国家は品格より民主その1


 「国家の品格」の藤原正彦、ジャーナリストの櫻井よし子と「美しい日本」を掲げている安部首相は共通する思想のようである。

 国家は政治をする所である。品格とか美しさとかを国家論に持ち込むことはおかしい。貴族が支配していた時代、武士が支配していた時代ならそういう法があってもいいが、現在は貴族国家でもなければ武士国家でもない。民主主義国家である。民主主義国家は国民が望む政治をする国家であって首相が国民に「美しい」という抽象的なものを要求できる国家ではない。
 「国家の品格」の藤原正彦氏はしきりに武士道を政治に導入することを主張している。武士の本質は武力で領地を支配し農民から生産物を分捕る搾取者である。武士の時代にするなんてとんでもないことである。武士に政治能力があると思ったら
間違いだ。武士は戦争をして領地を増やすのが仕事である。殺し合いを仕事とする階層なのである。武士には経済を発展させる能力もなければ日本国を豊かにする能力もない。

 明治時代に廃藩置県をやっが反対する大名はいなかったそうだ。財政が疲弊し借金だらけだったので廃藩置県には賛成した。武士だから精神主義であったり叡智があると思うのは間違いである。
 戦争でも民兵で作った明治の軍隊に武士軍は負けている。武士が戦いに強いというのも幻想である。司馬遼太郎の小説は武士幻想を助長している。
 この武士幻想に乗っかっている人物たちが国家の品格とか美しい日本などとたわ言を言っている。民主主義は武士思想や貴族思想を否定した土台の上に存在していることを理解していない人たちである。
 
 国家は品格より民主である。日本国は美しさより自由、平等を重んじる民主国にしなければならない。戦前に自由、平等主義は軍国主義によって弾圧され行き絶え絶えになったことを忘れてはならない。戦時中に自由・平等の思想は抹殺され戦後に生き残った政治家のほとんどが天皇崇拝・軍国主義の生き残りだったことは留意しておかなければならない。

 戦後の日本は天皇崇拝・軍国主義と共産主義・社会主義が二勢力が存在し、自由民主主義の組織は小さいし弱かった。日本国憲法の下地になった憲法草案を作ったと言われている憲法研究会くらいである。
 戦後日本の政治は日本国憲法によって構成された三権分立とアメリカの圧力と天皇崇拝・軍国主義と共産主義・社会主義の複雑
な絡み合いで発展してきたといえる。

 皮肉なことに日本は天皇崇拝・軍国主義に後戻りすることもなく、また社会主義国家にもならずに民主主義国家として発展している。これはアメリカの圧力によるものである。アメリカ軍がいなければ日本は天皇制国家か社会主義国家になっていただろう。

 日本はまだ内からの民主主義国家ではない。「国家の品格」論を真っ向から批判する人物はいないし、国の最高に立つ首相「美しい日本」を政治テーマにするのである。とても首相は民主主義思想家とは思えない。武士思想の方に近い。しかし、武士思想は民主主義が浸透している現在の日本には通用しない。首相の掲げる「美しい日本」も政治日程に乗せる余裕がない。
 政治失態の連続の政府であるがそうでなくても民主主義国家では「美しい日本」論は軽く弾き飛ばされる運命なのだ。

 美は芸術の範疇であって政治の範疇ではない。美しい日本は観光のイメージアップに利用するものであって政治目標にするものではない。政治世界に「美しさ」を持ち込むのはおかしい。
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「集団自決」削除への抗議集会があった

 2007年6月9日、「集団自決」記述削除に抗議して県民広場で県民大会が開かれた。参加組織は野党政党や沖教祖、高教祖、各種労組などである。

 集団自決に対する削除に抗議して政府に圧力かけるのはいいと思う。沖縄はアメリカ軍基地があり、集団自決等の沖縄戦の傷が深いために革新政党の勢力はまだあるが、基地問題が小さくなった本土では社大党や共産党は消滅寸前である。それは深刻な問題である。

 自民党が長期政権の座にいるのは社会党や共産党や労働運動の責任である。戦後間もない頃の沖縄は圧倒的に共産党や社会党が強かった。終戦の数年後に市町村長を選挙で選んだ時に共産党や社会党系の候補者が圧倒的に当選したのでアメリカ軍あわてて強引に取り消した歴史がある。
 本土でも社会党や共産党は昔は強かった。しかし、今は弱小政党になってしまった。労働運動も下降し続け、国会に議員を送る力も弱くなった。

 それはなぜか。真剣に考える必要がある。根本的な問題でこれらの組織が資本主義を認めていないことがある。資本主義を「儲け主義」と蔑視する。自由競争は弱肉強食として否定する。このような思想がある限り資本主義社会で過半数の支持を得るのは不可能だ。

 資本主義を認め、自由競争を認めてそれを発展させながら資本主義・自由主義活動から派生してくる問題をクリアしていく民主主義政治の方針じゃないとこの社会の支持を得ることはできない。

 格差是正を無くすために自由競争を抑えるという考えは支持されない。自由競争は出世するチャンスが誰にでもあるという保証がある。自由競争をなくするということは既得権のある人間だけが得する社会になることである。

 結果平等に賛成する人間はすくない。結果平等主義である社会主義国家は潰れたのである。その事実を認識しないと現代日本に通用する政治はできない。

 自民党から分かれた民主党が社会党系の政党や共産党より議員数を増やしたのは歴史的に必然である。
 社大党や共産党は自民党を批判するだけで対案法を提出しない。国会は法を作る場所であり、法律案を提出できない政党は政党としての価値がない。
 少数野党であっても常に法律を作ることである。作った法律案を国民に公開して支持を得ることが政党の基本である。大衆運動や与党を批判するのが野党のあり方ではない。与党に対する法津案を出すのが野党のあり方である。

 労働運動は労働者だけの利益を追求してきたためにその勢力は衰えていった。労働者は経営者と共通の利害を抱えている。会社が繁盛することが労働者にとっても利益をもたらす。共通の利益のことに協力しないで労働者の待遇改善要求運動をするだけでは労働者としての運動は半分をやっていることにすぎない。
 労働者は経営のあり方にも参加し、会社の発展に寄与するべきである。経営者と労働者の垣根を低くする運動の展開も重要である。

 会社の利益、経営者、労働者の配分に労働者は参加するほうに進めるべきである。

 労働者は経営者と運命共同体にいることを認識しなければならない。経営者も労働者であり、彼らの方が労働の質が高いということも労働運動では認識する必要がある。

 集団自決削除に対する県民抗議大会は昔ながらの運動である。「抗議」は圧力にはなる。しかし、ただ集団自決削除だけに対する非難に終わり、この運動の目的は政府が「削除」をやってしまえば終わる。それたけの矮小な運動だ。

 政府は抗議の圧力が強大化していくと削除をしなくなるだろう。そのことで抗議をした政党や労組は勝利したと満足するに違いない。でも政治的に勝利しているとは必ずしも言えない。抗議する人々が増えれば政府は「過半数」の論理で政府に反発する人々を取り込む目的で削除を撤廃するだけである。
 つまり自民党支持者を減らさないために国民の意識に鋭く反応したのである。そうすることで自民党支持者の減少を防ぎ、別の政治活動で支持者を増やす活動をする。だから、本当の意味で勝利したかどうかは断言できないのだ。

 政治的勝利というのは結局は国会議員を過半数獲得することにある。戦後の大衆運動や労働運動、学生運動に欠落していたのがこの民主主義の根底にある過半数の論理である。
 
 
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民主主義が発展しているから


プーチン露大統領、米国のミサイル防衛計画で代替案提示


 米国のブッシュ大統領とロシアのプーチン大統領は7日、主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)が開催されている当地で会談した。プーチン大統領は、米国が欧州で計画しているミサイル防衛(MD)システムに関して、アゼルバイジャンにある既存のレーダー施設を活用する代替案を示した。

 プーチン大統領は、欧州全域を守るミサイル防衛計画の一環として、米国とロシアがアゼルバイジャンにあるレーダーを共同利用することを提案。「そうなれば、ロシアはミサイルの照準を(欧州の標的に)再び合わせる必要がなくなり、協調の基盤を築くことが可能」と述べた。

 米政府は、イランなどからの攻撃を想定し、ポーランドに迎撃ミサイル、チェコにレーダーの配備を計画している。これに対してロシア側は強く反発しており、プーチン大統領は先週、米国が計画を進めるなら、ロシアは欧州にミサイルの照準を合わせる、との姿勢を表明していた。
 ブッシュ大統領は、記者団に「プーチン大統領は興味深い提案を行った」と述べるにとどめ、既存レーダー活用案には直接は触れなかった。

