「琉大事件」が問うもの

「琉大事件」が問うもの
比屋根照夫

 琉球新報2007年5月25日掲載

 琉大事件とは一九五六年に琉大の学生が土地闘争に参加したために米側の圧力で退学させられたことである。琉球大学名誉教授の比屋根照夫氏はそれを米国の植民地主義による琉大への圧力であり「思想、言論などの内面的価値に対する攻撃、価値の剥奪である」と批判している。

 上原正稔氏の「戦争を生き残った者の記録」はアメリカが戦後沖縄の復興にどのように尽力したかを書いてある。沖縄は長い間植民地支配されていたので自治能力がなかった。アメリカはゼロから沖縄の自治政治を指導していっている。このアメリカの指導について沖縄の知識人が認める言動をみたことがない。
 琉球大学を創設したのはアメリカの財団である。沖縄人には大学を創設する技術がなかった。戦前は沖縄に大学はなかったし中央政府の主導て教育はなされたからだ。
 沖縄に大学が創設されたのは戦後であり琉球大学が最初である。沖縄の復興には高い教養のある人間が必要であることを知っていたアメリカが琉球大学を創設したのである。アメリカが琉球大学を創設した目的は沖縄の政治・経済に貢献する人材を育てるのが目的であった。

 ロシアから起こった社会主義国家がみるみるうちにユーラシア大陸に広がりモンゴル、中国、ベトナムなどアジアのほとんどの国が社会主義圏に属するようになった。社会主義圏の広がりを食い止めるためにアメリカは沖縄の軍事基地を強化することになった。新たな基地建設のために土地の強制接収をはじめた。
 土地闘争は米軍の土地接収に反対する島民が激しく抵抗したために起こった。アメリカ側にすれば共産主義と対抗するために基地拡張は必要なことであった。米軍基地に反対する学生は共産主義思想に近いと見なしたのである。
 共産党を創設したのは沖縄出身の徳田球一であるし、沖縄には共産主義者が多かった。アメリカが一番恐れたのは共産主義者が沖縄の政権を握ることであった。共産党員の瀬長亀次郎氏は那覇市長を追放されている。比屋根氏はアメリカが沖縄の共産主義者に神経質になっていた事情を無視している。

 比屋根氏はアメリカが琉球大学を創設した理由を理解していない。
それどころが琉球大学を創設したのは沖縄の人間であると信じているように思われる。沖縄の人間に大学を創設する能力はなかった。沖縄の人間には大学の設計者もいなければ大工もいなかった。大学を創るには強い理念と企画力と資金が必要である。そういう裏のエネルギーを理解していないのが比屋根氏のような沖縄の知識人である。琉球大学の創設にはアメリカの大学の財団が直接関わっている。そもそも戦後の沖縄人は沖縄を統治する能力もなかった。琉球政府、市町村の基礎つくりをしたのはアメリカである。

 アメリカの弾圧を植民地主義と判断していいのだろうか。アメリカは民主主義国家である。大統領も国会議員も選挙で選ばれる。そのアメリカが植民地主義であるという根拠はどこにあるのか。復帰前はアメリカ人が犯罪を犯しても沖縄の裁判で裁くことができなかったり、本国に逃げてしまうケースが多かった。沖縄は琉球政府よりアメリカ民政府の権力が強かった。しかし、日本は戦争に負けたし、戦前の日本は軍国主義だった。沖縄は日本の植民地だったとアメリカは判断している。そして自治能力がなく、政治を沖縄の住民に任すのは混乱するとアメリカは分析していたし、事実、行政や三権分立政治もアメリカの指導なしには実現しなかった。
 アメリカの沖縄への認識を理解しないからアメリカの弾圧を植民地主義と決め付けてしまうのである。アメリカの沖縄政治を植民地主義と見るか見ないかで大衆運動のあり方やアメリカとの交渉が違っていく。

