病気の人は、病気が治って元気になりたいと心から願います。不治の病にかかると、どんな宗教でもいいから癒しの奇跡を行ってくれる宗教に入りたいと思う人がいるかもしれません。
わたしは、ひどい喘息の発作にしばしば襲われたとき、病が癒されることばかり願っていました。ある宗教の信者である友人に喘息のことを話すと、「キリスト教なんか信じているから喘息が治らないのよ。〇〇教に入信しなければ、あなたは喘息で野垂れ死にするよ」と友人が言いました。そう言われたとき、不覚にも心が揺らいでしまったのです。
わたしは、そのとき教会を離れていましたが、自分がクリスチャンであること友人に話していました。
喘息が治るなら、キリスト信仰を捨ててしまうかもしれないという自分の弱さに気づき、恐ろしくなりました。そのことがきっかけで再び教会へ通うようになりました。教会に通えば喘息が癒されると思っていたわけではありません。でも、心のどこかで癒しの奇跡を望んでいたのかもしれません。
病の癒しの奇跡を求めるのは、いけないことなのでしょうか?
聖書には病の癒しの奇跡について何箇所も書かれています。ヨハネの福音書では、ベテスダの池のほとりにいた病人について書かれています。
その病人は38年間も病んでおり、癒される可能性がほとんどない状態でした。その人は希望が見いだせないので、気持ちがすさんでいました。わたしは、この人がかつての自分のように思われてなりません。
イエス様はこの病人に近づき、癒してくださいました。ベテスダの池のほとりには何人もの病人がいたのに、イエス様はなぜこの人だけを癒されたのでしょう……。
「もっとも癒される可能性が低い人だったから」とカルヴァンは書いています。
イエス様が神様であることを示すためには、癒される可能性が最も低い人を癒した方が効果的です。でも、それだけではなく、イエス様の愛と憐れみによって、その病人は癒されたのです。
その日が安息日だった(当時のユダヤ社会では、安息日に働いてはいけない。病人を癒してはいけないという決まりがありました)ので、イエス様はユダヤ人たちに責められることになりますが、あえてそうしたのにも理由がありました。古い律法に縛られているかたくななユダヤ人たちに救いを知らせるためもあったのでした。
つづく
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わたしは、ひどい喘息の発作にしばしば襲われたとき、病が癒されることばかり願っていました。ある宗教の信者である友人に喘息のことを話すと、「キリスト教なんか信じているから喘息が治らないのよ。〇〇教に入信しなければ、あなたは喘息で野垂れ死にするよ」と友人が言いました。そう言われたとき、不覚にも心が揺らいでしまったのです。
わたしは、そのとき教会を離れていましたが、自分がクリスチャンであること友人に話していました。
喘息が治るなら、キリスト信仰を捨ててしまうかもしれないという自分の弱さに気づき、恐ろしくなりました。そのことがきっかけで再び教会へ通うようになりました。教会に通えば喘息が癒されると思っていたわけではありません。でも、心のどこかで癒しの奇跡を望んでいたのかもしれません。
病の癒しの奇跡を求めるのは、いけないことなのでしょうか?
聖書には病の癒しの奇跡について何箇所も書かれています。ヨハネの福音書では、ベテスダの池のほとりにいた病人について書かれています。
その病人は38年間も病んでおり、癒される可能性がほとんどない状態でした。その人は希望が見いだせないので、気持ちがすさんでいました。わたしは、この人がかつての自分のように思われてなりません。
イエス様はこの病人に近づき、癒してくださいました。ベテスダの池のほとりには何人もの病人がいたのに、イエス様はなぜこの人だけを癒されたのでしょう……。
「もっとも癒される可能性が低い人だったから」とカルヴァンは書いています。
イエス様が神様であることを示すためには、癒される可能性が最も低い人を癒した方が効果的です。でも、それだけではなく、イエス様の愛と憐れみによって、その病人は癒されたのです。
その日が安息日だった(当時のユダヤ社会では、安息日に働いてはいけない。病人を癒してはいけないという決まりがありました)ので、イエス様はユダヤ人たちに責められることになりますが、あえてそうしたのにも理由がありました。古い律法に縛られているかたくななユダヤ人たちに救いを知らせるためもあったのでした。
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