                      6月8日7時59分配信 ロイター



 プーチン大統領の提案はおもしろい。ブッシュも面食らっただろう。アメリカはのやり方は荒っぽいし独善的だ。ロシアの立場なんか考えていない。
 アメリカがポーランドに迎撃ミサイル、チェコにレーダーの配備をするならロシアがヨーロッパに向けてミサイル配備しなければならないと忠告してもアメリカは聞く耳を持たない。
 そのアメリカにレーダーの共同使用を提案したのはなかなかのアイデアである。ロシアが外国と無駄な軍事対立を避けようとしている態度が伺える。ロシアが民主主義国家になり世界の軍事的対立は弱まった。
 ロシアが経済発展するにはヨーロッパやアメリカ、日本の資本進出が必要である。ロシアが経済発展を目標にしているために平和外交をしなければならない環境にあることはいいことである。
 ロシア、中国、インドが経済発展を国家のテーマにしていることは軍事対立の緊張が弱くなり、地球の平和的な活動が高まってきたと言える。
 
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沖縄弁護士会の抗議声明に対する批判


沖縄弁護士会は八日に抗議声明を出した、

「憲法で保障された表現の自由に強い萎縮効果を及ぼし、個人のプライバシーを侵害する違憲・違法なもの」

などとして監視活動に厳重に抗議し、監視の中止を求める抗議声明を発表した。

 自衛隊の監視活動を国家権力の圧力とするこの抗議のやり方には反対だ。被害妄想が強いと反論される可能性がある。
 この問題は個人自由への侵害を問う前に、自衛隊が独自の政治判断したことを責めるべきである。民主主義国家では自衛隊はシビリアンコントロールが絶対であり、自衛隊が独自の政治判断で市民を調査することは民主主義のルール違反である。自衛隊の監視活動そのものが憲法違反であることを主張するべきである。

 民主主義国家における自衛隊の国民に対する活動のあり方を問うことに意義がある。自衛隊の行動に対する批判は民主主義国家づくりの一環としてやらなければ抗議の意味がない。

 自衛隊は今後も監視活動をつづけるといっている。それなら、自衛隊による市民への監視活動が憲法違反かどうかを問う裁判を起こしたほうがいい。そして民主党を巻き込んで自衛隊のあり方をはっきりさせていくのだ。

「そもそも監視活動には法的根拠がなく・・・・」の意見は弱い。法的根拠がないのではなく、自衛隊の監視活動は市民の政治思想を対象にしているのだから、自衛隊もまた政治的判断で調査をしているということであり、その活動は政治活動である。自衛隊は政治活動はやってはいけない。自衛隊は完全に法を破っているのである。つまり犯罪行為なのだ。

 自衛隊に国民を監視する権利はない。もし市民団体を監視するのなら公安や警察が裁判所の許可をもらってやるものだ。裁判所が国家にとって危険な組織であると判断しない限り市民団体の調査はできない。
 自衛隊は裁判所の許可も取っていないのだから、二つの犯罪を犯していることになる。犯罪行為として裁判にするべきだ。
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陸自情報収集は憲法違反


陸自情報収集について

琉球新報2007年6月7日掲載

 陸上自衛隊の情報保安隊が自衛隊の活動に批判的な市民団体などの動向を
調査した「内部文書」作成した問題で、久間防衛相は

「自衛隊の活動に関し、市民団体などの動きが国民全体の中で非常に多くなれば止めようとか、少なければ堂々とやれるとか、その判断材料になる。世間の動きを正確に把握することは悪いことではない。皆の動きを情報収集するのを悪いと思うこと自体がおかしい。」と発言している。

 民主主義社会では自衛隊はシビリアンコントロールでなければならない。自衛隊が政治判断をやっていはしけない。自衛隊の自発行動は許されず、自衛隊の行動は政府が決定することなっている。ところが久間防衛相は自衛隊が国民の動向を情報収集して国民の動向を見ながら自衛隊の行動を判断するのは当然だと発言している。
 つまり自衛隊がみづからの意思をもつことを認めているのである。この思想はシビリアンコントロールの思想から脱線している。自衛隊は外国と対峙する存在であって国民を支配したり国内の内情を調査してはならない。自衛隊は独立した存在ではなく独自の思想を持ってはいけない組織なのだ。
 市民団体は国民であり市民団体の支持する政党が政権を握ることもあり得る。もし、自衛隊に反対する政党が政権を握る可能性があった時には自衛隊はその政党を破壊する工作をやっていいのだろうか。市民団体の動向を調査して自衛隊の行動判断の材料にするということは極端に言えば自衛隊が政治権力に介入することを認めるということである。

 自衛隊は国民に対して自衛隊独自の意思を持ってはならない。特定の市民団体を調査するということは自衛隊が国民に対して独自の意思を持つということである。それは民主主義国家では許されないことである。だから自衛隊内に国民の動向を調査する部隊があることがあってはならない。自衛隊が国民の動向を調査するということは国民主権を無視することである。
 自衛隊に批判的な市民団体を調査をするのなら公安委員会がやる仕事である。政府がその市民団体を国家に対して危険な存在として指定するなら公安委員会が調査するのは法的には問題がない。しかし、政府が国家にとって危険な存在であるとを証明できないのなら公安でも調査する権利はない。

 共産党の緒方晴夫氏の追及も的がはずれている。

「市民の自由、結社の自由に公然と踏み入るものだ。」と主張したが「団体が公開の場で行う集会に出かけて事実を把握するだけで表現の自由を抑えるものでもない。」と久間防衛相に反論されている。この討論では久間防衛相の弁に分がある。 自衛隊の国民への情報収集は「市民の自由、結社の自由」の問題ではないのに的を外れた追求をするから反論されるのである。

 「写真撮影は違法だ。」という追及に「マスコミなども一般的に写真を撮っている。取材がよくて自衛隊が駄目だという根拠はない。駄目なものは誰がやっても駄目だ。」と反論している。
 反論を食らった原因は自衛隊の情報収集を「市民の自由、結社の自由に公然と踏み入るものだ。」という視点から追求したことに原因する。ブルジョア国家をひとくくりにして敵対視する共産党の欠点である。一党独裁政治が共産党の理論であるから自衛隊も警察もひとくくりにしてしまう。自衛隊=軍隊と警察を区別していない共産党であるために突っ込みが足りない。

 久間防衛相は自衛隊が国民の動向を調査することを認めている。それは自衛隊が独自の意思で国民と対峙することを認めていることになり。民主主義国家の軍隊はシビリアンコントロールでなければならない規律を逸脱している。
 自衛隊とマスコミは性質がぜんぜん違う。マスコミは情報を集めて公開報道する
ことを使命にしていて、情報収集は公開するためにやっているのだ。
 一方、自衛隊は武力を持ち外国からの侵略を防ぐために戦うことを使命にしている。自衛隊にとって国民は守らなければならない存在であって国民と対決したり国民の一部を差別してはならない。

 自衛隊の最高司令官は首相であり国民を代表する者である。自衛隊の長も民間人であることを前提にしている。民主主義国家日本では自衛隊はシビリアンコントロールをされなければならない。

 情報を収集するということは情報を分析することにつながる。情報を分析すれば対策を練ることになる。つまり意思を持つことになる。自衛隊が国民に対して特別の意思を持つことは憲法違反である。公安警察が国内の情報収集することと自衛隊が情報収集することは法的に違うのである。

 共産党にとっては公安の情報収集も自衛隊の情報収集も同じ国家の市民弾圧に見えるのだろう。共産党が民主主義社会を発展させる力になれないのは残念である。

 久間防衛相の「マスコミなども一般的に写真を撮っている。取材がよくて自衛隊が駄目だという根拠はない。駄目なものは誰がやっても駄目だ。」という発言は民主主義を否定する暴論である。こんな暴論をされてしまう共産党、野党はだらしがない。イライラする。

 自由法曹団は

「自衛隊情報保全隊は内部情報の流出や漏洩を防止するのがその任務。国民に対する捜査権もなければ、監視、調査の権限もない。・・・国民の基本的人権を抑圧しようとすることは、戦前の暗黒政治を復活させるものであり、現憲法下では絶対に許されない暴挙」と即時中止を求めた。自由法曹団の意見が妥当である。

 「戦前の暗黒政治を復活させるものであり」は大げさであり、書かないほうがいいと私は思う。しかし、民主主義国家では自衛隊には国民に対して捜査権もなければ監視、調査の権限がないことを強力に主張して自衛隊の市民団体の調査は止めさせなければならない。自衛隊の国民に対する権限をはっきりさせるために裁判をするのもいい方法である。

 新基地阻止の市民団体は

「すべての国民に対し国の意向に従わせようとするものであり、従わない者に銃口を向けるもの」と批判しているが、この批判は被害妄想であり、的外れの批判である。的確な批判ではない。

