櫻井よし子の「改憲では日本文明を反映せよ」に反論

櫻井よし子の「改憲では日本文明を反映せよ」(『週刊新潮』'05年11月10日号)に対する反論

櫻井さんの意見
 憲法を聖域化し、改正自体を悪としてきた護憲主義、日本のみに軍隊の保有を禁ずる異常性を打ち破る第一歩としての意味は大きい。その点において、自民党案を高く評価する。だが、前文を読んで愕然としない人は少ないであろう。それはテクノクラートの作品で、日本国への愛情も誇りも感じさせない代物だからだ。この種の改正案は、明らかに対症療法にすぎず、日本が直面してきた真の問題への解決にはつながらない。

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私の反論
 憲法は時代の変化とともに変わらなければならない。社会の構造は固定しているものではないし、憲法も時代遅れになり社会の発展を妨げるものになる。
 しかし、軍隊を持たないということが必ずしも異常であると断定はできない。武力の時代は終わりつつある。中国、インドが高度成長期に入っている。中国とインドの経済発展は周辺国にも波及していく。これからの時代は経済発展が国家の戦略になり企業戦争の時代になる。第二次世界大戦は軍事戦争が世界規模になったが、これからは企業戦争が世界規模になる。
 軍隊うんぬんにこだわることはもう時代遅れである。軍事力で平和を築く時代は終焉し、経済を発展させることによって平和を築く時代になりつつある。経済発展による平和戦略は日本がリーダーとなれる。
 憲法を改正して軍隊を持つことができても大した意味はないし、軍隊保持が日本の発展に寄与するということはない。むしろ軍隊を持たない憲法の方が日本は経済戦略に集中することができ世界貢献を拡大するようになるだろう。




櫻井さんの意見
この最終案を書き上げた自民党の人々には、再度考えてほしい。なぜ、私たちは日本国憲法を改正しなければならないのかと。憲法は国の在り方を示す基本で、国柄を表現するものだ。人に歴史があるように、国にも歴史がある。その人をその人たらしめてきた家族や故郷があるように、国にはその国をその国たらしめてきた文化文明、国土風土がある。だからこそ、憲法は、なによりもまず、日本の文化文明、国土風土を踏まえなければならない。憲法で国柄に触れる部分としては前文が最もふさわしい。

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私の反論
憲法は人間と人間の関係を定義づけるものである。芸術的な美を規定づけるものではない。憲法に求められるのは人間の権利がどのようなものであるかである。民主主義であるか天皇支配、一部の階層の支配であるかどうかを明確にするのが憲法である。憲法は国の政治活動の基本を規定づける存在であって文化文明や国土風土を規定づけるものではない。

 それゆえに憲法は文化文明、国土風土よりも政治の有り方を最優先して表現しなければならない。日本は貴族が支配した時代、武士が支配した時代を経験し戦後になって初めて支配する階層がいない民主主義国家になった。
 民主主義は貴族、武士支配を否定する。文化文明については表現の自由を保障する。国土風土についても自由な変化を保障する。

 櫻井さんは文化文明や国土風土の評価を憲法で固定しようとしているが、それは民主主義憲法にふさわしくない。そもそも貴族社会と武士社会は武力支配をした社会である。貴族社会と武士社会は人間の自由平等を拒否し身分差別をした社会である。農民や漁民などの民を武力で弾圧した社会の文化文明、国土風土を無批判に認めるのは許されないことである。
 貴族社会にしろ武士社会にしろ政治的には権力争いの歴史であり、権力を握るための殺し合いの歴史である。それは欲望と欲望がもつれ合う醜い歴史であり決して美しい歴史ではない。国柄は時代によって違う。憲法で国柄に触れるというのは疑問である。
 戦前は軍部が支配して戦争に突っ走った。多くの国民が戦場に駆り出されて死んでいった。軍部の愚かな指導者はアメリカと戦争すれば負けるという経済・軍事専門家の忠告を無視してアメリカと戦争をした。日本国憲法はこのような国民を悲惨な目に会わせない民主主義憲法である。民主主義は一部の階層が支配することを拒否する。貴族支配、武士支配、軍部支配を拒否する。それらとは相容れないのが民主主義憲法である。
 櫻井さんの言う日本の文化文明、国土風土とは貴族社会や武士社会で培われた文化文明、国土風土である。現代の文化文明、国土風土ではない。櫻井さんは懐古主義のように現代の文化文明、国土風土を否定して過去を美化する傾向がある。
 昔の文化文明、国土風土を美化する文章を憲法に書き込むのは反対である。櫻井さんの日本の美しさをいう時の美的感覚は昔の貴族時代の美的感覚と同じである。人間の美的感覚も変化発展している。現代の美的感覚は櫻井さんのいう「美しさ」だけではないのだ。「美」は多種多様であり人間の美的感覚を憲法で縛ってはいけない。





