俺は君のためにこそ死ににいく

石原慎太郎原作・プロデュース映画
「俺は君のためにこそ死ににいく 」
      の監督新城卓監督に聞く   
    
  私はなぜ特攻を撮ったのか 琉球新報2007年5月30日掲載  

 高校生の時だったが特攻隊の映画について、私には疑問が出てきた。映画では特攻隊がアメリカの艦船に突撃する直前にみんな「天皇陛下ばんざい。」と叫んでいたことに対してである。私の疑問というのは特攻隊全員が本当に「天皇陛下ばんざい。」と叫んで死んでいったのかどうかであった。いくら軍国主義教育を受けたからといって戦前の若者は天皇陛下のために死ぬことになんの疑問も抱かなかったのか。平気で死ぬことができたのかというような疑問であった。
 芥川龍之介、夏目漱石、武者小路実篤など戦前の小説に「天皇陛下バンザイ」で死ぬような人間は描かれていない。戦争映画に限って「天皇陛下ばんざい」と叫んで芯で行く人間が描かれるのだ。

 ひとの嫌がる
 軍隊に
 志願で出てくる
 バカもある
 お国のためとは言いながら
 可愛いスーちゃんと生き別れ
という戦前の歌もある。庶民は好きで戦争に行っているのではない。国の命令で無理やり戦場に行かされているのだというのが私の推理であった。天皇陛下のために死ぬというのは疑問であった。しかし、私の疑問を解くことは田舎の高校には資料がないのでできなかった。

 私の疑問が解けたのは大学生になって「聞けわだつみのうた」の存在を知ってからである。戦場に行くのは自分の親兄弟を守るためであったと考えていた若者が多かったことを知った時、私は納得した。
 特攻隊員は国家の命令で特攻隊員にさせられた。国家が決めたことに逆らえば犯罪人になる。だから彼らは特攻隊から逃げることはできないし国家が決めた通りに従うだけである。特攻隊に納得する者も居れば納得できない者もいたはずである。そして、全員が「天皇陛下ばんざい」と叫んで死んでいったのではなかった。むしろ、親兄弟を守るために彼らは死んでいった。「俺は君のためにこそ死ににいく 」である。


 軍国主義国家となった日本は国民は天皇の子と教え、天皇のために戦うことを強いた。私が子供の頃に見た戦争映画は嵐寛十郎主演の「明治天皇」をはじめ、「天皇陛下ばんざい」の映画がけっこう多かった。「君のために死にに行く」のような映画はなかった。戦前では「君のために死にに行く」の君が親兄弟や恋人であればめめしいと見なされた時代である。天皇よりも親兄弟や恋人を愛することは禁じられた思想の時代である。
「戦友」という歌の中に
 軍律厳しき仲なれど
 これが見捨てて置かりょうか
 しっかりせよと抱き起こし
 仮包帯も弾の中
 と友が銃弾で倒れたの抱き起こしただけで軍律に違反している歌として判断されて放送禁止歌になっているのだ。

 新城卓監督は「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画で特攻隊員たちの青春群像を撮りたかったと言いながら、「靖国で会おう」と言ったのは事実であり美化ではないと言っている。しかし、靖国で会うという考えは国や天皇のために死ににいくことを賞賛していることであり軍国主義を美化していることに違いない。
 軍国主義の象徴である「靖国で会おう」と「君のために死ににいく」は思想として矛盾することである。特攻隊員の「靖国で会おう」精神を描きながら「俺は、君のためにこそ死ににいく」と言わすのは特攻隊を美化した映画であると言うしかない。
 石原氏も戦争から60年以上も離れた現在、「天皇陛下のために死ぬ」というのは今の若者にはこっけいに感じられるだろうという心配があり、、「天皇陛下のために死ぬ」というのは控えたのだろう。「俺は、君のためにこそ死ににいく」は美しい。この題名通りの内容なら「誰がために鐘は鳴る」の主人公も仲間を守るに死んだし、地球危機を救うためにみづからの命を犠牲する外国映画もある。。「俺は、君のためにこそ死ににいく」の心情は外国にもある。しかし、「靖国で会おう」「天皇陛下ばんざい」は軍国主義・天皇崇拝の映画であり外国の映画にはないし理解をされないだろう。

 新城監督は「真実の特攻隊員の人間像に迫ろう」としたというが、しかし、真実を追究する前に「青春群像」と「靖国で会おう」というテーマが前提にあるのだから「真実を追究する」努力は小さかったに違いない。この映画は新城監督がどんなにカムフラージュしても特攻隊員を美化した映画であることを隠すことはできない。

 「特攻隊の政治的背景、歴史的背景を詳しくは勉強していない。」「隊員の内面を完璧にはとらえていない。」と新城監督自身が話している。この映画に対する新城監督の態度は中途半端である。
 沖縄出身の監督が特攻隊の映画を撮ったということはタブーを破ったことに意味はある。この映画が「日本の鎮魂歌」になりえるかは別にして、沖縄出身だから特攻隊の映画を撮ってはならという不文律はあるべきではない。どんな映画を作るかは監督の自由である。自分の魂を打ち込める映画を作ることが大事である。ただ,新城監督がこの映画に自分の魂を本当に打ち込めたのかどうかは疑問である。特攻隊員についての勉強を疎かにしたことを吐露し、インタビューの歯切れが悪い。



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