防衛省の守屋事務次官は

「監視ではなく、特定の人物をマークしたり、排除したりするためにやったわけではない。」と答弁しているが
国民を調査することが自衛隊はやっていけないこどてある。

 イラク派遣に反対した民主党議員らを「反自衛隊活動」位置づけたことは自衛隊が独自の意思を持ったことでありシビリアンコントロールを逸脱したものであり許されるものではない。自衛隊がこのような体質になったのは自民党が長い間政権についていることも原因する。自民党と民主党の二大政党になることが望まれる。

 自衛隊への批判は民主主義国家発展の手段と考えるべきである。日本の民主主義社会はまだ未成熟であり永続的に民主主義変革をしていかなければならない。今回の自衛隊情報収集問題では自衛隊が完全なシビリアンコントロールされることを目的にして抗議や批判はするべきである。

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島袋 純氏への反論

住民抵抗 暴力的に排斥
    背景に国家主義の拡大
           琉球新法 2007年6月6日掲載
           島袋 純(1961年生。琉球大学教授。比較道州制の研究。)


 島袋氏は新自由主義を市場至上主義、市場原理拡大主義であると言っている。新自由主義とは政治集団であるのかそれとも経営集団であるのか明言していない。まるで世界中が新自由主義になったように書いているが現実の新自由主義というのはアメリカの政治・経済のやり方を指していて、日本が色々な規制を撤廃して市場の自由競争が高まったことで新自由主義と呼ぶようになった。
 つまり、アメリカではすでにある経済活動であり、今さらアメリカを新自由主義と呼ぶのはおかしい。
 成長著しい中国やインドはまだまだ規制が強くて新自由主義と呼ぶことはできない。ロシアは市場が開放されたが社会主義時代に比べて開放されたのであってまだまだ閉鎖的であり、石油資本は民間から国家所有になった。新自由主義とは逆行している。しかし、中国、インド、ロシアの経済は急成長していて経済市場は地球規模になった。

 企業家もともとは新自由主義である。市場が地球規模になってきたのは新自由主義とは関係がない。社会主義国であったロシア、インドが自由主義経済になったので多くの企業が元社会主義国家に進出して活発な経済活動をやったからである。。中国は社会主義のまま自由主義経済を導入したいちじるしい経済成長をしている。ロシア、中国、インドの三国が著しい経済発展を遂げたことが市場が地球規模になった原因である。

「その中で国家経済領域、すなわち政府セクターの縮小を求めるがゆえに、国家的な保障にあった多様なリスクも、市場に押し出して経済システムに委ねる、市場が引き受けない部分はあるいは家族や地域など社会システムに委ねる。端的に言えば国家が担ってきたリスク保障を経済システムと社会システムに投げ返すという乱暴な改革が進む。」と小泉前首相の構造改革に批判的である。

 この批判の根拠には間違いがある。
 国家が抱えたリスクは国民が抱えることになることを島袋氏はまるで国家が抱えるリスクは国家止まりのように解釈している。国家のリスクは国民が負うのが必然である。
 政府セクターとは第三セクターのことであると思うが、例えば夕張市が破綻した原因は市長が第三セクターで莫大な借金をしたのが原因である。そして、夕張市の負債リスクは市民が抱えることになった。つまり、市民が支払う税金から借金は返済されることになり、市民への税の還元はカットされた。もし、夕張市の第三セクターが第三セクターではなく民間経営だったら民間が負債の責任を取るのだから夕張市が破産することはなかった。
 政府セクターのリスクは国民が背負うようになるのであるから政府セクターを減らすのは当然である。

 「市場が引き受けないリスクは家族や地域に委ねる。」の意味が分からない。市場主義はいわゆる民間企業経済である。民間企業は自己責任主義であり、経営不振の責任は経営者が取るのであって家族や地域が責任を取るということはない。株式会社が倒産した時は株主がその責任を取るのが市場原理である。「市場が引き受けないリスクは家族や地域に委ねる。」というのが具体的になにを指しているのか分からない。

 政府セクターや県、市町村の第三セクターの方が赤字を税金で補填することになり国民にリスクを負わせるのである。市場原理主義は経済と政治を切り離し、政治は公正取引委員会のように企業が健全経営するように厳しく監視することにある。健全な自由競争を政治が保障する市場が市場原理主義の目指す方向てある。政治と経済の分離つまり政治と経済の分業が資本主義民主主義の目指す社会である。

 小泉前首相がやった構造改革のどこに賛成なのかどこに反対なのかそれとも全部反対なのか島袋氏の弁では分かりにくい。
 橋本派の弱体化は新自由主義=構造改革の圧力にさらされた結果ではない。むしろ逆である。橋本派の派閥力を弱体化させることによって小泉構造改革は実現したのである。小泉前首相は国民的人気をバックに派閥政治の圧力に抗して序々に構造改革をしていき、橋本派を弱体化させながら味方の政治家を増やしていって、構造改革もやったのである。
 郵政民営化で参議院が否決された時、常識はずれの衆議院解散をやってのけた。非情な政治戦争を克服しながら構造改革をやったことを無視してはいけない。

 国の莫大な借金、地方財政の破綻状況の原因は収入以上に予算を計上して借金を増やしたからである。国や地方の借金体質を根本から治すことが課題である。予算を削れるだけ削ることは仕方がないこつではないか。そのために国民の生活保障が厳しくなっても仕方がない。それが健全な国家になる道である。
 島袋氏は絶望的な貧困がはびこると悲観しているが日本の貧困は底を通過しつつあるのであって悪化の方に進んでいるわけではない。回復の方向に進んでいるのだ。夕張市も消滅したわけではない。どん底から這い上がろうと頑張っている。


 財政の健全化、格差是正、国民の生活向上は簡単に解決できる問題ではない。しかし、民主主義国家は国民の選挙で議員は選ばれることになっている。当たり前で簡単な理屈ではあるが、でもそれが政府への確かな圧力なって、政府は国民の要求を実現していく。民主主義国家とはそんなシステムになっている。
 バブルが崩壊して、日本経済がどん底状態になった時、銀行の不良債権を解決しないと不況を脱することが困難であると明確になった時、銀行の圧力を跳ね返して不良債権をやった。そのために銀行は離合集散をやった。
 景気は回復した。不況は脱したのだ。次の課題は労働者の収入アップや格差是正の解決である。それについても国は努力する方向に向かっている。
 国家を敵視する島袋氏の視点からは有効な発想は生まれない。 島袋氏はまるで政府を独裁国家のように批判している。日本が議会制民主主義国家てらあることを忘れてはならない。
 国民投票法案を超国家主義の総仕上げと言うのはひどい被害妄想である。「美しい国」論は安部首相だけでなく、ベストセラーとなった「国家の品格」の作者や櫻井ライターなど多くの人が賛同している。学者なら「美しい国」論を真っ向から論駁することが必要である。「伝統」「歴史」「民族」「道徳」につながる「美しい国」論がなぜ駄目なのか島袋氏は批判していない。ただ切って捨てているだけである。これでは批判しているとはいえない。

 国民投票は国民の直接の意思が反映されるものである。民主主義国家の根幹である。国民投票が「美しい国」作りに利用されるというような言い方は国民の意思を侮辱するものである。島袋氏は自民党への反発が強いために無意識に民主主義を否定する理論になってしまっている。

「札束で顔を叩くような補助」のような感情論では駄目だ。国に協力する地方に補助金を出すというのは合理的であり、地方も態度をはっきりさせやすい。地方に平和と自治の精神が強ければ基地建設を断るだろうし、平和と自治の精神が弱くて国の援助がほしければ基地建設に賛同する。
 基地建設が武力を使用した強制ではないことは民主主義国家のゆえんである。

 選挙の投票率が低くなってきたのは米軍基地が縮小して基地被害が少なくなったことや生活が次第に向上して政治への不満が減少した性である。

 国は「圧倒的な力によって批判的思考を奪い取る」という考えはやっぱり被害妄想と言わねばならない。批判思考は健在であるし、新聞マスコミも政府批判や基地反対、平和運動の意見を優先して掲載している。

 沖縄基地反対運動や抵抗運動は平和主義であって民主主義の闘いではないというのが私の認識である。  
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「琉大事件」が問うもの

「琉大事件」が問うもの
比屋根照夫

 琉球新報2007年5月25日掲載

 琉大事件とは一九五六年に琉大の学生が土地闘争に参加したために米側の圧力で退学させられたことである。琉球大学名誉教授の比屋根照夫氏はそれを米国の植民地主義による琉大への圧力であり「思想、言論などの内面的価値に対する攻撃、価値の剥奪である」と批判している。

