「国家の品格」批判その3


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 藤原氏は「国家の品格」で芭蕉の俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」は日本人なら誰でも知っていると言います。なぜ誰でも知っているかというと学校で教えたからです。学校で教えなければこの俳句を知らない日本人も多いでしょう。。
 教える時にはかわずはかえるであることを教えます。最近はかわずがかえるであることを知らない子供も多いし、地方によってはかわずという言葉を使わないところもあります。かわずをかえると教えないと分からない人もいます。

 「古池や 蛙飛び込む 水の音」の内容も教えます。俳句のような短い詩は一読しただけで解釈させれば色々な解釈が可能です。俳句の解釈はその道の専門家が解釈してそれが広まります。
 つまりは俳句は俳句の解釈・内容を教えるからわかるのです。藤原氏は日本人なら誰でも知っていると言いますが、正確に言うなら日本人なら誰でも学校や俳句好きの老人から習うから知っているということです。
 もし解釈を習わなかったら「多くの外国人」のようにかえるがドバドバッと池に飛び込む情景を思い浮かべる日本人もいるだろう。なぜならかえる一匹が飛び込むくらいで「水の音」は聞こえないからです。多くのかえるがどんどん飛び込まないと飛び込む音が聞こえるはずかないと思う人はけっこういると思います。だから次々とかえるが飛び込むのをイメージする人がいてもおかしくはありません。
 藤原氏は「古池や 蛙飛び込む 水の音」の解釈はこうこうでなければならないと思い込んでいます。しかし、俳句はひとつの解釈が絶対であるという決まりはありません。
 
 藤原氏は「境内の古池に一匹ポチョンと飛び込む光景を想像できる。その静けさを感じ取ることができる。」と解釈していますが、藤原氏の解釈は妥当だろうか。
 芭蕉は江戸時代の俳人であり、貴族でもなければ武士でもありません。芭蕉は貴族的な自然美の感覚はもっていません。「のざらしを心に風のしむ身かな」は芭蕉俳句の出発点です。この俳句は自然の美しさを表現していないのは一目瞭然です。

 旅をして、旅で見たまま感じたままを俳句にするというのが芭蕉の俳句精神です。芭蕉の俳句は決して自然の美しさを俳句にするという貴族的な美の表現ではありません。
 
「古池や 蛙飛び込む 水の音」の古池を藤原氏は境内の古池と解釈しています。境内の池は古池と言えるだろうか。境内の池は毎日掃除をしてきれいです。古池というのは手入れもされずに草がはえ、ちりあくたがたまっているから古池と言えるのです。古池は花鳥風月的な美しさではないのです。しかし、美はあります。
 芭蕉の俳句に「のみしらみ 馬の尿する 枕もと」という臭くて汚い情景の俳句もあるのです。芭蕉が見た目の美しさを俳句にしたのではないことを知るべきです。

 回りが静かであればかえるの音の飛び込む音は聞こえるだろうか。犬の耳なら聞こえますが人間の耳で聞くのは不可能です。芭蕉の耳は並外れた聴力があったのかも知れません。
 かえるの飛び込む音が聞こえるということは非常に静かであるということです。「かえるの飛び込む音が聞こえるくらいに静かである」という解釈もできます。この俳句は視覚的な情景ではなくて音的な情景の俳句と解釈することができます。
 深夜、芭蕉は寝ている。古池の方からかえるの鳴き声が聞こえてくる。そして、かえるの泣き声が止み、回りがとても静かなので小さな水音さえ聞こえた。ああ、かえるが古池に飛び込んだな。
 というように、古池は見えるのではなく、闇の中でかえるの飛び込む音が聞こえる。情景は闇であり古池ではないというような理解もできます。
 かえるの飛び込みは一回ではなく断続的に聞こえてくるというのも風情があります。深夜の静けさを表現した俳句と解釈することもできます。
 「古池や 蛙飛び込む 水の音」はこのような解釈もできるしそのように解釈する専門家もいます。
 藤原氏は外国人がかえるがどばどばと池に飛び込む想像するのを非難していますが、俳句を勉強したことがない外国人なら仕方のない話です。
 日本人でも俳句の勉強をしていなければ外国人と同じ解釈をする人は居るとおもいます。
 藤原氏は貴族の和歌と芭蕉の俳句の違いを理解しているかどうか疑問です。日本の自然の美しさを貴族時代は表現されましたが、江戸時代の町人文化では浄瑠璃や歌舞伎で心中ものや人情ものが表現されています。文学表現は発展し自然や神の表現から人間の表現になっていきます。
 
 芭蕉の俳句は自然美だけの俳句ではありません。むしろ自然美を超越した「美」を表現しているとおもいます。

 蚤しらみ 馬の尿する 枕元

 猿を聞く人 捨て子に 秋の風いかに

 野ざらしを 心に風の 沁む身かな

 旅に病んで 夢は枯れ野を 駆け巡り



 閑けさや 岩にしみ入る せみの声

この俳句は貴族的な自然美を超越しています。せみの声が岩にしみ入るという表現は芭蕉の研ぎ澄まされた感性がなしえた表現です。見えないものが見える、聞こえないものが聞こえるまでに骨身を削って研いだ感性から作られたのが芭蕉の俳句です。

 芭蕉の俳句を日本の美を知らない外国人をあざ笑うために利用した藤原氏は芭蕉を尊敬し芭蕉の俳句を愛しているのでしょうか。
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