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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

心から和解するには・・・(2012年サマー・スクーリングその4)

2012-07-17 15:13:08 | お茶の水聖書学院
7月3日~5日、お茶の水聖書学院のサマー・スクーリングに参加しました。
そこで聞いたお話しから得られたことを紹介しています。14日の続きで、今日が最終回です。

上の写真はスクーリングで泊まったヌエックの日本庭園。

イサクに与えられた子どもはエサウとヤコブの双子です。イサクは長男エサウを祝福しようとしたのですが、ヤコブに騙されてヤコブを祝福してしまいます。

でも、それは神様が最初から決めていたことです。イサクの思いを越えた神の恵みの介入でもあります。
ヤコブは祝福をだまし取ったことでエサウの憎しみを買い、伯父ラバンのもとへ旅立ちます。ベテルにきたとき、天の門が開けた夢を見て、神が共におられることを知ります。

創世記28章16節には「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と書かれています。


「聖なるお方の前で、『私は知らない』という自己認識なくして自己変革は望めない。ヤコブの認罪は、彼の自己変革と和解の基礎」
とK先生が言われました。

ヤコブはその後、伯父ラバンのもとで20年働きます。ラバンに騙されて自分のしたことを追体験させられます。一族を連れて故郷に帰ることになったとき、兄エサウを恐れて『兄の手から救ってください』と祈ります。

ヤボクの渡しで神様と格闘したとき、腿の関節がはずれてヤコブは神様に敗れました。でも、聖書には「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。(創世記32:28)」と書かれています。
神の前に敗れる者に、神は勝利を賜います。

ヤコブの自己認識が「私は知らなかった」から「私は足りない者です」に変えられたことが大切で、これが和解の基礎となったと教えていただきました。

イサクは穏やかで平和の人ですが、ヤコブは兄を出し抜いたずるい人、でも神と格闘するすごい人というイメージを抱いていました。

でも、父と母の家からひとり旅立ったとき、心細く感じたヤコブ。故郷に帰る時、エサウを恐れて一行の後ろをビクビクしながら歩いているヤコブの姿を思うと、自分の姿を見ているようです。
最も心細いとき、不安なときに神様がヤコブに現れていることに心動かされます。


神との格闘を通して、ヤコブは自分が足りない者だと気づきます。そして、まず祭壇を築き礼拝を捧げます。ヤコブは、兄エサウとの和解を神様に委ねたのです。

神様抜きの和解は本当の和解にならないと思います。
「ごめんなさい」とあやまって相手に赦してもらえても、それは表面上の和解でしかありません。心の中で「でも、悪いのは相手だ」とお互い思っていることがありますね。

かつて友人との間でトラブルがあっりました。表面上は和解したのですが、わたしはなかなかその人のことを赦せませんでした。赦せないことで苦しみました。

でも、あるとき、神様はその人のためにも大切なひとり子(イエスさま)のいのちを捧げて下さったことに気づきました。

神様がそれほどまでに愛している人をわたしは憎んでいていいのだろうか……。私の方がよほど罪深いではないか……と思い、友人を赦し、愛することができるように祈りました。

何年か経って、その友人と出会ったとき、(会えて嬉しい!)と思いました。不思議です。

憎しみやこだわりがいつの間にか消えていたのです。消して下さったのは神様です。努力ではなしえないことを神様がして下さったのです。





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