 上原正稔氏の「戦争を生き残った者の記録」はアメリカが戦後沖縄の復興にどのように尽力したかを書いてある。沖縄は長い間植民地支配されていたので自治能力がなかった。アメリカはゼロから沖縄の自治政治を指導していっている。このアメリカの指導について沖縄の知識人が認める言動をみたことがない。
 琉球大学を創設したのはアメリカの財団である。沖縄人には大学を創設する技術がなかった。戦前は沖縄に大学はなかったし中央政府の主導て教育はなされたからだ。
 沖縄に大学が創設されたのは戦後であり琉球大学が最初である。沖縄の復興には高い教養のある人間が必要であることを知っていたアメリカが琉球大学を創設したのである。アメリカが琉球大学を創設した目的は沖縄の政治・経済に貢献する人材を育てるのが目的であった。

 ロシアから起こった社会主義国家がみるみるうちにユーラシア大陸に広がりモンゴル、中国、ベトナムなどアジアのほとんどの国が社会主義圏に属するようになった。社会主義圏の広がりを食い止めるためにアメリカは沖縄の軍事基地を強化することになった。新たな基地建設のために土地の強制接収をはじめた。
 土地闘争は米軍の土地接収に反対する島民が激しく抵抗したために起こった。アメリカ側にすれば共産主義と対抗するために基地拡張は必要なことであった。米軍基地に反対する学生は共産主義思想に近いと見なしたのである。
 共産党を創設したのは沖縄出身の徳田球一であるし、沖縄には共産主義者が多かった。アメリカが一番恐れたのは共産主義者が沖縄の政権を握ることであった。共産党員の瀬長亀次郎氏は那覇市長を追放されている。比屋根氏はアメリカが沖縄の共産主義者に神経質になっていた事情を無視している。

 比屋根氏はアメリカが琉球大学を創設した理由を理解していない。
それどころが琉球大学を創設したのは沖縄の人間であると信じているように思われる。沖縄の人間に大学を創設する能力はなかった。沖縄の人間には大学の設計者もいなければ大工もいなかった。大学を創るには強い理念と企画力と資金が必要である。そういう裏のエネルギーを理解していないのが比屋根氏のような沖縄の知識人である。琉球大学の創設にはアメリカの大学の財団が直接関わっている。そもそも戦後の沖縄人は沖縄を統治する能力もなかった。琉球政府、市町村の基礎つくりをしたのはアメリカである。

 アメリカの弾圧を植民地主義と判断していいのだろうか。アメリカは民主主義国家である。大統領も国会議員も選挙で選ばれる。そのアメリカが植民地主義であるという根拠はどこにあるのか。復帰前はアメリカ人が犯罪を犯しても沖縄の裁判で裁くことができなかったり、本国に逃げてしまうケースが多かった。沖縄は琉球政府よりアメリカ民政府の権力が強かった。しかし、日本は戦争に負けたし、戦前の日本は軍国主義だった。沖縄は日本の植民地だったとアメリカは判断している。そして自治能力がなく、政治を沖縄の住民に任すのは混乱するとアメリカは分析していたし、事実、行政や三権分立政治もアメリカの指導なしには実現しなかった。
 アメリカの沖縄への認識を理解しないからアメリカの弾圧を植民地主義と決め付けてしまうのである。アメリカの沖縄政治を植民地主義と見るか見ないかで大衆運動のあり方やアメリカとの交渉が違っていく。

 比屋根氏は大学が独立法人化されることによって教授会の自治が形骸化されるという。むしろ、独立法人化することが大学に自治を推進することになるのではないだろうか。実績があろうがなかろうが一律に国が援助するというのは国の関与を許すことになるし、教授は魅力ある講義を作り出す努力を怠るこになる。
 独立法人化は大学が国の過保護から独立することである。子供の自立である。それを大学の自治への圧迫と見るのは主客転倒している。
 アメリカの沖縄統治を植民地主義と決めつけ、国立大学の独立法人化を大学自治への圧迫であると考える比屋根氏はアメリカや中国など外国の国家の体制や思想を理解し分析する努力をやらないで沖縄への行為を被害妄想的に解釈する。多くの沖縄の知識人が比屋根氏と似ている。
 50年代は沖縄の政治・経済が混乱している時期であり、体制をつくる中途であり、民政府の強制力が強い時期である。
 10代の時に皇民化教育を受けて敗戦を経験した知識人に共通しているのが、アメリカやイギリスを「鬼畜米英」と信じたように他の国家を客観的に観察し分析する目を持っていないことである。沖縄の知識人は沖縄の基地問題を語る時に中国や旧ソ連については語らない。アメリカや日本が沖縄に理不尽なことを押し付けていることに反発するだけである。それでは単なる愚痴である。知識人の沖縄論は愚痴論と言っても過言ではない。

      平和運動への私的変遷年表

 沖縄戦前・・・真珠湾攻撃の時は沖縄は拍手喝采した。

 沖縄決戦直前・・・アメリカ軍を撃退する意気込みがあった。

 沖縄戦・・・アメリカ軍に圧倒され、多数の軍人、民間人が死んだ。現在は集団自決等の戦争の悲惨な面が強調されているが、勇敢に戦って死んだ兵士、民間人がいたことも記憶しておくべきである。

 戦後・・・・公務員・教員を中心に祖国復帰運動が起こる。公務員・教員以外は熱心ではなかった。

 *沖縄は日本である・・・共通語励行・君が代・日の丸掲揚運動。復帰すれば生活が豊かになると宣伝する。

 ベトナム戦争・・・嘉手納空軍基地の爆音は24時間激しくなる。B52重爆撃機が墜落する。戦争の恐怖が高まる。沖縄の反戦運動が最高潮になる。 
    *復帰すればアメリカ軍基地は撤去され平和な沖縄になると復帰運動は宣伝する


三大選挙・・・沖縄の大衆運動が高まる。
    *「命を守る県民会議」を創設。私たち学生は県民の危機感をあおって票集めするのに利用していると批判した。

沖縄の祖国復帰・・・*ベトナム戦争でアメリカは経済が疲弊した。沖縄の米軍基地の維持費を日本が肩代わりするのを合法的にする目的があって沖縄の祖国復帰はあった。いわゆる密約というもので、最近その密約について明らかにされているが、学生運動ではそのことを取り上げて復帰に反対した。

 「復帰すればアメリカ軍基地は撤去され平和な沖縄になる」という復帰の前提が崩れる。しかし、その前提は復帰運動の指導者が復帰運動支持者を拡大させるために勝手に宣言したことであり、根拠はなかった。根拠がないことを声を大にしていうのが復帰運動の体質だった。
 復帰運動は「本土並み」返還に変わるが「復帰」の目的が日本政府によるアメリカ軍援助を合法的にすることだったのだから「本土並み」返還はあり得ないことであった。
 復帰は復帰運動の成果ではなく。アメリカの経済危機と日本の米軍基地の維持費を合法的に肩代わりする目的で実現したのてある。

 復帰をした後の復帰運動は平和運動に変わった。
 平和運動も復帰運動と同じように世界情勢、アメリカの世界戦略、日本政府の動向を客観的に見ることはしない。 自己中心的で被害妄想の理論に明け暮れている。
 

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沖縄自治州基本法は沖縄的自己中心

構想案 『憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法』
【前文起草案】



 沖縄に関するさまざまな事項について、この沖縄に生きる私たち住民が、最終的に決定する権利を有する。沖縄の自治と自立をめざした私たち住民の営為は、沖縄のことは沖縄で決めるという、沖縄住民による自己決定権を最大の基盤とする。
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私の反論
 アメリカの軍事基地を沖縄に駐留させるか否かも沖縄の住民が決定するということか。果たして沖縄の住民に国際政治に関する問題を決定する権利を完全にゆだねることは正しいことなのか。
 アメリカ軍事基地は中国、北朝鮮など日本の国際的な状況を考慮して判断しなければならない。沖縄の住民に日本全体の立場を考えて政治判断する能力があるだろうか。そもそも国際情報を入手してそれを分析することが沖縄の住民に可能なのか。結論を言えば可能ではない。
中央政府と地方とは担う政治を分担するべきであって沖縄に関するさまざまな事項を全て沖縄の住民が決定するというのは無理がある。

 現在でも「沖縄に関するさまざまな事項について、この沖縄に生きる私たち住民が、最終的に決定する権利を」有している。辺野古にヘリコプター基地を建設することに関しても国は名護市と県の同意がないと建設はできない。沖縄にぜんぜん決定権がないように発言するのは間違っている。
 沖縄の政治的権利の拡大はそれにふさわしい実力が必要である。アメリカ軍の縮小は理論でアメリカに勝たなければならない。アジアでは戦争が起こる可能性がないことを論理化し、アメリカを論理で負かすのだ。北朝鮮だって戦争をする気はぜんぜんないことを理論的に証明すればいい。アメリカ軍事専門家と真っ向から論争をして勝つくらいの実力を持たなければならない。




