体調は急速に回復し、昨日はクリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会に参加するため、御茶ノ水まで行くこともできました。体の弱いわたしとしては、この回復ぶりは奇跡的なことです。お祈りくださった方、ありがとうございました。
今日は教会学校の賛美リードだったので、子どもたちの前で大きな声で賛美しました。
わたしは子どものころとても内気で、人前で歌うどころか話をすることもできなかったのです。そのことを子どもたちに話すと「へえーっ、信じられない!」と驚いていました。
今でも人前で話したり、歌ったりするのは苦手だけど、神さまに力をいただいたからできるんだと話しました。
今日はペンテコステ礼拝でした。今日のメッセージを書きたいところなのですが、下書きには先週のメッセージを書きかけたものがありましたので、そちらの方を書かせていただきます。
神さまから特別な知恵をいただいたソロモンは、
「私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんとすべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(伝道者の書1:14)」と書いています。
それは、神様がいないと仮定してあらゆることを試したら、すべてがむなしいという結論になったという意味です。
ソロモンが王として即位していたときは、イスラエルが最も栄えていたときでした。ソロモンの知恵ある言葉を聞いてシェバの女王が驚嘆し、高価な贈り物をおくりました。それだけでなく、シェバの女王はソロモンの知恵と繁栄を見て、神が真理であると信じたのでした。
物質的にも精神的にも豊かであったソロモンが、『もし神がいなかったら、すべてがむなしい』と感じたのはなぜでしょう・・・。
物質的には豊かなのに、年間3万人もの自殺者のいる現代の日本の姿をみるとうなずけます。
確かに『もし神がいなかったら、すべてがむなしい』のですが、実際には神様はおられるのですから、決してむなしくありません。
旧約聖書の申命記には、神がイスラエルの民を40年もの間、荒野で苦しい目にあわせた理由が書かれています。
「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。(申命記8:16)」
「幸せ」ではなく、あえて仮名で「しあわせ」と書かれているのは、神様の与える「しあわせ」という意味だからだそうです。
「しあわせ」とは、まわりや自分自身の状況、所有などによって左右されない「しあわせ」。神様と永遠に生きられることを自分のものとして認識できる「しあわせ」です。
わたしはメッセージを聞いて、パズルの最後のピースがパチンとはまったような気持ちで納得しました。
神さまは、「わたしは、あなたのことをとても大切に思っている。ときには、あなたを苦しい目にあわせるけれど、それはあなたがしあわせになってほしいと思っているからなんだよ」と言っておられるのだと思いました。
わたしは、喘息や乳がんという病気で苦しみましたが、本当の「しあわせ」を得るために神様が与えて下さった苦しみだったのだなあと思い、感謝の気持ちでいっぱいになりました。