生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

自分史(その1)

2006-08-17 13:00:42 | エッセイ
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)で、ひとつの年代を原稿用紙3枚でまとめた小自分史を書くというすすめがありました。書きたいことは山ほどありますが、原稿用紙3枚にまとめなければなりません。それで、テーマを決め、内容を絞って書くことにしました。

わたしは、多分に母親の影響を受けて人格が形成されてきたように思うので、母との関係にスッポットをあてて書いてみました。これは、「光に向かって」という小冊子に掲載していただいたものです。小冊子については、ブックマークにあるJCPのHPをご覧ください。


1:幼年時代……病弱だったわたし
 
わたしの母は、わたしが生まれる1年ほど前に生後5日で第一子を亡くしています。子供を失っている母は、わたしを生んだとき当然の事ながら『丈夫で元気に育ってほしい』とことさら強く願ったそうです。
それなのにわたしは虚弱体質でした。2歳のときのことです。一晩中ぐずぐずと泣いて眠らないので、母は具合が悪いのかと心配しました。でも、熱がないので翌日になってから病院に連れていくと、医師にいきなり「無熱性の肺炎です。今晩がとうげです」といわれたそうです。

神さまによって、わたしは生かされました。でも、その肺炎が原因で気管支喘息になり、ひどい発作を起こすようになりました。また、風邪をひいて熱を出すこともしばしばでした。


母と祖母は、わたしが「コホン」と咳ひとつすると「大変!」と厚着をさせました。夜中、喘息の発作が起こると母はわたしの背中をさすり、それでも治らないと、わたしをおぶって病院に連れていってくれました。


幼稚園に入ると、人見知りをして貝のように口を閉ざしてしまいました。家ではわがままで大声でさわいでいるのに外に一歩出ると何もしゃべれなくなってしまいます。母はわたしが積極的になれるように幼稚園の友達を家に呼んでくれました。それでもわたしはほとんどしゃべらず、母が中に入ってわたしの代わりにしゃべっていました。わたしは母がしゃべってくれるからと安心してますます無口になっていきました。


小学生になると、授業参観のとき手を挙げるように母に言われました。手を挙げたらお小遣いあげると言われても、手を挙げられませんでした。家に帰ると母は怒りました。


先生や友達に必要なことも言えないでぐずぐずしているわたしを母はもどかしく思っていらいらしていました。そんな母をだんだん負担に感じるようになりました。でも、一方では母がいないと何もできません。わたしは自分で考えて行動したり、決断することのできない子供になっていました。


母は若い頃、3回もスカウトされたほど美人でしたが、わたしは母とちっとも似ていません。母は「あんたは、美人でもないし頭もたいして良くない。不器用だし何の取り柄もない。だからせめて素直になりなさい」と言いました。


母がわたしに素直になってほしくてわざとそう言っているのだと思い、反発しました。でも、何の取り柄もないという母の言葉に深く傷つきながらも肯定し、劣等感が増していったのです。


               つづく

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2 コメント

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楽しみです (しゃぼん玉)
2006-08-17 18:27:07
子どもにとって親(特に共に過ごす時間の多い母親)の影響はものすごく大きくて、わずか数年の間の関係が、その後の人生の方向を決める大きな要素になっていますね。続きが楽しみです。
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しゃぼん玉さんへ (土筆文香)
2006-08-17 21:31:06
そうなんです。母に対してずうっと心の痛みを感じていましたが、この自分史を書くことによってふっきれた気がします。
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