私たちは、沖縄の住民の命を守ることを何よりも最優先することを宣言し、非暴力と反軍事力を基本にした平和な国際社会の構築をめざし、その方策に積極的に参画する。
 平和への希求は、これまでの琉球・沖縄の歴史に深く根ざしている。信義を重んじる国際交流で築いた琉球の歴史文化を壊滅させ、多くの住民を犠牲にした沖縄戦の体験は、その後の沖縄住民に、つつましくも平和を望む小国寡民として生きる道をはぐくんだ。
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私の反論
 平和主義に反対する人間はいない。しかし、この宣言はいたずらに戦争恐怖を煽っている。
 戦後60年余になるが沖縄が戦争に巻き込まれたことは一度もない。世界情勢を見ても沖縄が戦争に巻き込まれる可能性は低い。命を守ることを最優先すると声高に宣言しても大した意味はない。

 世界情勢を正確に把握できない組織に平和な国際社会の構築の方法を見つけることはできない。
 「平和への希求」は琉球・沖縄の歴史に深く根ざしてはいない。太平洋戦争での沖縄戦と日本の敗戦の体験が原因である。注意しないといけないのは敗戦するまでの沖縄は富国強兵主義の日本に従属して、戦争で活躍することを誇りとしていたことだ。アメリカに宣戦布告した真珠湾攻撃には拍手喝采している。
 アメリカ軍が沖縄上陸をし、多くの県民が死に、日本が敗戦したことで戦争謳歌が180度転換して平和主義になっただけのことである。つまり、戦争に負けたから方向転換したのである。人間愛を根本とした平和主義ではない。
 それゆえに単純に戦争反対を唱えているだけであり、「沖縄に軍事基地があるからテロに狙われる」と理屈にならない理屈でテロの恐怖を煽った。テロは軍事基地は狙わない。民間や政府施設を狙う。その方がアピールできるからだ。
 そもそも戦争反対運動が戦争を無くすというのは荒唐無稽の理屈だ。民主主義と経済の発展が戦争を無くすのである。




 しかし、人間としての基本的権利と自由を制限された戦後の米軍占領下の経験と、戦後60年を経てもいまだ占有する巨大な米軍基地の存在は、いまなお満たされない沖縄における平和的生存権の真の獲得を切実な課題としている。

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私の反論
 実際の沖縄での米軍基地の影響は小さい。騒音被害は普天間基地と嘉手納基地に金武くらいで浦添以南は米軍基地がない。基地被害を無くす運等はやらなければならないが、基地被害が沖縄全体を 覆っているような大袈裟な表現は止めたほうがいい。





  その意味で、沖縄戦後史は沖縄に生きる住民の平和と生存を希求し、それを獲得しようとする営為だったのである。しかし、いま、その基盤である平和憲法さえ改悪されようとしている。私たちは、その平和憲法の改悪に反対して、沖縄自治州では平和憲法の理念をより徹底して活かす道を目指す。

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私の反論
 戦後沖縄ではじまったのは祖国復帰運動だった。各家庭には正月には日の丸を掲揚し、君が代を斉唱した。日の丸、君が代、共通語励行が戦後沖縄の三点セット運動だった。この運動の根底は日本は沖縄の祖国であるという思想に支えられていた。
 異民族アメリカに支配されているという屈辱感が祖国復帰運動をやっている人間にはあった。「ヤンキーゴーホーム」がデモでシュプレヒコールされた。アメリカ人はアメリカに帰れである。祖国復帰運動は自治運動でも平和運動でもなかった。異民族支配から脱却して祖国日本に帰りたいという運動であった。祖国復帰運動の主体となったのが教員や公務員である。つまり戦前の沖縄で沖縄の日本化を推進していた階層が祖国復帰運動の原動力であった。
 「祖国復帰すれば生活が豊かになる」というのが祖国復帰運動の宣伝文句だった。教員や公務員の場合はそれが事実であったし、本土に研修に行った教諭の実感であった。祖国復帰すれば生活が豊かになる」というのは教員や公務員にとっては確実実現することであった。だから熱心に運動をやったのである。

 改憲の国民投票を「改悪」と見る人間がどうして民主主義思想家と言えようか。軍隊に賛成する者は平和主義者ではないと断定するのは間違いである。平和論はひとつではない。
 「沖縄住民による自己決定権を最大の基盤とする。」と宣言しながら「平和憲法の理念をより徹底して活かす」と言うのは矛盾している。沖縄住民の過半数が平和憲法の理念を否定することもありうるのだ。

 平和憲法を絶対視するのは独裁者と同じである。憲法は住民の過半数の意思で決定するものだ。沖縄自治州基本法は明らかに民主主義に即した法ではない。





 そのような琉球・沖縄の歴史をふまえて、この沖縄自治州基本法では、中央政府が主導する一元的な道州制の導入ではなく、個々の島や地域の個性を大事にする琉球列島内の緩やかで多元多層的な、沖縄独自の自治・分権構想の枠組みを提示する。その沖縄独自の自治・分権構想は、特有の自然環境と生熊系に根ざし、独自の地理的特性を生かした沖縄自治州の政治的自律と経済的自立を志向する。

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私の反論
抽象的でいいどこ取りの案である。中央政府の経済援助もアメリカ軍基地も全て撤去して沖縄の経済は繁栄するだろうか。中央政府の援助とアメリカ軍事基地経済がありながらも沖縄は貧困を脱していない。貧困克服は非常に困難な道である。この案では沖縄の貧困を脱出できそうもない。
 沖縄の経済自立は大きな課題である。その課題は沖縄人だけで解決できるほど簡単なものではない。現在でも中央政府の経済と知恵の援助、本土企業の資本進出と知恵の提供が沖縄の経済発展を支えている。現実は正確に見るべきであるし認めるべきである。さの上で沖縄の自立経済と発展について追求するべきである。
 中央政府は特区を提唱し地方独自の発展を促している。この案は政府と対立する提案ではない。





 その際、日本の中の沖縄という視点だけでなく、東アジアの中の沖縄という視点を重要視したい。日本の中で例外であった地上戦としての沖縄戦は、アジアに座標軸を広げると地上戦であった地域の方がより一般的であり、むしろ地上戦を経験していない日本の他地域の方がアジアでは例外な地域だといえる。今後、アジアとの信頼関係を築いていくために、日本の他地域にはない、アジアの歴史認識に通底する沖縄の歴史的視点を大事にする。

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私の反論
 60年以上も前の沖縄戦が「日本の他地域にはない、アジアの歴史認識に通底する」とは笑わせる。この体験至上主義はどうにかしてほしいものだ。地上戦があったことを重宝しても仕方がないのだよ。
 アジアは中国が資本主義を導入して経済発展をした。インドも高度経済成長のレールに乗った。ネパールは王制が倒れ、毛沢東派が武装闘争を放棄して議会制民主主義に移行している。
 アジアは戦争の可能性が低くなった。経済復興と民主化がアジアの最大の課題なである。それなのに60年以上も前の沖縄戦の悲惨さにこだわり、平和主義を振りかざす。人々は過去の悲惨を振り返るより明日の幸せ、豊かな生活を目指すのだ。それが人間の本能なのだ。
 平和主義者に政治はできない。





  米軍基地の存在は、沖縄の自立経済や経済発展を阻害しており、安全保障上の問題においても、沖縄住民に対して多くの負担を強いている。この沖縄自治州基本法では、沖縄からの米軍基地の完全撤去を目指して、沖縄の歴史的・地理的特性を生かして国際機関を誘致し、沖縄から東アジアの平和構築ためのイニシアティブを発揮する。

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私の反論
 米軍基地が沖縄の自立経済や経済発展を阻害しているというのは責任転嫁である。むしろ、戦後廃墟になった沖縄の経済復興に大きく尽力したのがアメリカである。アメリカの方が経済の法則を熟知している。沖縄の伝統工芸を復興させたのはアメリカであるし、軍雇用、軍用地料等で沖縄の経済は救われた。
 軍用地料の十年一括払いで家が建ち、銀行預金が増えることによって事業への貸し出しができるようになり沖縄の経済は復興したのである。
 戦前までは沖縄は半植民地であり沖縄の政治と事業は鹿児島や本土の人間に牛耳られていた。だから沖縄の人間が事業をするようになったのは戦後である。その事実をないがしろにしている。
 沖縄経済の復興が遅かったのは戦前は半植民地状態であり沖縄の企業家が少なかったことや沖縄が島国であったためである。