櫻井さんの意見
現行憲法は前文を含めた全条文が“日本らしさ”を否定する精神によって書かれたのは周知のとおりだ。

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私の反論
櫻井さんのいう"日本らしさ"とは貴族や武士の時代の日本らしさである。日本国憲法が民主主義を精神としているのだから戦前の"日本らしさ"を否定するのは当然である。
 櫻井さんは現在は日本らしくないと考えている。そして昔の貴族・武士社会の方が日本らしいと考えている。しかし、貴族や武士が日本人口に占める割合いは何パーセントだったのか。せいぜい五パーセントくらいである。歴史の記録は支配者である貴族や武士の文化が残っているのであって日本人全体の文化の記録が残っているわけではない。櫻井さんはまるで貴族や武士が日本の人口の90パーセント以上も占めていたような錯覚をしている。
 農民、漁民、職人などの95パーセントを占める日本人の文化記録が少ないし、貴族・武士時代では彼らの自由表現は禁じられていた。貴族・武士文化が日本文化であるとするのは間違いである。
 戦後の日本は民主主義国家になり、表現が自由になった。表現の自由な今こそが正当な日本文化である。櫻井さんの文化は貴族の側の文化であったり、武士の文化であったりで支配階級の文化を日本文化であると錯覚している。
 民主主義になった日本が再び貴族社会や武士社会に戻ることはない。だから日本が過去の"日本らしさ"に戻ることは絶対にない。憲法に過去の"日本らしさ"を肯定するような文章を書くのは憲法の質を落とす。





櫻井さんの意見
憲法学者で駒澤大学教授の西修氏は1984年から85年にかけて米国を訪れ、日本国憲法の作成に関わった米国人で、当時健在だった10名ほどに取材し、出版した。彼らは一様に「まだ、日本人はあの憲法を守っているのか」と言ったそうだ。そのひとり、民政局行政部長を務めたC・ケーディス氏が述べている。「私たちが憲法草案を起草したとき、最終的な憲法を書き上げようとは思っていませんでした」(『日本国憲法の誕生を検証する』学陽書房)

民政局で国会議事録、新聞要録を担当したハウゲー氏は、憲法作成を命じられたが、そのための素養を持っていなかったと認めたうえで、「荷が勝ちすぎてあまりにも困難な仕事だと思いました」と述べている。
民政局で公務員制度を担当した

M・エスマン氏も「アメリカの軍人や弁護士によって起草された憲法は正当性を持ち得ないと思っていた」と語っている(前掲書)。

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私の反論
 日本国憲法は戦後60年以上も変えられていないのは異常ではあるが、戦後日本の発展の法的基盤になったのは事実であり、憲法が改正されるといっても大きく改正される必要はない。現憲法は民主主義の基本はしっかりしている。
 憲法草案を作成したアメリカ人の憲法に対する意見を引用しているが、日本人が作る憲法より優れた憲法であったのは否めない。
 むしろ櫻井さんの憲法論の方が現憲法より時代遅れであるような気がする。



櫻井さんの意見
天皇制をどう捉えるか

日本についての知識も理解も不足していた人々が、彼ら自身も正当性を否定しつつ作った現行憲法だからこそ、改正にあたっては日本人の憲法としての正当性を持たせる内容、つまり、日本文明を反映した内容にしなければならないのだ。

にもかかわらず、自民党改正案の前文は「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」と書き出し、続けて「象徴天皇制は、これを維持する」と素気なく書き放っている。なんという無機質な表現か。

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私の反論
無機質と感じるのは櫻井さんの天皇に対する思い入れが異常なくらいに強いからではないだろうか。


