生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

受難週

2011-04-18 17:07:00 | 教会
昨日は受難週礼拝でした。受難週というのは、エルサレム入城の日から復活の前日までの一週間のことで、キリストの十字架の苦しみを思って過ごします。

教会学校でもイエス様が十字架につけられたお話をしました。すると、ひとりの子どもが「来週は、よみがえったイエス様の話だよね」と言いました。その通りです!!

キリストが、ろばの子の背に乗ってエルサレムに入城されたときは、人々から「ホサナ、ホサナ!」と歓迎されました。それなのに、その週の金曜日には「十字架につけろ!」と人々からののしられました。

十字架は最も残酷な死刑の方法でした。イエス様は、十字架からのがれることもできたのにそうはなさいませんでした。子羊のように黙って十字架につけられ、死んでしまいます。それは、全人類の罪に対する罰を受けるためでした。

聖歌隊がマタイの受難曲をドイツ語で賛美しました。
スクリーンにはイエス様の苦しまれる姿が描かれた絵画が映し出されました。キリストが十字架をかついで歩いている横にあざけるような顔をした人の横顔をみてドキッとしました。自分の顔に見えたからです。そっくりだと思いました。

イエス・キリストのうちに何の罪も認められないと言う総督ピラトに向かって「十字架につけろ」「十字架につけろ」と群衆が叫びました。礼拝では実際に会堂の後方から3,4人の男性が叫びました。
わたしは、それを聞いて自分の声だと思いました。

ああ、何ということをしてしまったのでしょう。イエス様に対して背を向けたわたしは、あざける者、ののしる者の中にいたのです。

子どものころからひねくれた心を持っていて、いつも誰かをうらやみ、妬んでいました。
心に深い闇があって、その闇から抜け出せずにもがいていました。
表面上はおとなしくて素直ないい子でした。でも、心の中はとても醜かったのです。
イエス様のことを信じて洗礼を受けてからも、イエス様に背を向けてしまいました。
そんなことを考えていると悲しくて胸が潰れそうになりました。


「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私は善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ7:18)」
とパウロ先生も書いています。

そのとき、心にCSの子どもの声が響いてきました。
「来週は、よみがえったイエス様の話だよね」
イエス様は死んだままではありませんでした。よみがえられたのです。わたしの醜い罪は十字架によって消し去られたのです。

ハレルヤ! 来週はイースター(復活祭)です。


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