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櫻井よし子の「改憲では日本文明を反映せよ」に反論

櫻井よし子の「改憲では日本文明を反映せよ」(『週刊新潮』'05年11月10日号)に対する反論

櫻井さんの意見
 憲法を聖域化し、改正自体を悪としてきた護憲主義、日本のみに軍隊の保有を禁ずる異常性を打ち破る第一歩としての意味は大きい。その点において、自民党案を高く評価する。だが、前文を読んで愕然としない人は少ないであろう。それはテクノクラートの作品で、日本国への愛情も誇りも感じさせない代物だからだ。この種の改正案は、明らかに対症療法にすぎず、日本が直面してきた真の問題への解決にはつながらない。

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私の反論
 憲法は時代の変化とともに変わらなければならない。社会の構造は固定しているものではないし、憲法も時代遅れになり社会の発展を妨げるものになる。
 しかし、軍隊を持たないということが必ずしも異常であると断定はできない。武力の時代は終わりつつある。中国、インドが高度成長期に入っている。中国とインドの経済発展は周辺国にも波及していく。これからの時代は経済発展が国家の戦略になり企業戦争の時代になる。第二次世界大戦は軍事戦争が世界規模になったが、これからは企業戦争が世界規模になる。
 軍隊うんぬんにこだわることはもう時代遅れである。軍事力で平和を築く時代は終焉し、経済を発展させることによって平和を築く時代になりつつある。経済発展による平和戦略は日本がリーダーとなれる。
 憲法を改正して軍隊を持つことができても大した意味はないし、軍隊保持が日本の発展に寄与するということはない。むしろ軍隊を持たない憲法の方が日本は経済戦略に集中することができ世界貢献を拡大するようになるだろう。




櫻井さんの意見
この最終案を書き上げた自民党の人々には、再度考えてほしい。なぜ、私たちは日本国憲法を改正しなければならないのかと。憲法は国の在り方を示す基本で、国柄を表現するものだ。人に歴史があるように、国にも歴史がある。その人をその人たらしめてきた家族や故郷があるように、国にはその国をその国たらしめてきた文化文明、国土風土がある。だからこそ、憲法は、なによりもまず、日本の文化文明、国土風土を踏まえなければならない。憲法で国柄に触れる部分としては前文が最もふさわしい。

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私の反論
憲法は人間と人間の関係を定義づけるものである。芸術的な美を規定づけるものではない。憲法に求められるのは人間の権利がどのようなものであるかである。民主主義であるか天皇支配、一部の階層の支配であるかどうかを明確にするのが憲法である。憲法は国の政治活動の基本を規定づける存在であって文化文明や国土風土を規定づけるものではない。

 それゆえに憲法は文化文明、国土風土よりも政治の有り方を最優先して表現しなければならない。日本は貴族が支配した時代、武士が支配した時代を経験し戦後になって初めて支配する階層がいない民主主義国家になった。
 民主主義は貴族、武士支配を否定する。文化文明については表現の自由を保障する。国土風土についても自由な変化を保障する。

 櫻井さんは文化文明や国土風土の評価を憲法で固定しようとしているが、それは民主主義憲法にふさわしくない。そもそも貴族社会と武士社会は武力支配をした社会である。貴族社会と武士社会は人間の自由平等を拒否し身分差別をした社会である。農民や漁民などの民を武力で弾圧した社会の文化文明、国土風土を無批判に認めるのは許されないことである。
 貴族社会にしろ武士社会にしろ政治的には権力争いの歴史であり、権力を握るための殺し合いの歴史である。それは欲望と欲望がもつれ合う醜い歴史であり決して美しい歴史ではない。国柄は時代によって違う。憲法で国柄に触れるというのは疑問である。
 戦前は軍部が支配して戦争に突っ走った。多くの国民が戦場に駆り出されて死んでいった。軍部の愚かな指導者はアメリカと戦争すれば負けるという経済・軍事専門家の忠告を無視してアメリカと戦争をした。日本国憲法はこのような国民を悲惨な目に会わせない民主主義憲法である。民主主義は一部の階層が支配することを拒否する。貴族支配、武士支配、軍部支配を拒否する。それらとは相容れないのが民主主義憲法である。
 櫻井さんの言う日本の文化文明、国土風土とは貴族社会や武士社会で培われた文化文明、国土風土である。現代の文化文明、国土風土ではない。櫻井さんは懐古主義のように現代の文化文明、国土風土を否定して過去を美化する傾向がある。
 昔の文化文明、国土風土を美化する文章を憲法に書き込むのは反対である。櫻井さんの日本の美しさをいう時の美的感覚は昔の貴族時代の美的感覚と同じである。人間の美的感覚も変化発展している。現代の美的感覚は櫻井さんのいう「美しさ」だけではないのだ。「美」は多種多様であり人間の美的感覚を憲法で縛ってはいけない。





櫻井さんの意見
現行憲法は前文を含めた全条文が“日本らしさ”を否定する精神によって書かれたのは周知のとおりだ。

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私の反論
櫻井さんのいう"日本らしさ"とは貴族や武士の時代の日本らしさである。日本国憲法が民主主義を精神としているのだから戦前の"日本らしさ"を否定するのは当然である。
 櫻井さんは現在は日本らしくないと考えている。そして昔の貴族・武士社会の方が日本らしいと考えている。しかし、貴族や武士が日本人口に占める割合いは何パーセントだったのか。せいぜい五パーセントくらいである。歴史の記録は支配者である貴族や武士の文化が残っているのであって日本人全体の文化の記録が残っているわけではない。櫻井さんはまるで貴族や武士が日本の人口の90パーセント以上も占めていたような錯覚をしている。
 農民、漁民、職人などの95パーセントを占める日本人の文化記録が少ないし、貴族・武士時代では彼らの自由表現は禁じられていた。貴族・武士文化が日本文化であるとするのは間違いである。
 戦後の日本は民主主義国家になり、表現が自由になった。表現の自由な今こそが正当な日本文化である。櫻井さんの文化は貴族の側の文化であったり、武士の文化であったりで支配階級の文化を日本文化であると錯覚している。
 民主主義になった日本が再び貴族社会や武士社会に戻ることはない。だから日本が過去の"日本らしさ"に戻ることは絶対にない。憲法に過去の"日本らしさ"を肯定するような文章を書くのは憲法の質を落とす。





櫻井さんの意見
憲法学者で駒澤大学教授の西修氏は1984年から85年にかけて米国を訪れ、日本国憲法の作成に関わった米国人で、当時健在だった10名ほどに取材し、出版した。彼らは一様に「まだ、日本人はあの憲法を守っているのか」と言ったそうだ。そのひとり、民政局行政部長を務めたC・ケーディス氏が述べている。「私たちが憲法草案を起草したとき、最終的な憲法を書き上げようとは思っていませんでした」(『日本国憲法の誕生を検証する』学陽書房)

民政局で国会議事録、新聞要録を担当したハウゲー氏は、憲法作成を命じられたが、そのための素養を持っていなかったと認めたうえで、「荷が勝ちすぎてあまりにも困難な仕事だと思いました」と述べている。
民政局で公務員制度を担当した

M・エスマン氏も「アメリカの軍人や弁護士によって起草された憲法は正当性を持ち得ないと思っていた」と語っている(前掲書)。

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私の反論
 日本国憲法は戦後60年以上も変えられていないのは異常ではあるが、戦後日本の発展の法的基盤になったのは事実であり、憲法が改正されるといっても大きく改正される必要はない。現憲法は民主主義の基本はしっかりしている。
 憲法草案を作成したアメリカ人の憲法に対する意見を引用しているが、日本人が作る憲法より優れた憲法であったのは否めない。
 むしろ櫻井さんの憲法論の方が現憲法より時代遅れであるような気がする。



櫻井さんの意見
天皇制をどう捉えるか

日本についての知識も理解も不足していた人々が、彼ら自身も正当性を否定しつつ作った現行憲法だからこそ、改正にあたっては日本人の憲法としての正当性を持たせる内容、つまり、日本文明を反映した内容にしなければならないのだ。

にもかかわらず、自民党改正案の前文は「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」と書き出し、続けて「象徴天皇制は、これを維持する」と素気なく書き放っている。なんという無機質な表現か。

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私の反論
無機質と感じるのは櫻井さんの天皇に対する思い入れが異常なくらいに強いからではないだろうか。


櫻井さんの意見
天皇制はこの国の中枢で息づき、幾多の試練を経て125代にわたって存続してきた。祭祀を司る天皇家はまさに日本の精神文化を凝縮した存在であり、天皇制抜きでは日本文明は、良くも悪しくも語り得ない。それを自民党案は「象徴天皇制は、これを維持する」という13文字で片づけたが、そもそも、象徴天皇制こそ、占領統治下で作り出された天皇家の在り方だったのではないか。「自らの意思と決意に基づき」新憲法を制定するのなら、日本の国柄の軸でもある天皇制について、もっと心を通わせることの出来る表現があって然るべきだ。