櫻井さんの意見
天皇制はこの国の中枢で息づき、幾多の試練を経て125代にわたって存続してきた。祭祀を司る天皇家はまさに日本の精神文化を凝縮した存在であり、天皇制抜きでは日本文明は、良くも悪しくも語り得ない。それを自民党案は「象徴天皇制は、これを維持する」という13文字で片づけたが、そもそも、象徴天皇制こそ、占領統治下で作り出された天皇家の在り方だったのではないか。「自らの意思と決意に基づき」新憲法を制定するのなら、日本の国柄の軸でもある天皇制について、もっと心を通わせることの出来る表現があって然るべきだ。

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私の反論
 武士の時代には天皇制は中枢から外れて完全に権力を失っている。天皇の存在が再び浮上したの明治時代である。しかし、天皇の権力が復活したわけではない。なぜ、明治は天皇制国家になったのか。それは外様の武士が日本を支配するには彼らの権威が低いことを彼ら自身が知っていたからである。日本国民にとって徳川将軍より高い権威として存在するのは天皇であった。天皇支配を名目にすることによって明治政府の権威を高め正当化したのである。
 天皇制国家は見せかけであり実質的な政治は武士階層がやっていた。明治維新は革命ではなく外様藩によるクーデターである。明治維新で武士支配が終わったように見えるが事実は徳川家に代わって薩摩、長州などの武士による支配が続いた。
 明治は貴族支配の国家ではない。武士支配の国家である。天皇を国家の頂点に置いたのは天皇を隠れ蓑にして武士支配をやるためだった。明治以降、天皇の名の元に国民を支配したのが武士階層であり軍隊である。

 天皇機関説というのは政治の決定は国会でやり、国会で決めたことを天皇は追認するというものである。天皇機関説に昭和天皇は賛成した。反対したのが軍部であった。なぜ軍部は反対したか。明治時代から天皇ではなく武士階層が政治の実権を握っていた。もし天皇機関説を認めると国会に政治の実権が移り武士階層である軍部は政治の実権を失うからである。

 靖国神社は日本国のために死んだ者を者を奉る神社である。靖国神社は明治時代に国が運営するようになった戦争で死んだ者を奉る神社である。武士思想の神社である。櫻井さんは靖国を支持している。櫻井さんの思想は武士思想に近い。
 昭和天皇は永久戦犯が靖国に奉られてから靖国を参拝しなくなった。それは靖国の思想と天皇の思想が対立していることをしめしている。極限していうと貴族思想と武士思想の対立である。
 太平洋戦争の時の武士・軍部思想は「本土決戦をする」「最後の一兵まで戦う」であった。しかし、天皇は軍隊が中国進出したときも反対であったし、イギリスと国交が絶えるのを危惧している。天皇は戦争には反対だった可能性が高い。戦争は軍部がどんどん進めてしまい政治家が止めることはできなかった。天皇に政治の実権がなかったこと。軍部が自分の欲望のために天皇の名を利用したのは明白である。
 戦争を終わらしたのは天皇である。最後のひとりまで戦う方針であったのが軍部である。武士=軍部にとって国民とは下級武士であり戦争の道具である。それは天皇の思想とは異なるものである。
 櫻井さんは天皇と武士では武士を選ぶ思想家である。
 櫻井さんは「祭祀を司る天皇家はまさに日本の精神文化を凝縮した存在であり」と述べているが昭和天皇の心を櫻井さんは理解していない。昭和の軍部のように自分の持っている天皇像を天皇に押し付けているのである。



櫻井さんの意見
 ちなみに自民党の元々の案、素案では、「天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め」てきたのが日本人であることが強調されている。古来の神道に加えて仏教をも受け容れた聖徳太子の時代から、日本は和を尊びつつ、実におおらかな精神文明を築いてきた。その文明の統合の証しとして、天皇制をいただいてきたとの表現は、史実であり、継続したい伝統である。
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私の反論
 自由、平等の思想が日本になかった時代の日本人の天皇崇拝思想を自由、平等の思想が定着している今の私たちが無批判に認めることはできない。
 天皇制もまた権力闘争の歴史であり血塗られた歴史である。贅沢な生活をするようになった貴族は統治を武士に委託するようになり、とうとう武士に政治権力を奪われてしまう。江戸時代には将軍が日本の最高権力者・象徴となり天皇は京都でひっそりと生活していたというのが史実である。
 現在天皇は靖国を参拝していない。神道の靖国と天皇は対立しているのである。貴族と武士は対立関係にあり貴族文化と武士文化をごっちゃにしている櫻井さんの歴史認識は正しいとは言えない。
 天皇に対する理解も強引に曲解している。神道や仏教と憲法は絡めてはならない。憲法は宗教の自由を原則とするのがあるべき姿である。



