生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

喜びなさいと言われても……

2011-04-21 17:10:49 | 教会
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。(Ⅱテサロニケ人への手紙5:16)」と聖書に書かれています。

わたしは、このみ言葉を読むと短大のときのF先生を思い出します。
卒業のとき、色紙にF先生が書いて下さったのがこのみ言葉でした。聖書の言葉ということはわかりましたが、なぜいつも喜ばなくてはならないんだろう。クリスチャンになると、親が死んだときも、受験に失敗した時も、災害に見舞われたときも、病気になったときも喜べるのだろうか……と思ったのでした。

後に洗礼を受けましたが、いつも喜ぶことはとてもできませんでした。洗礼を受けた当初は、聖書を読めば読むほど落ち込んでしまい、喜びなどどこにもありませんでした。

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」
「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)」

などという聖書の教えはとても実行することができないと思って落ち込んでしまったのです。
確かに聖書の教えは倫理性が高く実現不可能なことです。どれひとつできないのにどうして喜ぶことができるのでしょう……。

昨日の水曜礼拝では喜びについて、T先生からメッセージを聞きました一部を紹介します。

イエス様は十字架につけられる前、ゲッセマネの園で弟子たちに「わたしは苦しみのあまり死ぬほどです(マタイ26:38)」と言われました。十字架を目前にして苦しみもだえています。

イエス様が死ぬほど悲しいと言われたのは、罪のない神の御子イエスが、全人類の罪を背負い、神から罰せられて死んでいかなければならないからです。
ご自分が犯した罪ではなくても、罪の故に罰せられる死を遂げなくてはならないことが辛いとイエス様はおっしゃっているのです。

ゲッセマネで苦しみの祈りをささげてから、イエス様は十字架の道を進んで行かれました。そして十字架で死に、葬られましたが、三日目に復活しました。

復活されたということは、イエス様が死ぬほどの苦しみや悲しみを克服されたということです。喜びとは、イエス様がこの苦しみ、悲しみを克服された喜びであり、このことが十字架の救いのメッセージです。

自分には聖書に書かれていることを実行することができませんが、イエス様が実行してくださったのですから、このことを喜ぶのです。そして、実行することができたイエス様をほめたたえ、愛し尊敬することによって新しい喜びが生まれてきます。

ピリピ人への手紙4:4には「いつも主にあって喜びなさい。もういちど言います。喜びなさい」と書かれています。
自分では喜ぶことができなくてもイエス様から喜びをいただけます。


主にあっていつも喜んでいたいと思いました。

 
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