ。その後に反日運動の兆しがあっても政府のほうが抑えるようになった。今の中国は経済が高度成長をしている最中であり、経済成長が破綻することを中国はもっとも恐れている。

 台湾の企業の中国進出も盛んであり、櫻井さんのいう中国の台湾支配は不可能である。中国の軍事費は日本を越した。でも領土の大きさ、人口で日本の何倍もある中国である。日本より軍事費が多くて当然である。中国の軍事力よりアメリカの軍事力の方がはるかに高いし、日本の軍事力も中国より高かったのである。中国は日本やアメリカとの軍事力のバランスを均衡化する目的もあると考えた方がいい。

 中国は軍部も政治に参加している国であるから軍部の意見も政治を左右する。しかし、一方では資本家が台頭してきた。資本家の意見も政治を左右するようになった。外国資本、国内資本の拡大が中国経済を発展させ、生活を豊かにしているのだから、軍部がしゃしゃり出て台湾支配を主張してもその主張は潰されるだろうし、軍部でも武力による台湾支配が中国に悪影響を与えることは承知している。

 中国が台湾を支配する可能性はゼロである。それを軍事面だけから分析することによって中国の台湾支配の可能性を示唆することは「鬼畜米英」と同じで嘘の論理で国民に恐怖心を植え付けるやり方である。

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