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私の反論
 武士の時代には天皇制は中枢から外れて完全に権力を失っている。天皇の存在が再び浮上したの明治時代である。しかし、天皇の権力が復活したわけではない。なぜ、明治は天皇制国家になったのか。それは外様の武士が日本を支配するには彼らの権威が低いことを彼ら自身が知っていたからである。日本国民にとって徳川将軍より高い権威として存在するのは天皇であった。天皇支配を名目にすることによって明治政府の権威を高め正当化したのである。
 天皇制国家は見せかけであり実質的な政治は武士階層がやっていた。明治維新は革命ではなく外様藩によるクーデターである。明治維新で武士支配が終わったように見えるが事実は徳川家に代わって薩摩、長州などの武士による支配が続いた。
 明治は貴族支配の国家ではない。武士支配の国家である。天皇を国家の頂点に置いたのは天皇を隠れ蓑にして武士支配をやるためだった。明治以降、天皇の名の元に国民を支配したのが武士階層であり軍隊である。

 天皇機関説というのは政治の決定は国会でやり、国会で決めたことを天皇は追認するというものである。天皇機関説に昭和天皇は賛成した。反対したのが軍部であった。なぜ軍部は反対したか。明治時代から天皇ではなく武士階層が政治の実権を握っていた。もし天皇機関説を認めると国会に政治の実権が移り武士階層である軍部は政治の実権を失うからである。

 靖国神社は日本国のために死んだ者を者を奉る神社である。靖国神社は明治時代に国が運営するようになった戦争で死んだ者を奉る神社である。武士思想の神社である。櫻井さんは靖国を支持している。櫻井さんの思想は武士思想に近い。
 昭和天皇は永久戦犯が靖国に奉られてから靖国を参拝しなくなった。それは靖国の思想と天皇の思想が対立していることをしめしている。極限していうと貴族思想と武士思想の対立である。
 太平洋戦争の時の武士・軍部思想は「本土決戦をする」「最後の一兵まで戦う」であった。しかし、天皇は軍隊が中国進出したときも反対であったし、イギリスと国交が絶えるのを危惧している。天皇は戦争には反対だった可能性が高い。戦争は軍部がどんどん進めてしまい政治家が止めることはできなかった。天皇に政治の実権がなかったこと。軍部が自分の欲望のために天皇の名を利用したのは明白である。
 戦争を終わらしたのは天皇である。最後のひとりまで戦う方針であったのが軍部である。武士=軍部にとって国民とは下級武士であり戦争の道具である。それは天皇の思想とは異なるものである。
 櫻井さんは天皇と武士では武士を選ぶ思想家である。
 櫻井さんは「祭祀を司る天皇家はまさに日本の精神文化を凝縮した存在であり」と述べているが昭和天皇の心を櫻井さんは理解していない。昭和の軍部のように自分の持っている天皇像を天皇に押し付けているのである。



櫻井さんの意見
 ちなみに自民党の元々の案、素案では、「天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め」てきたのが日本人であることが強調されている。古来の神道に加えて仏教をも受け容れた聖徳太子の時代から、日本は和を尊びつつ、実におおらかな精神文明を築いてきた。その文明の統合の証しとして、天皇制をいただいてきたとの表現は、史実であり、継続したい伝統である。
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私の反論
 自由、平等の思想が日本になかった時代の日本人の天皇崇拝思想を自由、平等の思想が定着している今の私たちが無批判に認めることはできない。
 天皇制もまた権力闘争の歴史であり血塗られた歴史である。贅沢な生活をするようになった貴族は統治を武士に委託するようになり、とうとう武士に政治権力を奪われてしまう。江戸時代には将軍が日本の最高権力者・象徴となり天皇は京都でひっそりと生活していたというのが史実である。
 現在天皇は靖国を参拝していない。神道の靖国と天皇は対立しているのである。貴族と武士は対立関係にあり貴族文化と武士文化をごっちゃにしている櫻井さんの歴史認識は正しいとは言えない。
 天皇に対する理解も強引に曲解している。神道や仏教と憲法は絡めてはならない。憲法は宗教の自由を原則とするのがあるべき姿である。



櫻井さんの意見
 同じく最終案は日本の国土風土には全く触れていないが、素案では日本の国土は「アジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々」と表現された。日本国民は「自然との共生を信条」とし「美しく豊かな地球環境を守るために力を尽くす」ものであるとの誓いも述べられている。
日本人の自然への慈しみは、外国の人々に強烈な印象を残してきた。開国前年の1857年に初めて長崎湾を訪れたオランダ海軍の教育隊員ポンペは、「乗組員一同は眼前に展開する景観に、こんなにも美しい自然があるのかと見とれてうっとりした」と書き残している(『逝きし世の面影』渡辺京二・葦書房)。
 幕末から明治8年までの13年間を日本ですごしたプロシア領事、のちにドイツ公使を務めたブラントは日本の自然を「不断の喜び」「無上の慰め」と表現した(前掲書)。

 日本の自然のすばらしさを誇りに思うことに反発はしないが、憲法は沖縄の南端から北海道の北端まで日本領土全体を網羅する法でなければならない。沖縄は亜熱帯であり北海道は亜寒帯である。
 桜井さんのいう日本は京都から東京までの自然を対象としている。櫻井さんの言動から沖縄の自然が念頭あるとは思われない。自然の美しさは憲法の対象にはならない。憲法とは日本国籍を持つすべての人間に対する法のあり方を規定したものである。だから日本民族だけを対象とするものでもない。

 自国への誇りと尊敬
 精神文明の基盤としての日本の自然はこのようにかつて世界に賞賛された。自然を尊ぶ日本人の心情を謳いあげ、美しく豊かな地球環境に寄与するとの素案の決意は、広く世界に共感を呼ぶに違いないだろうに、最終案では削除されているのだ。

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私の反論
 精神文明の基盤は人間であって自然ではない。
 日本の自然が美しいことは地球上の位置的なことであり日本人が作り上げたものではない。国は自然ではない。国とは人間と人間の関係のあり方である。精神文明の基盤として自然が存在するという考えは間違っている。文明は人工である。自然の中に田や畑を作り村ができることによって文明が始まる。
 自然に人間の手が加わるのが文明である。憲法は文明の中でも政治の範疇である。心情よりも明確な論理が要求されるのが憲法である。
 環境問題は世界的な問題になっている。地球環境をよくしていくことは憲法に書くべきである。環境をよくする機械や微生物を人間の手に作りそれを利用することが必要であるのであって、日本の自然の美しさとは関係ない。



櫻井さんの意見
 かねて注目されていた「愛国心」に関して、素案は「国を愛する国民の努力によって国の独立を守る」と明記されていたが、最終案では、これまた「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る……」と変えられた。愛国心という言葉を憚る余りのまわりくどい表現で、笑えてしまう。

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私の反論
 国とはなんだろう。愛国心の国は日本全体を指しているのだうか。現実の世界で日常的使われている国は政府を指している。裁判で国への訴訟というのは政府に対して裁判を起こすことである。ドミニカ共和国への移民では裁判官は「国は移住者をだました。」といい、年金問題でも国のずさんな管理が指摘される。その時の国とは政府を指している。だから現実は国というのは政府のことである。つまり国を愛するとは政府を愛することを意味する。
 国が国民を愛し国民のために働くことが必要である。国民は国民をないがしろにする今の国を愛することができるだろうか。



櫻井さんの意見
 自分を愛し信頼することの出来ない人間が、真に他者を愛し信頼することは難しい。国家も同様だ。愛国心や自国への誇りを尊ぶことは諸国に共通する価値観で、その精神的価値観を欠落させている日本の現行憲法こそがいびつである。

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私の反論
 アメリカの国民には国家が国民の意思を反映しない独裁国家になったら国家を武力で倒すという思想がある。銃犯罪が多発しても武器所有を許しているのはその思想があるからである。
 国家を愛するという問題よりも国民が愛する国家を作ることが第一である。貴族が愛する国家は貴族が支配する国家である。武士が愛する国家は武士が支配する国家である。国民が愛する国家は国民主権の国家である。憲法に国民主権が明記されていても現実はまだまだ国民主権の社会になっていない。
 年金をポートピル事業に使い、5000万件の不明納付者が出たり、地方の医師不足、アスベスト、タミフル問題、老人介護で疲れて親を殺す事件もあとを断たない。派遣社員の不当な低い賃金。国民主権を無視した国の政治は続いている。