 比屋根氏は大学が独立法人化されることによって教授会の自治が形骸化されるという。むしろ、独立法人化することが大学に自治を推進することになるのではないだろうか。実績があろうがなかろうが一律に国が援助するというのは国の関与を許すことになるし、教授は魅力ある講義を作り出す努力を怠るこになる。
 独立法人化は大学が国の過保護から独立することである。子供の自立である。それを大学の自治への圧迫と見るのは主客転倒している。
 アメリカの沖縄統治を植民地主義と決めつけ、国立大学の独立法人化を大学自治への圧迫であると考える比屋根氏はアメリカや中国など外国の国家の体制や思想を理解し分析する努力をやらないで沖縄への行為を被害妄想的に解釈する。多くの沖縄の知識人が比屋根氏と似ている。
 50年代は沖縄の政治・経済が混乱している時期であり、体制をつくる中途であり、民政府の強制力が強い時期である。
 10代の時に皇民化教育を受けて敗戦を経験した知識人に共通しているのが、アメリカやイギリスを「鬼畜米英」と信じたように他の国家を客観的に観察し分析する目を持っていないことである。沖縄の知識人は沖縄の基地問題を語る時に中国や旧ソ連については語らない。アメリカや日本が沖縄に理不尽なことを押し付けていることに反発するだけである。それでは単なる愚痴である。知識人の沖縄論は愚痴論と言っても過言ではない。

      平和運動への私的変遷年表

 沖縄戦前・・・真珠湾攻撃の時は沖縄は拍手喝采した。

 沖縄決戦直前・・・アメリカ軍を撃退する意気込みがあった。

 沖縄戦・・・アメリカ軍に圧倒され、多数の軍人、民間人が死んだ。現在は集団自決等の戦争の悲惨な面が強調されているが、勇敢に戦って死んだ兵士、民間人がいたことも記憶しておくべきである。

 戦後・・・・公務員・教員を中心に祖国復帰運動が起こる。公務員・教員以外は熱心ではなかった。

 *沖縄は日本である・・・共通語励行・君が代・日の丸掲揚運動。復帰すれば生活が豊かになると宣伝する。

 ベトナム戦争・・・嘉手納空軍基地の爆音は24時間激しくなる。B52重爆撃機が墜落する。戦争の恐怖が高まる。沖縄の反戦運動が最高潮になる。 
    *復帰すればアメリカ軍基地は撤去され平和な沖縄になると復帰運動は宣伝する


三大選挙・・・沖縄の大衆運動が高まる。
    *「命を守る県民会議」を創設。私たち学生は県民の危機感をあおって票集めするのに利用していると批判した。

沖縄の祖国復帰・・・*ベトナム戦争でアメリカは経済が疲弊した。沖縄の米軍基地の維持費を日本が肩代わりするのを合法的にする目的があって沖縄の祖国復帰はあった。いわゆる密約というもので、最近その密約について明らかにされているが、学生運動ではそのことを取り上げて復帰に反対した。

 「復帰すればアメリカ軍基地は撤去され平和な沖縄になる」という復帰の前提が崩れる。しかし、その前提は復帰運動の指導者が復帰運動支持者を拡大させるために勝手に宣言したことであり、根拠はなかった。根拠がないことを声を大にしていうのが復帰運動の体質だった。
 復帰運動は「本土並み」返還に変わるが「復帰」の目的が日本政府によるアメリカ軍援助を合法的にすることだったのだから「本土並み」返還はあり得ないことであった。
 復帰は復帰運動の成果ではなく。アメリカの経済危機と日本の米軍基地の維持費を合法的に肩代わりする目的で実現したのてある。

 復帰をした後の復帰運動は平和運動に変わった。
 平和運動も復帰運動と同じように世界情勢、アメリカの世界戦略、日本政府の動向を客観的に見ることはしない。 自己中心的で被害妄想の理論に明け暮れている。
 

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