島袋 純氏への反論

住民抵抗 暴力的に排斥
    背景に国家主義の拡大
           琉球新法 2007年6月6日掲載
           島袋 純(1961年生。琉球大学教授。比較道州制の研究。)


 島袋氏は新自由主義を市場至上主義、市場原理拡大主義であると言っている。新自由主義とは政治集団であるのかそれとも経営集団であるのか明言していない。まるで世界中が新自由主義になったように書いているが現実の新自由主義というのはアメリカの政治・経済のやり方を指していて、日本が色々な規制を撤廃して市場の自由競争が高まったことで新自由主義と呼ぶようになった。
 つまり、アメリカではすでにある経済活動であり、今さらアメリカを新自由主義と呼ぶのはおかしい。
 成長著しい中国やインドはまだまだ規制が強くて新自由主義と呼ぶことはできない。ロシアは市場が開放されたが社会主義時代に比べて開放されたのであってまだまだ閉鎖的であり、石油資本は民間から国家所有になった。新自由主義とは逆行している。しかし、中国、インド、ロシアの経済は急成長していて経済市場は地球規模になった。

 企業家もともとは新自由主義である。市場が地球規模になってきたのは新自由主義とは関係がない。社会主義国であったロシア、インドが自由主義経済になったので多くの企業が元社会主義国家に進出して活発な経済活動をやったからである。。中国は社会主義のまま自由主義経済を導入したいちじるしい経済成長をしている。ロシア、中国、インドの三国が著しい経済発展を遂げたことが市場が地球規模になった原因である。

「その中で国家経済領域、すなわち政府セクターの縮小を求めるがゆえに、国家的な保障にあった多様なリスクも、市場に押し出して経済システムに委ねる、市場が引き受けない部分はあるいは家族や地域など社会システムに委ねる。端的に言えば国家が担ってきたリスク保障を経済システムと社会システムに投げ返すという乱暴な改革が進む。」と小泉前首相の構造改革に批判的である。

 この批判の根拠には間違いがある。
 国家が抱えたリスクは国民が抱えることになることを島袋氏はまるで国家が抱えるリスクは国家止まりのように解釈している。国家のリスクは国民が負うのが必然である。
 政府セクターとは第三セクターのことであると思うが、例えば夕張市が破綻した原因は市長が第三セクターで莫大な借金をしたのが原因である。そして、夕張市の負債リスクは市民が抱えることになった。つまり、市民が支払う税金から借金は返済されることになり、市民への税の還元はカットされた。もし、夕張市の第三セクターが第三セクターではなく民間経営だったら民間が負債の責任を取るのだから夕張市が破産することはなかった。
 政府セクターのリスクは国民が背負うようになるのであるから政府セクターを減らすのは当然である。

 「市場が引き受けないリスクは家族や地域に委ねる。」の意味が分からない。市場主義はいわゆる民間企業経済である。民間企業は自己責任主義であり、経営不振の責任は経営者が取るのであって家族や地域が責任を取るということはない。株式会社が倒産した時は株主がその責任を取るのが市場原理である。「市場が引き受けないリスクは家族や地域に委ねる。」というのが具体的になにを指しているのか分からない。

 政府セクターや県、市町村の第三セクターの方が赤字を税金で補填することになり国民にリスクを負わせるのである。市場原理主義は経済と政治を切り離し、政治は公正取引委員会のように企業が健全経営するように厳しく監視することにある。健全な自由競争を政治が保障する市場が市場原理主義の目指す方向てある。政治と経済の分離つまり政治と経済の分業が資本主義民主主義の目指す社会である。

 小泉前首相がやった構造改革のどこに賛成なのかどこに反対なのかそれとも全部反対なのか島袋氏の弁では分かりにくい。
 橋本派の弱体化は新自由主義=構造改革の圧力にさらされた結果ではない。むしろ逆である。橋本派の派閥力を弱体化させることによって小泉構造改革は実現したのである。小泉前首相は国民的人気をバックに派閥政治の圧力に抗して序々に構造改革をしていき、橋本派を弱体化させながら味方の政治家を増やしていって、構造改革もやったのである。
 郵政民営化で参議院が否決された時、常識はずれの衆議院解散をやってのけた。非情な政治戦争を克服しながら構造改革をやったことを無視してはいけない。

 国の莫大な借金、地方財政の破綻状況の原因は収入以上に予算を計上して借金を増やしたからである。国や地方の借金体質を根本から治すことが課題である。予算を削れるだけ削ることは仕方がないこつではないか。そのために国民の生活保障が厳しくなっても仕方がない。それが健全な国家になる道である。
 島袋氏は絶望的な貧困がはびこると悲観しているが日本の貧困は底を通過しつつあるのであって悪化の方に進んでいるわけではない。回復の方向に進んでいるのだ。夕張市も消滅したわけではない。どん底から這い上がろうと頑張っている。


 財政の健全化、格差是正、国民の生活向上は簡単に解決できる問題ではない。しかし、民主主義国家は国民の選挙で議員は選ばれることになっている。当たり前で簡単な理屈ではあるが、でもそれが政府への確かな圧力なって、政府は国民の要求を実現していく。民主主義国家とはそんなシステムになっている。
 バブルが崩壊して、日本経済がどん底状態になった時、銀行の不良債権を解決しないと不況を脱することが困難であると明確になった時、銀行の圧力を跳ね返して不良債権をやった。そのために銀行は離合集散をやった。
 景気は回復した。不況は脱したのだ。次の課題は労働者の収入アップや格差是正の解決である。それについても国は努力する方向に向かっている。
 国家を敵視する島袋氏の視点からは有効な発想は生まれない。 島袋氏はまるで政府を独裁国家のように批判している。日本が議会制民主主義国家てらあることを忘れてはならない。
 国民投票法案を超国家主義の総仕上げと言うのはひどい被害妄想である。「美しい国」論は安部首相だけでなく、ベストセラーとなった「国家の品格」の作者や櫻井ライターなど多くの人が賛同している。学者なら「美しい国」論を真っ向から論駁することが必要である。「伝統」「歴史」「民族」「道徳」につながる「美しい国」論がなぜ駄目なのか島袋氏は批判していない。ただ切って捨てているだけである。これでは批判しているとはいえない。

 国民投票は国民の直接の意思が反映されるものである。民主主義国家の根幹である。国民投票が「美しい国」作りに利用されるというような言い方は国民の意思を侮辱するものである。島袋氏は自民党への反発が強いために無意識に民主主義を否定する理論になってしまっている。

「札束で顔を叩くような補助」のような感情論では駄目だ。国に協力する地方に補助金を出すというのは合理的であり、地方も態度をはっきりさせやすい。地方に平和と自治の精神が強ければ基地建設を断るだろうし、平和と自治の精神が弱くて国の援助がほしければ基地建設に賛同する。
 基地建設が武力を使用した強制ではないことは民主主義国家のゆえんである。

 選挙の投票率が低くなってきたのは米軍基地が縮小して基地被害が少なくなったことや生活が次第に向上して政治への不満が減少した性である。

 国は「圧倒的な力によって批判的思考を奪い取る」という考えはやっぱり被害妄想と言わねばならない。批判思考は健在であるし、新聞マスコミも政府批判や基地反対、平和運動の意見を優先して掲載している。

 沖縄基地反対運動や抵抗運動は平和主義であって民主主義の闘いではないというのが私の認識である。  
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