先日の日曜礼拝ではK先生がメッセージをして下さいました。
先生の言葉を青字、わたしの感想を茶色字、聖書の言葉を緑字で書いています。
民数記13,14章は、エジプトで奴隷としてこき使われていたイスラエルの民が2年間荒野をさまよった末、約束の地の手前、カデシ・バルネアに来た時のことが書かれています。
その地を偵察に行った人たちは、そこが乳と蜜の流れる地(豊かな作物のある地)であると報告します。
2人の人にかつがれて、たわわに実ったぶどうが運ばれてきます。
聖書物語の絵を思い出しました。一粒がサッカーボールぐらいの大きさのぶどうの実でした。
「これは、ふたりの男の間で木(十字架)につるされたイエス・キリストを示します。」と聞いて驚きました。
イエスさまがわたしたちを安息の地に入れて下さるという意味なのだそうです。
旧約聖書の中にキリストの型をいくつも見ることができますが、このことは初めて聞きました。
約束の地は町も井戸も畑も用意されており、すでに完成された場所でした。ところが、イスラエルの民は、そこに住む巨人を見て恐れ、約束の地に入るよりエジプトや荒野にいる方がいいと思いました。
ところが……実は巨人の方がまことの神を信じるイスラエルの民を恐れていました。神様はすでにイスラエルに約束の地を与えていたのです。神に信頼して一歩を踏み出すことが必要だったのですが、それができずに荒野へ引き返してしまいました。その後、38年間も荒野をさまようことになります。
イスラエルの民がもし巨人を恐れずに一歩踏み出すことが出来たら、神様は巨人を倒し、巨人が備えてくれた良い物すべてをイスラエルの民に与え、憩わせて下さってでしょう。
ところが、恐れのためそれができなかったのです。そのために38年間も荒野をさまようことになるとは……。
でも、そのようなイスラエルの民を愚かだと言えません。わたし自身も恐れて神様を信頼できずに一歩を踏み出せないことがあるからです。
ベテスダの池のほとりにいた38年間病気だった人は、イスラエルの民をあらわします。「よくなりたいのか」とイエス様に問われて、「よくなりたい」と言う気力さえなくなっていましたが、イエス様の恵みによって癒されました。
この病人が歩きだすこところに本当の安息がありました。
ベテスダの池のほとりにいた病人も、イエス様に出会った時点ではイエス様を信頼していませんでした。それでもイエス様の「起きて床を取り上げて歩きなさい」という言葉に従ったとき、安息が訪れたのですね。
神さまが創造の業を終えて7日目に休まれたのは、私たちのために安息を備えて下さっているということです。
わたしたちもカデシ・バルネアに立ち、選択を迫られるときがあります。昔からの生活パターンを捨てられなかったり、相手に心を開くことを恐れて一歩を踏み出せないことがあるかもしれません。
でも、そこにイエス様が来て下さって同情して下さり、声をかけて下さいます。だから大胆に憐れみを受けて恵みを戴いて歩む決意をしたいものです。そこに安息があります。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」
「安息に入るためにすることは何もありません。ふさわしくならなくてはと努力することでありません。神のして下さったことを信頼するだけです。」と牧師先生が言われました。
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民数記13,14章は、エジプトで奴隷としてこき使われていたイスラエルの民が2年間荒野をさまよった末、約束の地の手前、カデシ・バルネアに来た時のことが書かれています。
その地を偵察に行った人たちは、そこが乳と蜜の流れる地(豊かな作物のある地)であると報告します。
2人の人にかつがれて、たわわに実ったぶどうが運ばれてきます。
聖書物語の絵を思い出しました。一粒がサッカーボールぐらいの大きさのぶどうの実でした。
「これは、ふたりの男の間で木(十字架)につるされたイエス・キリストを示します。」と聞いて驚きました。
イエスさまがわたしたちを安息の地に入れて下さるという意味なのだそうです。
旧約聖書の中にキリストの型をいくつも見ることができますが、このことは初めて聞きました。
約束の地は町も井戸も畑も用意されており、すでに完成された場所でした。ところが、イスラエルの民は、そこに住む巨人を見て恐れ、約束の地に入るよりエジプトや荒野にいる方がいいと思いました。
ところが……実は巨人の方がまことの神を信じるイスラエルの民を恐れていました。神様はすでにイスラエルに約束の地を与えていたのです。神に信頼して一歩を踏み出すことが必要だったのですが、それができずに荒野へ引き返してしまいました。その後、38年間も荒野をさまようことになります。
イスラエルの民がもし巨人を恐れずに一歩踏み出すことが出来たら、神様は巨人を倒し、巨人が備えてくれた良い物すべてをイスラエルの民に与え、憩わせて下さってでしょう。
ところが、恐れのためそれができなかったのです。そのために38年間も荒野をさまようことになるとは……。
でも、そのようなイスラエルの民を愚かだと言えません。わたし自身も恐れて神様を信頼できずに一歩を踏み出せないことがあるからです。
ベテスダの池のほとりにいた38年間病気だった人は、イスラエルの民をあらわします。「よくなりたいのか」とイエス様に問われて、「よくなりたい」と言う気力さえなくなっていましたが、イエス様の恵みによって癒されました。
この病人が歩きだすこところに本当の安息がありました。
ベテスダの池のほとりにいた病人も、イエス様に出会った時点ではイエス様を信頼していませんでした。それでもイエス様の「起きて床を取り上げて歩きなさい」という言葉に従ったとき、安息が訪れたのですね。
神さまが創造の業を終えて7日目に休まれたのは、私たちのために安息を備えて下さっているということです。
わたしたちもカデシ・バルネアに立ち、選択を迫られるときがあります。昔からの生活パターンを捨てられなかったり、相手に心を開くことを恐れて一歩を踏み出せないことがあるかもしれません。
でも、そこにイエス様が来て下さって同情して下さり、声をかけて下さいます。だから大胆に憐れみを受けて恵みを戴いて歩む決意をしたいものです。そこに安息があります。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」
「安息に入るためにすることは何もありません。ふさわしくならなくてはと努力することでありません。神のして下さったことを信頼するだけです。」と牧師先生が言われました。

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