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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

「なぜ?」と問いたいとき(2012年サマー・スクーリングその2)

2012-07-09 16:51:12 | お茶の水聖書学院
K先生の講義は1時間半×5回ありました。すべてを紹介することはできませんが、印象に残ったこと、講義を聞いて心動かされたことを書いていきます。
聖書の創世記からアブラハム・イサク・ヤコブについて語られました。

アブラハムは、神様から子孫を星の数ほどにするという約束を受けながら、なかなか子どもが与えられませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳のときようやく子どもが与えられて、イサクと名付けました。
旧約聖書の時代は、礼拝するとき、罪の贖いとして動物を殺して祭壇の上で焼き、全焼のいけにえを捧げていました。

イサクが少年になったとき、神様はこともあろうにそのイサクをいけにえとして捧げなさいとアブラハムに命じます。アブラハムはどんなに動揺し、苦しんだことでしょう。
でも、聖書にはアブラハムの心理描写がまったく書かれていません。また、なぜ神様がこんな苛酷な命令をしたのか、その理由についても書かれていません。

ギブソンは「聖書には心理的観察が存在しない。神はその命令についての理由を与えたまえず、ただ命令されるだけである」と言っています。

アブラハムは神様から「試された」のです。アブラハムはそれに従いました。
「納得したから従ったのではなく、神が命じられたから従っただけ」とK先生が言われました。

アブラハムがイサクに手をかける前に「その子に手を下すな」と神様がストップをかけたので、イサクの命は守られたのですが、アブラハムにとって生涯最大の試練でした。

わたしだったら、わが子を連れて山を下りてしまうかもしれません。神様から逃げられないとわかっていても必死に逃げて隠れるか、「なぜこんなひどいことをさせるのですか?」と神様に食ってかかるでしょう。

「なぜですか、どうしてですか」と問う私たちの側に信仰の本質的な拠り所を置かないこと。「なぜですか、どうしてですか」と問いつつも不可解の中で、理不尽な中で、そのなぜに十字架で祈られたイエス御自身と向き合うことが大切と教えていただきました。

考えてみれば、「なぜ?」と問いたいのは何の罪もないのに十字架に架けられて苦しみ、死んでくださったイエス様の方です。

苦しい目にあうと理不尽だと思い、どうしてわたしだけがこんな目にあうの? と腹を立てるのですが、イエス様の十字架ほど理不尽なことはありません。でも、イエス様は黙って神様のみ心に最後まで従いました。

神が一匹の雄羊を備え、イサクを救い出してくださったように、試練を与える神様は、試練の答えを備えてくださっているのですね。


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」



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