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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

何も持たないようでも

2011-01-17 21:15:08 | 教会
日曜日の朝、起きたら雪が降っていたので「大変!」と思わず声に出してしまいました。

わたしは歩いても教会に行けるのでいいのですが、教会に集ってくる人たちのほとんどは車です。うっすらと白くなった道路を見て、だいじょうぶだろうかと思って、事故に遭わないように祈りました。

8時ごろになると雪はやみ、空が晴れてきたのでほっとしました。
わたしは、用心しながら自転車で行きましたが、友人に「自転車で来た」と言ったら、びっくりされてしまいました。ちょっと無謀だったでしょうか・・・。


礼拝では、今年の主題聖句となった箇所からのメッセージをいただきました。
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべての物を持っています(Ⅱコリント6:10)」
この聖句の前半は、柳生直行訳では「悲しみの中にあっても常に喜んでおり」と書かれています。

悲しみの中にあっても喜ぶことができる理由は、「キリストの身代わりの死の事実とそれに基づく神の約束です」と聞いて、その通りだなあと思いました。


キリストが、わたしの罪を赦すためにわたしの代わりに罰を受けて下さいました。そのおかげで、イエス・キリストを信じるだけで罪赦され、永遠の命をいただけるようになりました。その喜びは、どんな悲しみをものみこんでしまうほど大きなものです。

それでも、悲しみに沈んで希望が見出せなくなるほど落ち込んでしまうことがあります。
そんなときは、十字架の事実を忘れているときなんだなあと思います。いつも十字架の事実を想っていたいです。



「貧しいようでも多くの人を富ませる」は、尾山令仁訳では「キリストの豊かな霊的祝福を与えて他者を富ませることができる」と書かれています。

キリストの豊かな霊的祝福とは何でしょう?
使徒3章に「美しの門」のところで歩けない人が、ペテロとヨハネに施しを求めてきたときのことが書かれています。
男はお金を恵んでもらいたいとふたりに期待していましたが、彼らはもっとすばらしいことをしてくれました。

「するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどりあがってまっすぐに立ち、歩きだした。(使徒3:6-8)」
何とすばらしい奇跡でしょう。ペテロに力があったのではなく、キリストの力によって奇跡が起きたのですね。

現代において、同じようなことが起こるとは限りませんが、「神を本気で信じるとき、不思議なことが起こる」と牧師先生が言われました。

キリストを信じてわたし自身の内面が変わったことを思うと、それはまさに神様の奇跡だと思います。

「何も持たないようでも、すべての物を持っています」というのは、「「神様が無限に引き出せるカードを下さり、使っていいと言われたようなことです」と聞いて、ピッタリのたとえだと思いました。

わたし自身は何も持っていませんが、無尽蔵の富を引き出せるカードをいただいています。
信仰によって引き出して、周りの人を富ませることができたら嬉しいです。



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