櫻井さんの意見
 同じく最終案は日本の国土風土には全く触れていないが、素案では日本の国土は「アジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々」と表現された。日本国民は「自然との共生を信条」とし「美しく豊かな地球環境を守るために力を尽くす」ものであるとの誓いも述べられている。
日本人の自然への慈しみは、外国の人々に強烈な印象を残してきた。開国前年の1857年に初めて長崎湾を訪れたオランダ海軍の教育隊員ポンペは、「乗組員一同は眼前に展開する景観に、こんなにも美しい自然があるのかと見とれてうっとりした」と書き残している(『逝きし世の面影』渡辺京二・葦書房)。
 幕末から明治8年までの13年間を日本ですごしたプロシア領事、のちにドイツ公使を務めたブラントは日本の自然を「不断の喜び」「無上の慰め」と表現した(前掲書)。

 日本の自然のすばらしさを誇りに思うことに反発はしないが、憲法は沖縄の南端から北海道の北端まで日本領土全体を網羅する法でなければならない。沖縄は亜熱帯であり北海道は亜寒帯である。
 桜井さんのいう日本は京都から東京までの自然を対象としている。櫻井さんの言動から沖縄の自然が念頭あるとは思われない。自然の美しさは憲法の対象にはならない。憲法とは日本国籍を持つすべての人間に対する法のあり方を規定したものである。だから日本民族だけを対象とするものでもない。

 自国への誇りと尊敬
 精神文明の基盤としての日本の自然はこのようにかつて世界に賞賛された。自然を尊ぶ日本人の心情を謳いあげ、美しく豊かな地球環境に寄与するとの素案の決意は、広く世界に共感を呼ぶに違いないだろうに、最終案では削除されているのだ。

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私の反論
 精神文明の基盤は人間であって自然ではない。
 日本の自然が美しいことは地球上の位置的なことであり日本人が作り上げたものではない。国は自然ではない。国とは人間と人間の関係のあり方である。精神文明の基盤として自然が存在するという考えは間違っている。文明は人工である。自然の中に田や畑を作り村ができることによって文明が始まる。
 自然に人間の手が加わるのが文明である。憲法は文明の中でも政治の範疇である。心情よりも明確な論理が要求されるのが憲法である。
 環境問題は世界的な問題になっている。地球環境をよくしていくことは憲法に書くべきである。環境をよくする機械や微生物を人間の手に作りそれを利用することが必要であるのであって、日本の自然の美しさとは関係ない。



櫻井さんの意見
 かねて注目されていた「愛国心」に関して、素案は「国を愛する国民の努力によって国の独立を守る」と明記されていたが、最終案では、これまた「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る……」と変えられた。愛国心という言葉を憚る余りのまわりくどい表現で、笑えてしまう。

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私の反論
 国とはなんだろう。愛国心の国は日本全体を指しているのだうか。現実の世界で日常的使われている国は政府を指している。裁判で国への訴訟というのは政府に対して裁判を起こすことである。ドミニカ共和国への移民では裁判官は「国は移住者をだました。」といい、年金問題でも国のずさんな管理が指摘される。その時の国とは政府を指している。だから現実は国というのは政府のことである。つまり国を愛するとは政府を愛することを意味する。
 国が国民を愛し国民のために働くことが必要である。国民は国民をないがしろにする今の国を愛することができるだろうか。



櫻井さんの意見
 自分を愛し信頼することの出来ない人間が、真に他者を愛し信頼することは難しい。国家も同様だ。愛国心や自国への誇りを尊ぶことは諸国に共通する価値観で、その精神的価値観を欠落させている日本の現行憲法こそがいびつである。