櫻井さんの意見
「正統性を持ち得ない」という前述のエスマン氏の言葉はその点を指摘したものだ。自民党最終案は残念ながら、自国への愛と信頼を表現するという最も重要な点に応えておらず、失敗作である。

9条の改正やよし。軍事力の保有は国家として当然で9条2項の削除は高く評価する。だが、単に軍事力の保持を認めればよいのではない。駐日フランス大使を務めた詩人のP・クローデルは第二次大戦中の昭和18年にパリで語った。「日本人は貧しい。しかし高貴である」と。

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私の反論
 P・クローデルは本当に貧しい日本人は見ていない。本当に貧しい人間が高貴になれる余裕はない。 P・クローデルには日本人の顔はみんな高貴に見えたのであろう。というより櫻井さんは都合のいい言葉を引用しているだけである。P・クローデルが「日本人は貧しい。しかし高貴である」と発言したから日本人は「日本人は貧しい。しかし高貴である」と断定はできない。たった一人の発言でもって真実とするのは統計学が発達している現代では通用しない。そもそも櫻井さんが「日本人は貧しい。しかし高貴である」と認識しているかどうかである。もし、「日本人は貧しい。しかし高貴である」と認識しているのなら櫻井さんは一部の日本人を見ていることになる

 清貧を誇張するのも武士思想の特徴である。でも将軍は大奥で100人もの女を抱えて贅沢三昧である。身分の低い者に貧困を強い、身分の高い者が贅沢三昧するのが武士社会である。



櫻井さんの意見
 真の武人が、自らの力の効果を知るゆえに他者へ深い想いやりの心を持ち、素養と自らへの信頼故に武力による横暴を慎むように、日本国は軍事力の保持を明確にすると同時に、気品ある国家になるべきだ。その意味で、9条と前文の改正は、一対でなければならない。自民党案前文の全面的書きかえを望むものだ。

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私の反論
「真の武人」も普通の武人も根本は同じ武人である。武人は戦うことによって生活の糧を得る宿命を背負っている。戦争がなければ武人は必要のない存在である。戦国時代こそが武人が生きる場所であった。江戸時代になり平和になると次第に武人は困窮していった。
 明治に廃藩置県が行われたが大名の抵抗はなかったという。平和時代の政治が下手な武人は困窮していたからである。武人は政治が下手である。だから武人は政治に参加するべきではない。
「武力による横暴」支配が大和朝廷から戦前まで続いたのが日本の歴史である。戦後、民主主義国家になりシビリアンコントロールの政治になって「武力による横暴」はなくなった。
 武士は戦争をして領地を拡大することによって収入を増やす存在である。生産者から生産物を武力で奪い取るのが武士の本質である。
 国家にとって重要なのは気品ではなく民主である。戦後、廃墟から世界第二の経済大国になったのは日本が民主主義国家になったからである。武力も気品も日本経済の発展には寄与していない。日本の国がこれからも民主社会を発展させていくためには櫻井さんのような武士思想を排除していくべきである。
 国家の気品とはなんなのか。抽象的で理解しにくい表現である。政治家や官僚が貴族のような気品を身に付けるべきと主張しているのだろうか。しかし、気品があるから頭が切れるわけではないし政治手腕に優れているわけでもない。気品を優先させて国会議員を選出したらこの国は低迷するだろう。武士思想の議員を選出したら国は混乱し破産する。
 政治家や官僚の精神は国民主権であるべきである。気品は必要ない。国会討論は真摯な討論であるべきである。気品のある国会討論を想像すると滑稽に見えて笑える。

 武力の戦争から資本の戦争へと世界の時代は移りつつある。武人は民主主義社会の政治には必要ない。社会の発展にも必要ない。日本の自然、天皇制、武士思想、気品にこだわる櫻井さんの憲法論議は時代を逆流するものである。

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沖縄に「構造的矛盾」はない

目取真 俊
「復帰」35年目の現実・・・無視される「構造的矛盾」
琉球新法2007年6月2日掲載

目取真氏は新崎清輝氏の「平和憲法の成立せしめたのは沖縄の分離がその前提としてあった。」を引用しているが、平和憲法は日本が再び軍国主義国家にならないための憲法であり、沖縄の分離は日本を警戒しているアメリカが暫くの間様子を見るために日本政府から切り離したのであり、アメリカの日本対応としては必要なことであった。
 軍国主義国家であった日本を日本国憲法を作っただけで信用できるはずはない。もし、日本が軍国主義復活の兆しがあれば日本を軍事力叩くつもりがアメリカにはあった。そのための沖縄の軍事基地化であった。新崎氏の解釈はあまりにも沖縄を中心に考えている。考えすぎである。

 戦後沖縄にアメリカ軍事基地が集中したのは戦争でアメリカ軍は日本本土を攻略する目的で沖縄を占領し、沖縄に軍事力を集中させたからである。日本国憲法と沖縄の軍事基地は関係ない。アメリカが平和憲法を作ったのは日本の軍事力を無力化する目的であったのであり、そのことは有名である。平和憲法が成立過程は沖縄の問題とは関係なく素直に認めるべきである。
 戦争が終わっても日本を見張るためにアメリカが沖縄や日本本土に軍事基地を常駐させるのは当然のことである。新崎氏は日本が真珠湾攻撃をしてアメリカと戦争を仕掛けたことを軽視している。アメリカにとって日本は天皇崇拝の軍国主義社会であり、日本を自由にさせれば再び日本は軍国主義国家なると判断していた。アメリカが予想していた通り、日本の政治家が作成した憲法草案は帝国憲法と似ていたのだ。アメリカが帝国憲法に近い憲法草案を認めないで、現在の憲法の草案を作ったのは有名な話である。

 沖縄を軍事基地化する条件で日本を民主化したというのは新崎氏の思い込みである。アメリカは民主主義国家である。植民地を持つ帝国主義国家ではない。アメリカは日本が民主主義国家になれば次第にアメリカ軍基地は縮小する方針であった。
 しかし、朝鮮戦争、キューバや中国が社会主義国家になったように、アメリカと敵対する社会主義国家との対立がアメリカの日本政策を転換させたのだ。朝鮮戦争が勃発したときにアメリカは沖縄の基地を拡張しようとして昆布の土地闘争が起こっている。朝鮮戦争が起こらなければ沖縄の基地拡大もなかっただろう。そして、ベトナム戦争である。ベトナム戦争は沖縄の軍事基地が重要な働きをした。

 憲法成立と沖縄をめぐる問題を「構造的矛盾」と感じるのは太平洋戦争の過程を無視し、戦後の社会主義国家と資本主義国家の対立を無視して沖縄に対する視点が閉鎖的であるからである。
 事実、ベトナム戦争では沖縄が重要な軍事基地となった。アメリカ側から見ればアジアの扇の要の位置にある沖縄が軍事戦略で最重要な場所だったのである。
 沖縄戦で悲惨な体験をしたことがトラウマになり、絶対平和主義である沖縄の知識人の論理は視野の狭い沖縄限定の論理になり、外の世界状況を見ようとしない。それゆえに外の世界には通用しない論理となってしまう。

 目取真氏は「憲法と沖縄の『構造的矛盾』をどれだけ『本土』に突きつけられるか、今あらためて重要になっている。」と書いているが「構造的矛盾」という考えは沖縄のトラウマから出てきた発想である。「構造的矛盾」は本土と共有できる問題にはなりえない。だから「構造的矛盾」を本土に突きつけることはできないだろう。

 目取真氏が県立博物館の初代館長に前副知事が就任することに反対しているのは賛成である。夕張市の破綻の原因は市長が経営に手を出したからである。沖縄の知識人は第三セクターに県トップが天下ることに厳しく批判するべきであるし第三セクターについて厳しい目を向けるべきである。

 モノレール事業は莫大な県税が使われている。モノレール経営には優れた人物が社長になるべきであるし、天下り人事は止めるべきである。せっかく黒字経営までこぎつけたなんとか物産を天下り人事で県の副知事が社長になってから赤字転落させている。
 ソ連が崩壊したのは官僚が政治家が企業経営したからである。中国は小平が自由主義経済を導入したから崩壊は免れた。企業経営は政治家の特権でやるべきではない。

 県は第三セクターから手を引くべきである。第三セクターへの投資は株式化して民間に売りさばき第三セクターの会社は民間会社に移行していった方がいい。
 沖縄の知識人はアメリカ軍基地の問題に傾注し過ぎている。アメリカ軍基地問題は論理的には難しい問題ではない。同時に沖縄のアメリカ軍基地は国際情勢が関係しているし、アメリカ政府と日本政府の決定で左右する要素が強い。
 第三セクター、教育、公務員問題、地方自治など沖縄の問題は多い。沖縄の知識人は沖縄の問題について広く論議を展開するべきである。

 

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