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私の反論
 アメリカの国民には国家が国民の意思を反映しない独裁国家になったら国家を武力で倒すという思想がある。銃犯罪が多発しても武器所有を許しているのはその思想があるからである。
 国家を愛するという問題よりも国民が愛する国家を作ることが第一である。貴族が愛する国家は貴族が支配する国家である。武士が愛する国家は武士が支配する国家である。国民が愛する国家は国民主権の国家である。憲法に国民主権が明記されていても現実はまだまだ国民主権の社会になっていない。
 年金をポートピル事業に使い、5000万件の不明納付者が出たり、地方の医師不足、アスベスト、タミフル問題、老人介護で疲れて親を殺す事件もあとを断たない。派遣社員の不当な低い賃金。国民主権を無視した国の政治は続いている。




櫻井さんの意見
「正統性を持ち得ない」という前述のエスマン氏の言葉はその点を指摘したものだ。自民党最終案は残念ながら、自国への愛と信頼を表現するという最も重要な点に応えておらず、失敗作である。

9条の改正やよし。軍事力の保有は国家として当然で9条2項の削除は高く評価する。だが、単に軍事力の保持を認めればよいのではない。駐日フランス大使を務めた詩人のP・クローデルは第二次大戦中の昭和18年にパリで語った。「日本人は貧しい。しかし高貴である」と。

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私の反論
 P・クローデルは本当に貧しい日本人は見ていない。本当に貧しい人間が高貴になれる余裕はない。 P・クローデルには日本人の顔はみんな高貴に見えたのであろう。というより櫻井さんは都合のいい言葉を引用しているだけである。P・クローデルが「日本人は貧しい。しかし高貴である」と発言したから日本人は「日本人は貧しい。しかし高貴である」と断定はできない。たった一人の発言でもって真実とするのは統計学が発達している現代では通用しない。そもそも櫻井さんが「日本人は貧しい。しかし高貴である」と認識しているかどうかである。もし、「日本人は貧しい。しかし高貴である」と認識しているのなら櫻井さんは一部の日本人を見ていることになる

 清貧を誇張するのも武士思想の特徴である。でも将軍は大奥で100人もの女を抱えて贅沢三昧である。身分の低い者に貧困を強い、身分の高い者が贅沢三昧するのが武士社会である。



櫻井さんの意見
 真の武人が、自らの力の効果を知るゆえに他者へ深い想いやりの心を持ち、素養と自らへの信頼故に武力による横暴を慎むように、日本国は軍事力の保持を明確にすると同時に、気品ある国家になるべきだ。その意味で、9条と前文の改正は、一対でなければならない。自民党案前文の全面的書きかえを望むものだ。

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私の反論
「真の武人」も普通の武人も根本は同じ武人である。武人は戦うことによって生活の糧を得る宿命を背負っている。戦争がなければ武人は必要のない存在である。戦国時代こそが武人が生きる場所であった。江戸時代になり平和になると次第に武人は困窮していった。
 明治に廃藩置県が行われたが大名の抵抗はなかったという。平和時代の政治が下手な武人は困窮していたからである。武人は政治が下手である。だから武人は政治に参加するべきではない。
「武力による横暴」支配が大和朝廷から戦前まで続いたのが日本の歴史である。戦後、民主主義国家になりシビリアンコントロールの政治になって「武力による横暴」はなくなった。
 武士は戦争をして領地を拡大することによって収入を増やす存在である。生産者から生産物を武力で奪い取るのが武士の本質である。
 国家にとって重要なのは気品ではなく民主である。戦後、廃墟から世界第二の経済大国になったのは日本が民主主義国家になったからである。武力も気品も日本経済の発展には寄与していない。日本の国がこれからも民主社会を発展させていくためには櫻井さんのような武士思想を排除していくべきである。
 国家の気品とはなんなのか。抽象的で理解しにくい表現である。政治家や官僚が貴族のような気品を身に付けるべきと主張しているのだろうか。しかし、気品があるから頭が切れるわけではないし政治手腕に優れているわけでもない。気品を優先させて国会議員を選出したらこの国は低迷するだろう。武士思想の議員を選出したら国は混乱し破産する。
 政治家や官僚の精神は国民主権であるべきである。気品は必要ない。国会討論は真摯な討論であるべきである。気品のある国会討論を想像すると滑稽に見えて笑える。

 武力の戦争から資本の戦争へと世界の時代は移りつつある。武人は民主主義社会の政治には必要ない。社会の発展にも必要ない。日本の自然、天皇制、武士思想、気品にこだわる櫻井さんの憲法論議は時代を逆流するものである。

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